空を翔ける鷲医者の異世界行診録

川原源明

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第7章

第102話 決着

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 閃光が収まり、視界が徐々に戻っていく。最初は白い霧のようなものしか見えなかったが、やがて輪郭がはっきりとし始める。氷の粉雪がゆっくりと降り積もり、まるで雪景色の中にいるような錯覚を覚える。粉雪は光を受けて微かに輝き、幻想的な美しさを演出していた。耳にはまだ金属の軋みと低い唸りが残っており、戦いの余韻が空間に漂っている。遠くでは氷の破片が床に落ちる小さな音が断続的に響き、まるで時を刻む鐘のようだった。

 そして、煙が晴れた中央に見えたもの――

 首領は氷床の中央に立っていた――いや、膝をついていた。その姿は、今までの威厳に満ちた姿とは程遠く、まさに敗北者の象徴だった。胸当ては無惨に裂け、金属の破片が周囲に散らばっている。肩口から深い切り傷が走り、暗紅色の血が滴り落ちて氷の床に小さな赤い池を作っていた。バルグの斧と俺の爪が作った傷だ。傷口からは湯気が立ち上り、首領の体温の高さを物語っている。さらにリィナの薬品が肌に浸透し、全身がわずかに痙攣していた。筋肉が不規則に震え、完全な制御を失っているのが見て取れる。

 それでも首領の背筋は、僅かながら真っ直ぐに保たれていた。最後まで誇りを捨てまいとする意志の表れだろうか。

「……フッ」

 首領は小さく笑い、血の滴る剣を床に突き立てた。剣が氷に食い込む音が、静寂の中に鋭く響く。剣身には三人の攻撃の痕跡が刻まれており、かつての美しい輝きは失われていた。

「我を……ここまで追い詰めた者は……初めてだ」

 その声は掠れており、明らかに体力の限界を示していた。だが言葉の端々には、敵ながら俺たちへの敬意のようなものが込められているのを感じる。その目には敗北の色があったが、同時に消えぬ闘志も宿っていた。まるで「次こそは」という意志を秘めているようで、この男の恐ろしさを改めて実感させられる。

 しかし、天井から落ちる氷塊がその場の時間を容赦なく削る。ゴロゴロという重い音と共に、人の頭ほどの大きさの氷塊が次々と落下してくる。一つ一つが致命的な武器となり得る重量と速度を持っていた。



「もう終わりだ!」

 バルグが首領の剣を蹴り飛ばす。その一撃は怒りと安堵が混じった力強さを持っていた。武器は氷の床を滑り、まるでスケートリンクの上を滑るパックのように勢いよく移動していく。やがて遠くの壁に当たって鈍い音を響かせ、そのまま氷の隙間に落ちて見えなくなった。首領の象徴とも言える武器が失われた瞬間、戦いの終わりを誰もが確信した。

 俺は首領に詰め寄り、その目を見据える。首領の瞳は深い青色で、氷のように冷たいが、その奥には複雑な感情が渦巻いているのが見える。怒り、悔しさ、そして意外にも安らぎのような色も混じっていた。

「この戦いは、あんたの負けだ。港町も、世界も、あんたの支配には屈しない」

 俺の言葉は、ただの勝利宣言ではなかった。これまで首領の恐怖に脅え続けてきた全ての人々の想いを代弁したものだった。港町の人々の笑顔、子供たちの無邪気な声、漁師たちの逞しい姿――全てを守り抜いたという実感が胸に込み上げる。

 首領は短く息を吐き、わずかに口角を上げた。その表情には、敗者特有の寂しさと、同時に何かを悟ったような清々しさがあった。

「……敗北もまた、力となる。次は――」

 言葉はそこで途切れ、首領の体が前のめりに倒れ込む。薬品の効果と傷が、ついに彼を戦闘不能にした。倒れる瞬間、首領の顔には意外にも穏やかな表情が浮かんでいた。まるで長い悪夢から解放されたかのような安堵の色が、その顔に現れていたのだ。

 氷の床に倒れた首領の周りに、血と薬品の匂いが漂う。呼吸は浅いが規則的で、生命に別状はないようだった。だが意識は完全に失われており、しばらくは目を覚まさないだろう。



「急げ! 天井が持たねえ!」

 バルグの叫びが響くと同時に、大きな氷柱が床へ突き刺さる。その氷柱は俺たちのすぐ近くに落下し、破片が四方八方に飛び散った。衝撃で地面が跳ね、蜘蛛の巣状の亀裂が一気に走る。施設全体の崩壊が加速しているのは明らかだった。このままでは全員が生き埋めになってしまう。

 俺たちは首領の意識と呼吸を確認した後、リィナが持参していた拘束用の鎖で素早く縛り上げる。首領は意識を失っているとはいえ、油断は禁物だった。この男の恐ろしさは身をもって知っている。鎖は特殊な金属製で、並大抵の力では切れないように作られていた。

 リィナが腰の薬箱から小瓶を取り出し、床に叩きつける。瞬時に濃い煙幕が発生し、煙は落下してくる氷塊の隙間を縫って脱出ルートを示した。煙の流れを見れば、どこに風の通り道があるかが分かる。リィナの機転に感謝しつつ、俺たちは脱出を開始した。

「搬入用の通路から外へ出られる! 早く!」

 リィナの声に導かれ、俺たちは崩壊する施設の中を駆け抜ける。俺は翼を広げ、落ちてくる氷塊を弾き飛ばしながら進む。翼で氷塊を受け止めるたびに鋭い痛みが走るが、仲間を守るためには些細なことだった。バルグは首領を肩に担ぎ、その巨大な体躯で落下物から皆を庇いながら進んでいく。首領の体重は相当なものだったが、バルグは歯を食いしばって運び続けた。リィナは崩落を避けながら道を照らし、安全なルートを見つけ出していく。

 背後では巨大な氷の柱が次々と崩れ、製造施設は轟音と共に崩壊していった。その音は雷鳴のように響き渡り、氷の破片が雪崩のように追いかけてくる。まさに自然の猛威を目の当たりにしているような光景だった。



 そして、ついに――

 やがて、冷たい夜気と海の匂いが鼻を打つ。その瞬間、俺たちは生還への確信を得た。洞窟の出口から飛び出した瞬間、背後で氷の要塞が完全に崩れ落ち、海面に巨大な波と氷片を撒き散らした。波は高く立ち上がり、月光を受けて銀色に輝きながら四方に広がっていく。氷片は無数のダイヤモンドのように海面で跳ね、やがて海の底へと沈んでいった。

 要塞の崩壊は壮観で、同時に恐ろしい光景だった。長年にわたって建設されてきた巨大な構造物が、わずか数分で瓦礫の山と化したのだ。その光景は、いかに人工的な建造物も自然の力の前では無力であることを物語っていた。

 港町の方角には、まだ遠く小さな灯りが瞬いている。その灯りは希望の象徴のように見え、俺たちの胸を温めた。あの灯りを守るために、俺たちはこの戦いを生き延びたのだ。町の人々は今頃、安らかに眠っているだろう。彼らの平穏な日常を守れたという実感が、疲れた体に力を与えてくれた。

 リィナが深く息を吐き、その息は白い霧となって夜空に消えていく。戦いの緊張から解放された彼女の顔には、安堵と疲労が入り混じった複雑な表情が浮かんでいた。バルグは首領を地面に下ろし、その大きな体を休めている。汗が氷のような夜風で急激に冷やされ、湯気となって立ち上っていた。

「これで……本当に終わったのか?」

 バルグの問いかけには、長い戦いを戦い抜いた者だけが持つ実感の重みがあった。勝利の実感よりも、まず信じられないという気持ちが先に立つのは当然だった。これほど長く、これほど激しい戦いを経験した後では、平和が現実のものとは思えないのだ。

 俺は崩れた要塞を振り返り、静かに答えた。

「終わらせたんだ。俺たちの手で」

 その言葉には、深い満足感と責任感が込められていた。ただ勝利したのではない。自分たちの意志で、自分たちの力で、この脅威に終止符を打ったのだ。それは何物にも代えがたい達成感をもたらしてくれた。

 凍てつく風が吹き抜け、夜空にはオーロラのような光が揺れていた。緑と青の光が夜空を彩り、まるで天がこの勝利を祝福しているかのようだった。その美しい光景は、戦いの記憶を癒し、新しい希望を運んでくるように感じられた。

 長く続いた戦いが、ついに幕を下ろした瞬間だった――。

 海の向こうから吹いてくる風は、もう恐怖ではなく自由の象徴だった。俺たちは勝利したのだ。そして明日からは、真の平和が始まるのだ。
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感想 4

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みんなの感想(4件)

猫3号
2025.09.27 猫3号

95話と96話順番が逆じゃないですか?

97話タイトル
「氷の回路」 → 氷の回廊 ではないかな?

2025.09.28 川原源明

複数の指摘ありがとうございます。修正しました。

解除
猫3号
2025.08.29 猫3号

53話が2回投稿されてます。

2025.08.29 川原源明

ご指摘ありがとうございます。

ありがとうございます差し替えました。

解除
猫3号
2025.08.18 猫3号

33話と34話が同じ内容なのですが……。

2025.08.18 川原源明

ご指摘ありがとうございます。
修正しました。

32話が二つあって、あれ?っておもっていたのですが、33話と34話がかぶっていたからだったんですね
本当にありがとうございます。修正しました。

解除

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