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潮汐
しおりを挟むライラとデュマンがアクイラ卿とエルデムの元へ戻ると、一行は鷹に小動物を狩らせて楽しんでいる。
目を輝かせ興奮するエルデムと違い、アクイラは戻って来たライラを鋭い目で見つめた。
あれほど言ったのに、とでも言いたげな目を向けられると首元を噛まれた子猫のような心境になる。
アクイラは徐に側に控えて居た者へ皮のグローブを渡し、ライラの元へやってきた。
デュマンはそれとはすれ違いにエルデムの元へ向かう。
『…綺麗な花ですね』
アクイラはライラを冷めた目で見下ろし、そう言った。
花?
ハッとしてライラは耳元に挿された花を取り除く。
『デュマン殿からのお誘いに我々が付いてきた意味が…果たしてあったのでしょうか?』
抑揚の無い呆れた声色に、ライラは身を小さくする。
母猫を前にした子猫の様に。
『誤解です。このような花に見合った会話はしておりません。ただ…やはりアクイラ様のご指摘は当たっている様に思います…』
頭の上で溜め息を吐く音がした。
周りに人が居ないのを確認し、ライラは声を顰めて、何があったかを簡潔にアクイラへ報告する。
『…場所も、花も、正しくそれに見合ったロマンチックな会話ではありませんか』
両眉を上げて、アクイラはまた呆れた声を出した。
『いえ、デュマン様は…私と婚姻を結び実権を握られたいというのでは無く、トロメイ家自体の崩壊を望んでもおられるご様子なのです。お父上の不遇を晴らしたいのかもしれません』
その言葉に、アクイラは暫く考え込む。
『…今の状況を考えれば、無理もないでしょうね。さしずめ、あなたは今あそこで鷹に狙いを定められて逃げ惑う小鼠のようなもの。どうするおつもりですか?』
アクイラは気だるげにライラにそう尋ねる。
『…土地の慣例に倣って女神様にお尋ねしたい所ですが、天啓は今のところありません』
つまりはどうする事も出来ず策に詰まっている、とライラは正直に告げる。
『では、餌になると?』
アクイラは鷹達が小動物を狩る様子に目線を移す。
『…飲み込まれた後もそれはそれで問題になりそうなので、なんとか知恵を絞っております』
簡潔にしか説明されてないが、余程の弱みを握ってるようだ、とアクイラは思った。
この婦人がどこの誰であれ、本来は跡取りとなる血筋の者には間違い無いだろうが、既に時は流れて良くも悪くもヤースミン様が跡取りとなった以上はどうすることも出来ない。
いくら非公式といえど、自分が来たのはトロメイ、サングタリー族への牽制と皇室がこの婦人の身元を引き受けていると示しているのは分かるはずだが…
アクイラは目の前でうんうんと唸る子猫の様な人物に目線を戻す。
ヤースミン様は聡明な当主であったが、どうもアーダ様の執心がその目を曇らせている…
あの孫息子…デュマンが事が揉めると分かっていても尚ちょっかいを出すなら、確かに崩壊を望んでると言われても納得出来るが…
やはり、備えはいくつあっても足りない事はない
アクイラは誰にも気づかれぬ様に一行の1人に目配せする。
その人物も直ぐにそれに気付くと、アクイラにしかわからない様にして軽く頷いた。
なす術無く、遂に宴も4日目となった。
「何かあったのですか?」
レイモンドはライラと2人きりになるタイミングで、そうライラに聞いた。
以前から思っていたが、レイモンドは壁のような圧迫感を感じる男だが気配りが出来るし、優しい…
クレイグはアレシアにのみ全ての愛を注ぐ歪んだ人間だが、レイモンドはクレイグが持たない全ての良心を持って産まれ落ちたのだろうか…なんてライラが今考えてると知ったら、レイモンドは何と言うだろう…。
「…ここ数日溜め息ばかり吐かれてお顔色も幾分優れないような」
これで働き者で頭の回転も早いのだから、港の管理人である男性が娘と結婚させたいと思った理由もよく分かる。
「いえ…ご心配には及ばず…」
情けないが、今のライラに言える事はこれしか無い。
事情を広めるのも得策には思えなかった。
どうなるかまだ決まったわけでは無い…もうあと猶予は1日しか無いが…
デュマンはあれから目を合わせても何を考えているか分からぬ顔で、周りには愛想を振り撒いている。
ライラがしれっと聞き耳を立てると、酒の席では商売の話で盛り上がり、その商談もいくつか纏まった様で、いつでもどこでも憎らしい程に商売上手な男である。
こちらに同行してもらうべきはレイモンドでは無くフォーサイス夫人だった、とライラは俄かに後悔した。
あの2人を同席させれば、デュマンの考えも変わったかもしれない…
場を制するのは経験から言っても王国の魔女であるフォーサイス夫人だろうが…
「私もお側を離れないようにしますので、何かあればすぐに言ってください」
レイモンドの言葉に、ライラは申し訳なさそうな顔を浮かべて頭を下げる。
ここまで優しい気遣いをされると、心の内でクレイグを貶し、母親を魔女と呼んでいるのも今更ながら良心が痛む。
だがそれらは真実なので仕方ない。
続く宴の席に座ると、ヤースミンがやってきた。
直ぐに立ち上がり挨拶するが、座る様に促される。
『どうだい?トロメイを楽しんでいるかな?』
はい…予想外に、ヤースミン様のお孫さんには楽しませていただいております…とは口が裂けても言えないが、苦笑いを浮かべざるを得ない。
『誠に美しく、魅力的な土地ですね』
ライラが答えても、聞こえているかは分からない程にヤースミンはライラを見つめている。
『本当に生き写しのようだ…。サングタリーのマルガリテス…誇り高いその血筋、女神様は異国でも見守って下さっていた。この地へ還してくれたんだ』
ヤースミンはライラを見ると同じ事を繰り返すのでいささか心配になる程だ。
取り方にもよるが、今聞くと実に不穏に聞こえる。
還してくれた…
そういえばラティマの大爺様から渡されたお守りは、トロメイのさるご婦人から貰ったと言っていた。
アクイラ卿から、このお守りを持てる人間は限られていると聞いたが…
徐に、ライラはそれを胸元から取り出す。
『ヤースミン様、こちらに見覚えがありますか?』
それを目にしたヤースミンがこれ以上無い程に目を見開く。
体が小刻みに震えるので、側に控える侍女がヤースミンも顔色を慌てて伺った。
『…これを、…どこで?』
ヤースミンがゴクリと喉を鳴らす。
『皇室に縁深いお屋敷にお世話になっているのですが、そこのお爺様が若い頃こちらをトロメイのご婦人から頂いたと。
もう還しても良いだろう、とお守りとして持たせて下さいました』
震える手で、女神の象徴を表すそのお守りとやらを手に取ったヤースミンが、目に涙を浮かべる。
『…まさか…アーダお姉様の物だ…。いつも身に着けていらした…お姉様は、全てを置いて出て行ったが、これだけはお持ちになって…』
ヤースミンの頬に、堰を切ったような涙が流れ落ちた。
何と、大爺様が会った若かりし頃のトロメイのご婦人とはアーダ様であったと…
縁とは実に奇妙なものだ…
ライラの体は驚きに硬まる。
本当に、奇妙なことばかりだ…と思わず自らの境遇も重ねてしまう。
…だが、こうして巡り巡って来たとは言え、アーダはそれさえもエルメレに置いて行ったという見方も出来る。
トロメイの女神様さえも、この地へ置いて行ったのだ。
アーダはやはり信心深いと言うより、使えるお守りの使い道をよくよく心得ていたようにライラには思えた。
きっと、大爺様がアーダ様達が駆け落ちする過程で、何か大きな働きをしたに違いない。
大爺様の話ぶりから察するに、大爺様は事情は分かっていなかったのだろう。
ヤースミン様もお気付きなのでは無いだろうか。
姉のアーダは現実的で思い出に浸る感傷的な人間でも無い、と。
決断すれば、その覚悟に見合った肝の座った度胸で世を渡る。
強く勇ましい人物だったのでは無いか、と。
人の力を借り、王国から逃げ仰せたライラには持ち合わせない度胸だ。
『此度のヤースミン様のご歓迎は身に余る程の思いです。
私は姿形がアーダ様に似ただけですが…その思い出に添えるお品物をお持ち出来た事、光栄に存じます。
意外な事ですが、アーダ様の大切なお品物は、ずっとこのエルメレにあったのですね。
アーダ様が今生きていらっしゃれば、一体なんと仰るか…』
ヤースミンはその手に乗せたお守りを眺めて、何か考えている。
伝わっただろうか
伝わると良いな…
ヤースミンがライラを手元に置いておきたいのは痛いほど分かったが、ライラはアーダでは無い。
産まれや経験、過ごした時間がその姿形の中身を形成するなら、ライラは既に全く別の人間で、なんならザイラであり夏帆である。
姿形だけがアーダで、アーダの偽物だ。
亡霊でさえ無い。
残念ながら、女神様は憑依させてくれなかった。
だが思い出が美化されてるならライラが邪魔する事も無い。それに添えるだけの物があっただけでも、ヤースミンには意味があったと思って欲しい。
ヤースミンはお守りをライラへ返そうとしたが、ライラは断った。
元より自分の物でも無く、還したい人物から預かり、無事にそれを送り届ける役目だったとヤースミンに伝える。
ヤースミンはまたじっくりとライラを見た。
不意に、皺だらけの手をライラの顔に添える。
『ソーテール、其方の舌を使い、四肢を操り、役目を果たしたのか…。ライラ、トロメイの真珠の名を持つ者よ…』
ヤースミンはそれから、もう休もうと言い、部屋へ戻って行った。
失望させただろうか
何十年越しに知る姉の思いがヤースミンから生気を奪わないと良いが…
失意の中、冥界へ…シャレにならない
もしくは何か理由をつけて処刑されたり…そうなればアクイラ卿に母猫の如く首を噛んでもらって逃げる他無い。
「大丈夫ですか?」
レイモンドがライラにそっと声を掛ける。頑なに酒は飲んで無いようだ。
「勿論です。お伝えすべき事をお伝えし、お返しするものも返せました」
見通しは不透明だが、気分は幾分スッキリした。
「ちょっとお化粧を直しに行ってきます…」
ライラは席を立ち、屋敷の中へ入る。
問題は何も解決していないが、なんだか体が軽い。
『…何か良い事でも?』
軽くなった気分が急にどっと重くなる。
『デュマン様…』
屋敷の柱に体をもたれ、デュマンは愛想の良い笑みを浮かべている。
相変わらず飲んでいても酔ってはいない様だが、機嫌は良いらしい。
元々、酒にめっぽう強いのだろう。丸薬など要らぬ程に。
『お祖母様と何のお話を?』
『何のお話だと思います?』
ふふッとわざとらしい笑みを返して、ライラは歩みを速める。
『おめでたい話題だと良いのですが』
デュマンがライラの後を追いそう言った。
酔ってはいないとはいえ、デュマンの機嫌の良さがライラには少々癪に触る。
言い返そうと息を吸った時、
ガッシャーン!と何かが砕け散る音が静かな屋敷に響いた。
『アセナ!だから言ったのに!』
そのけたたましい音と声に、ライラとデュマンは目を見合わせて、すぐに音の方へと向かう。
割れたガラスの破片が無数に飛び散った廊下に手と膝を着く女性と、年配の女性が居た。
『どうした?何があった?』
デュマンが声を掛けると、年配の女性が急いで頭を下げる。
『うぅ…』
もう1人の若い女性はお腹を押さえて痛みに悶えているが、そのお腹は丸くふっくらとしていた。
『もう予定日を過ぎてるから無理をするなと言ったんです…』
年配の女性がうずくまる女性の背をさすりながら、そう言う。
『怪我はないか?すぐに運ぼう。うちの屋敷なら目と鼻の先だ』
事情を察したデュマンが年配の女性に産婆を呼んでくるように言うと、アセナと呼ばれる女性は首を大きく左右に振る。
『っデュマン様…いけません…、お屋敷を、汚しては…』
痛みで動けないアセナが苦しそうに言葉を絞り出した。
『そんな事気にしなくていい。それよりも今はお腹の子と自分の事を考えてくれ。
アセナ…夫はケラムであろう?ケラムにもすぐ使いを出す。ケラムの居るキャラバンも、もうトロメイ領の近くに戻っているはずだ』
随分と気の回る…
憎らしいがやはり頼りにはなる人物らしい…
ライラが産婆を呼びに行った女性と代わってアセナの背を優しく摩った。
だが、アセナは動けそうにも無い。辺りにはガラスも飛び散っているので、また態勢を崩せば大怪我をしかねない。
どうするべきか…
「ライラ様…これは一体…」
この声…!
期待を抱いてライラは後ろからの声にすぐに振り向く。
やはり本物のソーテール、神なのかもしれないん。
「レイモンド様っ…!」
デュマンも顔をパッと上げてレイモンドを見た。
『産気付いたんだ。…運んでくれるか?フォーサイス殿』
デュマンの頼みとあっても、レイモンドの動きは早かった。
直ぐにガラスを避けてアセナの元へ向かうと、レイモンドは軽々とアセナを持ち上げる。
『こっちだ!』
焦る気持ちを抑えながら皆思いを同じくしてデュマンの屋敷へ急ぐ。
長い長い夜の幕が開けた。
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