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第一話 弟餅と唯我の魔術師
愚者と唯我の魔術師
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「まずは、話の前提だ。俺たちがどういう存在か話そう。……簡単に言うと、俺たちは一つの体に四つの心を持っている」
一人の体に複数の人格。
珍しいだろうが、人間の中にはそういう存在もいなくはないようだ。
人格が切り替われば、声や態度も異なるという事だろう。
「それと、性別は男でもあるし、女でもある。両性とでも言えばいいのか……」
人間は、少し言いにくそうに目を伏せた。
人間で両性になる確率は確か、2000人に1人くらいの割合だったはずだ。
仮に人間の人口が1億人いれば、5000人はいると考えれば少なくもない。
「ともあれ、まずは名前からだな。俺の名前は杖、長男だ。ふわっとした喋り方の女が長女の金貨。おかしなことを言う男が剣という弟で、最初に声を上げてた女が杯っていう妹だ」
変わった名前だ。おそらくは仮の名前だろう。
あるいは何らかの役割としての名前か。
今、話をしているワンドが、この人間たちのリーダーなのだろう。
「なんでこんなことになったのかは、誰も分からない。だが、いつの間にか俺たちは、存在していた」
生まれた瞬間を覚えている赤子はいない。
それは彼らもまた同じだったのだろう。
「こういう心で、こういう体だ。片方だって難儀だっていうのに、両方ともなると随分と生き辛い。……ざっくりとした話でいうと、今まで生きてきた場所でもうこれ以上、生きていくことが出来なくなった」
異端者が生きにくいのは、人間の世界でも餅の世界でも同じだ。
「でもな、まず俺はそれなら新しい世界を開拓すればいいだけだろうと、思っている。次に長女のペンタクルは、家を失ったから新しい家を作ればいいと、理解してくれた。次男のソルドに至っては、旅もいいだろうと感じているようだ」
ここまで言って、ワンドは首を振った。
「けれど最後の一人、妹のグラールだけはそれでは納得ができない、と。死して楽になりたいと言うのだ」
身体が共通ならば、一人死ねば他の三人共が死ぬことになる。
それは、非常に厄介な問題だろう。
「どうにかできないものか、とな」
そういって、ワンドは私に目を向けた。
彼らにしてみれば溺れる者は、餅をも掴む。
私は完全に通りすがりだし、彼らと同種の生き物ですらない。
だが、彼らは溺れていて苦しんでいる。ならば、手段を問うてもいられまい。
つまり、それだけ追い詰められているということだろう。
「私が話をしてみよう」
何ができるかは分からない。
だが、何かできないかどうかも分からない。
ならば行動するのみだ。
私が声をかけたら、ワンドは俯いた状態から顔をあげた。
「頼んだぞ」
「ああ」
ワンドの体からかたんと、力が抜けると仮面が地に落ちた。
そして、ぱちりと目をさました彼女は同じ顔であるはずなのに、どうにも幼い印象を受けた。
俯きながらも上目遣いで私を睨むように見ている。
「はじめましてだな。私は弟餅、君がグラールかな?」
グラールはほんの僅かに頷いて肯定した。口元を引き締めて、体を半身下げていることから警戒は解いていないのだろう。
「先に言って置くと、私に害意はないぞ。武器だって持っていなことは見れば分かるだろう」
武器どころか服も着ていない。
人間であれば変態なのかもしれないが、餅であるから大丈夫であろう。
「……あんたに、ボクの何が分かるっていうんだよ」
うなるような声で少女は言う。
「こまかい事情は知らないとも。それにそもそも、私と君は形も中身も大分違いそうだ。理解しうる部分だってどれほどあることか」
「だったら、ほうって置いてよ」
「けれども分かっている部分もある」
「餅に何が分かるんだよ」
この子を初めて見たとき、俯き嘆きの声をあげていた。
少し前、工場にいた時の自分を思い出す。
死ぬのが恐ろしく、けれども生きるにも困難で。
周りに笑われ、尚も動けず。
「生きるのが苦しい、という事は理解しているとも」
私の言葉に、グラールは口を噤んだ。
伺うように私の様子を眺めている。
私も彼女を観察する。
きれいな小さい手をしている。
正確に言うならば、働いたこともなさそうなか細い手だった。
恐らくは元いたところから、何らかの理由で放り出されたのだろう。
私とは事情は異なるだろう。だが、それでも分かる部分もある。
「だから、どうしたっていうんだよ」
苛立ちが声に乗るように、グラールは私を詰問する。
「私は苦しかった時、そばに居てくれる存在がいた」
苦しむ私に声をかけた、たった一人の兄。
過去形で言わねばならぬことは苦痛ではある。
けれど、私は忘れるまい。
あの時、兄餅が私に話しかけてくれた事を。
私は嬉しかった事を、いつまでだって覚えていよう。
「もちろん、それだけでは全てが変ったわけではない」
私が餅として生まれた事実は変わるわけでもないし、安全が手に入ったわけでもない。
「けれど、変われる部分もあるかもしれない」
無論、1つの命にできることなど、そう多くないことなど私は既に嫌というほど知っている。
数多の命――その他兄弟たちが機械的に命を散らしていった。
兄餅はそれこそ命をかけて、私を外に逃がしてくれた。
他人から見れば、命をかけて餅1つ逃した程度と言うだろう。
だが、私にとっては、これはもらった命そのものだ。
「私が君の味方になろう」
「……なんで、なんで餅なんかに、ボクが同情されなきゃいけないんだよ」
奮然とグラールは言う。
私は彼女に同情していればこそ、この言葉には反論せねばなるまい。
「私は唯の餅ではないぞ。それは喋れるからでも動けるからでもない。私は誇りを持って生きているからだ」
「どうせ、ボクは誇りなんてない。こんな体に、こんなバラバラな心だ。ふん、笑えばいいだろ。……笑えよ」
グラールは自嘲する。
他人と違う事をする、違う姿であるならば、そう言いたくなるときもあるだろう。
「笑うな」
私は、奇しくも兄と同じ言葉を放つことになった。
「君だけは、君を笑ってはならない」
「でも皆、ボクを笑うんだ。指をさすんだ。石を投げるんだ」
グラールは淀んだ目で静かに呟く。
「私は決して君を笑わぬ。指を差されたならば体当たりで突き指にしてやろうし、投げられた石も、この身で跳ね返してくれる」
私がそう言うと、グラールは握りしめていた拳を少し緩めた。
ほんの少しだけ彼女は声をあげて笑った。
「壊れた器は元に戻らないよ」
「私は餅だ。ひび割れた部分を伸びて埋めよう」
グラールは泣きそうな顔をした。
「もっと早くあんたと会いたかったかな。……でも、ボクはもう」
グラールと話を続けていると、唐突に茂みからガサゴソと音が聞こえた。
私が視線を向けると、ぎらりと赤く光る大きい目があった。
「ぶぅもぉぉぉ」
先程のイノシシが現れた。
息を荒くして、こちらに狙いを定めている。
「うるさい」
ぱちり、と指をグラールが鳴らすと、イノシシはその瞬間、炎に包まれた。
私は何があったか一瞬理解が追いつかなかった。
「ぶもぉぉぉぉぉぉぉっ!」
イノシシは転げ回って火を消そうと必死だったが、断末魔をあげて地に伏した。
どうやって火をつけたのだろうか。
そういえば、先程、指を鳴らしていた。
「燐か」
発火温度が低い火薬物質。指先で弾く程度の力で発火させることができる。
「そうだよ、よく知ってるね」
ただ、それだけでもないだろう。
イノシシが数秒で焼けごげるなど尋常ではない。
「焼け死ぬってさ。結構苦しいらしいよ、窒息らしいから溺れ死ぬのと変わらないかな?」
私は彼女が言い出した言葉に疑問を覚えた。
何故、今そんなことを言うのだろうか。
ぱちり、と再度指を鳴らした。
グラールの周囲が炎で包まれる。
「でも、もうボクは生きている方が息苦しい。誰も信じられない」
炎の中でグラールはつぶやく。
自身の周囲全域に火をつけたので、逃げ道はもうない。
「溺れるものは、藁を掴むって言ってたけど、火の海だと藁なんて燃え尽きるよね」
ごうごうと燃え上がり揺らめく火は、どこか幻想的ですらある。
私は近づこうにも近づけない。
火は不味い。あれに包まれると私の命は容易に終わる。
「ボクはここで焼けて死ぬけど、君は行くべきところに行けばいい」
グラールは静かに座り込んだ。
ゆくべきところか。
ならば、征かねばならぬ。
私はこの道を制さねばならぬ。
私は覚悟を決めて一歩踏み出した。
じゅうじゅうと、この身が溶けるような音がする。
体が膨らんで、今にも弾け飛びそうだ。
飛び上がりそうになる体を抑えて、私はこの身を進ませる。
……痛い。
焼かれるのは苦しみであり、痛みだ。
「やめてよ。どうしてあんたがこんな事するんだよ」
「……私は自身の言葉を、証明するためだ」
私が彼女の味方になると自ら言ったのだ。
体の膨張を抑える事ができない。
もう、元の姿には戻れないかもしれない。
だが、私が何をすればいいか思いついた。
私は膨らんだ体で、火の一角を抑えた。
体が大きくならないとできない芸当だ。
「さあ、ここから渡れる。今のうちに渡るんだ」
「……でも」
グラールは言いよどんだ。
死を選ぼうとしているものに生きる道を示すのだ。
それは、とても残酷なことでもあるだろう。
ただの放っておけないという、ただの道場だったとしても。
私が死をただ待つものを、見過ごすことができないのなら。
人の命を変えるなら、自分の命も掛けねばなるまい。
「……私は餅だ。藁などと同列に扱われても困るな。火の海程度、私にとってはぬるま湯に過ぎぬ。こんなものに私は負けぬ」
私は必死で軽口を叩く。
火に絡まれ意識を失いそうになるが、耐えて彼女の行動を待つ。
「……どうしてだよ。ボクの事なんか放っておけばいいじゃないか、ボクはもうどうなったっていいんだよ」
確かに私は、彼女と何の縁もゆかりもない。
だが、それでもだ。
「死にたい命を生かそうとするなど、お節介どころか傲慢だろう。けれど、私は思うのだ。嘆きの声をあげるのは、生きたいからではないだろうか、と」
私は彼女に会った時、最初にその嘆きの声を聞いている。
「私は生きている。そして、死にたくないのではなく生きたいのだ」
「うるさい。煩い。五月蝿い。ボクはあんたなんか大嫌いだ」
彼女は目に涙を浮かべた。
「ああ、それで構わない。君の活力になるなら、いくらでも憎んでくれ。だから、こちらに来るんだ。君が、君の意思を持って動かなくてはならない」
彼女はうろたえ、拳を握りしめ私の言葉に答えた。
「ボクの事なんて何にも知らないくせに」
「これから知っていけばいい」
最初に何も知らないのは人間だろうと何だろうと同じことだ。
「ボクはこれからどうやって生きればいいんだよ」
「私も一緒に考えよう」
私は生まれついた時から備わっている謎知識もある。
彼女の助けになれるやもしれない。
「だって、あんた。あんたは、……餅じゃないか。ボクと違う生き物じゃないか」
「それに何の問題があるというのだ。だいたい、全ての生き物は違う生き物だ」
彼女は根本的な問題に触れてきた。
「確かに、私は餅だ。お前達人間が食料とする餅だ。私の覚悟が軽いと言うならば、滑稽であると言うならば。そして、信じられぬと言うならば。私は出会ったばかりのどうでもいい人間の為に、つまらぬ同情心のために命を投げ捨てるような、そんな程度の軽い命だと思うのならば。笑いたければ笑うが良い。だが、これが私のあり方だ」
だから私は、彼女がどうあるか待とう。
彼女は手の甲で自身の涙を拭いた。
そのまま立ち上がって、炎の消えている私の一角に向かって跳躍した。
これで炎から遠ざかった。そう思い安堵する。
私は最後の力を振り絞って、転げ回って自身も炎から遠ざかった。
べたん、べたん。
安全な場所には来れたが、伸び切った体が元に戻らない。
さきほどはあれだけ威勢のいいことを言っておいて、体が全く動かなくなる。
人間であれば、顔が真っ青になっているところだ。
彼女は近づいてきて、何をするかと思えば私を持ち上げた。
……まさか。
私を喰らうつもりでは?
今は体が焦げて、普段より美味そうに見えるはず。
しかも体は動かない。絶対絶命だ。
だが、予想に反して彼女は私を自身の胸のあたりで抱きしめた。
「離すがいい。今の私は熱かろう」
「良いの」
グラールは私を抱きとめたまま、目から大粒の涙を流した。
涙で体が冷えて心地よい。
「ありがとう」
彼女が小さく礼を言うのが聞こえた。
けれど、さすがに少し疲れた。
これから、どうしていこう。
遠ざかる意識に、そんな事を思った。
一人の体に複数の人格。
珍しいだろうが、人間の中にはそういう存在もいなくはないようだ。
人格が切り替われば、声や態度も異なるという事だろう。
「それと、性別は男でもあるし、女でもある。両性とでも言えばいいのか……」
人間は、少し言いにくそうに目を伏せた。
人間で両性になる確率は確か、2000人に1人くらいの割合だったはずだ。
仮に人間の人口が1億人いれば、5000人はいると考えれば少なくもない。
「ともあれ、まずは名前からだな。俺の名前は杖、長男だ。ふわっとした喋り方の女が長女の金貨。おかしなことを言う男が剣という弟で、最初に声を上げてた女が杯っていう妹だ」
変わった名前だ。おそらくは仮の名前だろう。
あるいは何らかの役割としての名前か。
今、話をしているワンドが、この人間たちのリーダーなのだろう。
「なんでこんなことになったのかは、誰も分からない。だが、いつの間にか俺たちは、存在していた」
生まれた瞬間を覚えている赤子はいない。
それは彼らもまた同じだったのだろう。
「こういう心で、こういう体だ。片方だって難儀だっていうのに、両方ともなると随分と生き辛い。……ざっくりとした話でいうと、今まで生きてきた場所でもうこれ以上、生きていくことが出来なくなった」
異端者が生きにくいのは、人間の世界でも餅の世界でも同じだ。
「でもな、まず俺はそれなら新しい世界を開拓すればいいだけだろうと、思っている。次に長女のペンタクルは、家を失ったから新しい家を作ればいいと、理解してくれた。次男のソルドに至っては、旅もいいだろうと感じているようだ」
ここまで言って、ワンドは首を振った。
「けれど最後の一人、妹のグラールだけはそれでは納得ができない、と。死して楽になりたいと言うのだ」
身体が共通ならば、一人死ねば他の三人共が死ぬことになる。
それは、非常に厄介な問題だろう。
「どうにかできないものか、とな」
そういって、ワンドは私に目を向けた。
彼らにしてみれば溺れる者は、餅をも掴む。
私は完全に通りすがりだし、彼らと同種の生き物ですらない。
だが、彼らは溺れていて苦しんでいる。ならば、手段を問うてもいられまい。
つまり、それだけ追い詰められているということだろう。
「私が話をしてみよう」
何ができるかは分からない。
だが、何かできないかどうかも分からない。
ならば行動するのみだ。
私が声をかけたら、ワンドは俯いた状態から顔をあげた。
「頼んだぞ」
「ああ」
ワンドの体からかたんと、力が抜けると仮面が地に落ちた。
そして、ぱちりと目をさました彼女は同じ顔であるはずなのに、どうにも幼い印象を受けた。
俯きながらも上目遣いで私を睨むように見ている。
「はじめましてだな。私は弟餅、君がグラールかな?」
グラールはほんの僅かに頷いて肯定した。口元を引き締めて、体を半身下げていることから警戒は解いていないのだろう。
「先に言って置くと、私に害意はないぞ。武器だって持っていなことは見れば分かるだろう」
武器どころか服も着ていない。
人間であれば変態なのかもしれないが、餅であるから大丈夫であろう。
「……あんたに、ボクの何が分かるっていうんだよ」
うなるような声で少女は言う。
「こまかい事情は知らないとも。それにそもそも、私と君は形も中身も大分違いそうだ。理解しうる部分だってどれほどあることか」
「だったら、ほうって置いてよ」
「けれども分かっている部分もある」
「餅に何が分かるんだよ」
この子を初めて見たとき、俯き嘆きの声をあげていた。
少し前、工場にいた時の自分を思い出す。
死ぬのが恐ろしく、けれども生きるにも困難で。
周りに笑われ、尚も動けず。
「生きるのが苦しい、という事は理解しているとも」
私の言葉に、グラールは口を噤んだ。
伺うように私の様子を眺めている。
私も彼女を観察する。
きれいな小さい手をしている。
正確に言うならば、働いたこともなさそうなか細い手だった。
恐らくは元いたところから、何らかの理由で放り出されたのだろう。
私とは事情は異なるだろう。だが、それでも分かる部分もある。
「だから、どうしたっていうんだよ」
苛立ちが声に乗るように、グラールは私を詰問する。
「私は苦しかった時、そばに居てくれる存在がいた」
苦しむ私に声をかけた、たった一人の兄。
過去形で言わねばならぬことは苦痛ではある。
けれど、私は忘れるまい。
あの時、兄餅が私に話しかけてくれた事を。
私は嬉しかった事を、いつまでだって覚えていよう。
「もちろん、それだけでは全てが変ったわけではない」
私が餅として生まれた事実は変わるわけでもないし、安全が手に入ったわけでもない。
「けれど、変われる部分もあるかもしれない」
無論、1つの命にできることなど、そう多くないことなど私は既に嫌というほど知っている。
数多の命――その他兄弟たちが機械的に命を散らしていった。
兄餅はそれこそ命をかけて、私を外に逃がしてくれた。
他人から見れば、命をかけて餅1つ逃した程度と言うだろう。
だが、私にとっては、これはもらった命そのものだ。
「私が君の味方になろう」
「……なんで、なんで餅なんかに、ボクが同情されなきゃいけないんだよ」
奮然とグラールは言う。
私は彼女に同情していればこそ、この言葉には反論せねばなるまい。
「私は唯の餅ではないぞ。それは喋れるからでも動けるからでもない。私は誇りを持って生きているからだ」
「どうせ、ボクは誇りなんてない。こんな体に、こんなバラバラな心だ。ふん、笑えばいいだろ。……笑えよ」
グラールは自嘲する。
他人と違う事をする、違う姿であるならば、そう言いたくなるときもあるだろう。
「笑うな」
私は、奇しくも兄と同じ言葉を放つことになった。
「君だけは、君を笑ってはならない」
「でも皆、ボクを笑うんだ。指をさすんだ。石を投げるんだ」
グラールは淀んだ目で静かに呟く。
「私は決して君を笑わぬ。指を差されたならば体当たりで突き指にしてやろうし、投げられた石も、この身で跳ね返してくれる」
私がそう言うと、グラールは握りしめていた拳を少し緩めた。
ほんの少しだけ彼女は声をあげて笑った。
「壊れた器は元に戻らないよ」
「私は餅だ。ひび割れた部分を伸びて埋めよう」
グラールは泣きそうな顔をした。
「もっと早くあんたと会いたかったかな。……でも、ボクはもう」
グラールと話を続けていると、唐突に茂みからガサゴソと音が聞こえた。
私が視線を向けると、ぎらりと赤く光る大きい目があった。
「ぶぅもぉぉぉ」
先程のイノシシが現れた。
息を荒くして、こちらに狙いを定めている。
「うるさい」
ぱちり、と指をグラールが鳴らすと、イノシシはその瞬間、炎に包まれた。
私は何があったか一瞬理解が追いつかなかった。
「ぶもぉぉぉぉぉぉぉっ!」
イノシシは転げ回って火を消そうと必死だったが、断末魔をあげて地に伏した。
どうやって火をつけたのだろうか。
そういえば、先程、指を鳴らしていた。
「燐か」
発火温度が低い火薬物質。指先で弾く程度の力で発火させることができる。
「そうだよ、よく知ってるね」
ただ、それだけでもないだろう。
イノシシが数秒で焼けごげるなど尋常ではない。
「焼け死ぬってさ。結構苦しいらしいよ、窒息らしいから溺れ死ぬのと変わらないかな?」
私は彼女が言い出した言葉に疑問を覚えた。
何故、今そんなことを言うのだろうか。
ぱちり、と再度指を鳴らした。
グラールの周囲が炎で包まれる。
「でも、もうボクは生きている方が息苦しい。誰も信じられない」
炎の中でグラールはつぶやく。
自身の周囲全域に火をつけたので、逃げ道はもうない。
「溺れるものは、藁を掴むって言ってたけど、火の海だと藁なんて燃え尽きるよね」
ごうごうと燃え上がり揺らめく火は、どこか幻想的ですらある。
私は近づこうにも近づけない。
火は不味い。あれに包まれると私の命は容易に終わる。
「ボクはここで焼けて死ぬけど、君は行くべきところに行けばいい」
グラールは静かに座り込んだ。
ゆくべきところか。
ならば、征かねばならぬ。
私はこの道を制さねばならぬ。
私は覚悟を決めて一歩踏み出した。
じゅうじゅうと、この身が溶けるような音がする。
体が膨らんで、今にも弾け飛びそうだ。
飛び上がりそうになる体を抑えて、私はこの身を進ませる。
……痛い。
焼かれるのは苦しみであり、痛みだ。
「やめてよ。どうしてあんたがこんな事するんだよ」
「……私は自身の言葉を、証明するためだ」
私が彼女の味方になると自ら言ったのだ。
体の膨張を抑える事ができない。
もう、元の姿には戻れないかもしれない。
だが、私が何をすればいいか思いついた。
私は膨らんだ体で、火の一角を抑えた。
体が大きくならないとできない芸当だ。
「さあ、ここから渡れる。今のうちに渡るんだ」
「……でも」
グラールは言いよどんだ。
死を選ぼうとしているものに生きる道を示すのだ。
それは、とても残酷なことでもあるだろう。
ただの放っておけないという、ただの道場だったとしても。
私が死をただ待つものを、見過ごすことができないのなら。
人の命を変えるなら、自分の命も掛けねばなるまい。
「……私は餅だ。藁などと同列に扱われても困るな。火の海程度、私にとってはぬるま湯に過ぎぬ。こんなものに私は負けぬ」
私は必死で軽口を叩く。
火に絡まれ意識を失いそうになるが、耐えて彼女の行動を待つ。
「……どうしてだよ。ボクの事なんか放っておけばいいじゃないか、ボクはもうどうなったっていいんだよ」
確かに私は、彼女と何の縁もゆかりもない。
だが、それでもだ。
「死にたい命を生かそうとするなど、お節介どころか傲慢だろう。けれど、私は思うのだ。嘆きの声をあげるのは、生きたいからではないだろうか、と」
私は彼女に会った時、最初にその嘆きの声を聞いている。
「私は生きている。そして、死にたくないのではなく生きたいのだ」
「うるさい。煩い。五月蝿い。ボクはあんたなんか大嫌いだ」
彼女は目に涙を浮かべた。
「ああ、それで構わない。君の活力になるなら、いくらでも憎んでくれ。だから、こちらに来るんだ。君が、君の意思を持って動かなくてはならない」
彼女はうろたえ、拳を握りしめ私の言葉に答えた。
「ボクの事なんて何にも知らないくせに」
「これから知っていけばいい」
最初に何も知らないのは人間だろうと何だろうと同じことだ。
「ボクはこれからどうやって生きればいいんだよ」
「私も一緒に考えよう」
私は生まれついた時から備わっている謎知識もある。
彼女の助けになれるやもしれない。
「だって、あんた。あんたは、……餅じゃないか。ボクと違う生き物じゃないか」
「それに何の問題があるというのだ。だいたい、全ての生き物は違う生き物だ」
彼女は根本的な問題に触れてきた。
「確かに、私は餅だ。お前達人間が食料とする餅だ。私の覚悟が軽いと言うならば、滑稽であると言うならば。そして、信じられぬと言うならば。私は出会ったばかりのどうでもいい人間の為に、つまらぬ同情心のために命を投げ捨てるような、そんな程度の軽い命だと思うのならば。笑いたければ笑うが良い。だが、これが私のあり方だ」
だから私は、彼女がどうあるか待とう。
彼女は手の甲で自身の涙を拭いた。
そのまま立ち上がって、炎の消えている私の一角に向かって跳躍した。
これで炎から遠ざかった。そう思い安堵する。
私は最後の力を振り絞って、転げ回って自身も炎から遠ざかった。
べたん、べたん。
安全な場所には来れたが、伸び切った体が元に戻らない。
さきほどはあれだけ威勢のいいことを言っておいて、体が全く動かなくなる。
人間であれば、顔が真っ青になっているところだ。
彼女は近づいてきて、何をするかと思えば私を持ち上げた。
……まさか。
私を喰らうつもりでは?
今は体が焦げて、普段より美味そうに見えるはず。
しかも体は動かない。絶対絶命だ。
だが、予想に反して彼女は私を自身の胸のあたりで抱きしめた。
「離すがいい。今の私は熱かろう」
「良いの」
グラールは私を抱きとめたまま、目から大粒の涙を流した。
涙で体が冷えて心地よい。
「ありがとう」
彼女が小さく礼を言うのが聞こえた。
けれど、さすがに少し疲れた。
これから、どうしていこう。
遠ざかる意識に、そんな事を思った。
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