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本編
脱出3。
しおりを挟む夜明けと共に目覚めるのはいつも通りだった。重たく絡みつく細腕に呻きつつ寝返りを打つ。
微睡んだ視線の先、神々しい程の寝顔があってばちりと目も覚めた。至高の御身はやはり人形めいた美しさを持って、健やかな寝息を立てていた。
(本当に綺麗じゃのう)
触れる事もおこがましいような神聖さがあった。
どんな善行を重ねればこうも美しく生まれてこれるのだろうか、と雪妃は感心しながら横顔を有難くも拝む。
首を傾げ思案に暮れる姿は母性本能を擽る愛らしさもあるが、やはり高みに君臨する紛れもない御身なのだと、崇拝の念も抱いてしまった。
「よく眠っておったの」
「ハッ、どうも、爆睡でござる」
じゅるりと口元を拭い、雪妃は慌てて目を開ける光の君に答えた。
細まる双眸が向いて、寝癖を摘まれる。どこかに置いてきがちな恥じらいも、眩しい姿を前に急に顔を出すようだった。
「あのう、王さま」
「阿光という。覚えおけ」
「お名前?アコウ…アコちゃんなのか」
阿光、と確かめるように呟く雪妃に、光の君は小さく笑みを浮かべる。そう呼ばれる事もなくなり久しかった。
障子を朝陽が明るく照らしていた。
ゆっくりと身を起こし、光の君は格子の窓を開く。爽やかな朝の風が柔らかに吹き込んだ。
「十月よの、進まねばならぬ」
年明けの前後にと事は運んでいた。それも早い段階でおし進めなければならない。
鏡の前で寝癖を引っ張っていた雪妃を一瞥して、つげ櫛を手に光の君はその後ろ側に座りなおした。
「おわ、これはどうも」
「よい。久方ぶりに安らかに眠れた」
「そうなのか。睡眠は大事よ、たっぷりとるのじゃ」
「うむ」
緩やかに絡まる亜麻色の髪が優しく梳かれる。雪妃は鏡越しにそれを眺めながら、幸せな朝よのうとニマニマした。
「次はひとりで参れ」
「おう、あのですね。その話なんじゃが、拙者には有難くも勿体なくて」
「戦が済んでからで良い。前向きに考えよ」
入れ替わって絹糸のような髪を編み込みながら、雪妃は曖昧に笑んでおいた。鏡に映る光の君もまた、苦笑をするように口元を緩めていた。
「狡いですよ、私にもしてください」
「はいはい、順番ね」
まだごろごろしている守ノ内にやれやれと答える。
手触りの良い髪を勝手に結って、お付きの皆様に叱られないだろうか。ふと思いつつも雪妃は満足げに編み込んだ先を紐で結んだ。
「はい可愛い。アコちゃん最高」
髪飾りでも重ねたい衝動を抑えつつ、雪妃は麗しの姿に手を合わせておいた。
そうか、と笑んだ光の君は声のかかる障子を向く。
一瞬目を見開いたプロテアは、にこりと挨拶を述べて密やかに君主と言葉を交わす。その間に転がる守ノ内を叩き起こし、ツインテールにでもしてやろうかと髪を梳いた。
「アコちゃんですか、妬いちゃうな」
「おうおう、カッちゃんも可愛くしてやろうね」
「勘弁してください、可愛らしいのはお嬢さんだけで十分です」
高く結われる髪を守ノ内は苦笑して眺める。鏡台の髪紐を拝借し結んで、空色の長い尻尾をポンと叩いた。
「サラサラで羨ましいもんだね、ふたりとも」
「私は、お嬢さんのふわふわしたのが好きですよ」
「どうもどうも、お好みで何より」
「ええ。細胞のひとつまで好みですよ」
「わあ、そりゃあ凄えや」
抱き寄せてくる守ノ内の背を雪妃はぎゅっと握った。この温もりを手放せなくなってしまった。こうなったらとことん縋ってやるわ、と腹を決めて胸に埋もれた。
「どうしよう、お嬢さん」
「あん?」
「嬉しくて、何だか興奮してきました」
「おいおい、何言ってんの」
「私、とても幸せです」
額に落とされる口付けに顔を上げると、そこには満面の笑みがあった。確かに幸せそうだと、雪妃も思わず笑ってしまう。
「おい、陛下の閨でいちゃつくな」
お召替えをと退室した光の君へ頭を下げていた真田が、姿を見送るや否や低く吐き捨てた。
「何でおまえまで居るんだ」
「ふふ。許可を得られたので、お邪魔してました」
「喧しい。戻ったなら少し付き合え」
「おや、分かります?」
「その呑気なツラと何年付き合ってきてると思うんだ。良いから来い」
鼻を鳴らし真田は足早に行ってしまう。
「何かあったのかな」
「ね、取り敢えず行ってきんしゃい」
「お嬢さんも一緒に行きませんか」
「長くなりそう?拙者は朝ご飯が待ってます故」
「ふふ。お嬢さんの食欲には敵いませんね、離れたくないんですが」
「早よ行って戻ってきてよ。王さまに、女王さまの所に行きたいって伝えても良い?」
「ええ。心得ました、すぐ戻ります」
掬った手の甲に口付けて、にこやかに守ノ内は真田の後を追った。
朝ご飯何かなあ、と雪妃は軽い足取りで匂いに誘われるまま、食事の席へと向かった。
***
地下牢というのだろうか、自分が仮とはいえ居座っていた櫓とは違い、薄暗く空気も淀んでいた。
こんな所に美少女を閉じ込めるなんて、と思ってしまうが、女王の凶暴さは身に染みて知っているので複雑な気分になる。
警備にあたる白服の若者の敬礼に手を振って、先導するパキラの後を雪妃と守ノ内はついていった。
「ふたりとも大体戻ったそうで、良かったですねえ」
どこか距離感のあったふたりが見慣れた感じになっていて、アンシェスは最後尾から安堵したように呟いた。
「皆さん言わずとも、よく分かりますね」
「あはは。あれだけひっついてたのが離れてて、またくっついてるんです。嫌でも分かりますよ」
他に囚人の姿はなかった。
鉄格子に背を向けて、それでも姿勢良く座す華奢な女王。駆け寄る足音に、気怠そうにも振り返った。
「女王さま、こんにちは。大丈夫?」
「…遅いわ、十八」
「おう、すまぬ。結局方法が分からんでなあ」
「妾を待たせるとは不届き者め。罪は重いぞ」
牢の中にあっても、傲然たる女王に変わりはなかった。冷たい石床に蹲み込んで、雪妃はそれでも美しい姿に見惚れてしまう。ぽやとしながら宝剣を掲げてみせた。
「もっと罵られたくなっちゃうけど、お嬢ちゃん、これ見て」
「戯けの剣か。それでどうする」
「分からぬ。女王さまは何か知らないの?」
「戯けが。手もなく妾の前に現れるな」
「はひ、申し訳ございませぬ」
ふいと背を向けられてしまう。
どうしたものかと守ノ内を見上げて、雪妃は繊細な装飾の施された鞘を撫でた。
「まあ、試しに刺してみましょう」
事もなげに守ノ内は微笑む。
こくりと頷く白服ふたり。緊張する雪妃の手を柄に握らせ、すらりと白刃が覗いた。
「早速かあ…痛くないんだったよね」
「気遣い無用です、先日刻んでこうも無事なんですからね」
「刻まないでよ、丁重に」
がしゃんと鉄格子を奈々実が掴む。
光の君を産んだと聞いて、遺伝子は違えどもその美貌もどこか似ているように見えてくる。
「戻るのであろうな、余計に奪うでないぞ」
「正直どうなるか分からないよ、やめとく?」
「やるが良い。だが失態を晒すであれば、次は喰らう」
「やめて、戻れ戻れって祈るから」
守ノ内が誘うままに、薄い肉の胸元へと切っ先が向けられる。ごくりと息を呑んで、手に伝わる感触に目を瞑った。
(戻りますように。頼むよ)
仄暗いモヤが立ち込める。
脳裏を駆け巡るのはいつの時代だろうか、緑豊かな城郭の光景だった。
(雲の君…?)
吹き荒れる風の中、光の君によく似た壮年の男が映った。奈々実の記憶なのだろうか、逸るようなもどかしいような、胃が締めつけられるような。男は優しく微笑んで見えた。
(アコちゃんのお父さまかな、隣の美女はお母さま…?)
色白の見目麗しいふたりだった。
幸せそうに寄り添いこちらを見ている。憎悪に似た暗い気持ちが迫り、雪妃は思わず柄から手を離しそうになった。
「離さないで、大丈夫ですよ」
守ノ内にも伝わっているのだろうか。雪妃は目を閉じたまま頷き、そのまま深く突き刺した。
(願わくば不老不死をも、か)
味わった事のない切ない感情に包まれた。
次第に大きくなっていく腹と、悪阻の苦しみと深まる憎悪と。女王の熱い想いとは裏腹に、雲の君の愛おしげな視線は常に隣へと向いていた。
(ダメだよ女王さま)
助産師に赤子が取り上げられる。
輝くような血に濡れた中で産声が上がり、薄れゆく意識の端でふたりは抱き合って笑っていた。怨嗟の炎が燃え盛っていた。
(腹を貸した。だが妾と浮雲の子だ)
優しく髪を撫でる白い手に、満ち足りた想いが巡る。後は邪魔なものを消すだけだった。
(玲衣、孕めぬ貴様は用無しよ)
儚げに微笑み労ってくれる玲衣を、ほくそ笑んで下から見ていた。
しかし阿光と名付けられた愛しい我が子は、仲睦まじい夫婦の手元。ついには二度ともこの腕には抱かせてもらえなかった。
(何故、我が君)
本丸の離れの御殿で、幽閉されているようなものだった。育っていく我が子を近くに感じつつも、一目も姿を愛でられなかった。
鎖に繋がれた腕を折り、止める白服を切り裂き庭を飛んだ。
(化け物と呼んだな、その腹から生まれし我が子よ)
細い首を締め上げても、愛しの君と同じ双眸は微塵も動かなかった。悲鳴を上げる侍女を裂き、恋慕を踏みにじった憎い女の首を折る。
ただの冷たい塊と化した玲衣でも、それでも雲の君は愛おしくも抱き寄せ嘆いていた。若さもない、女の務めも果たせぬ役立たずの女を。
(皆、滅べば良い。斯様な世界は要らぬ)
浮雲も阿光も手は出せなかった。
刺さる矢尻も一閃も、この身には何の痛みも齎さない。無我夢中で全てを切り裂き、血の海に愛しい姿がふたつ、残っていた。
(妾はただ、お側に置いて欲しかった)
大陸から眺めた麗しの姿に惹かれ、接触を試みたあの日。確かに雲の君は受け入れてくれた。疎まず怖れず、共に過ごしてくれた日々は幻だったのだろうか。
(終わりたくとも終われないのだ。なれば、我が子だけでも)
愛しの君自らの手で斬首され、ただ物悲しく地に転がった。陽に晒されても燃やされても朽ちない身は、箱に詰められ暗く静かなどこかに放置された。
再び光を見たのは、そう遠くない先だった。崩御の知らせと共に、まだ幼い我が子は愛おしい面影を色濃く残す美貌で、役に立てと告げた。
側に居られるのであれば、と研究に協力した。冷たく向けられる中枢での視線も全く気にならなかった。
(これからは光の君の為に。妾のものだ)
大陸との戦で村を踏み潰し、紫庵に迫った。しかし呪いは重ねられ、堪えていた乾きに抗えなくなった。
喰って良い。宵闇色を持つその言葉に解放されたのだ。
(側にあれず、子も望まぬであれば協力はせぬ。揃って拒絶するか)
西の地に飛ばされて、鬱々とした日々を送っていた。清らかな生娘を喰い、無法を許し、少しでも彼の気を引きたかった。
(分かるか、十八。この苦しみが)
混濁する意識の中、雪妃は浮かび上がれず沼でもがくような思いだった。生温い辺りは底へ底へと誘っていく。
(人の道を外れた業よ、貴様もそうであろう)
岸に家族が立っていた。
懐かしい三人の面影は、もがく姿を冷たくも見下ろしていた。そこにある老いた自分に似た姿もまた、嘲笑っていた。
(呪いとは早々に解けぬ。だが妾の糧となれば赦しの道もある。そのまま溶けておれ)
ごぽりと沼に飲まれていった。
苦しいのはもがいている間だけで、揺蕩えばゆるやかで心地が良い。
(これはこれで良いかも)
雪妃は流れに身を任せて暗闇に落ちた。
何もないが、巡っていく温い感触が纏わり付く。疲労感にそれは優しく、幸せにも感じられた。
(いやいや、まだ人生を謳歌するんじゃい)
沼から蔦に変わる纏わりを引きちぎって、雪妃は上昇した。しつこく絡みついてくる足元を蹴り抜ける。
(女王さまが辛かったのは分かったけど、わたしだって生きたいよ)
(何の為に?元の生活に戻りたいか)
(そりゃあ、嫌だ嫌だって過ごしてきたけど。それなりに楽しくやってたのよ)
(くだらぬ。つまらぬ人生よ)
(つまらなくても、楽しい事探して生きるの。案外それで良い人生だったって往生できるかもでしょ)
(結果論だな。道中つまらぬ事は変わらぬ)
(いいのよ。人生なるようになるんだから)
最後まで絡みつくのは奈々実の腕だった。流石にちぎれず、可憐で不遜な微笑みに低く唸った。
(虚しいものよの。貴様も妾を捨て置くか)
(馬鹿者、一緒に戻るのよ)
肉の薄い身を抱えて、雪妃は明るい方を目指した。泳いでいるのか飛んでいるのか、よく分からないままジタバタと手足でかき分けていく。
(悪い事したんだから、ちゃんと反省してこれから良い事するんだよ)
(戯けが。それで赦されるとでも?)
(許す許す。一緒に謝ってあげるから、誠意を見せるんじゃお嬢ちゃん)
上から伸びてくる手は、よく知った温もりだった。離すまいと力を込めて掴み、後は引き上げてもらうだけだった。
(戯けよの、浅膚の極みよ)
(わはは、難しい事は知りませぬ)
闇が溶けていった。
緩む力に奈々実を抱えなおし、眩しくも目を細めた。こんな暗い所に居るよりは、やはり明るい外が良い。
(阿光は、赦してくれるかのう)
視界が光に溢れる中、ぽつりと呟く声がした。ぺっとりとした頭を撫でて、雪妃は豪快に頷いてみせた。
(時間はかかるかもだけど、ナナちゃんは可愛いから許されるさ。心を入れ替え、今後は真っ当に誠実に生きるが良いぞ)
(尊大に申すでない、無礼者が)
鼻を鳴らす奈々実が消えていく。自分の身もまた、薄れて揺れた。
後は賢い皆様にお任せしよう、と雪妃は安心して瞳を閉じた。
***
「おかえり、お嬢さん」
瞼を震わせ開くと、守ノ内の苦笑する顔が見えた。握りしめたままの宝剣に、重ねるように温かな掌があった。
「ただいま、お迎えご苦労である」
「ええ。ちゃんと掴めてましたかね」
「うむ。お見事よ、ありがとね」
気を抜いて心地良さに浸りきらず良かった、と苦くも笑う。額の汗を拭われて、雪妃は気恥ずかしくも身を起こした。
「ナナちゃんは?無事なの?」
「さて、手応えはありましたかね」
「むむ、無礼者がと言われて別れたけども」
「ふふ。斬る前に戻してくれて良かったです」
変わらず折れそうな抱擁は、最早安堵すら覚える。雪妃はポニーテールにした守ノ内の髪に触れながら、何とも言えない表情で見下ろすパキラにニンマリと笑みを浮かべてみせた。
「パキちゃんも心配してくれたのかね。ありがとね」
「煩えわ、いちいちしねえよ」
「あはは。もうヤキモキするのも、慣れてきてしまいましたからねえ」
開けますか、と牢の鍵を翳すアンシェスに神妙に頷いた。
仰向けに横たわる奈々実の薄い胸元は規則正しく上下している。急に首絞めてこないよね、と慎重に中へと入っていった。
「ナナちゃん、どんな感じ?」
乱れた髪に触れると、ぴくりと身が揺れた。警戒しているようで無防備な雪妃に苦笑して、守ノ内は刀の柄に手を落としつつ合間に入った。
「動きがあれば斬りますよ」
「待て待て、大丈夫よ」
ばちりと開かれる大きな瞳は暗い天井を映した。幾度か瞬いて、奈々実は胸元に手を当てる。
「起きた?具合はどうじゃろ」
「騒々しいな、控えよ」
「ははあ、大丈夫そうでございますね」
ホッと胸を撫で下ろし、雪妃は冷たい床に座り込んだ。返された宝剣は静かに鈍く篝火に光る。腰に収めて一先ず息を吐いた。
「記憶のみ戻したか、大儀である」
「どうもどうも。やれば出来るもんだね」
「フン、偶然の賜物であろう。だが褒めてつかわす」
「有難き幸せ。そんで、勝永の方は?」
「多少喰っただけだ。偉そうに申しておったであろう、要るのか?」
「ふふ。概ね取り戻してますし、大丈夫ですよ」
「良いなら良いか。勝永だし」
疲弊して暫く立ち上がりたくなくなってしまった。ばさりと長い髪をかき上げて、奈々実はじろりと睨みつけた。
「して、阿光には会えるのか」
「おお、どうなの?」
「ええ。お伺いを立ててみましょうかね」
「お任せ致す。わしゃあ疲れたよ」
「お務めご苦労様です。戻って休みましょう」
「うむうむ。久々にクラゲに飛び込みたい」
癒やしのもちもちした感触へと思いを馳せて、雪妃は気怠くも立ち上がる。支えてくれる守ノ内の腕に寄りかかると、そのままひょいと抱え上げられた。
「報告はお任せして良いです?先に戻りますよ」
「は。承知致しました」
「何かあったら呼んでおくれ。ナナちゃんも大人しく待ってるんじゃぞ」
「フン、分かっておるわ」
着衣を整え奈々実は姿勢良く座りなおす。ひらひらと手を振る様から背を向けて、目を伏せ押し黙った。
「無事に?済んで良かったね」
「ええ。蒼念さんも出るに出られずのようでしたが、問題なくです」
「蒼ちゃん居たのか。隠れるの上手だなあ」
警備の若者たちの好奇の目にも構わず、ゆっくりと守ノ内は地下牢を上がった。
薄く雲のかかる秋空が眩しく目を刺す。
「浮雲だって。アコちゃんのお父さまなの?」
「おや、先代ですね。見てきたんですか」
「うむ…お父さまとお母さまか。麗しかったな」
今よりも幼い光の君も、と愛らしくも凛とした佇まいを思い返して頬も緩む。
激情は奈々実の心境で、今も胸を酷く傷ませた。慕っていたのは浮雲の方だったのだ。
「大好きな人が別の人しか見てないの、こんなに辛いんだね」
元々恋愛遍歴はそう多くなく、その片鱗を認めれば目を背けてきただけに、あまりよく知らない感情だった。
求め焦がれて打ち拉がれる。救われない想いは、己をも燃やす業火の如く広がっていた。チリと胸に残る嫌な感覚に、雪妃は抱える守ノ内の首にしがみついた。
「それでも記憶を戻せだなんて、ナナちゃん。まだ残ってるんだね」
「執着というものは深く、振り切れませんからね。あの人の場合は、父から子へと尚続いているようですし」
「ううむ…」
「先代が公にせず、王様も保護観察といった体です。まあ、後は偉い人にお任せしましょう」
「そっか。もう出来る事はないのかな」
奈々実の暗い感情に揉まれ、まるで自分の事のように抱いてしまう想いもある。
「チーちゃんたちのもそうだけど、余所者がどうこう言っていいものじゃないんだよね」
「当人からすればそうなりますけど、良いんじゃないです?」
「そうかな。わたしくらいは味方でありたいけども」
「ええ。過去は戻りませんし、前を向いて進むべきです。私はそう思いますよ」
「うむ…どうにか、ナナちゃんも幸せに過ごして欲しいな」
疲労からか急激に瞼が重くなる。
力の抜ける雪妃を抱き寄せて、守ノ内は苦笑を浮かべた。
「私は例えお嬢さんが世界を滅ぼそうとしても、味方であり続けますからね。安心してください」
「滅ぼさねえですよ。何て例えをするんだい」
「ふふ。形は違えど、愛とはそういうものなんですかね。お嬢さんが他の手に渡れば間違いなく、私もそうなりそうですが」
「頼むよ、渡らないから。お気を確かに」
欠伸を噛み殺し雪妃は守ノ内にもたれかかった。頬に落ちてくる口付けに、擽ったそうに擦り寄って軈て寝息を立てる。
目を瞬かせ眺めて、守ノ内は困ったように微笑んだ。
「つれないのも愛おしかったですけど、これはこれで、参っちゃうな」
どこか吹っ切れたような、煩いも抜けたような反応に、口元も綻んでしまう。
今ならずっと欲しかった返答も、きっと難しい顔をしつつももらえるのだろう。守ノ内は晴れやかな表情で広い堀を飛び越えた。
「他を救うのも良いんですが、先ずは私から頼みますよ」
施錠をしない屋敷へと戻り、お望みのクラゲのぬいぐるみを添えて寝床へと横たえた。幸せそうな寝顔だった。
どこかで携帯端末が鳴る音がする。
取り敢えず探すのは後回しにして、守ノ内は柔らかな身を抱き竦めた。
いつもの甘い香りとは違う、大陸の気配が取り巻く。恐らくは紫庵の、奈々実への呪いの残り香か。目を伏せ警戒はしつつも、雪妃の腕が絡まってきたので詮索は中断した。
「無粋な真似はよしてくださいよ。休憩中なんです」
微風に窓辺でカーテンが揺れていた。
誰かのくすりと笑う声が聞こえた気がする。近くに置いた刀の位置を確認して、守ノ内は亜麻色の髪に唇を落とした。
夕暮れにはまた召集がかかるのだろう。
それまではのんびりと、深く眠る雪妃を眺めながら安らぎのひと時を過ごした。
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