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精神科医の分析と大トラの理解

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 北斗と七星のことで相談しようと思って、飲みに誘った精神科医の市居香奈が、拓真の困り果てた様子を見てウケまくっていた。
「あなた目当てで病院に来る女性たちに、見せてあげたいわ。それにしてもきれいな男の子ね。ひょっとして、この子のことで相談するつもりだったの?」
「そうなんだ。こっちが妹」
拓真が自分のスマホを取り出して七星の顔を見せた。表情筋を鍛えるにあたって、施術の前後の写真が必要だと七星を騙して撮った写真だ。
市居に写真の七星と北斗の顔を見比べてもらうため、酔っぱらったせいで少したれ目になり、うだうだと絡みつく北斗の顎を、拓真が掴んであげさせる。
「何だよ。こんなところですんなよ」
 ぱっと手を離した拓真は、こいつは絶対に飲ませ過ぎてはいけないと悟った。
 拓真が触れたことがきっかけになったのか、北斗がいつものキリッとした表情を取り戻し、市居を見上げて聞いた。
「この人とどういうご関係ですか?」
「あらら。成瀬君。これはもう連れ出した方がいいわよ。きっととんでもないこと言いそう。そっちの子と私は飲むから、連れてって。顔は分かったから、また話しましょう」
 美人の誘いに瑛士もまんざらではないらしく、北斗をお願いしますと言って拓真に頭を下げると、既に市居にメニューを進めて、拓真と北斗のことは頭から締め出したようだ。
 仕方がないなと呟きながら、拓真は市居のために何枚かお札を置き、北斗の腕を取って外に出た。
「北斗、大丈夫か?飲み過ぎだ」
 店から少し歩いたビルとビルの間の狭い通路に入り、北斗の状態を確認しようとすると、北斗が酔って潤んだ瞳を向けてくる。
「だって、あんたが悪いんだ。あんなことするから……第二条件をクリアしたくても、できないんだ。思い出しちゃいけないのに、あんたを思い出て…んっ」
 北斗の言葉は拓真の口でふさがれ、舌で舐めとられた。
「やっ……」
「当たり前だ。忘れられないようにしたんだから」
 なんてことをしたんだと、北斗は拓真の背中を叩いてやめさせようとするが、拓真の舌の攻撃に力が抜けていく。北斗の手が拓真の広い背中に沿って這い上り、拓真の首にすがりついて自らも舌を絡めた。
「あんたが悪いんだ」
口を離すたびに北斗が文句を言うのを、拓真は北斗の頭や背中をあやすように撫でながら、ああ、そうだなと受け止めてやった。
 ふにゃふにゃになった北斗の腕を肩にかついで通りまで出た拓真は、バス停のベンチに北斗を座らせ、タクシーを呼ぼうとした。
「まだ、帰らない」
 北斗がベンチにパタッと上半身をうつぶせて、拓真においでおいでと手招いている。
困ったものだと拓真がため息をつきながら、北斗の伏せた頭の横に腰かければ、北斗がにゅっと腕を伸ばして拓真の腿に手をかけてくる。いきなり触れられて驚いた拓真が、おいっ、こら!と嗜めると、顔をあげた北斗が拓真を見つめ、悪びれもなく文句を言った。
「だって、頭が低いと血が上るんだ。枕が欲しい」
拓真が絶句している隙に、北斗がいざって拓真の膝の上に頭を載せた。
「ちょっと高すぎるけど、あったかくて気持ちがいい」
「そんな態度をとっていると、俺の家かホテルに連れていくぞ。お前は明日仕事があるんだろう?動けなくなっても知らないぞ」
 北斗が顔を斜め上に向けて、拓真の顔をちらりと窺ったが、酔った頭で理解するのを諦めたらしい。今度は膝全体を抱え込んで頬をすりつけながら言った、
「もう、動きたくない」
「そういう意味じゃない。そんな風にかわいくしていると、本当に襲うぞ。いいのか?」
これ以上無防備な態度を晒されては、こちらの自制心がもたない。拓真は北斗に態度を改めさせるつもりで脅したのに、北斗がケタケタと笑い出した。
「もう襲ったくせに」
 これはだめだ。もうタクシーに乗せてしまおうとスマホを取り出した時、市居のメールが入った。
『こちらは飲み会終了。もし、まだ近くにいるなら、話に乗るけれど、お取込み中?』
『大トラを膝に乗せている。できたら、店の近くの○○バス停まで来て欲しい』
『分かった。すぐに行くわ』
 十分後に市居がやってきて、拓真の膝にじゃれている大トラを発見して目を見張り、辺り構わず大きな声で笑い出した。
耳障りな笑い声に、胡乱気な目を向けた北斗が、シッシッと追い払う真似をするので、拓真が慌てて、その手を掴んでやめさせる。
「膝に乗せているっていうから、いけないことを想像したけれど、こういうことね。かわいい大トラね。連れて帰りたいわ」
「いやだ~帰りたくない。これ気持ちいいんだ」
 膝を撫でまわす北斗の頭を、ぽんぽんと叩きながら、拓真が市居に助けを求めた。
「こいつを何とかしてくれ。ここまで豹変するとは思っていなかった。もう理性の限界だ」
「成瀬くんがやり込められる姿を見られるなんて、驚きだわ。北斗君って言ったわね?多分お家で相当気を張っているんじゃないかしら?連れて帰ったら?」
「簡単に言うなよ。それですべてが解決するならいいが、根本に巣作っているものを何とかしないと、北斗も七星も自分の顔に自信を持てなくなるだろ?」
「そうだけれど、普通男女の兄妹なら、お互いの性を尊重しあってコンプレックスに陥ることは少ないのよ。妹さんの旦那さんは、はっきりと北斗君に好きだと意思表示をしたのかしら?」
 それまで黙って膝とじゃれていた北斗が、ぴくりと反応を示した。
「研吾はピンクじゃなくて、ブルーのドレスの人形を隠したんだ。この人に渡そうとした俺の人形も奪って逃げた。七星は夫の研吾が好きなのに、俺の存在が邪魔をするんだ」
「ピンクとブルーのドレスの人形って何?北斗くんと七星さんが作ったものなの?」
「違うよ。母が七星と俺をモデルにして作ったんだ。小学校の時だけれど、七星がピンク、俺はブルーのドレスを着せられて写真を撮って、それをもとに母がポーセレン人形を作ったんだ」
「ああ、それだわ!北斗君は男の子なのにドレスを着て、本来女の子として七星さんが受けるべき称賛を奪っちゃったのよ。自慢の兄になるはずが、深層心理では、いつも自分の欲しいものをさらって行く同性のライバルになってしまって、目の前の異性である兄とのギャップに苦しんでいるのかもしれないわね」
 市居が七星のトラウマと現在の問題を想定して話すと、北斗が顔を上げた。目を上下に動かしながら考えているように見えたが、またこてんと拓真の膝に顔を突っ伏した。
「ん~っ。ん~~っ。俺頭がくらくらしてよくわかんないや」
「北斗はいいから寝てろ。でも、もしそうだとしたら、どうすればこの二人が、自分自身と相手を受け入られるようになる?」
「そうね。方法は二つあるわ。一つは七星さんが女性として、彼女の得意分野で兄より認められること。それも、二人を知っている共通の人物にね。本当は七星さんのご主人の研吾さんがいいのだけれど、成瀬君でも構わないわ」
「なるほど、自己認識と他人からの称賛を一致させて、現実での自己肯定を促すか。それで自分に自信を持たせるんだな」
 膝の上で北斗がごそごそと動き、上を向いたかと思うと、拓真の頬をつんつんと突いてきた。
「ん~~っ。理解不能」
「今度身をもって理解させてやるから、今は寝てろ」
「成瀬君怖いわ~。北斗君にどういう立場を肯定させる気?でも、今の北斗君にも、自分を思ってくれる人が必要だわ。誰かのために自分を抑えて生きるのではなく、自分の心の解放と、ありのままの自分自身を自分で承認できるようにならなくっちゃね」
「ありがとう。よくわかったよ。助かった。それで、もう一つの方法は何だ?」
 市居は腕を組んで言うべきかどうか悩んでいるように見えた。だが決意をしたらしく、拓真の目をひたりと見据えると、真実の開示だと言った。
「自己認識と他人からの称賛が一致して自信を持ったとしても、ぶち壊す相手が側にいる限り、コンプレックスは根深くなっていくわ。もし、本当に研吾さんが北斗君を思っていたとして、七星さんが自己肯定をした後にバレたら、彼女は立ち直れなくなるでしょう」
「どっちにしても傷つく可能性があるなら、先に研吾の気持ちを暴いて対処しろか。七星さんも辛いけれど、北斗は七星さんを大切にしているから、自分を責めるだろうな」
「ん~っ。俺辛いよ~。研吾なんて大嫌いだ。でも七星が研吾を好きだから、辛いんだ」
 よしよしと北斗の頭を撫でてやると、北斗が気持ちよさそうに拓真の手に頭を擦り付ける。
「大トラというより仔トラね。で、どうするの?どっちの方法を選択しても、乗りかかった船だから、対処の相談には乗るわよ」
「誤魔化したって、北斗たちに安息の時間は訪れない。それなら、俺は研吾の気持ちを暴いて、怒鳴りつけてやりたい」
「もし、本当に研吾さんが北斗君を思っているなら、彼の嫉妬を成瀬君に向けさせたらいいわ。七星さんに知られないようにおびき出して、釘を刺すのよ」
 それもいいなと拓真が返事をするより先に、膝の上から、さんせ~~~と北斗の間延びした声が聞こえた。拓真と市居は顔を見合わせて噴き出した。
「守ってあげたくなるわね」
「ああ。だが素面の時に言ったら、噛みつかれるかもしれないぞ。まぁ、こんな姿を見た後では、毛を逆立てた仔トラくらいにしか見えないかもしれないが…」

 そろそろ帰るぞと耳元で言われ、北斗は嫌だと首を振った気がする。
 車が止まってドアが開き、タクシー特有のガス臭いにおいがするシートに身体を沈めると、隣に座った男の声が三沢の家の住所を告げるのが聞こえた。
 任せられる安心感で瞼が重くなり、カクンと頭が横に揺れたのを支えられる。目を開くと、ぶつかりそうに迫ったガラスが遠のいていった。
「肩にもたれてろ」
 引き寄せられるが、頭に当たった男の肩が硬すぎて、ぐりぐりと収まりの良い場所を探していたら、男の腕が上がって北斗の身体に回された。
 女の胸のように柔らかくはないけれど、支えてくれる厚い胸は気持ちがよくて、北斗は男の顔をぼんやりと見上げフフッと笑った。
 男が何かを言いかけたけれど、北斗は久しぶりに安らいだ気持ちのまま、夢の中に落ちていった。

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