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奪還
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彦斎が佐久間象山を暗殺してから八日後の七月十九日。
かねてより京の政治から遠ざけられていた尊王攘夷の急先鋒である長州藩の軍勢が京に進軍。幕府軍との戦端が開かれた。
池田屋の事件で新選組に藩士を殺されたことが、遂に長州藩に挙兵を決断させた。
いわゆる禁門の変である。
戦は一日で終わったが、京の町の火災は二十一日まで続いて、市中の家屋二万八千余戸が焼失した。
敗れた長州藩の軍勢は帰国して行った。
「無念です」
焼け残った町を見ながら、彦斎は肺腑を絞るような声を吐いた。
「仕方あるまい。長州だけで幕府を相手にしようというのが無理な話じゃ」
新兵衛は煤けて半ば崩れた家の中から、瓦礫を踏みつけながら明るい外に出た。焼けた家を物色してみても金目のものはない。
「今この国に必要なのは尊王攘夷の志であることが、なぜ幕府には分からぬのでしょう」
「さてねえ」
新兵衛は彦斎と付き合って行く中で、彦斎が人斬りというより尊攘派の志士であることが分かってきた。その志は苛烈というより、ある種の狂信的なものであった。
長州藩士とも付き合いが深く、この度の長州藩の敗北は尊攘派の敗北であり、悔やみきれないものがあるのだろう。
「わたしも長州の同志と共に戦うべきでした」
「おまえさんが一人加わったところで何も変わらんよ」
彦斎は黙り込む。
――人斬りの時代は終わるのか。
新兵衛は己の言葉に言い知れぬ不安を感じていた。まだ己の人生への復讐は始まってもいない。
◇◆◇◆◇
京の町の至る所で普請の音が鳴り響き、動き回る人足の姿を見るようになってきた。
新兵衛は料理屋の外に面した縁台に座って酒を飲んでいた。
彦斎は隣に座って行儀よくお茶を啜っている。茶坊主をしていたと聞いたが、たしかに彦斎の所作はどこか品が良い。
にぎやかな町の音に混じって大声で話す男の声が流れてくる。新兵衛がそちらに目を向けると、男が大きな身振り手振りでもう一人の武士と話をしている。
――あの男は。
新兵衛が記憶を辿ろうとすると、二人が話している内容が聞こえてきた。
「これからは武器じゃ。大きな戦に備えて長州も薩摩もどこぞの藩も武器を揃えようとする」
「また戦が起きるのか」
「それは分からん。戦が起きるかもしれぬという雑説(噂)を流すのじゃ。そして外国から買った武器を藩に売りつける」
「外国から」
「そうじゃ銃じゃ。これからはより新しい武器を持っている軍勢が勝つ時代になる」
「そのための船か」
「船で商いを始めるんじゃ。薩摩に武器を売る。より新しい武器を長州に売る。もっと新しい武器を幕府に売る」
「おぬしは賢いのう」
「これが新しい商いじゃ」
満足するまで話してから二人の武士は嬉しそうに店をあとにした。武器を売ると言っていた男は精悍な顔つきで癖のある髪の男であった。
――あの男、どこかで。
「坂本龍馬――」
彦斎の呟きのおかげで新兵衛の記憶がつながった。
「そうじゃ。あの男は坂本龍馬じゃ。彦斎、あいつを知っているのか」
「いえ。わたしも話に聞いて姿を見たことがあったくらいです。何せあらゆる藩や幕府にも顔がきく御仁のようですので」
「坂本の先ほどの話を聞いていたか」
「はい。船で武器の商いをするとか」
「そうじゃ。あれはとてつもない話じゃ」
新兵衛の勘が訴えかけてくる。いや、勘というより、幼い頃の密貿易船と金塊の記憶が呼び覚まされたという方が近い。
「坂本は恐ろしく大きな金を手に入れる男になる」
なんとか坂本龍馬に近づく方法はないか。彦斎に取り入ってもらうか。いや、何かちがう。他にもっと良いやり方があるはずだ。
「あっ」
新兵衛は思わず立ち上がっていた。
「田中さん」
「以蔵じゃ――」
坂本龍馬とは幼なじみだと以蔵は言っていた。
「土佐に行くぞ」
「え」
「岡田以蔵を京に連れ戻す」
◇◆◇◆◇
二人は海を渡って土佐藩に入った。
調べたところ、以蔵や武市半平太といった土佐勤皇党の面々はことごとく牢に囚われているとのことだった。
前藩主の山内容堂がその時々によって幕府と朝廷双方に色目を使う人物であった。今は藩内の尊攘派を抑え込もうとしている。
日が暮れて涼しげな虫の声が聞こえる。
二人は以蔵の家に潜んでいた。細長く数軒の家が並ぶ内の狭い一軒。
「この家の裏を流れる川を渡ってすぐに獄舎があるのだな」
「はい。その獄舎の牢に兄はおります」
新兵衛の問いに以蔵の弟、啓吉が答えた。家の奥では父と母が心配そうにこちらを見ている。
人斬り以蔵を生んだ家族は人の良さそうな者たちである。まだ生きているだけでも、新兵衛の家族よりはましかもしれない。
土佐勤皇党の面々は帯屋町の南会所にある牢屋に入れられている。次々に捕らわれて来る者たちのために、藩は急いで牢屋の増築をした。岡田家の対岸の山田獄舎もその一つ。
山田獄舎は以蔵のように身分が低い郷士たちが入れられていた。造りは粗末で、牢が六つあるだけと小さい。夜には詰所に獄吏が五人ほどしかいない。
――五人であればわしと彦斎でなんとかなるか。
新兵衛は顎を撫でながら考えを巡らせた。問題は如何に獄舎の中に入り込むか。
「武市さまから毒を盛った野菜を兄に送ってほしいと言われております」
「なぜじゃ。武市は以蔵の師であろう」
「兄はひどい拷問にあっております。武市さまは、このままでは兄が土佐勤皇党の所業をすべてしゃべってしまうと恐れているのです」
「さすれば山内容堂の思うつぼ。土佐藩に対する謀反と見なされて土佐勤皇党は死罪というところでしょう」
彦斎の推察は正しい。新兵衛の心の内に武市に対する怒りが湧いて来る。これまで散々、以蔵をいいように使ってきたではないか。以蔵は忠実に従ってきたにも関わらず、邪魔になったからといって毒殺するだと。
それが人斬りを生業とした者の末路なのか。
――いや、わしらはこんなところでは終わらん。
新兵衛は立ち上がって彦斎を見た。
「獄舎に押し入る方法はないか」
「良い考えがあります」
彦斎は美しい顔に妖しい笑みを浮かべた。
かねてより京の政治から遠ざけられていた尊王攘夷の急先鋒である長州藩の軍勢が京に進軍。幕府軍との戦端が開かれた。
池田屋の事件で新選組に藩士を殺されたことが、遂に長州藩に挙兵を決断させた。
いわゆる禁門の変である。
戦は一日で終わったが、京の町の火災は二十一日まで続いて、市中の家屋二万八千余戸が焼失した。
敗れた長州藩の軍勢は帰国して行った。
「無念です」
焼け残った町を見ながら、彦斎は肺腑を絞るような声を吐いた。
「仕方あるまい。長州だけで幕府を相手にしようというのが無理な話じゃ」
新兵衛は煤けて半ば崩れた家の中から、瓦礫を踏みつけながら明るい外に出た。焼けた家を物色してみても金目のものはない。
「今この国に必要なのは尊王攘夷の志であることが、なぜ幕府には分からぬのでしょう」
「さてねえ」
新兵衛は彦斎と付き合って行く中で、彦斎が人斬りというより尊攘派の志士であることが分かってきた。その志は苛烈というより、ある種の狂信的なものであった。
長州藩士とも付き合いが深く、この度の長州藩の敗北は尊攘派の敗北であり、悔やみきれないものがあるのだろう。
「わたしも長州の同志と共に戦うべきでした」
「おまえさんが一人加わったところで何も変わらんよ」
彦斎は黙り込む。
――人斬りの時代は終わるのか。
新兵衛は己の言葉に言い知れぬ不安を感じていた。まだ己の人生への復讐は始まってもいない。
◇◆◇◆◇
京の町の至る所で普請の音が鳴り響き、動き回る人足の姿を見るようになってきた。
新兵衛は料理屋の外に面した縁台に座って酒を飲んでいた。
彦斎は隣に座って行儀よくお茶を啜っている。茶坊主をしていたと聞いたが、たしかに彦斎の所作はどこか品が良い。
にぎやかな町の音に混じって大声で話す男の声が流れてくる。新兵衛がそちらに目を向けると、男が大きな身振り手振りでもう一人の武士と話をしている。
――あの男は。
新兵衛が記憶を辿ろうとすると、二人が話している内容が聞こえてきた。
「これからは武器じゃ。大きな戦に備えて長州も薩摩もどこぞの藩も武器を揃えようとする」
「また戦が起きるのか」
「それは分からん。戦が起きるかもしれぬという雑説(噂)を流すのじゃ。そして外国から買った武器を藩に売りつける」
「外国から」
「そうじゃ銃じゃ。これからはより新しい武器を持っている軍勢が勝つ時代になる」
「そのための船か」
「船で商いを始めるんじゃ。薩摩に武器を売る。より新しい武器を長州に売る。もっと新しい武器を幕府に売る」
「おぬしは賢いのう」
「これが新しい商いじゃ」
満足するまで話してから二人の武士は嬉しそうに店をあとにした。武器を売ると言っていた男は精悍な顔つきで癖のある髪の男であった。
――あの男、どこかで。
「坂本龍馬――」
彦斎の呟きのおかげで新兵衛の記憶がつながった。
「そうじゃ。あの男は坂本龍馬じゃ。彦斎、あいつを知っているのか」
「いえ。わたしも話に聞いて姿を見たことがあったくらいです。何せあらゆる藩や幕府にも顔がきく御仁のようですので」
「坂本の先ほどの話を聞いていたか」
「はい。船で武器の商いをするとか」
「そうじゃ。あれはとてつもない話じゃ」
新兵衛の勘が訴えかけてくる。いや、勘というより、幼い頃の密貿易船と金塊の記憶が呼び覚まされたという方が近い。
「坂本は恐ろしく大きな金を手に入れる男になる」
なんとか坂本龍馬に近づく方法はないか。彦斎に取り入ってもらうか。いや、何かちがう。他にもっと良いやり方があるはずだ。
「あっ」
新兵衛は思わず立ち上がっていた。
「田中さん」
「以蔵じゃ――」
坂本龍馬とは幼なじみだと以蔵は言っていた。
「土佐に行くぞ」
「え」
「岡田以蔵を京に連れ戻す」
◇◆◇◆◇
二人は海を渡って土佐藩に入った。
調べたところ、以蔵や武市半平太といった土佐勤皇党の面々はことごとく牢に囚われているとのことだった。
前藩主の山内容堂がその時々によって幕府と朝廷双方に色目を使う人物であった。今は藩内の尊攘派を抑え込もうとしている。
日が暮れて涼しげな虫の声が聞こえる。
二人は以蔵の家に潜んでいた。細長く数軒の家が並ぶ内の狭い一軒。
「この家の裏を流れる川を渡ってすぐに獄舎があるのだな」
「はい。その獄舎の牢に兄はおります」
新兵衛の問いに以蔵の弟、啓吉が答えた。家の奥では父と母が心配そうにこちらを見ている。
人斬り以蔵を生んだ家族は人の良さそうな者たちである。まだ生きているだけでも、新兵衛の家族よりはましかもしれない。
土佐勤皇党の面々は帯屋町の南会所にある牢屋に入れられている。次々に捕らわれて来る者たちのために、藩は急いで牢屋の増築をした。岡田家の対岸の山田獄舎もその一つ。
山田獄舎は以蔵のように身分が低い郷士たちが入れられていた。造りは粗末で、牢が六つあるだけと小さい。夜には詰所に獄吏が五人ほどしかいない。
――五人であればわしと彦斎でなんとかなるか。
新兵衛は顎を撫でながら考えを巡らせた。問題は如何に獄舎の中に入り込むか。
「武市さまから毒を盛った野菜を兄に送ってほしいと言われております」
「なぜじゃ。武市は以蔵の師であろう」
「兄はひどい拷問にあっております。武市さまは、このままでは兄が土佐勤皇党の所業をすべてしゃべってしまうと恐れているのです」
「さすれば山内容堂の思うつぼ。土佐藩に対する謀反と見なされて土佐勤皇党は死罪というところでしょう」
彦斎の推察は正しい。新兵衛の心の内に武市に対する怒りが湧いて来る。これまで散々、以蔵をいいように使ってきたではないか。以蔵は忠実に従ってきたにも関わらず、邪魔になったからといって毒殺するだと。
それが人斬りを生業とした者の末路なのか。
――いや、わしらはこんなところでは終わらん。
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