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亀裂
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三人は京に戻った。
以蔵は新兵衛が住み込んでいる長屋で寝込んでいた。町医者に治療をしてもらい、彦斎も甲斐甲斐しく以蔵の面倒を看た。そのおかげか、半月もすると以蔵は起き上がれるようになった。
ひと月が過ぎると、以蔵は庭で木刀を振り始めた。左足は元のようには治らず、びっこを引いてしか歩くことができなかった。
「岡田さん元気になって良かったですね」
彦斎は嬉しそうである。部屋の中から新兵衛と一緒に、庭で木刀を握る以蔵を眺めている。彦斎が以蔵にやけに懐いていることが訝しい気もするが。
「あいつは丈夫なのが取り柄だからな」
新兵衛の顔にも笑みが浮かぶ。
――早く坂本龍馬と以蔵を会わせなくてはな。
ようやく大金へ手が届きそうな兆しが新兵衛に見えてきた。
しかし、坂本龍馬は今は京にいないようである。
――慌てることはない。すべてはわしの思い通りに進んでいるんじゃ。
さらに半月が過ぎた。庭の木の葉が赤みがかってきていた。
以蔵は毎日のように庭で木刀を振っている。
その姿を見ている内に、新兵衛は次第に感情の昂りを感じ始めていた。
気が付いた時には、木刀を持って庭に立っていた。
「どうじゃ。少し手合わせしてみるか」
以蔵は照れたように俯く。そしてぎこちなく首を縦に振った。
新兵衛は以蔵の前に立つ。構えも取らず無造作に木刀を垂らしたまま。
以蔵は下段に構えて左から横に振る。
新兵衛は片手で腰のあたりに来た刀を受けた。
刹那、右足を軸にして以蔵が左から右に回転した。
――早い。
木刀がぶつかる音が弾ける。
以蔵の打ち込みを、新兵衛は左の肩のあたりで受けた。木刀を持つ手に心地よい痺れを感じる。
――さすがは以蔵じゃ。
ここで以蔵はさらに反転した。先ほどよりもっと早く。まるで独楽のように。
また右から。今度は首のあたりに、目では追えないほどの早さの一撃。
新兵衛は反射的に刀を立てて受けのかたちを取る。
刀同士が合わさる寸前で、以蔵は刀を止めていた。
新兵衛の背中にひんやりとした汗が滲む。
「さすがは新兵衛さんだ。もう少し稽古をしないと元には戻らないかな」
はにかんだ笑みを浮かべて以蔵は背を向ける。
――恐ろしい奴じゃ。
新兵衛は改めて以蔵の天才的な剣技に驚愕した。
――いや、さらに強くなっているかもしれん。まさに剣鬼じゃ。
以蔵は片足が不自由になったことにより、新たな剣に開眼している。ふと、なぜか彦斎のことが頭に浮かんだ。彦斎は人を斬ることができない。だがもし、彦斎が人を斬ることに躊躇いがなくなったとき、あの恐るべき才はどこまで成長をするのか。
これまで新兵衛は以蔵にも彦斎にも剣で負けるとは思ってはいなかった。
しかし、二人はこれからまだ強くなって行くのではないか。
二人の人斬りはいずれ新兵衛を超えて行くのではないか。
この先、新兵衛が二人と対峙することがあったならば。
――わしはあの二人に勝てるのか。
新兵衛の心の内に初めて焦りのような感情が芽生え始めた。
◇◆◇◆◇
元治二年(一八六五)の年が明けて冬が終わろうとしていた。
三人は料理茶屋の座敷で軍鶏鍋をつついていた。
「彦斎。元気がないようじゃな」
新兵衛は湯気の向こうの彦斎の顔をうかがった。
以蔵は背を丸めて鍋を口に運びながら、上目遣いで二人の様子を見ている。
「長州が危ないようです」
幕府は禁門の変の責めを問い、長州藩に討伐軍を差し向けていた。
長州藩は大きな打撃を受けて、家老三人の首を差し出して恭順の意を示した。
だが、幕府は納得せず十万を超える兵で、再度長州に攻め入ろうとしているという。
対する長州の兵はわずかに三千五百であった。
「長州が滅びたら尊王攘夷の志は潰えてしまいます」
彦斎は熱心な尊攘派の志士である。長州藩士とも昵懇であった。
「行けばいい」
新兵衛は知らずに口から言葉が突いて出ていた。
言ってから考え始める。新兵衛はこれから坂本龍馬に会って懐に入り込まなければならない。そのためには坂本と幼なじみの以蔵が必要だ。
だが、彦斎はどうだ。とてつもない才を持ってはいるが、人を斬ることができない人斬りだ。彦斎がいなくなっても新兵衛が困ることはない。むしろ大金を手にした時に分け前が増えるではないか。
それより万が一、彦斎が新兵衛と相対することがあったらどうする。
――わしが彦斎に斬られる。
ならば、今ここで彦斎と別れておいた方が良いのではないか。
新兵衛の脳裏に濁った考えが蠢いていた。
「田中さん、ありがとうございます」
「え」
「わたしは長州に行きます。尊攘派の方たちと共に戦います」
「彦斎――」
以蔵は黙って彦斎を見つめていた。
「岡田さんもお達者で」
彦斎は美しい顔に優しい笑顔を浮かべた。
「おさらばです」
翌日。彦斎は長州へ発った。
以蔵は新兵衛が住み込んでいる長屋で寝込んでいた。町医者に治療をしてもらい、彦斎も甲斐甲斐しく以蔵の面倒を看た。そのおかげか、半月もすると以蔵は起き上がれるようになった。
ひと月が過ぎると、以蔵は庭で木刀を振り始めた。左足は元のようには治らず、びっこを引いてしか歩くことができなかった。
「岡田さん元気になって良かったですね」
彦斎は嬉しそうである。部屋の中から新兵衛と一緒に、庭で木刀を握る以蔵を眺めている。彦斎が以蔵にやけに懐いていることが訝しい気もするが。
「あいつは丈夫なのが取り柄だからな」
新兵衛の顔にも笑みが浮かぶ。
――早く坂本龍馬と以蔵を会わせなくてはな。
ようやく大金へ手が届きそうな兆しが新兵衛に見えてきた。
しかし、坂本龍馬は今は京にいないようである。
――慌てることはない。すべてはわしの思い通りに進んでいるんじゃ。
さらに半月が過ぎた。庭の木の葉が赤みがかってきていた。
以蔵は毎日のように庭で木刀を振っている。
その姿を見ている内に、新兵衛は次第に感情の昂りを感じ始めていた。
気が付いた時には、木刀を持って庭に立っていた。
「どうじゃ。少し手合わせしてみるか」
以蔵は照れたように俯く。そしてぎこちなく首を縦に振った。
新兵衛は以蔵の前に立つ。構えも取らず無造作に木刀を垂らしたまま。
以蔵は下段に構えて左から横に振る。
新兵衛は片手で腰のあたりに来た刀を受けた。
刹那、右足を軸にして以蔵が左から右に回転した。
――早い。
木刀がぶつかる音が弾ける。
以蔵の打ち込みを、新兵衛は左の肩のあたりで受けた。木刀を持つ手に心地よい痺れを感じる。
――さすがは以蔵じゃ。
ここで以蔵はさらに反転した。先ほどよりもっと早く。まるで独楽のように。
また右から。今度は首のあたりに、目では追えないほどの早さの一撃。
新兵衛は反射的に刀を立てて受けのかたちを取る。
刀同士が合わさる寸前で、以蔵は刀を止めていた。
新兵衛の背中にひんやりとした汗が滲む。
「さすがは新兵衛さんだ。もう少し稽古をしないと元には戻らないかな」
はにかんだ笑みを浮かべて以蔵は背を向ける。
――恐ろしい奴じゃ。
新兵衛は改めて以蔵の天才的な剣技に驚愕した。
――いや、さらに強くなっているかもしれん。まさに剣鬼じゃ。
以蔵は片足が不自由になったことにより、新たな剣に開眼している。ふと、なぜか彦斎のことが頭に浮かんだ。彦斎は人を斬ることができない。だがもし、彦斎が人を斬ることに躊躇いがなくなったとき、あの恐るべき才はどこまで成長をするのか。
これまで新兵衛は以蔵にも彦斎にも剣で負けるとは思ってはいなかった。
しかし、二人はこれからまだ強くなって行くのではないか。
二人の人斬りはいずれ新兵衛を超えて行くのではないか。
この先、新兵衛が二人と対峙することがあったならば。
――わしはあの二人に勝てるのか。
新兵衛の心の内に初めて焦りのような感情が芽生え始めた。
◇◆◇◆◇
元治二年(一八六五)の年が明けて冬が終わろうとしていた。
三人は料理茶屋の座敷で軍鶏鍋をつついていた。
「彦斎。元気がないようじゃな」
新兵衛は湯気の向こうの彦斎の顔をうかがった。
以蔵は背を丸めて鍋を口に運びながら、上目遣いで二人の様子を見ている。
「長州が危ないようです」
幕府は禁門の変の責めを問い、長州藩に討伐軍を差し向けていた。
長州藩は大きな打撃を受けて、家老三人の首を差し出して恭順の意を示した。
だが、幕府は納得せず十万を超える兵で、再度長州に攻め入ろうとしているという。
対する長州の兵はわずかに三千五百であった。
「長州が滅びたら尊王攘夷の志は潰えてしまいます」
彦斎は熱心な尊攘派の志士である。長州藩士とも昵懇であった。
「行けばいい」
新兵衛は知らずに口から言葉が突いて出ていた。
言ってから考え始める。新兵衛はこれから坂本龍馬に会って懐に入り込まなければならない。そのためには坂本と幼なじみの以蔵が必要だ。
だが、彦斎はどうだ。とてつもない才を持ってはいるが、人を斬ることができない人斬りだ。彦斎がいなくなっても新兵衛が困ることはない。むしろ大金を手にした時に分け前が増えるではないか。
それより万が一、彦斎が新兵衛と相対することがあったらどうする。
――わしが彦斎に斬られる。
ならば、今ここで彦斎と別れておいた方が良いのではないか。
新兵衛の脳裏に濁った考えが蠢いていた。
「田中さん、ありがとうございます」
「え」
「わたしは長州に行きます。尊攘派の方たちと共に戦います」
「彦斎――」
以蔵は黙って彦斎を見つめていた。
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「おさらばです」
翌日。彦斎は長州へ発った。
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