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朝の密談 ~降り積もる愛しさと澱~
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「元気お化け……」
「ん? 何か言ったか?」
ザックは既にシャワーを浴びて、ドレッサーの前で身だしなみを調えていた。いつも着ている洗いざらしの白シャツは胸の辺りまでボタンを開けている。長い足は黒いズボンと焦げ茶色の膝下まであるブーツに包まれていた。ザックは耳の後ろと両腕に香水を塗り込んでいた。ベルガモットの香り──ザックの香りだ。
時計を見たら朝の6時前だ。昨日遅い時間に抱き合ったのにザックに疲れた様子は微塵もない。
私はまだシャワーも浴びる事も出来ず、ベッドの上で起き上がりノロノロとシャツを着たところだった。体の至る所にザックと自分の残汁が見られる。
「疲れてない? 昨日だって凄く遅い時間に寝たのに」
今日も仕事で忙しいはずなのに、睡眠時間は3時間ぐらいだ。
しかし、ザックは鏡越しの私に向かって白い歯を見せて笑った。
「全く疲れてないさ。ナツミを抱いて幸せな上にスッキリ眠れたし。ほら俺の顔見ろよ、艶々!」
「うん。確かに艶々だね……」
昨日よりパワーアップしたザックがそこにいた。肌艶もよく健康そのものといった様子だった。
私は寝る時には身に付ける事がなかった寝巻き代わりのシャツ姿でベッドから立ち上がり、ベッドサイドに置いていたザックの剣を持ち上げた。思っていたよりも重たくてビックリする。
「お。手渡してくれるのか? いやぁ~照れるなぁ。俺達、新婚みたいだな」
「しっ! 新婚って。気が早いよ……もう。はい」
数多くの女性と朝を迎えているくせに何を言っているのだか。それでも私は照れながらザックに剣を手渡す。
「ありがとう。じゃぁ、行ってくるわ。今日は早目に戻れると思う」
ザックは軽々と剣を持ち上げると、ベルトの横についている金具に取り付け左脇に差した。
ガチャっと重厚な音を立てていた。
「うん。大変だと思うけど気をつけてね。でも、早目に帰ってきてもダンさんが厨房に入ってくれって言いそうだね」
仕事に行って帰って来ても更に店の手伝い。ザック達はかなり働きものだ。
「美味い飯が食えるんだから大した事ないさ。それよりも、もう1回今の言ってくれるか?」
「何を?」
「『大変だと思うけど──』って言うやつ」
ザックは私の頭の上にポコンと拳を落としてぐしゃっと髪を撫でた。
「ああ」
そんな事をもう一度言えばいいの?
私は撫でられる事により頭をぐらぐらさせながら頷いた。
「大変だと思うけど気をつけてね。行ってらっしゃいザック」
多分寝起きで綺麗な顔はしていないと思うけれど、ザックが気持ちよく出かけられる様に精一杯笑って背伸びをしてザックの頬にキスを落とした。
「クゥ~」
ザックはキスを受け取ると、背伸びをする私の腰に手を回して抱きよせた。それから、天に向かって瞳を閉じて口角を上げるとブルブル震える。そして堪らないと言わんばかりに唸る。
「ああ……やっぱり一緒にシャワーを浴びたかった。この間もそうだったけど朝に抱き合う事が出来ていないなんて」
そうだ、朝起きてから抱き合うのは重要だ! とザックは呟いていた。
「それじゃぁ遅刻するのでは……」
昨日も、その前の晩も、抱かれていたのにまだ抱き足りないと言うのだろうか。ザックの底なしの性欲に驚かされる。
「そうなんだよなぁ。軍で仕事するの辞めようかしら。このままジルに雇ってもらうとか。いいかもしれないわねぇ」
何故か女言葉で話しはじめるザックだ。少しおどけて見せているのだろう。
「もう。ジルに雇ってもらっても遅刻は厳禁だよ。ほら、頑張ってね。きっと皆ザックの事待っているよ」
そう言いながらも真面目に仕事をしている事はシンの話でよく分かるし、ミラやマリンからも仕事は真面目だと聞いている。
そして裏町の人々の様子から、ザックがとても有望視されている事が分かる。
「マジで仕事に行きたくなくなりそうだ。が、そこまで言われたら行くしかないな。じゃぁ、ナツミ──」
そう言って今度はザックが私の左頬にキスを落として耳元で囁いた。
つい先ほどまで、おどけて女言葉だったくせに。突然低くて息を吹きかける様に囁く。お腹に響く声だった。
「今晩は寸止めはなしな?」
そう言うとポコンと頭を叩いて部屋を出て行った。
私はその場でヘナヘナと座り込み、赤くなった顔を両手で挟む。
今晩もあれをするのかっ。それだけで顔が沸騰する程赤くなった。
部屋を出て長い廊下を歩く。『ジルの店』は建て増しをしたので複雑な廊下になっている。直線的な造りだが突然分かれ道が出来る。入る角を間違うと違う部屋に行ってしまう。
自由に使っていいと言われた部屋は、奥の角にあり初期に建てられた部屋の様だ。シンプルで狭い部屋だがむしろ、ナツミと寄り添えるから心地がいい。
「大変だと思うけれど気をつけてね。行ってらっしゃいザック」
行ってらっしゃいザック……
行ってらっしゃいザック……
「へへへ……」
女と朝を迎えて部屋から立ち去るのは、慣れている事なのに。
去る時に声をかけられる事があっても、
昨日は最高だった、とか。
行かないで、とか。
また来てほしい、とか。
今度いつ来るの、とか。
そういう言葉で縋られる事はよくあったけれども、何だよ! あれは。
魔法の言葉か。多分、今の俺ならかけられた魔法で空中を歩く事も出来るだろう。
自分としては清々しい爽やかな顔をして時間泊に通じる酒場のドアを開けたつもりだった。
「ザックか。おは──何だその朝っぱらか締まりのない顔……ニヤニヤしやがって。気持ち悪い」
ノアが長い足を投げ出す様に木製のカウンタースツールに腰をかけていた。いつもの様に黒い外套を纏っている。陸上部隊の奴らはこの外套をつけている。いつも思うが、暑くないのだろうか?
酒場の入り口付近の、通常は食事を配膳する場所で片肘をついて『ココ』を飲んでいた。
ドアから出てきたのが俺だと分かり声をかけてきたのに、言いかけた朝の挨拶を止めると、臭いものでも嗅いだ様な顔をした。
「そんなに締まりのない顔か? あれ、本当だ」
俺は歩きながら自分の頬を両手で挟む。あ、結構ニヤけている。いかん、いかん。慌ててマッサージをしてパンと両頬を叩いて締まりのある顔に戻した。
厨房の奥で朝から忙しなく動くダンの姿があった。
「ザックとシンは昨日帰って来るのが遅かったが、今朝は疲れが──そんな事はないな、元気そうな締まりのない顔だ」
飲み物は『ココ』でいいな? と聞かれたので、手を上げて返事する。
元気そうな締まりのない顔とはどんな顔なのだろう。まぁ、いいか。
ダンこそ昨日遅くまで仕込みをしていたはずなのに。睡眠は取れているのだろうか。いつも疑問に思う。
俺はノアの隣にある木製スツールに腰をかける。
「なぁ。昨日の夜中、随分とザックは喚いていた様に思うが。大丈夫なのかナツミは?」
座るなり、何故かナツミの事を心配して声をかけてくるノアだ。
何でお前がナツミの心配をするのだ。意味が分からない。
そもそも、『ジルの店』の時間泊の部屋は魔法陣が壁に埋め込まれているから防音になっているはずなのだが。
「何だノアは聞き耳を立てていたのか? やらしぃ~」
ナツミを気にする素振りに引っかかるものがあるが、俺はいつもの様におどけて見せた。
「馬鹿か。誰が聞き耳なんか立てるか。いくら防音があるって言っても凄い大声で叫ばれたら、聞こえる様な気がするんだよ。昨晩は男の声で、ザックとナツミの部屋から聞こえた気がしたんだ」
ノアはいつもの調子の俺を感じとり、気のせいだったかとひとり呟いた。
まぁ、言っている事は分かる。魔法陣が機能していても、度が過ぎた大声は隣の部屋に誰かいる事が悟られる。
ただし、ドアの鍵をかけ忘れると魔法陣がきちんと機能しないので、声は外に漏れ聞こえるのだけれどな。そういえば、前に鍵をかけ忘れたりしたことそう言えばあったなぁ~
しかし、ナツミの声は誰にも聞かせられないから、鍵のかけ忘れなんてとんでもないけれどな。うんうん。
「うんうんって、何を唸っているんだよ」
ノアが訝しげに俺を見ていた。
「俺、口に出していたか?」
「口に出していないけれども。腕を組んで頷くからだろうが」
「本当だ」
気が付くと腕を組んで唸っていた自分がいた。そこへダンがカウンターの前に『ココ』が入った白いカップを2つ差し出した。
「ダン。まさか、俺に2つも飲めと言うのか?」
そんなに寝ぼけてはいないが。『ココ』は食後の後味をスッキリさせるために飲むものだが、リキュールを入れなければ目が冴えるので朝に飲む事も多い。
「違う2人分だ。聞こえないか? 慌てた様な足音が」
ダンが黒光りする頭をひと撫でしてから、時間泊に続くドアを顎でしゃくって見せた。
「ああ、シンね」
言われてみればドタドタと慌てる足音がする。この走り方はシンだろう。
「はぁ、出口だ。迷ったぁ……」
ドアを開けての第一声がそれだった。どうやら出口に迷っていたらしい。
そうだな使っている部屋は1番奥で迷路の様なものだからな。慣れるまで時間がかかるかもしれない。
シンは朝の挨拶をしながら俺の隣に腰をかける。
背が俺達より比べると幾分か低いシンは、背の高いスツールに腰をかけるとつま先立ちになってしまう。これは、シンの足が短いわけではない。
「あ、ココだ。ダン、ありがとう。ザック隊長、そういえば夜中にナツミと喧嘩していました?」
「……何故シンまでそう言い出すんだ」
俺そんなに大声だったか?
まさかナツミ盛大に寸止めされ、挙げ句の果てに嫉妬にまみれて大声を上げた等とは絶対に口が裂けても言えない。
「じゃぁ、ノア隊長も聞こえたんですか?」
シンは俺を挟んだ隣のノアに声をかけた。
「ああ。ザックの怒鳴る声が聞こえた様な気がしたから、俺はてっきりナツミと喧嘩でもしたのかと思ったんだが」
ノアが再び首を傾げた。
「えぇ~そうだったかぁ?」
俺は出来るだけとぼけながらココの入ったカップに口をつけた。
やべぇ……俺、相当でかい声で叫んだのだな。
そこで意外な事をシンが口にする。
「だって、ミラから聞きましたよ。何でも他店の踊り子が6人も、ナツミに嫌味を言いに来たんでしょ? いやぁ、昨日だけで6人でしょ。改めてザック隊長の人気振りと言うか手の出した幅が広いって言うか……コホン、凄いですよね。だから昨晩はナツミに怒られて、責められて、で。ザック隊長が夜中に喧嘩しているとばかり。『そんな事は俺と付き合うと分かっていたはずだろう!』とか何とか言って──」
朝の酒場のフロアには俺達3人しか客はいないので、シンの俺の声真似をするのが響いた。
その言葉を聞いた途端俺は飲みかけのココを吹き出しそうになり無理矢理飲み込む。熱いココが喉を通って焼け付く様だ。
「グッ!」
「何!」
何故か俺の隣でノアが動揺した様に反応する。
俺は直ぐにシンに問いただしたかったが、喉を通る『ココ』が熱すぎて声が出ないドンドンと胸を叩いていると、ノアが俺の左肩を力一杯握りしめる。
「かはっ! 何だよ」
ようやく咽せながら声を上げる。
「それは本当か? ザック。それで喧嘩をして大声を上げたのか?」
お前は本当に最低だな、と続ける。
だから──何でノアがこれほどまでにナツミの事で食いついてくるのだ。いつもだったら、俺が女を泣かせる羽目になっても『またかよ。まぁ、俺も似た様なもんだから責められないがな』と決めてくるくせに。最低なのはお前も一緒だっただろう?
「俺はナツミと喧嘩していない……その話は今はじめて聞いたぞ」
俺はノアの手を振り払いながらようやく出た声で、出来るだけ冷静に呟く。
「本当か?」
ノアはまだ疑っている様だ。
「え? そうなんですか。2人共聞いていないんですか。俺はミラに昨日の夜帰って来るなり1時間近く聞かされましたけれども。入れ替わり立ち替わり踊り子が──あっ」
俺がシンに振り向いたらシンがまずいと口を慌ててつぐんだのが分かった。それぐらい俺の顔色が変わっていたからだろう。それと、無意識にギラリとシンを睨んでしまった。
更に、何故かノアが俺の隣でシンを同じ様に睨んでいた。
「……ココを俺に向かって吹き出さなかった事は褒めてやるから、落ち着け2人共。ナツミが他店の踊り子に嫌味を言われていたのは、俺も目撃したから知っている」
カウンターで低い声を上げたのはダンだった。
ダンが冷静に話すので俺は落ち着くためにもう1度『ココ』を口に含んだ。
クソ。完全に口の中と喉を火傷した。火傷に苛つくが、話を聞かない事には。
そう思って口を開いたのだが。
「で? 6人も女が来てナツミはどうなったんだ」
身を乗り出して先に口を開いたのは俺ではなくノアだった。まさか、取っ組み合いになったりとか──そんな事を口走る。
だから何でお前が先に口を開くんだよっ!
先を越された事に心の中で文句を呟く。
ノアもまるで自分の事の様に慌てている。
もしかして、ナツミに気があるのではないかと心配になる。その瞬間、マリンの事が頭を掠めた。
そういえば──ノアも知らないところでマリンが泣いている様だ、と言っていた事があったな。
もしかして、ノア自身、マリンとの関係で経験がある事で、現在進行形な話だと思っているのかもしれない。
踊り子ならば『ファルの宿屋通り』でマリンやミラと同じ様に働いている同業者のはず。
ファルの軍人や町の男達、あらゆる男達を相手に手練手管な踊り子達は、後腐れない女が多いし、俺自身気のある素振りは見せない様にして付き合ってきたはずなのに。俺の考えが甘かったか。
そんな事を考えていたが、いきなりダンはニヤッと笑った。
「ま、あれは、ナツミの武勇伝だろ。お前達に聞かせてやればいいのにな」
「「は?」」
俺とノアは一緒に首を傾げて見つめあう。
ダンとその場にいなかったはずなのに、事情通のシンから話を聞く事となった。
そして聞いた後、益々ナツミが愛おしくなったのは言うまでもない。
しかし、どうしてナツミは俺にその話をしてくれなかったのだろう──という疑問も胸に少し澱となっていった。
*ココ=エスプレッソの様な飲み物
「ん? 何か言ったか?」
ザックは既にシャワーを浴びて、ドレッサーの前で身だしなみを調えていた。いつも着ている洗いざらしの白シャツは胸の辺りまでボタンを開けている。長い足は黒いズボンと焦げ茶色の膝下まであるブーツに包まれていた。ザックは耳の後ろと両腕に香水を塗り込んでいた。ベルガモットの香り──ザックの香りだ。
時計を見たら朝の6時前だ。昨日遅い時間に抱き合ったのにザックに疲れた様子は微塵もない。
私はまだシャワーも浴びる事も出来ず、ベッドの上で起き上がりノロノロとシャツを着たところだった。体の至る所にザックと自分の残汁が見られる。
「疲れてない? 昨日だって凄く遅い時間に寝たのに」
今日も仕事で忙しいはずなのに、睡眠時間は3時間ぐらいだ。
しかし、ザックは鏡越しの私に向かって白い歯を見せて笑った。
「全く疲れてないさ。ナツミを抱いて幸せな上にスッキリ眠れたし。ほら俺の顔見ろよ、艶々!」
「うん。確かに艶々だね……」
昨日よりパワーアップしたザックがそこにいた。肌艶もよく健康そのものといった様子だった。
私は寝る時には身に付ける事がなかった寝巻き代わりのシャツ姿でベッドから立ち上がり、ベッドサイドに置いていたザックの剣を持ち上げた。思っていたよりも重たくてビックリする。
「お。手渡してくれるのか? いやぁ~照れるなぁ。俺達、新婚みたいだな」
「しっ! 新婚って。気が早いよ……もう。はい」
数多くの女性と朝を迎えているくせに何を言っているのだか。それでも私は照れながらザックに剣を手渡す。
「ありがとう。じゃぁ、行ってくるわ。今日は早目に戻れると思う」
ザックは軽々と剣を持ち上げると、ベルトの横についている金具に取り付け左脇に差した。
ガチャっと重厚な音を立てていた。
「うん。大変だと思うけど気をつけてね。でも、早目に帰ってきてもダンさんが厨房に入ってくれって言いそうだね」
仕事に行って帰って来ても更に店の手伝い。ザック達はかなり働きものだ。
「美味い飯が食えるんだから大した事ないさ。それよりも、もう1回今の言ってくれるか?」
「何を?」
「『大変だと思うけど──』って言うやつ」
ザックは私の頭の上にポコンと拳を落としてぐしゃっと髪を撫でた。
「ああ」
そんな事をもう一度言えばいいの?
私は撫でられる事により頭をぐらぐらさせながら頷いた。
「大変だと思うけど気をつけてね。行ってらっしゃいザック」
多分寝起きで綺麗な顔はしていないと思うけれど、ザックが気持ちよく出かけられる様に精一杯笑って背伸びをしてザックの頬にキスを落とした。
「クゥ~」
ザックはキスを受け取ると、背伸びをする私の腰に手を回して抱きよせた。それから、天に向かって瞳を閉じて口角を上げるとブルブル震える。そして堪らないと言わんばかりに唸る。
「ああ……やっぱり一緒にシャワーを浴びたかった。この間もそうだったけど朝に抱き合う事が出来ていないなんて」
そうだ、朝起きてから抱き合うのは重要だ! とザックは呟いていた。
「それじゃぁ遅刻するのでは……」
昨日も、その前の晩も、抱かれていたのにまだ抱き足りないと言うのだろうか。ザックの底なしの性欲に驚かされる。
「そうなんだよなぁ。軍で仕事するの辞めようかしら。このままジルに雇ってもらうとか。いいかもしれないわねぇ」
何故か女言葉で話しはじめるザックだ。少しおどけて見せているのだろう。
「もう。ジルに雇ってもらっても遅刻は厳禁だよ。ほら、頑張ってね。きっと皆ザックの事待っているよ」
そう言いながらも真面目に仕事をしている事はシンの話でよく分かるし、ミラやマリンからも仕事は真面目だと聞いている。
そして裏町の人々の様子から、ザックがとても有望視されている事が分かる。
「マジで仕事に行きたくなくなりそうだ。が、そこまで言われたら行くしかないな。じゃぁ、ナツミ──」
そう言って今度はザックが私の左頬にキスを落として耳元で囁いた。
つい先ほどまで、おどけて女言葉だったくせに。突然低くて息を吹きかける様に囁く。お腹に響く声だった。
「今晩は寸止めはなしな?」
そう言うとポコンと頭を叩いて部屋を出て行った。
私はその場でヘナヘナと座り込み、赤くなった顔を両手で挟む。
今晩もあれをするのかっ。それだけで顔が沸騰する程赤くなった。
部屋を出て長い廊下を歩く。『ジルの店』は建て増しをしたので複雑な廊下になっている。直線的な造りだが突然分かれ道が出来る。入る角を間違うと違う部屋に行ってしまう。
自由に使っていいと言われた部屋は、奥の角にあり初期に建てられた部屋の様だ。シンプルで狭い部屋だがむしろ、ナツミと寄り添えるから心地がいい。
「大変だと思うけれど気をつけてね。行ってらっしゃいザック」
行ってらっしゃいザック……
行ってらっしゃいザック……
「へへへ……」
女と朝を迎えて部屋から立ち去るのは、慣れている事なのに。
去る時に声をかけられる事があっても、
昨日は最高だった、とか。
行かないで、とか。
また来てほしい、とか。
今度いつ来るの、とか。
そういう言葉で縋られる事はよくあったけれども、何だよ! あれは。
魔法の言葉か。多分、今の俺ならかけられた魔法で空中を歩く事も出来るだろう。
自分としては清々しい爽やかな顔をして時間泊に通じる酒場のドアを開けたつもりだった。
「ザックか。おは──何だその朝っぱらか締まりのない顔……ニヤニヤしやがって。気持ち悪い」
ノアが長い足を投げ出す様に木製のカウンタースツールに腰をかけていた。いつもの様に黒い外套を纏っている。陸上部隊の奴らはこの外套をつけている。いつも思うが、暑くないのだろうか?
酒場の入り口付近の、通常は食事を配膳する場所で片肘をついて『ココ』を飲んでいた。
ドアから出てきたのが俺だと分かり声をかけてきたのに、言いかけた朝の挨拶を止めると、臭いものでも嗅いだ様な顔をした。
「そんなに締まりのない顔か? あれ、本当だ」
俺は歩きながら自分の頬を両手で挟む。あ、結構ニヤけている。いかん、いかん。慌ててマッサージをしてパンと両頬を叩いて締まりのある顔に戻した。
厨房の奥で朝から忙しなく動くダンの姿があった。
「ザックとシンは昨日帰って来るのが遅かったが、今朝は疲れが──そんな事はないな、元気そうな締まりのない顔だ」
飲み物は『ココ』でいいな? と聞かれたので、手を上げて返事する。
元気そうな締まりのない顔とはどんな顔なのだろう。まぁ、いいか。
ダンこそ昨日遅くまで仕込みをしていたはずなのに。睡眠は取れているのだろうか。いつも疑問に思う。
俺はノアの隣にある木製スツールに腰をかける。
「なぁ。昨日の夜中、随分とザックは喚いていた様に思うが。大丈夫なのかナツミは?」
座るなり、何故かナツミの事を心配して声をかけてくるノアだ。
何でお前がナツミの心配をするのだ。意味が分からない。
そもそも、『ジルの店』の時間泊の部屋は魔法陣が壁に埋め込まれているから防音になっているはずなのだが。
「何だノアは聞き耳を立てていたのか? やらしぃ~」
ナツミを気にする素振りに引っかかるものがあるが、俺はいつもの様におどけて見せた。
「馬鹿か。誰が聞き耳なんか立てるか。いくら防音があるって言っても凄い大声で叫ばれたら、聞こえる様な気がするんだよ。昨晩は男の声で、ザックとナツミの部屋から聞こえた気がしたんだ」
ノアはいつもの調子の俺を感じとり、気のせいだったかとひとり呟いた。
まぁ、言っている事は分かる。魔法陣が機能していても、度が過ぎた大声は隣の部屋に誰かいる事が悟られる。
ただし、ドアの鍵をかけ忘れると魔法陣がきちんと機能しないので、声は外に漏れ聞こえるのだけれどな。そういえば、前に鍵をかけ忘れたりしたことそう言えばあったなぁ~
しかし、ナツミの声は誰にも聞かせられないから、鍵のかけ忘れなんてとんでもないけれどな。うんうん。
「うんうんって、何を唸っているんだよ」
ノアが訝しげに俺を見ていた。
「俺、口に出していたか?」
「口に出していないけれども。腕を組んで頷くからだろうが」
「本当だ」
気が付くと腕を組んで唸っていた自分がいた。そこへダンがカウンターの前に『ココ』が入った白いカップを2つ差し出した。
「ダン。まさか、俺に2つも飲めと言うのか?」
そんなに寝ぼけてはいないが。『ココ』は食後の後味をスッキリさせるために飲むものだが、リキュールを入れなければ目が冴えるので朝に飲む事も多い。
「違う2人分だ。聞こえないか? 慌てた様な足音が」
ダンが黒光りする頭をひと撫でしてから、時間泊に続くドアを顎でしゃくって見せた。
「ああ、シンね」
言われてみればドタドタと慌てる足音がする。この走り方はシンだろう。
「はぁ、出口だ。迷ったぁ……」
ドアを開けての第一声がそれだった。どうやら出口に迷っていたらしい。
そうだな使っている部屋は1番奥で迷路の様なものだからな。慣れるまで時間がかかるかもしれない。
シンは朝の挨拶をしながら俺の隣に腰をかける。
背が俺達より比べると幾分か低いシンは、背の高いスツールに腰をかけるとつま先立ちになってしまう。これは、シンの足が短いわけではない。
「あ、ココだ。ダン、ありがとう。ザック隊長、そういえば夜中にナツミと喧嘩していました?」
「……何故シンまでそう言い出すんだ」
俺そんなに大声だったか?
まさかナツミ盛大に寸止めされ、挙げ句の果てに嫉妬にまみれて大声を上げた等とは絶対に口が裂けても言えない。
「じゃぁ、ノア隊長も聞こえたんですか?」
シンは俺を挟んだ隣のノアに声をかけた。
「ああ。ザックの怒鳴る声が聞こえた様な気がしたから、俺はてっきりナツミと喧嘩でもしたのかと思ったんだが」
ノアが再び首を傾げた。
「えぇ~そうだったかぁ?」
俺は出来るだけとぼけながらココの入ったカップに口をつけた。
やべぇ……俺、相当でかい声で叫んだのだな。
そこで意外な事をシンが口にする。
「だって、ミラから聞きましたよ。何でも他店の踊り子が6人も、ナツミに嫌味を言いに来たんでしょ? いやぁ、昨日だけで6人でしょ。改めてザック隊長の人気振りと言うか手の出した幅が広いって言うか……コホン、凄いですよね。だから昨晩はナツミに怒られて、責められて、で。ザック隊長が夜中に喧嘩しているとばかり。『そんな事は俺と付き合うと分かっていたはずだろう!』とか何とか言って──」
朝の酒場のフロアには俺達3人しか客はいないので、シンの俺の声真似をするのが響いた。
その言葉を聞いた途端俺は飲みかけのココを吹き出しそうになり無理矢理飲み込む。熱いココが喉を通って焼け付く様だ。
「グッ!」
「何!」
何故か俺の隣でノアが動揺した様に反応する。
俺は直ぐにシンに問いただしたかったが、喉を通る『ココ』が熱すぎて声が出ないドンドンと胸を叩いていると、ノアが俺の左肩を力一杯握りしめる。
「かはっ! 何だよ」
ようやく咽せながら声を上げる。
「それは本当か? ザック。それで喧嘩をして大声を上げたのか?」
お前は本当に最低だな、と続ける。
だから──何でノアがこれほどまでにナツミの事で食いついてくるのだ。いつもだったら、俺が女を泣かせる羽目になっても『またかよ。まぁ、俺も似た様なもんだから責められないがな』と決めてくるくせに。最低なのはお前も一緒だっただろう?
「俺はナツミと喧嘩していない……その話は今はじめて聞いたぞ」
俺はノアの手を振り払いながらようやく出た声で、出来るだけ冷静に呟く。
「本当か?」
ノアはまだ疑っている様だ。
「え? そうなんですか。2人共聞いていないんですか。俺はミラに昨日の夜帰って来るなり1時間近く聞かされましたけれども。入れ替わり立ち替わり踊り子が──あっ」
俺がシンに振り向いたらシンがまずいと口を慌ててつぐんだのが分かった。それぐらい俺の顔色が変わっていたからだろう。それと、無意識にギラリとシンを睨んでしまった。
更に、何故かノアが俺の隣でシンを同じ様に睨んでいた。
「……ココを俺に向かって吹き出さなかった事は褒めてやるから、落ち着け2人共。ナツミが他店の踊り子に嫌味を言われていたのは、俺も目撃したから知っている」
カウンターで低い声を上げたのはダンだった。
ダンが冷静に話すので俺は落ち着くためにもう1度『ココ』を口に含んだ。
クソ。完全に口の中と喉を火傷した。火傷に苛つくが、話を聞かない事には。
そう思って口を開いたのだが。
「で? 6人も女が来てナツミはどうなったんだ」
身を乗り出して先に口を開いたのは俺ではなくノアだった。まさか、取っ組み合いになったりとか──そんな事を口走る。
だから何でお前が先に口を開くんだよっ!
先を越された事に心の中で文句を呟く。
ノアもまるで自分の事の様に慌てている。
もしかして、ナツミに気があるのではないかと心配になる。その瞬間、マリンの事が頭を掠めた。
そういえば──ノアも知らないところでマリンが泣いている様だ、と言っていた事があったな。
もしかして、ノア自身、マリンとの関係で経験がある事で、現在進行形な話だと思っているのかもしれない。
踊り子ならば『ファルの宿屋通り』でマリンやミラと同じ様に働いている同業者のはず。
ファルの軍人や町の男達、あらゆる男達を相手に手練手管な踊り子達は、後腐れない女が多いし、俺自身気のある素振りは見せない様にして付き合ってきたはずなのに。俺の考えが甘かったか。
そんな事を考えていたが、いきなりダンはニヤッと笑った。
「ま、あれは、ナツミの武勇伝だろ。お前達に聞かせてやればいいのにな」
「「は?」」
俺とノアは一緒に首を傾げて見つめあう。
ダンとその場にいなかったはずなのに、事情通のシンから話を聞く事となった。
そして聞いた後、益々ナツミが愛おしくなったのは言うまでもない。
しかし、どうしてナツミは俺にその話をしてくれなかったのだろう──という疑問も胸に少し澱となっていった。
*ココ=エスプレッソの様な飲み物
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