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084 夢の中で ~ザックとマリン~
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ザックが時間泊の部屋に戻ると最初に目に入ったのはナツミの足の裏だった。
ナツミは部屋の灯りを落とす事もなく、掛け布団の上でうつ伏せになってベッドに沈んでいる。両手も脇に投げ出したままで、小さな寝息を立てていた。
そっと頭を撫でるとまだ髪の毛が濡れている。シャワーを浴びた後で倒れ込む様に眠ってしまったのが伺えた。
短いナツミの髪の毛は既に毛先の方が乾きはじめている。
「風邪をひくぞ……」
ザックは呟いて、ベッドの傍らに腰をおろす。ナツミの耳元の髪ときながら撫でる。何度も繰り返して撫でるがナツミは何の反応も示さない。
ザックは厨房のノアの言葉を思い出す。
──今日もゴミ捨てから中々帰ってこないと思ったら、フラついていたし。ザックもしかして毎晩毎晩抱き潰しているんじゃないだろうな──
最近連続でナツミを抱き続けてきたからなのか。
「疲れたか?」
ザックはポツリと呟く。反応のないナツミの頬を指でなぞってみる。
柔らかくて吸いつく様な感触の肌は、魅力的で溺れてしまう。
抱いても抱いても抱き足りない。だが、それがナツミの負担になっているのなら気をつけなければいけない。
そう思うのに、抱く度に溺れていく。止められない。繋がりたくて仕方がない。
セックスなんて誰とやっても同じだと思っていたのにな。
感じやすいとか、具合がいいとか色々あるけれども、そういう次元ではないのだよな。
他の女と比べている訳ではないのだが。体の相性が合ってしかも気持ちまで持っていかれている相手というのは、こんなにも溺れるものなのか。
この間ナツミが必死になって俺のを咥えて舐めてくれた姿が浮かぶ。
ナツミだって他の男に抱かれた事や愛撫をした事があるのだろう。
初めてナツミを抱いた時からそれは理解しているのだが。
なぁ、俺は何人目の男なんだ? もしかして他の男と比べる事はあるか?
俺の前を通り過ぎた少なからず好意を持ってくれた女達も、こんな風に考えたのだろうな。切なくて焦がれる思いがどんなものかなんて、三十前にして気がつく俺も馬鹿だよな。
「ナツミはさ、俺で満足しているか? 隣にいるのが俺で──」
俺でいいのか?
こんな馬鹿な質問素面だろうと酔っ払っていようと聞ける筈もなく。
ザックの言葉に反応したのかナツミがムニャムニャと口を動かした。
「ううん……まだまだ。泳げるよ……」
まだまだ、と言われて一瞬ヒヤリとするが、「泳げるよ」というひと言で違う事が分かった。ナツミは夢の中でも泳いでいるらしい。
「はは……夢の中ぐらいゆっくりしろよ」
ザックはナツミの髪の毛を撫でながら笑った。『ジルの店』で働いて、それから泳ぎを教えて、今度は奴隷商人を捕まえるための囮になろうっていうのだから。
囮か──
相手の奴隷商人は暴力的な横流し集団で、何人いて程度の動きをしているのか全く分かっていない。
もしかすると、この奴隷商人はいかにもと言う風貌ではないのかもしれない。
つまり暴力的な奴隷商人らしく見えない。だから中々捕まえられないのかもしれない。
そう仮定すると、心当たりのある男が一人いた。
確かザックが二十歳前だった頃の、軍学校に入る数年前の出来事だ。
『ファルの町』に数か月滞在していた事がある旅の踊り子集団がいた。旅をしながら踊りを披露し、金を稼ぐ踊り子の集団は珍しくはない。
その集団の中に優男風の踊り子がいた。年はザックより少し上の男だった。
非常に顔立ちが整っていて甘い言葉を投げかける男だった。町であっという間に人気になるが、裏ではかなり悪さをする男だった。実はたどり着いた町々で裏の商売をしていたのだ。
同じ集団の踊り子を使い男女問わず体を売らせていたり、媚薬と称してかなり中毒性のある薬をばらまいてみたりと、かなり悪質だった。
しかも悪事がバレる前に違う町へ移っていった。
ザックはふとマリンの顔が浮かんだ。
「……」
ザックはナツミの頬を撫でる手を止める。
その優男風の踊り子がいた踊り子集団に当時十五歳前後だったマリンがいた事は、ファルの町と言えどもザックぐらいしか知らない事だろう。
やはりノアとナツミにはあの事はきちんと話しておくべきだろう。
その優男の関係でザックはマリンと知り合って、体の関係があった話を。
先日の話ではノアは既にマリンとザックの体の関係があった事を知っていた。
しかし、どうしてそうなったのか、再会してもマリンとお互い知らない振りをした理由は、ノアも知らないだろう。
ナツミはどうだろう。俺とマリンに体の関係があったと知ったら、どんな反応をするだろう。ノアですら苦しんだ様子だったのに。
散々他の女と関係があり、店に乗り込んできて文句を言われる身のナツミだ、間違いなく嫌な気持ちになるに違いない。そうではなくてもマリンとは仲がいい様だし。
最低だな俺は。昔の事とはいえ、ナツミがどんな反応を示すのか今更怯える事になるとは。
だが、今回の奴隷商人が、あの優男風の踊り子ならば危険だ。
「……必ず守るさ。守ってみせる」
ザックはそう呟いてナツミの頬に優しくキスを落とした。するとナツミはピクリと反応した。
「うん……でも、海に行きたい」
ナツミは寝言で寂しそうに呟くと、猫の様に丸くなった。
「海か」
ザックは呟いてナツミの下になっている上布団を引き抜くと丸くなったナツミに掛けた。
ナツミがフラついたというゴミ捨て場は細い路地となっている。そこから海が見える。
泳ぐ事が大好きなナツミの事だ。海に思いを馳せていたのかもしれない。
ファルの町に出て行くのは色々危険な事もあるが──ナツミは閉じ込めておける様な女ではないよな。
それなのに俺は閉じ込めておきたいと思う。誰の目にも晒したくない危険な目に合わせたくない。
だが、ナツミはカイ大隊長にも話していた様に海に行きたいのだろう。
先程去っていくノアの後ろ姿を見つめながら、マリンも変わらないとヤバイと思っていたが、本当に変わらないといけないのは俺自身かもしれない。
「そうだよな俺こそ覚悟を決めなきゃな。叶えてやるさナツミの希望を──」
そうザックは呟いてもう一度ナツミの頬にキスを落とした。
「もっと泳ぎたかったのに……」
気がつくといつもの白いシャツに黒いハーフパンツを穿いて私は長い廊下に立っていた。薄暗くてまっすぐにしか進めない廊下。
ああ、嫌な予感。
これって例のお姉ちゃんである春見の部屋にたどり着く夢だ。
夢なら先ほどの泳いでいる夢に戻して欲しい。
先ほどまでノアの別荘にある中庭の溜め池で、ノアに水泳を教えていた。
私はミラに作ってもらった白い水着を着ていた。
ノアは泳げる様になっていて、これ以上教える事はない免許皆伝だね等と笑っていたのに。
「ナツミのお陰だ。ありがとう」
ノアは王子様スマイルを浮かべて笑った。
おお、眩しすぎる。白い歯がキラリと光り親指を立てる。
うーん、何だろうこの作った様なノアは。
「私はお手伝いしただけだよ。泳げる様になったのはノアが頑張ったからだよ」
「しかし、まだ泳ぎ足りないな。海に行けるといいが今日は無理だな」
「え~そんなぁ」
「ナツミ、空を見ろ。今にも雨が降りそうだ」
そう言ってノアは空を指差した。先程まで晴れていたのに気がつくと黒い雨雲で空は埋めつくされている。
「うん……でも、海に行きたい」
私はそんな空を見上げながら、駄々をこねてみる。
駄々をこねるのも、これが夢だって言う事に気づいているからなのかな。
何となくノアに対して文句を言う。
そもそも、ザックにマリン、ミラにシンは何処にいるの?
何故いつもの皆がいないの。何故ノアだけなのだろう。
ノアしか登場しないのは、倉庫裏でザックに抱かれていたのを見られそうだったからかな。彼に見つからなくてよかったと安堵した事から登場しているのかも。
すると、ノアが突然私のほっぺたにキスをしてきた。
私は驚いて飛び退いた。そうして、飛び退いた途端場面が反転して、今に至る。
元々夢だって言うのは分かっていたけれどさ。
どうして、例のお姉ちゃんの部屋に続く夢なのだろう。
「あれ? 何だまだいたのか。さっさと歩けよ」
気がつくと先ほど水泳を教えていたノアが意地悪な顔をして私の背中を押した。先ほどまでは王子様スマイルだったのに、今度は悪戯っ子の様な顔をする。
突然キスをしてきたりと何だかチグハグだ。
「はいはい。歩きますよ。歩いてドアを開ければいいんでしょ?」
私は諦めて歩き出す。時間泊の部屋に続く廊下と似ている。
この夢は、お姉ちゃんの部屋に通じるドアを開けて、そこで繰り広げられる物語を見ない事には醒める事が出来ないのだ。
先日はお姉ちゃんが元カレの秋を誘ったという話だった。
夢だと思いたいが、私が日本からいなくなっての話ので、私の深層が作り上げた物語にしては意外なものだった。
「あ」
気がつくと突き当たりに到着した。
突き当たりのドアの横には小さなテーブルに、白いスリムな花瓶が置かれている。
パッと花瓶にピンスポットが当たる。黄色い薔薇が一本活けてある。この薔薇の香りはいつもマリンから漂ってくる香りだ。
ノアの移り香。
ノアから直接嗅ぐ香りとは少し違う。ノアとマリンの体臭が混ざり合って複雑な香りがする。
「本当にそのドアを開けるのか?」
私の後ろをずっとついてきたノアが、突然低い声で呟いた。ノアは活けられている黄色い薔薇を無表情で見つめている。
「前も言ったと思うけれども。どんなに辛い現実が待っていてもザックがいるから大丈夫だよ」
私は胸元のザックから貰ったネックレスを握りしめて答える。
ノアは私の返事を聞いて、活けられていた黄色い薔薇を花瓶から取り上げた。
「ナツミは強いな。俺には耐えられない」
「え?」
何故かノアが苦しそうに手に取った黄色い薔薇を見つめていた。
すると、目の前のドアがゆっくりと開いた。
薄暗い部屋の中に二人の姿がぼんやりと浮かび上がる。
そこには、お姉ちゃんの春見と秋がきつく抱き合って濃厚なキスを交わしていた。
艶めかしい事にお姉ちゃんは薄ピンクのベビードールに身を包んでいた。透ける生地に白い肌が見える。秋も黒いボクサータイプのブリーフを穿いているだけで上半身裸だ。
ああ。またか。私は呆れて溜め息をついた。
しかし、もう悩まされない。私は二人の勝手だった恋愛に振り回されたりしない。
「私はもう前に進むよ。辛かった事は忘れられないけれども」
これは反面教師だ。こんな事は他の誰かにしてはいけない。
お姉ちゃんと秋に尋ねたい事があるとしたら、何故私との関係を続けながら二人は付き合おうとしたのかという事だろうか。
お姉ちゃんはそれ程まで秋が好きだったのか?
秋はそれ程まで姉に溺れたのに、私との関係を切れなかったのか?
そう思って私は俯き呟いた。
「知りたいけれども仕方ないよね。ファルの町で私は生きている。だから、お姉ちゃん秋。さようなら」
そう告げた時、後ろでノアが低い声で笑った。
「何を言っているんだナツミ」
「え?」
振り向くとノアが黄色い薔薇を握りつぶしていた。前髪の向こうで影になったアイスブルーの瞳が凍りつく様な視線を投げている。
「よく見ろよ。あの二人はお前の姉でも元カレでもないだろ?」
そう言って薔薇の花を握りつぶした手で、ドアの向こうを指差した。
もう一度薄暗い部屋を見ると、そこにはお姉ちゃんと秋の姿はなかった。
かわりに──
「え?」
私は目を見開いて息を呑んだ。サーッと血の気がひく。
ノアに指差された向こうには、上半身裸で抱き合いながら激しくキスをするザックとマリンがいた。
「ザック。もっと」
「ああ。マリン」
そう言いながら激しくキスを交わす。二人は派手に音を立てながらお互いの唇を舌を吸いあげる。二人は私に気がついて、一度動きを止める。ザックとマリンは無表情で私を見つめる。
「あ、あ……ああ」
私はガタガタと震えて口を開けて声を上げる。
震える私を見つめてから、ザックはニヤリと笑うと、私から視線を逸らさないままもう一度マリンを抱き寄せる。マリンの豊満な白い胸がザックの体に押しつけられる。マリンは愛おしそうにザックを見上げてもう一度キスを強請った。それからザックは残酷な事に私と視線を交わしたままマリンにキスをしはじめた。
何? 何なのこれは
胃から食べたものが全てこみあげてくる感じがする。
足が震えて立っていられない。
早く、早く、夢なんでしょ醒めてよ!
逸らしたいのに視線も逸らせず、声も出せずに立ちつくす私を、後ろから抱きしめるのはノアだった。
「黒いフードの女も言っていただろう? ザックはマリンを抱いた事があるんだぜ?」
耳元で息を吹きかける様に呟く。
「や、止めて!」
急に抱きしめられて私は藻掻いた。ノアの抱きしめた手は私の体を這う様に滑っていく。その動きから逃れたくて私は体をよじって後ろを振り向く。
振り向いた先にノアがいると思ったのに、抱きしめていたのは秋だった。
「ヒッ!」
元カレの秋は先ほどまでお姉ちゃんとキスシーンを繰り広げていたのに何故?
「何で」
恐怖で私の声は更に震えた。
「夏見も裏切られたのか? 俺もやっぱり春見とは駄目だった。あいつまた別の男に乗り換えたんだぜ。酷いよなぁ。なぁ、やっぱり俺には夏見しかいない。もう一度付き合おうぜ俺と」
そう言って秋は私とキスをしようとした。
「秋やめて、嫌だよっ。助けてザック!」
そう叫んで私は飛び起きた。大きく肩で息をする。
壁伝いにぼんやりと灯りが灯っている。
そこはザックと一緒に過ごしている時間泊の部屋だ。
カチカチとベッドサイドに置いてある時計が時を刻んでいる音が聞こえる。
それと私の心臓が大きく音を立てている。
「夢……」
何て嫌な夢。私は顎の下に垂れるぐらい汗をかいていた。
今度はザックとマリンのあんな夢を見るなんて。
現実のザックは私の隣で静かに眠っていた。
その姿を見てから、私は自分の顔を覆ってベッドの上で俯いた。
どうして……見るなら、もっと楽しい夢を見せてくれないの。
折角お姉ちゃんと秋の悪夢から解放されると思ったのに。
「ナツミ? どうした、まだ朝日も昇ってないぜ」
気がつくと私の隣で眠っていたザックがノロノロと起き上がって私の肩を抱きしめてくれた。少し寝ぼけている様だ。首の後ろで伸ばしている長めの金髪が寝癖で撥ねていた。
ザックは上半身裸で私は彼の体温をじかに感じる事が出来た。
私は現実のザックに触れる事が出来て溜め息をつく。
「怖い夢を見たの」
「怖い夢? そうか。ほら、こっちへ来い。抱きしめて眠ってやるさ」
そう言うとザックは私の体を抱きしめるとそのままベッドに横たえた。
「震えているし、汗で濡れている。そんなに怖かったのか? 何か助けてって叫んでいたぞ」
ザックが耳元で囁きながら私の背中をあやす様に叩いてくれた。
「うん……怖かった。お願いこうしていて」
私はザックに抱きついて彼の心臓の音を聞いた。ああ、これなら落ち着く。
強烈なキスシーンは夢の中の出来事だ。早く忘れなくては。
だって、私はザックを信じている。
「やっぱり疲れてるのかな? 悪かったな……」
ポンポンとザックがリズムよく私の背中を叩いてくれる。
大きな温かい手がシャツ越しとはいえ背中に触れる度に安心する。
私は再び眠りに落ちていく事が出来た。
「ナツミ……なぁ、シュウって誰なんだ?」
意識が落ちていく中、ザックがポツリと呟いた声が聞こえた様な気がした。
ナツミは部屋の灯りを落とす事もなく、掛け布団の上でうつ伏せになってベッドに沈んでいる。両手も脇に投げ出したままで、小さな寝息を立てていた。
そっと頭を撫でるとまだ髪の毛が濡れている。シャワーを浴びた後で倒れ込む様に眠ってしまったのが伺えた。
短いナツミの髪の毛は既に毛先の方が乾きはじめている。
「風邪をひくぞ……」
ザックは呟いて、ベッドの傍らに腰をおろす。ナツミの耳元の髪ときながら撫でる。何度も繰り返して撫でるがナツミは何の反応も示さない。
ザックは厨房のノアの言葉を思い出す。
──今日もゴミ捨てから中々帰ってこないと思ったら、フラついていたし。ザックもしかして毎晩毎晩抱き潰しているんじゃないだろうな──
最近連続でナツミを抱き続けてきたからなのか。
「疲れたか?」
ザックはポツリと呟く。反応のないナツミの頬を指でなぞってみる。
柔らかくて吸いつく様な感触の肌は、魅力的で溺れてしまう。
抱いても抱いても抱き足りない。だが、それがナツミの負担になっているのなら気をつけなければいけない。
そう思うのに、抱く度に溺れていく。止められない。繋がりたくて仕方がない。
セックスなんて誰とやっても同じだと思っていたのにな。
感じやすいとか、具合がいいとか色々あるけれども、そういう次元ではないのだよな。
他の女と比べている訳ではないのだが。体の相性が合ってしかも気持ちまで持っていかれている相手というのは、こんなにも溺れるものなのか。
この間ナツミが必死になって俺のを咥えて舐めてくれた姿が浮かぶ。
ナツミだって他の男に抱かれた事や愛撫をした事があるのだろう。
初めてナツミを抱いた時からそれは理解しているのだが。
なぁ、俺は何人目の男なんだ? もしかして他の男と比べる事はあるか?
俺の前を通り過ぎた少なからず好意を持ってくれた女達も、こんな風に考えたのだろうな。切なくて焦がれる思いがどんなものかなんて、三十前にして気がつく俺も馬鹿だよな。
「ナツミはさ、俺で満足しているか? 隣にいるのが俺で──」
俺でいいのか?
こんな馬鹿な質問素面だろうと酔っ払っていようと聞ける筈もなく。
ザックの言葉に反応したのかナツミがムニャムニャと口を動かした。
「ううん……まだまだ。泳げるよ……」
まだまだ、と言われて一瞬ヒヤリとするが、「泳げるよ」というひと言で違う事が分かった。ナツミは夢の中でも泳いでいるらしい。
「はは……夢の中ぐらいゆっくりしろよ」
ザックはナツミの髪の毛を撫でながら笑った。『ジルの店』で働いて、それから泳ぎを教えて、今度は奴隷商人を捕まえるための囮になろうっていうのだから。
囮か──
相手の奴隷商人は暴力的な横流し集団で、何人いて程度の動きをしているのか全く分かっていない。
もしかすると、この奴隷商人はいかにもと言う風貌ではないのかもしれない。
つまり暴力的な奴隷商人らしく見えない。だから中々捕まえられないのかもしれない。
そう仮定すると、心当たりのある男が一人いた。
確かザックが二十歳前だった頃の、軍学校に入る数年前の出来事だ。
『ファルの町』に数か月滞在していた事がある旅の踊り子集団がいた。旅をしながら踊りを披露し、金を稼ぐ踊り子の集団は珍しくはない。
その集団の中に優男風の踊り子がいた。年はザックより少し上の男だった。
非常に顔立ちが整っていて甘い言葉を投げかける男だった。町であっという間に人気になるが、裏ではかなり悪さをする男だった。実はたどり着いた町々で裏の商売をしていたのだ。
同じ集団の踊り子を使い男女問わず体を売らせていたり、媚薬と称してかなり中毒性のある薬をばらまいてみたりと、かなり悪質だった。
しかも悪事がバレる前に違う町へ移っていった。
ザックはふとマリンの顔が浮かんだ。
「……」
ザックはナツミの頬を撫でる手を止める。
その優男風の踊り子がいた踊り子集団に当時十五歳前後だったマリンがいた事は、ファルの町と言えどもザックぐらいしか知らない事だろう。
やはりノアとナツミにはあの事はきちんと話しておくべきだろう。
その優男の関係でザックはマリンと知り合って、体の関係があった話を。
先日の話ではノアは既にマリンとザックの体の関係があった事を知っていた。
しかし、どうしてそうなったのか、再会してもマリンとお互い知らない振りをした理由は、ノアも知らないだろう。
ナツミはどうだろう。俺とマリンに体の関係があったと知ったら、どんな反応をするだろう。ノアですら苦しんだ様子だったのに。
散々他の女と関係があり、店に乗り込んできて文句を言われる身のナツミだ、間違いなく嫌な気持ちになるに違いない。そうではなくてもマリンとは仲がいい様だし。
最低だな俺は。昔の事とはいえ、ナツミがどんな反応を示すのか今更怯える事になるとは。
だが、今回の奴隷商人が、あの優男風の踊り子ならば危険だ。
「……必ず守るさ。守ってみせる」
ザックはそう呟いてナツミの頬に優しくキスを落とした。するとナツミはピクリと反応した。
「うん……でも、海に行きたい」
ナツミは寝言で寂しそうに呟くと、猫の様に丸くなった。
「海か」
ザックは呟いてナツミの下になっている上布団を引き抜くと丸くなったナツミに掛けた。
ナツミがフラついたというゴミ捨て場は細い路地となっている。そこから海が見える。
泳ぐ事が大好きなナツミの事だ。海に思いを馳せていたのかもしれない。
ファルの町に出て行くのは色々危険な事もあるが──ナツミは閉じ込めておける様な女ではないよな。
それなのに俺は閉じ込めておきたいと思う。誰の目にも晒したくない危険な目に合わせたくない。
だが、ナツミはカイ大隊長にも話していた様に海に行きたいのだろう。
先程去っていくノアの後ろ姿を見つめながら、マリンも変わらないとヤバイと思っていたが、本当に変わらないといけないのは俺自身かもしれない。
「そうだよな俺こそ覚悟を決めなきゃな。叶えてやるさナツミの希望を──」
そうザックは呟いてもう一度ナツミの頬にキスを落とした。
「もっと泳ぎたかったのに……」
気がつくといつもの白いシャツに黒いハーフパンツを穿いて私は長い廊下に立っていた。薄暗くてまっすぐにしか進めない廊下。
ああ、嫌な予感。
これって例のお姉ちゃんである春見の部屋にたどり着く夢だ。
夢なら先ほどの泳いでいる夢に戻して欲しい。
先ほどまでノアの別荘にある中庭の溜め池で、ノアに水泳を教えていた。
私はミラに作ってもらった白い水着を着ていた。
ノアは泳げる様になっていて、これ以上教える事はない免許皆伝だね等と笑っていたのに。
「ナツミのお陰だ。ありがとう」
ノアは王子様スマイルを浮かべて笑った。
おお、眩しすぎる。白い歯がキラリと光り親指を立てる。
うーん、何だろうこの作った様なノアは。
「私はお手伝いしただけだよ。泳げる様になったのはノアが頑張ったからだよ」
「しかし、まだ泳ぎ足りないな。海に行けるといいが今日は無理だな」
「え~そんなぁ」
「ナツミ、空を見ろ。今にも雨が降りそうだ」
そう言ってノアは空を指差した。先程まで晴れていたのに気がつくと黒い雨雲で空は埋めつくされている。
「うん……でも、海に行きたい」
私はそんな空を見上げながら、駄々をこねてみる。
駄々をこねるのも、これが夢だって言う事に気づいているからなのかな。
何となくノアに対して文句を言う。
そもそも、ザックにマリン、ミラにシンは何処にいるの?
何故いつもの皆がいないの。何故ノアだけなのだろう。
ノアしか登場しないのは、倉庫裏でザックに抱かれていたのを見られそうだったからかな。彼に見つからなくてよかったと安堵した事から登場しているのかも。
すると、ノアが突然私のほっぺたにキスをしてきた。
私は驚いて飛び退いた。そうして、飛び退いた途端場面が反転して、今に至る。
元々夢だって言うのは分かっていたけれどさ。
どうして、例のお姉ちゃんの部屋に続く夢なのだろう。
「あれ? 何だまだいたのか。さっさと歩けよ」
気がつくと先ほど水泳を教えていたノアが意地悪な顔をして私の背中を押した。先ほどまでは王子様スマイルだったのに、今度は悪戯っ子の様な顔をする。
突然キスをしてきたりと何だかチグハグだ。
「はいはい。歩きますよ。歩いてドアを開ければいいんでしょ?」
私は諦めて歩き出す。時間泊の部屋に続く廊下と似ている。
この夢は、お姉ちゃんの部屋に通じるドアを開けて、そこで繰り広げられる物語を見ない事には醒める事が出来ないのだ。
先日はお姉ちゃんが元カレの秋を誘ったという話だった。
夢だと思いたいが、私が日本からいなくなっての話ので、私の深層が作り上げた物語にしては意外なものだった。
「あ」
気がつくと突き当たりに到着した。
突き当たりのドアの横には小さなテーブルに、白いスリムな花瓶が置かれている。
パッと花瓶にピンスポットが当たる。黄色い薔薇が一本活けてある。この薔薇の香りはいつもマリンから漂ってくる香りだ。
ノアの移り香。
ノアから直接嗅ぐ香りとは少し違う。ノアとマリンの体臭が混ざり合って複雑な香りがする。
「本当にそのドアを開けるのか?」
私の後ろをずっとついてきたノアが、突然低い声で呟いた。ノアは活けられている黄色い薔薇を無表情で見つめている。
「前も言ったと思うけれども。どんなに辛い現実が待っていてもザックがいるから大丈夫だよ」
私は胸元のザックから貰ったネックレスを握りしめて答える。
ノアは私の返事を聞いて、活けられていた黄色い薔薇を花瓶から取り上げた。
「ナツミは強いな。俺には耐えられない」
「え?」
何故かノアが苦しそうに手に取った黄色い薔薇を見つめていた。
すると、目の前のドアがゆっくりと開いた。
薄暗い部屋の中に二人の姿がぼんやりと浮かび上がる。
そこには、お姉ちゃんの春見と秋がきつく抱き合って濃厚なキスを交わしていた。
艶めかしい事にお姉ちゃんは薄ピンクのベビードールに身を包んでいた。透ける生地に白い肌が見える。秋も黒いボクサータイプのブリーフを穿いているだけで上半身裸だ。
ああ。またか。私は呆れて溜め息をついた。
しかし、もう悩まされない。私は二人の勝手だった恋愛に振り回されたりしない。
「私はもう前に進むよ。辛かった事は忘れられないけれども」
これは反面教師だ。こんな事は他の誰かにしてはいけない。
お姉ちゃんと秋に尋ねたい事があるとしたら、何故私との関係を続けながら二人は付き合おうとしたのかという事だろうか。
お姉ちゃんはそれ程まで秋が好きだったのか?
秋はそれ程まで姉に溺れたのに、私との関係を切れなかったのか?
そう思って私は俯き呟いた。
「知りたいけれども仕方ないよね。ファルの町で私は生きている。だから、お姉ちゃん秋。さようなら」
そう告げた時、後ろでノアが低い声で笑った。
「何を言っているんだナツミ」
「え?」
振り向くとノアが黄色い薔薇を握りつぶしていた。前髪の向こうで影になったアイスブルーの瞳が凍りつく様な視線を投げている。
「よく見ろよ。あの二人はお前の姉でも元カレでもないだろ?」
そう言って薔薇の花を握りつぶした手で、ドアの向こうを指差した。
もう一度薄暗い部屋を見ると、そこにはお姉ちゃんと秋の姿はなかった。
かわりに──
「え?」
私は目を見開いて息を呑んだ。サーッと血の気がひく。
ノアに指差された向こうには、上半身裸で抱き合いながら激しくキスをするザックとマリンがいた。
「ザック。もっと」
「ああ。マリン」
そう言いながら激しくキスを交わす。二人は派手に音を立てながらお互いの唇を舌を吸いあげる。二人は私に気がついて、一度動きを止める。ザックとマリンは無表情で私を見つめる。
「あ、あ……ああ」
私はガタガタと震えて口を開けて声を上げる。
震える私を見つめてから、ザックはニヤリと笑うと、私から視線を逸らさないままもう一度マリンを抱き寄せる。マリンの豊満な白い胸がザックの体に押しつけられる。マリンは愛おしそうにザックを見上げてもう一度キスを強請った。それからザックは残酷な事に私と視線を交わしたままマリンにキスをしはじめた。
何? 何なのこれは
胃から食べたものが全てこみあげてくる感じがする。
足が震えて立っていられない。
早く、早く、夢なんでしょ醒めてよ!
逸らしたいのに視線も逸らせず、声も出せずに立ちつくす私を、後ろから抱きしめるのはノアだった。
「黒いフードの女も言っていただろう? ザックはマリンを抱いた事があるんだぜ?」
耳元で息を吹きかける様に呟く。
「や、止めて!」
急に抱きしめられて私は藻掻いた。ノアの抱きしめた手は私の体を這う様に滑っていく。その動きから逃れたくて私は体をよじって後ろを振り向く。
振り向いた先にノアがいると思ったのに、抱きしめていたのは秋だった。
「ヒッ!」
元カレの秋は先ほどまでお姉ちゃんとキスシーンを繰り広げていたのに何故?
「何で」
恐怖で私の声は更に震えた。
「夏見も裏切られたのか? 俺もやっぱり春見とは駄目だった。あいつまた別の男に乗り換えたんだぜ。酷いよなぁ。なぁ、やっぱり俺には夏見しかいない。もう一度付き合おうぜ俺と」
そう言って秋は私とキスをしようとした。
「秋やめて、嫌だよっ。助けてザック!」
そう叫んで私は飛び起きた。大きく肩で息をする。
壁伝いにぼんやりと灯りが灯っている。
そこはザックと一緒に過ごしている時間泊の部屋だ。
カチカチとベッドサイドに置いてある時計が時を刻んでいる音が聞こえる。
それと私の心臓が大きく音を立てている。
「夢……」
何て嫌な夢。私は顎の下に垂れるぐらい汗をかいていた。
今度はザックとマリンのあんな夢を見るなんて。
現実のザックは私の隣で静かに眠っていた。
その姿を見てから、私は自分の顔を覆ってベッドの上で俯いた。
どうして……見るなら、もっと楽しい夢を見せてくれないの。
折角お姉ちゃんと秋の悪夢から解放されると思ったのに。
「ナツミ? どうした、まだ朝日も昇ってないぜ」
気がつくと私の隣で眠っていたザックがノロノロと起き上がって私の肩を抱きしめてくれた。少し寝ぼけている様だ。首の後ろで伸ばしている長めの金髪が寝癖で撥ねていた。
ザックは上半身裸で私は彼の体温をじかに感じる事が出来た。
私は現実のザックに触れる事が出来て溜め息をつく。
「怖い夢を見たの」
「怖い夢? そうか。ほら、こっちへ来い。抱きしめて眠ってやるさ」
そう言うとザックは私の体を抱きしめるとそのままベッドに横たえた。
「震えているし、汗で濡れている。そんなに怖かったのか? 何か助けてって叫んでいたぞ」
ザックが耳元で囁きながら私の背中をあやす様に叩いてくれた。
「うん……怖かった。お願いこうしていて」
私はザックに抱きついて彼の心臓の音を聞いた。ああ、これなら落ち着く。
強烈なキスシーンは夢の中の出来事だ。早く忘れなくては。
だって、私はザックを信じている。
「やっぱり疲れてるのかな? 悪かったな……」
ポンポンとザックがリズムよく私の背中を叩いてくれる。
大きな温かい手がシャツ越しとはいえ背中に触れる度に安心する。
私は再び眠りに落ちていく事が出来た。
「ナツミ……なぁ、シュウって誰なんだ?」
意識が落ちていく中、ザックがポツリと呟いた声が聞こえた様な気がした。
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