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<回想> 2月28日 足の故障
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七緖くんの猫背が見えなくなって次のバスを待つ人がバス停に並び始めた頃、私はゆっくりと総合病院の門をくぐった。
かれこれ二月から通い始めて、今が七月だから五ヶ月経った。今日はこの黒いサポーターをとっても良いかどうかを先生に見てもらう予定だ。
(思えばその頃ぐらいから七緖くんと病院行きのバスで一緒になる事が多かったなぁ)
バスに乗って隣町に来る七緖くんは、何か用事があるのだろうか。そういえばこの少し先は歓楽街だ。噂通りなら歓楽街で見かけた時、大抵水商売の女性と一緒にいると言う話だが。
私は首を左右に振って噂話を否定する。
「ううん。やめやめ」
噂だけをあれこれ考えるのは止めよう。私自身ある事ない事を噂で流されていて嫌な思いもするのに。同じ事をしてはいけない。
私は気を取り直して総合病院の入り口をまっすぐ見つめる。病院の側には公園がある。公園からは蝉の鳴き声がひっきりなしにする。
「あ、風」
暑い中、風が通り過ぎた。そんな風すらも通り過ぎると痛みを感じていた右膝だが今は特に気になる様子はなかった。私は二月末頃初めて病院に訪れた時の事を思い出していた。
◇◆◇
右膝の調子がおかしいと感じ始めたのは寒くなってからだったと思う。違和感と言うか、少し引っかかると言うか。激痛や痛みが特段ある訳でもないので、気にしていなかった。しかし違和感を相談したコーチが何か思い当たる様で、一度病院で調べる事になった。
そこで聞かされたのは、右膝に爆弾を抱えている事だった。コーチと母親が連れ添ってくれて良かった。色々調べて何も問題ないだろうと考えていただけに、私達のショックは隠しきれなかった。
「早めの手術を薦めます。痛くない今がいいでしょう。手術後、足は治りますが、リハビリには時間がかかります。陸上競技、400メートル走の選手ですか。難しいですね……手術とリハビリを考えると一年間は大会に出るというのは難しいかもしれません」
そんな事を言われた。コーチとお母さんは私の背中を優しく撫でてくれる。
お医者さんの声が遠くに聞こえる。
「将来の事もあるからよく考えて──」
地方予選、万年二位の私に、どんな将来が待っていると言うのだろうとぼんやりと考えていた。
朝早くからの病院だったので病院帰りは丁度お昼頃となった。空を見上げるとどんよりとした空。一雨来るかもしれない。
自宅側の十字路で、これから仕事に向かうお母さんと午後の部活に出るコーチと分かれる事になった。
お母さんの顔は心配そうだった。
「お父さんとも相談しないとね。とにかく明日香一人だけで悩まない様に」
体育系とは無縁の人生を送っていたお母さん。いつも力になってくれて、万年二位の私の事を「二位ってそんな言い方をしなくても。とても凄い事じゃない」と言って褒めてくれる優しいお母さんだ。
コーチも同様に心配をしてくれた。心の整理もあるだろうから午後の部活は休む様に言ってきた。
「今後の事は明日以降相談して行きましょう。監督には私から話をしておくから」
女性の若いコーチだったがとてもしっかりしている人だ。怪我に悩まされた過去があり、よく理解出来ると言ってくれた。私から頼んで、他の選手には黙っていてくれる事になった。
そして二人は私の肩を叩いて去って行った。二人の後ろ姿が見えなくなるまで見送ると私はゆっくりと自宅に向かって歩き出す。
私は制服シャツの上には紺色のパーカーを着ていた。気に入っているスポーツメーカーのもので、大きいサイズだからお尻の下まで裾がある。手袋を忘れたので両腕の袖を気休めに伸ばしてみる。
「寒」
息を吐くと白い。この曇り空だからもしかすると雨ではなく雪になるかもしれない。そんな事を考えて足を止めて空を仰ぎ見る。
手術か。そんな大げさになるとは考えていなかった。ショックと言えばショックだ。リハビリにも時間がかかると言うし。一年と言った期間なら私はこの先高校生活で陸上選手として大会に出る事は出来ない。走る以外能のない私に結構、酷な話だ。確かに走れなくなる事には恐怖もあるけれども。
「本当に怖いのかな?」
私は小さな掠れた声で呟いた。
商店街前の路上で立ち止まり、空中をじっと見つめる女子高生(しかも独り言つき)を、行き交う人は首をかしげながら気味悪そうに通り過ぎて行く。
選手であり続ける事が出来てもそれは人生の中で一瞬の事。もちろんある意味、一生続ける人もいるだろう。短い選手生命の中どうやって生きて行くかは人それぞれだ。結果を残し華々しい道を歩む人もいれば、結果を残さずひっそりと選手人生を終わる人もいる。私はどう考えても後者なのではないかと思う。
これはもしかしたら、自分を見つめ直す良い機会なのかもしれない。
空を見上げたままそんな事を歩道で考えていた時だった。見上げた後ろからニョキッと影と共に怜央が顔を出した。制服の上にぐるぐる巻きになったマフラーに口元を埋めている。
「やっぱり明日香だったか」
怜央が片眉を上げて小さく溜め息をついた。
「あ。怜央」
私は空を、と言うか今は怜央を見上げながら、驚く事なく名を呼んだ。
確か怜央は近くの民間の体育館に午前中は行くと言っていた。何でも現役大学生と一緒に練習をすると言っていたっけ。
「お前何してんだ。完全に頭のおかしな人だぞ。おかしいのは元々だけれども。宇宙人と交信でも始めるつもりか」
私、怜央の彼女だよね。彼女になって一ヶ月しか経っていないし、部活がそれぞれ忙しくて彼氏、彼女らしい事は何一つ出来ていないけれども。それでも何という言い草なのだろう。
「そんな事しないよ。って言うか『おかしいのは元々』ってひどい」
私は見上げるのを止めて顔を前に向ける。文句を言いながら振り返ると、制服のブレザーのポケットに手を突っ込んだ怜央の隣に見知った人を見かけた。
真っ白のオフタートルの少しピッタリしたニットワンピースの上には、ふわふわの薄いピンク色をしたラビットファーのコートを着ている女性。
「本当だ! 明日香ちゃんだぁ」
ニットワンピースの女性は首をかしげて大きな瞳を細めてフワリと笑う。低い鼻の頭は寒さで、少し赤くなっている。ぽってりした唇には白い肌がより映えるローズの色をしていた。
「萌々香ちゃん久しぶりだね」
私はその女性の名前を呼んで微笑んだ。
怜央の隣にいた女性は、三つ年上のお姉さん。近所の商店街の中にある洋食屋の娘で幼なじみの城山 萌々香だった。
かれこれ二月から通い始めて、今が七月だから五ヶ月経った。今日はこの黒いサポーターをとっても良いかどうかを先生に見てもらう予定だ。
(思えばその頃ぐらいから七緖くんと病院行きのバスで一緒になる事が多かったなぁ)
バスに乗って隣町に来る七緖くんは、何か用事があるのだろうか。そういえばこの少し先は歓楽街だ。噂通りなら歓楽街で見かけた時、大抵水商売の女性と一緒にいると言う話だが。
私は首を左右に振って噂話を否定する。
「ううん。やめやめ」
噂だけをあれこれ考えるのは止めよう。私自身ある事ない事を噂で流されていて嫌な思いもするのに。同じ事をしてはいけない。
私は気を取り直して総合病院の入り口をまっすぐ見つめる。病院の側には公園がある。公園からは蝉の鳴き声がひっきりなしにする。
「あ、風」
暑い中、風が通り過ぎた。そんな風すらも通り過ぎると痛みを感じていた右膝だが今は特に気になる様子はなかった。私は二月末頃初めて病院に訪れた時の事を思い出していた。
◇◆◇
右膝の調子がおかしいと感じ始めたのは寒くなってからだったと思う。違和感と言うか、少し引っかかると言うか。激痛や痛みが特段ある訳でもないので、気にしていなかった。しかし違和感を相談したコーチが何か思い当たる様で、一度病院で調べる事になった。
そこで聞かされたのは、右膝に爆弾を抱えている事だった。コーチと母親が連れ添ってくれて良かった。色々調べて何も問題ないだろうと考えていただけに、私達のショックは隠しきれなかった。
「早めの手術を薦めます。痛くない今がいいでしょう。手術後、足は治りますが、リハビリには時間がかかります。陸上競技、400メートル走の選手ですか。難しいですね……手術とリハビリを考えると一年間は大会に出るというのは難しいかもしれません」
そんな事を言われた。コーチとお母さんは私の背中を優しく撫でてくれる。
お医者さんの声が遠くに聞こえる。
「将来の事もあるからよく考えて──」
地方予選、万年二位の私に、どんな将来が待っていると言うのだろうとぼんやりと考えていた。
朝早くからの病院だったので病院帰りは丁度お昼頃となった。空を見上げるとどんよりとした空。一雨来るかもしれない。
自宅側の十字路で、これから仕事に向かうお母さんと午後の部活に出るコーチと分かれる事になった。
お母さんの顔は心配そうだった。
「お父さんとも相談しないとね。とにかく明日香一人だけで悩まない様に」
体育系とは無縁の人生を送っていたお母さん。いつも力になってくれて、万年二位の私の事を「二位ってそんな言い方をしなくても。とても凄い事じゃない」と言って褒めてくれる優しいお母さんだ。
コーチも同様に心配をしてくれた。心の整理もあるだろうから午後の部活は休む様に言ってきた。
「今後の事は明日以降相談して行きましょう。監督には私から話をしておくから」
女性の若いコーチだったがとてもしっかりしている人だ。怪我に悩まされた過去があり、よく理解出来ると言ってくれた。私から頼んで、他の選手には黙っていてくれる事になった。
そして二人は私の肩を叩いて去って行った。二人の後ろ姿が見えなくなるまで見送ると私はゆっくりと自宅に向かって歩き出す。
私は制服シャツの上には紺色のパーカーを着ていた。気に入っているスポーツメーカーのもので、大きいサイズだからお尻の下まで裾がある。手袋を忘れたので両腕の袖を気休めに伸ばしてみる。
「寒」
息を吐くと白い。この曇り空だからもしかすると雨ではなく雪になるかもしれない。そんな事を考えて足を止めて空を仰ぎ見る。
手術か。そんな大げさになるとは考えていなかった。ショックと言えばショックだ。リハビリにも時間がかかると言うし。一年と言った期間なら私はこの先高校生活で陸上選手として大会に出る事は出来ない。走る以外能のない私に結構、酷な話だ。確かに走れなくなる事には恐怖もあるけれども。
「本当に怖いのかな?」
私は小さな掠れた声で呟いた。
商店街前の路上で立ち止まり、空中をじっと見つめる女子高生(しかも独り言つき)を、行き交う人は首をかしげながら気味悪そうに通り過ぎて行く。
選手であり続ける事が出来てもそれは人生の中で一瞬の事。もちろんある意味、一生続ける人もいるだろう。短い選手生命の中どうやって生きて行くかは人それぞれだ。結果を残し華々しい道を歩む人もいれば、結果を残さずひっそりと選手人生を終わる人もいる。私はどう考えても後者なのではないかと思う。
これはもしかしたら、自分を見つめ直す良い機会なのかもしれない。
空を見上げたままそんな事を歩道で考えていた時だった。見上げた後ろからニョキッと影と共に怜央が顔を出した。制服の上にぐるぐる巻きになったマフラーに口元を埋めている。
「やっぱり明日香だったか」
怜央が片眉を上げて小さく溜め息をついた。
「あ。怜央」
私は空を、と言うか今は怜央を見上げながら、驚く事なく名を呼んだ。
確か怜央は近くの民間の体育館に午前中は行くと言っていた。何でも現役大学生と一緒に練習をすると言っていたっけ。
「お前何してんだ。完全に頭のおかしな人だぞ。おかしいのは元々だけれども。宇宙人と交信でも始めるつもりか」
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「そんな事しないよ。って言うか『おかしいのは元々』ってひどい」
私は見上げるのを止めて顔を前に向ける。文句を言いながら振り返ると、制服のブレザーのポケットに手を突っ込んだ怜央の隣に見知った人を見かけた。
真っ白のオフタートルの少しピッタリしたニットワンピースの上には、ふわふわの薄いピンク色をしたラビットファーのコートを着ている女性。
「本当だ! 明日香ちゃんだぁ」
ニットワンピースの女性は首をかしげて大きな瞳を細めてフワリと笑う。低い鼻の頭は寒さで、少し赤くなっている。ぽってりした唇には白い肌がより映えるローズの色をしていた。
「萌々香ちゃん久しぶりだね」
私はその女性の名前を呼んで微笑んだ。
怜央の隣にいた女性は、三つ年上のお姉さん。近所の商店街の中にある洋食屋の娘で幼なじみの城山 萌々香だった。
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