氷の蝶は死神の花の夢をみる

河津田 眞紀

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第一章 訪れた幸運と非日常

1 麗氷の蝶

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 遡ること、数時間前──



 ♦︎ ♦︎ ♦︎ ♦︎




 ──もし、神々が『ノアの方舟』的計画を再考し、現存する人類を"いる人間"と"いらない人間"に振り分けたとしたら、俺は間違いなく後者になるだろう。



 そんなことを考え、刈磨かるま汰一たいちはため息をついた。


 私立大鳳おおとり学院高校二年E組の教室は、いつもと変わらず賑やかな昼休みを迎えている。

 友人と談笑しながら弁当を食す者。
 漫画雑誌を回し読みする者。
 スマホゲームに興じる者。
 次の授業の準備をする者。

 何も変わらない、普段通りの平和な教室。
 それを、汰一は……


 白い三角巾に覆われた左腕をぶら下げながら、自席で静かに眺めていた。



 今から二週間前。
 彼は、交通事故に遭った。

 下校中、自転車に乗っていたところを車に撥ねられたのだ。
 頭を強打し、一時的に意識不明となったが、命に別状はなし。怪我も、左腕の骨折と軽い打撲で済んだ。

 で。
 今日が退院後初となる登校日なわけだが……

 二週間ぶりに顔を出した学校は、拍子抜けするくらいに何も変わっていなかった。


 当たり前か。普段からクラスでは目立たないようにしているし、友だちも多いとは言えない。しばらく不在にしたところで、周囲に与える影響はゼロだろう。

 自分がいなくとも、時計の針は問題なく進む。
 世界の歯車は、滞りなく回る。

 それでいい。リーダーシップやカリスマ性がある連中だけ方舟に乗ってくれ。そして人類というしゅを末永く紡いでいってくれ。俺の代わりに。


 ……などと自虐的な思考に陥る彼の元へ、一人の男子生徒が寄って来る。


「ほらよ、汰一。購買でコロッケパン買って来たぜ。ラスいちだったんだからな、感謝しろよ」


 そう言ってニヤリと笑う彼は、汰一の幼馴染にしてクラスメイトの平野ひらの忠克ただかつだ。

 茶色がかった短髪に、シルバーフレームの眼鏡。
 いつも飄々とした雰囲気の、掴みどころのない少年である。
 汰一とは幼稚園時代からの腐れ縁で、高校でも二年連続同じクラスになってしまった。

 コロッケパンを差し出すその笑みを、汰一はジトッとした目で見つめ返す。


「……俺が頼んだのはメンチカツパンのはずだが」
「それがちょうど売り切れちまったんだよ。やっぱ人気だからなぁー、残念残念」
「……お前の手に握られているそれはなんだ?」
「メンチカツパンだが?」
「やっぱり! お前今日は焼きそばパンにするって言ってただろうが!」
「仕方ねぇだろ? 最後に一個だけ残っているところを見たら、なんだか無性に食いたくなっちまってさぁ」
「最悪だ……まぁ買って来てもらったから文句は言えないんだけど」
「そうそう。負傷兵がノコノコと出向いていい場所じゃないぜ、昼休みの購買は。俺が戦利品をじっくり味わう様を指を咥えて見ているがいい」
「……お前、いつか誰かに刺されるぞ」


 そんな脅し文句にも、忠克はニシシと笑い返す。


「んで? どうよ、久しぶりに授業受けた感想は」
「さっぱりに決まってんだろ……さっきのは本当に数学か? 途中から英語の授業に変わらなかったか?」
「はは。二週間も休めば、まぁそうなるわな」
「わかってんならさっさとノート貸してくれよ。頑張って追いつかなきゃ次の期末考査で死ぬんだから。嫌だろ? 幼馴染が留年して離れ離れになるのは」
「いいや、全然。むしろお前がどこまで不幸になるのか見てみたい気持ちの方がデカいね。やっぱお前、疫病神でも憑いているんじゃねぇの?」


 そう言って楽しそうに笑う忠克。他人事ひとごとだと思いやがって……と、汰一は歯軋りをする。
 彼の不運な半生を知っているが故、忠克はこの痛ましい左腕を見たところで驚きもせず、「やれやれ、またか」と肩をすくめ、首を横に振るのみなのだ。


「本当に汰一は、運の悪さだけは天下一品だよなぁ。『全日本不運人間選手権大会』が開催されたらぶっち切りで優勝するだろうよ。十年来の親友が言うんだから間違いない」


 ……などとのたまう人間が親友なのだから、なるほど俺は日本一不運な男なのかもしれない。
 という言葉を口にする気力すらなくなり、汰一は深々とため息をついて、


「……で。『大会』で思い出したが、球技大会は上手くいったのか? 心配していたんだ、仮にも実行委員だったからな」


 コロッケパンを齧りながら、そう尋ねる。


 今から一週間前……つまり汰一が事故に遭った日から一週間後、球技大会がおこなわれたはずなのだ。
 その実行委員としてクラスから選出……否、誰もやりたがらずくじ引きになった結果、その役目を引き当ててしまったのが、汰一だった。

 なってしまったが運の尽き、もう大変だった。
 何せ誰も実行委員をやりたがらない程ヤル気のないクラスだ。誰がどの競技に出場するか、何度話し合おうとなかなか決まらない。
 明日こそは決めるぞと、決意を固めたその日の帰りに車に撥ねられ……二週間の入院である。
 そのため、球技大会が無事に成功したのかずっと気になっていたのだ。


 汰一の質問に、忠克はメンチカツパンを頬張りながら頷く。


「あぁ。お前がグズグズしてて決められなかった競技分担は、ちゃんと翌日のホームルームで決まったぜ。あの"麗氷れいひょうの蝶・ちより様"がバッチリ仕切ってくださったからな、即決だったわ。球技大会当日もお前がやるべき仕事を代わりにやってくれて、大成功に終わったぜ」


 ……という忠克のセリフに、汰一は一瞬固まる。


 "ちより様"。

 そんなふざけた呼び方でも、その名を聞くだけでドキリとしてしまう。
 そうか。彼女が、俺の代わりに……


 ……と、汰一が言葉を失っていると、




「──刈磨かるまくん」




 鈴の音が鳴るような声が、彼の名を呼んだ。
 忠克の後ろ……背筋を伸ばし立っているのは、一人の女子生徒。


 凛々しい雰囲気の、美しい少女だ。
 腰まで伸ばした艶やかな黒髪。
 長い睫毛に縁取られた大きな瞳は、光を反射し極彩色ごくさいしきに輝いている。
 白い肌に、赤い唇。同世代の女子と比べると高身長な、スラッとした身体。
 そして……近付くだけでふわりと漂う、甘い香り。


 彼女の名は、彩岐さいき蝶梨ちより


 このクラスで……いや、学校単位で見てもトップクラスの美少女である。
 先ほど忠克が口にした『麗氷の蝶・ちより様』こそ、彼女なわけだが……


 突然声をかけられ固まる汰一を、彼女は表情を変えずに見下ろし、


「これ、休んでた間の各教科のプリント。渡しておいてって、担任の先生に頼まれた」


 そう、淡々とした声で言った。
 汰一はごくっと喉を鳴らしてから、平静を装いつつプリントを受け取る。


「あ……ありがとう」
「怪我、治るまでは無理しないで」
「うん……あ、球技大会のこともありがとうな。俺の代わりにいろいろやってくれたって聞いたよ」
「気にしないで。私はやるべきことをやっただけだから。それじゃあ」


 そう言って、彼女は長い黒髪をひるがえし、去って行った。
 その後ろ姿を、半ば放心状態で見つめる汰一に、


「はぁ……ちより様は今日もクールだなぁ。お前、怪我してよかったな。あのちより様と会話できちゃったぞ?」


 忠克が、皮肉っぽく言ってくる。
 しかし今回ばかりは、ツッコむどころか全力で「イエス」と答えたくなってしまう。

 何故なら、彼は……



 彩岐蝶梨に、どうしようもなく恋をしているからである。
 
 
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