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第一章 訪れた幸運と非日常
4 二人きりの保健室
しおりを挟む──すうっと鼻に抜ける、消毒液の匂い。
それから……
あの、胸をくすぐる甘い匂いがする。
そんなことをぼんやり考えながら、汰一はゆっくりと瞼を開けた。
真っ白な天井とカーテンが目に飛び込み、眩しさに顔を顰める。
同時に、鼻の付け根がズキンと痛んだ。
「いてて……」
「──刈磨くん、大丈夫?」
誰かに呼びかけられ、汰一は驚いて横を見る。
すると、そこには……
彼を覗き込むようにして座る、彩岐蝶梨の姿があった。
ドキッと跳ね上がる心臓。
汰一は一気に覚醒し、声を絞り出す。
「さ、彩岐? なんで……?」
上体を起こして、周囲を確認する。
どうやらここは、学校の保健室らしい。
野球ボールの直撃を受け気絶し、運ばれたのだろうか。制服のままベッドの上に寝かされていた。
「……君が、俺をここに連れて来てくれたのか?」
信じられない気持ちで問いかけると、彼女は静かに頷き、肯定する。
「うん。刈磨くんにボールが当たるのを見て、先生を呼んで運んでもらったの。保健室の先生は、しばらく安静にすれば問題ないだろうって」
その涼やかな声を聞き、汰一は思い出す。
そういえばボールに当たる直前、誰かが「危ない!」と叫ぶ声が聞こえたが……あれは彼女の声だったのか。
あんな情けない姿を、よりにもよって彼女に見られるとは……嗚呼、今すぐ花壇に埋まりたい。
汰一は顔を覆いたくなるのを堪えながら、無理矢理笑みを浮かべる。
「そうか……ありがとうな。迷惑かけて悪かった」
「いいえ。大事に至らなくてよかった」
表情を変えないまま、首を小さく振る彼女。
長い黒髪がさらさらと揺れるその動きだけで、汰一はつい見惚れてしまう。
同時に、彼女と二人きりでここにいるという現状をあらためて実感し、緊張が押し寄せてきた。
「えと……意外だな、彩岐が花壇にいただなんて。たまたま通りかかったのか? それとも花を眺めに来たとか……って、それはないか」
無駄に饒舌になってしまう自分に、汰一は内心苦笑する。
まただ。せっかくの会話のチャンスなのに……彼女を前にすると、どうしても舞い上がってしまう。
窓からの夕陽を反射し、天使のような輪を作っている艶やかな髪も。
こちらを真っ直ぐに見つめる大きな瞳も。
身長の割に華奢な肩も、半袖のワイシャツから伸びる細い腕も、膝の上に乗せた綺麗な指先も……
全てが尊くて、愛おしくて、見ているだけで胸が高鳴ってしまうのだ。
そんな胸の内を誤魔化すように、汰一が乾いた笑い声を上げると……
蝶梨は、桃色の唇を尖らせ、
「……私が花を見ていたら、そんなに変?」
……と、少し拗ねたように言う。
初めて見るその表情に、どこか子どもっぽい可愛さを感じ、汰一はまたもや見惚れてしまう。
しかし彼女は、慌てて目を逸らし、
「ごめん、何でもない。忘れて」
そう、いつものクールな表情と声に戻って言う。
その変化に目を奪われつつ、汰一は、
「……花、好きなのか?」
と、尋ねてみた。
彼女はぴくっと反応し、何度か目を左右に泳がせた後、
「……うん、家でもいろいろ育ててる。……似合わないでしょ?」
目を伏せながら、白い頬をほんのり染めて言うので……
汰一は、心臓を射抜かれたような衝撃を受ける。
あの彩岐蝶梨が……"麗氷の蝶"と呼ばれる程クールな彼女が……
顔を赤らめ、照れている。
こんなの……こんなの…………
「…………かわいい」
思わず口から漏れた本音に、「え?」と聞き返され、汰一は慌てて両手を振る。
「あ、いや……可愛いよな、花。似合わないなんてことは全然ない。むしろぴったりだと思うし……同じ趣味で嬉しい」
言った後で「しまった」と口を閉ざす。
どうやら照れ顔の威力がまだ響いているらしい、気を抜くとすぐに本音が漏れてしまう。
汰一が次の言葉を慎重に探していると、先に蝶梨が口を開いた。
「実は……前からよく見ていたの、中庭の花壇。いつも綺麗に手入れされてて、お花も元気に咲いていて……それを刈磨くんがやっていることも、知っていた」
ドクンッ。
彼女の言葉に、心臓が一際強く脈打つ。
自分のしていたことを、彼女が認識してくれていただなんて……夢にも思わなかった。
彼女が続ける。
「私も家でチューリップを育てているんだけど、中庭のみたいに綺麗に咲かなくて。何が違うのか、知りたくて見に来てみたら……」
そこで一度言葉を止め……少し俯くと、
「……刈磨くんが、チューリップの花をぽきぽき折っていたから…………ちょっと、びっくりした」
そう、遠慮がちに言う。
汰一は、一気に顔面蒼白になる。
確かにあんなバイオレンスな光景、事情を知らない人間が見たら勘違いするに決まっている。
これは……何としてでも誤解を解かなければ。
「あ……あれは決して破壊行為とかではなく、来年植える球根を残すための作業なんだ!」
「球根を?」
「そう! 球根を良い状態で残すためには、ああして花を折る必要があるんだよ!」
「……そうなんだ」
「あぁ! 何なら今度、彩岐も一緒にやってみないか?!」
……と。
思わず叫んだそのセリフに、汰一は自分自身で驚く。
勢い余って何を誘っているのだろう。
早く撤回を……じゃないと、断る彼女にも気を使わせてしまう。
「あ、いや、その……無理だよな。彩岐は生徒会とかで忙しいし……」
なんて、彼女が断りやすい理由を自ら添えて訂正をする。
しかし、
「……いいの?」
彼女は、大きな瞳をさらに大きく輝かせ、
「刈磨くんがいいなら……お花のお世話のこと、いろいろ教えてほしい」
そう言って、顔を近付けてきた。
真っ直ぐに見つめられ、汰一は息を止めたまま動けなくなる。
さらりと揺れる髪。
鼻をくすぐる甘い香り。
キラキラと輝く、万華鏡みたいな瞳。
嗚呼、やっぱり好きだ。
遠くから見ているだけで幸せだと、本気で思っていたが……
こんな近くで見る彼女の可愛さを知ってしまったら、身の丈に合わない欲が出てしまう。
汰一は、ごくっと喉を鳴らすと、
「……俺なんかでよければ……いくらでも教えるよ」
掠れた声で、振り絞るようにそう答えた。
それを聞いた途端、蝶梨は嬉しそうに目を細めて、
「──ありがとう。よろしくね、刈磨くん」
ふわりとした笑みを浮かべながら、彼の名を呼んだ。
あまりの愛らしさに、汰一は返事をすることも忘れ見惚れる。
すると蝶梨が、不思議そうに首を傾げ、
「ところで……その左腕、結構動かしているけど、大丈夫なの?」
……と。
白い包帯に覆われている汰一の左腕を指さし、尋ねた。
言われて汰一は、ハッとなる。
確かに、先ほどから無意識の内に動かしていたが……痛みが全くない。
花壇で花をいじっていた時までは、間違いなく動かせなかったはずなのに…………
……その時。
彼の脳裏に、気絶していた間の記憶が、一気に蘇る。
神を名乗る男が現れ、蝶梨の側にいるよう依頼してきたこと。
蝶梨が"エンシ"と呼ばれる神さまのたまごであること。
彼女を護るため、"厄"を喰うという式神・カマイタチを授けられたこと。
そして……
折れていたはずの左腕を、治してもらったこと。
「…………」
あれは、夢ではなく現実だったのか?
ということはこの状況も、あの自称・神が──柴崎が計らったという、彼女との『接点』なのか?
「……刈磨くん?」
再度名前を呼ばれ、汰一は我に返り、
「……あ、あぁ。実はほとんど治りかけなんだ。ごめんな、驚かせて。もう大丈夫だから」
混乱する胸中を悟られぬよう、そう微笑んだ。
* * * *
最後にもう一度礼を伝え、汰一は蝶梨と保健室の前で別れた。
彼女は生徒会の仕事を済ませてから帰るらしい。
その後ろ姿を見送り、汰一は……ため息をつく。
嗚呼、夢のような時間だった。
彼女と二人っきりで、あんなに会話してしまった。
しかも、一緒に花壇の手入れをする約束までして。
未だ信じられない気持ちを抱えたまま校舎を出、バス停を目指し歩き出す。
事故で腕が折れただけでなく自転車も駄目になったため、今日からしばらくはバス通学なのだ。
ちょうど到着したバスに乗り込み、窓の外に目を向けながら、彼女とのやり取りを思い出す。
それから……
もうすっかり痛みの消えた左腕を掲げ、手のひらを眺める。
……あれは、夢じゃなかった。
つまり、あの自称・神から、彼女を護る役目を任されたということ。
認識は出来ないが、あの時首に巻きついていたカマイタチは、今も近くにいるのだろうか。
"厄"を自動的に喰うと言っていたが……もう発動しているのだろうか。
本当に、彼女の側にいるだけでいいのだろうか。
何かあった時、柴崎に会う術はあるのだろうか。
そもそも、あの男……信用できる相手なのだろうか。
……と、様々に思いを巡らせていたら、あっという間に目的のバス停へ到着していた。
汰一は慌てて降り、自宅へと向かう。
程なくして辿り着いた家の庭には、汰一の母親が植えた花々が綺麗に咲いていた。
彩岐も育てていると言っていたが……こんな風に自宅の庭に植えているのだろうか。
そんなことを考えながら、取り出した鍵で玄関のドアを開ける。
その音で気付いたのか、居間から母親の「おかえりー」という声が聞こえてきた。
「ただいま」
「学校、大丈夫だったー?」
その声に、汰一は自分の左腕に視線を落とす。
もうすっかり治っているが、家族に悟られると説明が面倒だ。家にいる時はギプスをしたままにしておこう。
そう決め、汰一は靴を脱ぎながら「まぁまぁ」と適当に答えておく。
そのまま二階の自室へ向かおうとすると、
「あんたさぁ、部屋にかけてる鍵、なんとかならないの? あんな厳重にかけて……着替えも取りに入れなくて、入院中ぜーんぶ新しいのを買って来たんだからね。本当にもったいない。そういう年頃なのはわかるけどさぁ……」
と、グチグチ文句が続きそうだったので、汰一は駆け足で階段を上る。
自室のドアにかけた南京錠を開け、中に入り、内鍵を閉めれば、もう母親の声は聞こえなかった。
ベッドに倒れ込み、寝返りを打って……
天井を、ぼうっと見上げる。
「…………」
今日だけで、いろいろなことがありすぎた。
野球ボールで気絶して、チャラい神に「協力しろ」と脅されて……彼女と、たくさん会話した。
ひっそりと生きてきた自分にとっては、胃もたれがする程に濃密な一日だ。
横になった途端、身体が泥のように重く感じる。
そのまま汰一は、静かに目を閉じる。
考えるべきことはたくさんあるが……とりあえず今は、少し休もう。
そのまま横向きに寝そべり、身体の力を抜いて、寝ようとする。
しかし……
ふと、瞼の裏に見えたものに、息を止める。
「……あの照れ顔…………可愛かったな」
目を開けながら、そう呟いて。
やっぱり眠れそうにないなと、ため息をつきながら……もう一度、天井を仰いだ。
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