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最終章 迫る闇と誰かの幸福
3 逸る心と忘れ物
しおりを挟む期末考査を終え、一学期の登校日数も残り十日ほどとなった。
テスト返却と終業式が終われば、いよいよ夏休みである。
部活動に所属していない汰一は、昨年同様、夏休みも毎日のように学校に来て花壇の世話をするつもりでいた。
しかし。
今年の夏は、去年とは訳が違う。
何故なら……彼女がいるから。
……否、決して浮かれているわけではない。
"黒い獣"を放った正体不明の敵を何とかしないことには、おちおち花壇の世話もできない、という意味である。
あの神のいない神社で"獣"に襲われた日から三日が経った。
あの日以降、汰一の周りで特に変わった出来事は起きていない。
このまま何も起きないに越したことはないが、一方で焦りも募っていた。
学校のない夏休み期間は、必然的に蝶梨の側にいる時間が減ってしまう。
汰一とカマイタチの目が行き届かない時期に入る前に、何とかけりをつけたいところだが……敵はいつ尻尾を出すつもりでいるのだろう?
そんなことを考えながら、放課後、汰一が一人花壇に水やりをしていると、
「──あ、汰一くん」
少し離れたところから、蝶梨に呼びかけられた。
汰一が顔を上げると、中庭近くの外廊下で蝶梨が手を振っていた。
その肩には、登校した時に背負っていた弓袋がかけられている。今日は弓道部の手伝いをする日なのだ。
汰一は水やりの手を止め、蝶梨の方へと駆け寄る。
「おう。今から行くのか?」
「うん」
「水やり終わったら裏門出たところで待ってるから、一緒に帰ろうな」
「ありがとう。暑いから、日の当たらない涼しいところで待っていてね」
「あぁ。彩岐も……」
……と、口にした直後。
クールモードに努めている彼女が、僅かに寂しそうな顔をしたことに気付く。
毎日のように過ごす内に、汰一は彼女の微妙な表情の変化も見逃さないようになってしまった。
その表情の理由を察し、慌てて言い直すことにする。
「……蝶梨も、道場の中は暑いと思うから、無理しないよう気をつけてな」
すると、蝶梨はあからさまに嬉しそうな顔をして「うんっ」と頷いた。
そんなに名前を呼ばれたいのかと、汰一は可愛さと愛おしさに一頻り悶え……
ふと、頭に浮かんだことを尋ねることにする。
「そういえば……弓道部の手伝いって、夏休み中も続けるのか?」
もし彼女が夏休み期間中、毎日のように弓道部に参加するのなら、自分もそれに合わせて花壇の手入れをしに来ることができる。
そうすれば、自然な形で側にいることが可能だと考えたのだ。
しかし蝶梨は、首を横に振って、
「ううん。実は、お手伝いは今日でおしまいにしようと思ってる。元々新入部員の育成のためだったし、みんな基本は覚えてきたから」
それを聞き、そういえばそうだったと、汰一は苦笑する。
部長が『入部したらあの彩岐センパイから指導を受けられるかも?!』などという勝手な触れ込みをしたせいで、今年度の弓道部の新入部員は爆発的に増えてしまった。
その指導を手伝ってほしいと泣きつかれたため、名前を使われただけの蝶梨が律儀に助っ人を務めていたのだ。
新入部員がある程度育ったのなら、これ以上彼女が働く義理もないだろう。
夏休みに毎日会える口実がなくなるのは惜しいが、蝶梨が弓道部から解放されること自体は実に喜ばしいと汰一は思う。
「今日は練習を少し手伝ったら、部長にその話をして帰ろうと思うから、たぶん一時間もかからないよ」
微笑を浮かべる彼女に、汰一は頷いて、
「わかった。それじゃあ、またあとでな」
と、彼女が弓道場に向かうのを見送った。
* * * *
「そうなると、別の口実を見つけなきゃな……」
蝶梨が去った後、汰一は花壇に花の苗を植えながら呟いた。
植えているのは、先日蝶梨とホームセンターで購入したストレプトカーパスだ。根元に土を被せ、肥料を撒いてやる。
弓道部の手伝いがなくなるのなら、夏休みの間、何を理由に彼女と会えば良いのかと、汰一は頭を悩ませていた。
『二人で買ったこの花の世話をしよう』と誘うこともできるが、せいぜい三日に一回が限界だ。暑い中、毎日この花壇に来させることはしたくない。
ならば……
毎日のように、デートに誘ってみるのはどうだろう?
恋人になった今、それが一番自然な口実なのではないだろうか?
……いや、駄目だ。恋愛経験ゼロの自分には、彼女を満足させるようなプランをいくつも用意できる自信がない。
でも、数回くらいなら……考えられなくもないか。
例えば、以前のようなゲームセンターとか。
映画も、ホラー以外なら付き合ってくれそうだ。
水族館や屋内の遊園地なら涼しく遊べるし、夏らしくお祭りや花火大会に誘ってみるのもいいだろう。
あとは……
思い切って、海やプールに行ってみるとか…………
……と、蝶梨の水着姿を想像したところで、汰一は首をぶんぶん横に振る。
何を浮かれているんだ。全ては彼女を護るため。そのために側にいる口実を考えているというのに。
……でも。
せっかくの夏休みだし、デートを兼ねて護ることができれば、一石二鳥なのでは……?
などと自分に言い訳し、汰一はさっそくデートスポットを調べようと、ポケットからスマホを取り出そうとする。
が、
「……あれ?」
定位置であるはずのズボンのポケットに、スマホがない。
念のため他のポケットも探るが、結果は同じ。
鞄に入れたんだっけか? と、記憶を辿ると……
「……あ」
休み時間、蝶梨とこっそりメッセージのやり取りをしているのを忠克に見られそうになり、慌てて机の中にスマホを突っ込んだことを思い出す。
普段は机に入れることなどないため、すっかり忘れ置き去りにしてしまった。
長年の不運体質により、汰一には日頃から忘れ物や落とし物をしないよう確認する習慣があった。
にもかかわらず、スマホという超貴重品を置き去りにするとは……
やはり蝶梨と付き合えたことに相当浮かれているらしいと、汰一は自嘲する。
彼女によって齎されたその油断が愛おしくもあったが……
もっと大事なものを置き去りにしてしまう前に気を引き締めなければと、自分に言い聞かせる。
はぁ、と息を吐いてから、汰一は花壇の手入れを切り上げ、片付けを始める。
そして、教室へ向かうべく花壇を離れようとしたところで……
何か、大事なことを忘れているような。
それこそ、取り返しのつかないものを置き去りにしているような、そんな感覚に陥り……
足を止め、花壇を振り返る。
しかし、
「…………」
誰もいない花壇に、特に変わった様子はなく。
汰一は首を傾げてから、再び教室へと歩き始めた。
* * * *
校舎内の階段を上り、二年E組の教室を目指す。
吹奏楽部の演奏や、演劇部の発声練習の声が聞こえてくるが、部活のない生徒はとっくに帰宅した時間帯のため、誰ともすれ違うことはなかった。
さっさとスマホを回収して、裏門で蝶梨を待つことにしよう。
そう胸の内で呟き、汰一は辿り着いた教室の引き戸をガラッと開ける──が。
踏み入れようとした足を止め、目を見開いた。
何故なら、誰もいないと思っていた教室に……
「──よう、汰一。なんだ、忘れ物でもしたか?」
先に帰ったはずの、忠克がいたから。
窓際にある自分の机に座り、ニヤリと微笑む忠克の姿に……
汰一は、振り払ったはずの"嫌な予感"が、再びぞわぞわと込み上げるのを感じる。
「忠克……先に帰ったんじゃなかったのか?」
忠克は今日も『ゲームするから』と言って、ホームルームの後、早々に教室を出て行ったはずだ。
それなのに何故、こんな時間に、教室にいる……?
汰一の質問に、忠克はいつもの飄々とした口調で答える。
「いやぁ。俺としたことが、スマホを机の中に忘れて帰っちまってさ。無事に回収できたのはいいが、この暑い中また自転車漕ぐのは嫌だろ? だから日が落ちて涼しくなるまで、このクーラーの効いた部屋でゲームしていくことにしたんだよ」
言葉通り、彼の手には確かにスマホが握られているが……
本当にそうだろうかと、汰一は疑ってしまう。
忠克は、汰一以上に用心深い性格だった。抜け目がない、と言ってもいい。
飄々としてはいるが、不注意によるミスは徹底的に避けるし、他人に弱みを見せたり、借りを作るような真似は絶対にしない。
それらは全て、最大限楽しく楽に生きるための最小限の労力なのだと、自ら話していた程だ。
そんな忠克が、スマホという個人情報の詰まりまくったものを教室に忘れたりすること自体、あまり考えられないことだった。
何より、スマホでゲームをするために帰宅したというのに、スマホの所在を確認しないまま出て行くことなどありえるのだろうか……?
……駄目だ。どんどん悪い方へと考えてしまう。
とりあえず、普通に……あくまで自然体で会話をしなくては。
汰一は背中に冷たい汗が流れるのを感じながら、返事をする。
「へぇ……奇遇だな、俺もスマホを忘れて取りに来たところだ」
ドキドキと嫌な加速をする鼓動を抑え、自分の席へと向かう。
椅子を引き、机の中に片手を突っ込むと、スマホは確かにそこにあった。
汰一はほっとして、回収したスマホをいつものポケットに入れる。
「よかったな、大事なスマホが見つかって」
その様を見ていた忠克が、眼鏡の奥の目を細めて笑う。
汰一は緊張したまま「お前もな」と答えた。
本当は、聞きたくてたまらなかった。
"蛭の厄"と戦ったあの雨の日、どうして校舎内に残っていたのか。
"黒い獣"に襲われた日、どうして駐輪場に自転車が残っていたのか。
忠克にもらった無料券で遊びに行ったゲームセンターでも、クッションの中から飛び出す"獣"に襲われかけた。何故、あんな遠くの店舗の無料券をわざわざ自分に渡したのか……今思えば、かなり不自然である。
『いつもと違う言動や、矛盾した行動を取る者がいたら注意して。"堕ちた神"が憑依しているかもしれない』
柴崎の忠告が、ぐるぐると頭の中を駆け巡る。
今、こうして会話している忠克は……
本当に、俺が知る平野忠克なのか……?
「……なんだよ、怖い顔して」
緊張が顔に出ていたのか、忠克が苦笑いする。
汰一は疑心暗鬼に押し潰されそうになり、額に汗を滲ませ、
「……お前…………本当は…………」
ゴクッ、と喉を鳴らし、核心に触れようとした──その時。
「──あれ? ちより様だ」
……と。
忠克が、窓の外を見下ろしながら言った。
突然彼女の名を口にされ、汰一の心臓がドキリと跳ね上がる。
「あれ……弓道部の部長か? なんか揉めてるっぽいぞ」
忠克の言葉に、汰一は「え……?」と呟いてから窓へと駆け寄る。
忠克の視線の先を追うと、そこには確かに蝶梨がいた。
弓道場のある第二体育館と校舎を繋ぐ外廊下。そこに蝶梨と、もう一人の人物──弓道部の袴を着た、ガタイの良い男子生徒がいた。
その男子生徒が、蝶梨に対し何かを懸命に訴えている。
しかし蝶梨は、頭を下げその場から立ち去ろうとし……
それを男子生徒が追いかけ、後ろから彼女の手を強く引っ張った。
怯えたような蝶梨の表情。
それを見た瞬間、汰一は頭にかぁっと血が上り……
「……あっ、おい。どこ行くんだよ?」
忠克の呼びかけを無視して教室を飛び出し、外廊下へと駆け出した。
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