楡井るるの願い事

追い鰹

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9話

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 久しぶりに青空をのぞかせる天気なのに、梅雨が明けて夏本番前最後のリハーサルとでもいうような太陽のじっとりとした視線は、どうにも外出する気概を削がれてならない。「あちぃ」と唾を吐くみたいに言い捨てながらヘルメットをかぶる。よけい頭に熱がこもって、早く走り出したい気持ちに駆られながら、作業場も兼任しているガレージからゆっくりとカブを押して出る。もうすでに背中は汗でべったりだった。
 ニュートラルになっていることを確認してエンジンの起動スイッチを押す。夏場なのでそのまま走り出してもいいだろうという気持ちをぐっとこらえ、アイドリングの間にブレーキランプ等の簡易的な点検を済ませていく。
 点検を終えてカブにまたがり、総合病院までのルート案内を表示させたスマホをバイクに固定し、ブンブンブンとリズミカルにアクセルを回してエンジンをふかした。
 ——もういいかな。
 逸る胸いっぱいに酸素を送り込む。半クラッチにつないで足を離し、アクセルを回した。ゆっくりと前に進みながら道路に出る直前で止まり、左右を確認する。車なんてそうそう通らないのだが一応だ。両親を交通事故で亡くしてからというもの、車のない赤信号や点滅しているあるいは黄色信号の時もきちんと止まるようにしているくらいには、交通ルールを守ろうという気概がある。
 道路に飛び出し風を受けながらギアを三速まで入れた。時速五十キロ前後で森を抜け、海岸沿いの国道へと繰り出す。ここまでくるともう、熱さなど流れてくる潮風とバイクに乗っている高揚感に負けて身をひそめていた。
 時計を見る。現在時刻は九時四十分。約束の時間は十時だったが、このままのペースなら十五分くらい遅れるだろう。昨日のあれから今朝までずっと、億劫な気持ちを抱えて過ごしていたから、当たり前のように寝坊をした。何と言って謝れば許されるだろう、などと考えながらギアを四速に入れてさらにスピードを上げた。

 病院に着いたのは十時を二、三分過ぎてからだった。自動ドアをくぐって「すずしぃ」と襟をパタパタさせて、受付の方へと歩きながらキョロキョロと周囲を窺う。たくさんある椅子はちらほらと人が座っていて、三席分の空きを残した一つに茜音は座っていた。
「おはよ」
 スマホから視線を上げて僕の方を見る茜音は眉間に小さなしわを作っている。「おはよう」それとは別に声色は優しくて、僕はほっとした。
「遅刻してごめん」
「いいよ別に、もっと遅れることも考えてたし」
 受付を済ませて公太の病室まで歩く。面会が可能ということはそういうことなのだろう。僕はまた一つ肩の荷が下りた気がした。
 先日の事故で怪我をした人たちは全員この病院に搬送されたためか、——こういっては失礼というか不謹慎だが——病院内は朝一の市場みたいな活気と、くたびれた関心のなさを感じた。もっと静かなものを期待していただけに「大変なんだなぁ」という月並みな感想しか出てこない。
 公太のいる病室の入室者名欄には他に二人知らないものがあり、どうやら一人部屋ではないらしい。自分だったら知らない人と同室なんて気が気でないというか、入院というストレスも相まって部屋から出たくなる。
 コンコンと茜音がノックして引き戸を引いた。公太の元気な声がもう聞こえてくる。窓際のベッドにカーテンを開いて向かいの人と楽しく喋っている姿が目に入ってきた。部屋着で愛用している青のランニングウェアという、病人にはあまり似つかわしくない格好と、包帯やらでぐるぐる巻きにされた左腕が、何と声をかけていいのか、頭が真っ白で、これまでどうやって会話していたのか分からなくなる。
「元気そうじゃん」
「実質ノーダメだからな」
 名誉の負傷みたいに左腕をかかげて公太は笑った。「場所変えようぜ、いいとこ知ってんだ」ベッドから出てサンダルを履き、「じゃあまたな渉」と先ほどまでしゃべっていた向かいの子に右手を振る。見たところ小学校高学年くらいの男の子で「うん!」と元気な返事が返ってきた。
「いやぁ、ゲームの話で盛り上がってたら懐かれちった」
 公太の案内で院内にあるカフェでも見晴らしのいい開放的な、かつ簡易的な仕切りによって区切られた半個室の場所へとやってきた。そこは普段打ち合わせスペースのような使われ方をしているらしく、時間によってはかなりの確率で埋まっているらしい。場所や空いている時間帯を看護師さんにそれとなく教えてもらったのだとか、さすがコミュ力お化けだ。
「はいお見舞いの品的なやつ」
 茜音はいつも何が入っているのか分からないリュックの中からコンビニのビニール袋を取り出し、プリンやゼリーやグミなどのお菓子を机の上に並べていく。「サンキュー」さっそくとばかりに公太はプリンの蓋を開いて食べ始めた。
「ん」
 公太が物欲しそうな目で僕を見た。
「残念ながら何もないよ」
「ええー気遣いできない男はモテないぞまーくぅん」
「まーくんて呼ぶなよ」
「エロ本の一つでも持ってこいよなぁ」
「それ私にも言ってる?」
「もち」
「はぁ」二つのため息が重なった。公太は早いことに一つ目のプリンを食べ終え、今度はグミの袋を開けている。
「私も一個ちょうだい」
「どーぞ」
 差し出した茜音の手の平にコロンと三つグミが転がった。「まあ元気そうでよかったよ」心からの本音だった。「これ、元気に見えんのかよ」と左腕をかかげる公太。
「見えるね、いつも通り」
「元気に見せてんだっての。辛気臭い顔見せて誰が喜ぶんだよ」
「そりゃそうだけどさ」
「それ、何で怪我したの?」
「恥ずかしくて言えねぇ」
「恥を知るんだろ恥を」
「俺の名言だそれは」
「で、どうやって怪我したの」
「しょうがねぇなぁー、誰にも言うなよ?」
 公太が言うには、あの日突然体育館の天井が崩れ落ちてきて、やばいと思ってすぐに扉の方へと走った。扉までは近くて爆発が起きる前に脱出はしたものの、焦りすぎて転び、左腕を骨折したのだとか。救急車とかが来るまではアドレナリンがドバドバで痛みもなかったけれど、気付いたら馬鹿みたいに腫れ上がっていたので、自分も救急車に乗った。それから精密検査も兼ねて短期的な入院をするということで今に至る。そのあとの話はやれ好みのナースがいないだのいても彼氏や旦那持ちだの、暇すぎて死にそうだのと文句ばかりで、他のクラスメイトがどうなったのかを公太はあまり話題に上げなかった。
「で、まーくんはなんで無傷なんだよ」
 片手で器用にペットボトルの蓋を開け、炭酸水を一口飲んで遠慮なしにゲップする。「能力使ったとか?」いつになく真剣な目だ。
「使ってない」
「じゃあ運がよかったって?」
「ほんとにそう。水飲みに外出て、楡井るると会って、戻ろうとしたんだけど、空から変な音が聞こえてきたから見たら何かが落ちてきてて、慌てて逃げたら無事だったってそんな感じ」
「るるちゃんも無事だったんだろうな、それ」
「まあ、一緒に逃げたから」
「ふーん」とどこか疑った相槌に少しの間が空いた。「まあまーくんにしてはよくやったか」独り言みたいな声量で呟いた言葉はやけに上からの物言いだ。
「けどお前、逃げる時手とかつないでないだろうな」
「いや繋いだけど、なに嫉妬?」
「て……」
 公太は背もたれに大きくもたれかかり天井を見上げて右手で髪をかきあげると「はぁーやってんなぁお前」呆れ百パーセントといった具合の声色で言う。
「咄嗟の事だったから仕方ないだろ」
「そうじゃねーよ。能力、使ったんだろどうせ」
 バレた、と思った。なぜ、と疑問が湧いた。顔に出ていたのかはたまた別の要因か。
「お前のやることなんて大体分かんだよ」
「だからなんで」
「いいか、お前の四つある能力のどれも、基本的にはオートで発動するだろ」
「まあ」
「で、発動しないことを意識して生活し続けてるわけだけど、意識することを忘れる状況の時は勝手に発動するわけだ。最初にるるちゃんに会った時もそれで使っちゃったんだろ? そんな風に簡単に能力を使っちゃうやつが、あんな美少女と手つないで、能力を使わないことに意識割くなんて童貞むっつりスケベ大統領にできるわけねーじゃん」
「最後のは関係ないだろ」
「それになぁ……いや、なあもういいかな教えて」
 それまで僕らの話に割って入ってくることもなく黙っていた茜音に公太は話を振った。僕には何のことか見当もつかなかったが、茜音はそれだけで察したらしく「いいんじゃない。今回ので私らだけじゃなくなったわけだし」と許可を出した。
「じゃあ言うけど、覚悟して聞けよ」
「お、おう」
「お前の未来を見る力、言語化された思考を聞く力、本質を嗅ぐ力、触れた他人の過去を経験する力、でこの四番目だけ俺らが知っててお前が知らないことがある」
 指折り数える公太の説明に「はあ、」と僕はどう反応すればよいかも分からず雑な相槌を打ち、公太は公太で「それはな……」なんて変にもったいぶった言い方をしてくる。けれど、状況にのまれているのか、僕もその発表を固唾を呑んで傾聴していた。
「相手側もお前の過去を経験すんだよ」
「はっ?」
「まあ落ち着けって、病院だし。座れよ」
 言われて自分が立ち上がっていたことに気が付かされる。ひっくり返った椅子を元に戻して座り直した。
「つまりだ、俺が知ってる限りでは俺と茜音がお前の過去を経験してるし、るるちゃんも今回の件で同じ状況になってるわけだ。というか、俺たちの時よりもっとひどいかもな」
「じいちゃんとばあちゃんもじゃん……」
「あの能力は、あれ、なんていえばいいんだっけ」
「思考が経験先に寄っちゃうってことでしょ」
「そう! ナイスフォロー。でだ、俺らが経験したのは俺らが小六とかそのくらいの時だろ。それから色々やってきて精神面も複雑なお年頃になってきた、俺らも知らないお前をるるちゃんは経験したことになる。これはもうるるちゃんの性格をガラッと百八十度変えたと言っても過言じゃない」
「それで、じゃあ何をすればいいわけ?」
「いつもそれくらい話が早ければいいんだけどなぁ。まあまずは説明責任を果たすべきじゃないか?」
 ——そうは言われても。
 僕は言葉に詰まった。楡井るるは幸せを憎んでいるし、妬んでいるし、嫌悪している。けれど憧れてもいる。うんざりするような朝の満員電車に乗ってみたくなるし、誰かが羨むような場所に住んでみたくもなるし、同年代の子が当たり前のように送る学校生活を体験してみたくなるのだ。……そしてそれら全てを壊してしまいたくもなる。
 これ以上楡井るると関わることで、今回以上の規模の被害が平気で起こり得るとしたら、もう誰も彼女に関わるべきではない。結局、それが僕の結論だった。
「ねえ。楡井さんのこと全部話して」
 佇まいを直して背筋を伸ばした茜音は「まーくんが見たもの全部、感じたことも含めて」どこか怒りのような感情を含んだ声色で言った。
「話すと長くなるんだけど」
「俺このあと、二十分後くらいから検診あるから手短に」
「じゃあ手出して」
 二人は互いの顔を見合わせ、僕がやろうとしていることの理解と同時に納得を済ませたらしく、公太は右手を茜音は左手を僕の前に差し出した。その二つの手をそっと握る。相手の過去は経験せずに自分の過去の一部だけを送るように意識して。それは跳んだこともない高さの跳び箱を跳ぶときに、「いける」という確信を持つ感覚に近いものだった。一段から順に跳んできた経験がそうさせているように、そんなことができるのか、なんて疑問はまったく浮かばず、直感ができると告げていた。
 ——送れた。
 と思ってから数秒して、二人の手はするりと僕の手から離れ、そのまま口を押さえる役割を担った。俯き、顔色がみるみる悪くなっていく二人を見ながら、「やばいよね」なんていう同情しか思い浮かばない。
「なるほどね、なるほど。はぁー、なんだ、なんか……俺しゃべるの下手くそになってるわ」と背もたれに全体重を預けて仰向けになる公太。
 茜音は嗚咽の中にとめどなく涙を流していている。背中をさすると「ご、めん」と小さく言って肩を震わせるだけだった。
「同性なのもあって、女子の方が百倍きついだろうなこれ」
 数分して立ち直ったのか、公太は他人を気遣えるくらいに回復していた。
「にしても、今回の事件もるるちゃんがやったことだったなんてな」
「まあ」
「同情するけど、やったことがやったことだもんなぁ。同情するけど。あー! やだやだこんなん俺らしくねー。これからのこと考えようぜ」
「そう、だね」
 ずずっと鼻をすすり、涙をぬぐいながら茜音は顔を上げた。見るにまだ気持ちを落ち着かせるのには時間が必要そうだったが、毅然とした態度を心がけているのが僕にも分かった。僕は丸一日以上かかって、茜音やおばあちゃんの力もあってようやくだったのに、二人は自分の脚で立てるんだと素直に関心する。
「真はどうするか決めてんの?」
「うーん、まあ」
「歯切れ悪いな。これ以上関わりたくないとかそんなんだろどうせ」
「悪いかよ。同じような被害が出てからじゃ遅いだろ、巻き込まれたくないし」
「私は、せめて少しでもいい思い出を作ってあげたい」
「俺も左に同じ」
「……気持ちは分かるけど」
「もう起こったことは仕方がないんだよ。死んだ奴は死んだ、怪我したやつは怪我した、それだけだ。仮に法で裁きましょうって言ったって裁判で立証のしようはないし、私怨で殺してやるってんでもどうせ数日後には骨も残らず死ぬんだろ。それで死ぬ時まであんな暗い感情を持ったままなのは、知った以上見過ごせないのが俺だ」
 残酷だと思った。死ぬ間際に見せられる希望なんて、餓死しそうな鎖につながれた獣が、ちょうど届かない位置に食べ物を置かれていることと何も変わらない。いっそそのまま殺してしまった方が、救いなんじゃないのか。
「言いたいことは分かってるよ。でもそれは罰でもあるわけだ」
 ——こいつの方が僕よりよっぽど超能力者だ。
 平然と僕の考えていることを見透かし、その先を言語化して黙らせてくる公太は、心の声が聞こえる僕なんかよりよほど超能力じみている。だからか坊主のくせにやたらとモテていた。一膳しかない割り箸の片一本を床に落として弁当を手で食えばいいのに、なんて思ってしまうくらいには妬ましいやつだ。
「おい、何か悪口を考えてることくらい分かってんだからな」
「そんなことより、具体的に何するか決めようよ」
 待ってました、と言わんばかりに公太は指を鳴らした。
「ほんとは毎年やってた海の家のバイトしたかったんだけど、ほら俺こんなじゃん? できるわけないじゃん?」
「毎年って去年からだけどな」
「で、るるちゃんも誘いたかったけどそうなると三人じゃ気まずいだろ。コミュ力ないし、俺がいないのに俺のおじさんの手伝いしてもらうのも変だし」
「まあそうだね。でも私はまーくんよりコミュ力あるけど」
「知ってるよ突っかかってくんなよいちいち。んで、俺の入院が三十一までなんだけどその日に祭りあんだろ?」
「あるね流星祭。それに行くってこと?」
「そゆこと」
「……、なんでお前の入院そんなに長いんだよ。骨折だろただの」
「検査があんだよ検査が。どばっと患者が来たから、俺みたいに軽症のやつらは後回しになってんの」
「へー」
 面倒くさそうに答えた公太に対して、実際のところ、何のどんな検査をしているのかとか、他のクラスメイトの様子だとか、聞きたいあるいは後で教えて欲しいと思うことはあったけれど、僕も興味なさげに返事をした。多分それらを聞いても「知らん」としか返ってこなさそうな気がしたから。
「そんじゃもう時間だし、俺は戻るわ」
 言って公太が立ち上がったので、テーブルの上を片付けて僕らも席を立つ。その場で解散でもよかったが、なんとなくの流れで病室まで送ることになり、来た道を戻っていく。
「にしても海のバイトはやりたかったなぁー」
「どうせ穴場目当てだろ」
「それはそう。あとはるるちゃんの水着姿とかな」
「誘っても来ないんじゃね?」
「もう誘ってあるし来るっても言ってたから残念なんだよ」
「手がお早いこって。それなら祭りの誘いもやっといてよ」
「いやだ。それはお前がやれ」
「はぁ?」
 病室へと戻ってきて、公太はガラガラとドアを開け振り返った。
「誘えなかったら俺の宿題全部お前にやってもらうからな」
「いや、おい」
「そんじゃお見舞いありがとな」
 ドアがピシャンと閉められた。茜音はもう歩き出していて、「早くしないと置いてくよ」一人取り残された僕は慌てて茜音のあとを追った。
「そういやさ、思考とか性格が寄るって話はさ、茜音とかハム太にも影響してるんだよな」
「してるよ」
「大丈夫なん?」
「さあ? 分かんない」
「そんなてきとうでいいのかよ……。人格が変わってるかもってことなんだろ」
「変わっててもいいよ別に」
「なんで」
「だって」
 自動ドアをくぐって外に出る。空気は一変して、来るときよりも一層の厳しさが降り注ぐ夏の日差しと暑さに、僕は身震いを起こした。
「自分らしさなんてのは曖昧なものだから、何をどうしてどうなったって、私は私でしょ」
 眩しい、とそう思った。そうなれたならどれだけいいのだろう。そしてそんな人たちが二人も自分の隣にいてくれていることが何よりも誇らしかった。
「じゃ、るるちゃんの件は任せた! 失敗したら私の分の宿題もやってもらうからね」
 茜音はそう言って返事も聞かずにバス停の方へと歩いていった。
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