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1章

子爵令嬢アイリーン

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 この帝国には死神伯と呼ばれる男がいる。

 戦場に出れば黒みを帯びた髪を黒い血液まみれにしながら辺りを血の海にする武人で、ひとたび銀色の恐ろしい目に睨まれた者は金縛りにあったように動けなくなると言われた。

 本名、ユリシーズ・オルブライト。
 戦場で出会うと生きて帰れないという噂から、死神伯という名で呼ばれ、そちらの方が有名になった。

 戦場での印象ばかりが語られ、その性格や外見はあまり語られることがない。
 帝国内では、死神伯が味方であったことが幸運そのものだったと唱える者も多かった。

 帝国が五年戦争に勝利し、死神伯は帰還した。
 皇帝は無事に戻った英雄を讃え、なんでも好きなものをやると提案をした。

「陛下の縁戚に当たる公爵家の次女、クリスティーナ様を伴侶にいただきたく」
「クリスティーナを……?」

 死神伯が花嫁を望むとは誰も思っていなかった。

 なんでもやると人前で言ってしまった手前、皇帝は前言撤回などできない。

 クリスティーナ姫は器量も良かったが、皇帝の息子である第四皇子に嫁ぐことが内密に決まっていた。
 彼女ほど、皇室に適している女性はいない。

「……それが本当の望みなのか?」

 皇帝は再度確認した。
 金銀や宝の類なら、なんでも与えるつもりだった。
 相手があるのでやはり難しいですねと、申し出てくれればいいと願いながら。

「クリスティーナ様との婚姻を」
「どうしてだ? クリスティーナでなければいけないのか?」
「クリスティーナ様を長くお慕いしております故……」
「長く? どこかで会ったことがあっただろうか」
「三年前の、激励会の際にクリスティーナ様がいらしておりました」
「……見かけた程度ではなかったのか?」
「あのような素晴らしい方に、この先、出会える気がしません」

 皇帝は当時の行事を思い出す。
 負傷した兵士たちの前に「激励会」という体で派遣した当時16歳のクリスティーナ。
 戦争中の兵士たちにとってはさぞ綺麗なものに見えたのだろう。

「それは恋や愛とは違い、憧れのようなものではないだろうか」
「この三年間、クリスティーナ様を思い出さない日はありませんでした」
「そうか……」

 皇帝は、自ら誓ってしまった。ここで断ることなどできない。

「分かった。クリスティーナとの婚姻を進めるように取り計らおう。彼女は戦の類には疎い。どうか優しく包むように接してやって欲しい」

 この婚姻は必ず成立させなければならない。
 クリスティーナがこの事実を知りショックで自害しようものなら、戦争の英雄がどこで牙を剥くか分からない。

 戦場で無敵と言われた死神伯は、平和な世になるとその力を持て余し始めた。

 皇帝は帝国のために一大プロジェクトを立ち上げる。

 クリスティーナの身代わりを探し、死神伯に疑われることなく嫁がせる——。
 一生嘘をつき続けてもらわなければ、どんな惨状を見ることになるか分からない。

 そうして、一人の子爵令嬢が選ばれることになったのだ。




 薄暗い部屋の中。
 テーブルには四人の男が座っていて、ろうそくの灯だけがその上を照らしている。
 一人の男がカードを開いて見せると、他の男たちがため息をつきながら手持ちの札をテーブルに投げていた。

 ーーこの勝負は、私の父が勝ったらしい。

「残念でしたな。我が娘は本日も生娘のまま自宅に連れて帰ることができそうです」

 三人の男たちは心底悔しそうな顔を浮かべ、私の金色の髪を頭から腰のあたりまで舐めるように見つめた。

 紺色のドレスに隠された腹部と背中には母に打たれた鞭の痕が残っているというのに、父は私を賭博場に連れて歩く。

 そうして借金を抱えそうになったら、私を賭けに出して逃げようとするのだ。
 名目は「娘の婚約者を探している」と言っているけれど、どう考えても私を差し出す条件で賭けをしている。
 男性というのは、目の前に女性をちらつかされると賭けに弱くなるのだとか。
 というのは、父の持論だけれど。

「さあ、帰ろうか、アイリーン」
「……」

 帝国は戦時中で、多くの男性が戦地に赴いている。
 そんな中で、戦地に行かない貴族男性たちはこっそりと集まり賭博に明け暮れていた。
 もうすぐ帝国が勝利するらしいという噂だけが行き交っているけれど、他国を攻めている我が帝国がどんな戦いぶりをしているのかは分からない。

 私の父は杖をつきながら左足を引きずり、部屋を出ようと私を目で合図した。
 足が不自由だと扉が開けられないから、私が父のために前を歩けという意味だ。

 部屋を出た時、小さな声で「アイリーン嬢が手に入るなら、どんな財宝も霞んでしまうな」と男の声がしたのが聞こえる。
 どうしてこの世の男性は、私を見るとけがらわしい視線を向けながらああいうことしか言わないのかしら。

 父がカードゲームをしている間、複数の目がこちらを舐め回すように見ながら物欲しそうな目を向けてきた。気持ちの悪い時間の余韻が残っていて吐き気がする。

「何をむすっとしているんだ。お前のためにあれだけの金をかける男たちを見て、滑稽だとは思わないのか?」
「滑稽だと思ったとしても、あんな厭らしい目で見続けられたら笑えません」
「それだけ魅力的に生んでやった親に感謝をして欲しいものだ」

 よく言うわ。私を売ることしか考えていないくせにーー。

「お前の婚約者が戦死してしまったせいで、また新たな婚約者を探さねばならない親の身にもなりなさい」
「……」

 どうして、結婚なんかしなくちゃいけないのかしら。
 男の人なんて嫌い。大っ嫌いよ。
 みんな私のことをじろじろと見定めるように眺めては、まだ生娘だと知ると色めきだって手に入れようとする。
 自分たちは娼館にだって通うくせに、女には純潔を求め、理想の女性を語る。

 男の人にとっての理想になんかなりたくない。
 それなのに、両親は没落貴族であるクライトン子爵家を救ってくれるような男性を探している。

 私は夜の街に連れ出されて限られた人たちだけに見世物にされ、「幻の美女」という噂が立てられていた。

「できれば、大物に嫁いでもらわないとならないからな」
「戦死した婚約者の方は、ひと回りも上の方でしたが」
「なにを言っている? 最高だっただろう?? 侯爵家でお前を第二婦人として迎えてくれると約束してくれたし、我が家への援助も素晴らしかった」

 あんな、脂ぎった中年男のどこが最高なのかしら。
 故人を悪く言うのは気が引けるけれど、戦死の報告を聞いた時にホッとしている自分に気付いた。
 あの人は私のことを第二婦人で迎えるとと言いつつ、妾同然の扱いをしようというのが明らかだったわ。

「どうした? 言いたいことがあるのなら言うがいい」
「……いいえ」

 本心を言おうものなら、あとでどんな仕打ちをされるか分からない。
 それなら、なにも言わずに黙って従うほうがいい。

「なんでもありません」

 私が答えると、父は満足げにうなずいた。

 私の名前は、アイリーン・クライトン。
 もうすぐ18歳、成人になる。

 そうしたら、誰かのところに嫁がされてしまう運命には逆らえそうにない……。


  *

 帝国が戦争に勝利し、五年戦争が終結した。
 戦地に行っていた男性たちが戻ってくると、両親は私の売り先を探しに毎日忙しい日々を送るようになりーー。
 その間、平穏な日々が過ごせるようになっていた。

「クゥーン」
「よしよし、いい子ね」

 我が家の厩舎の横には、控えめな大きさの犬小屋がある。
 そこに繋がれた白い大型犬を撫でながら、キラキラとした黒い目がこちらを見て嬉しそうにしているのを見ていた。

「お座り」

 ふわふわの尻尾が振れて、さっと座った。一生懸命に遊んで欲しいという目を向けてくる。

「偉いわ。次は伏せ」

 こちらを見ながら、身体を地面にぺたりとつけて私から褒められるのを待っていた。

「よくできました。おやつをあげる」
「ワウッ」

 小さな干し肉を差し出すと、咀嚼しながらこちらを覗き込んでくる。
 思わずぎゅっと抱きしめて、身体をわしわしと撫でた。
 この家で、一番大好きな子。

「ラルフ。私がいなくなっても元気にしていてね。もう少ししたら、お嫁に行かなくちゃならないの」
「クゥーン」
「大丈夫よ、厩務員さんたちが良くしてくれるから」
「アウウ」
「私は……ラルフがいなくちゃ寂しくてダメかも」

 犬はどうしてこんなにかわいいのかしら。
 男の人に、このかわいさが少しでもあればいいのに。
 結婚なんかしないで、ずっと犬と戯れていたい。
 家族になんか興味はないし、好きでもない誰かの子どもを産まなくちゃいけないなんて。

「いや……。お嫁さんになんかなりたくない……」

 いつの間にか目から涙が溢れると、ラルフは頬をぺろりと舐めてくれる。
 あたたかくて、かわいくて、涙が止まらなくなってしまった。

「こんなところにいたのですか、アイリーン嬢」

 急に呼ばれて振り向くと、役人がぞろりと立ってこちらを見ている。

「なんですか?」
「おめでとうございます。皇帝陛下の命で、あなたはオルブライト伯爵に嫁ぐことになりました」
「オルブライト伯爵……って……」

 聞いたことがあるなと思ったけれど、恐らく会ったことのある方ではない。
 なんだったかしら、オルブライト伯爵……。

「帝国は戦争に勝利しました。その功績に一番貢献したオルブライト伯爵が配偶者を求めたというわけです」
「どうして、私が……?」
「アイリーン嬢の御父上が、ずっとあなたの婚約者を探していたのをうかがいまして」
「はあ……」
「皇帝陛下の願いとあれば、クライトン子爵も是非とのことでしたが、まだご本人には伝わっておりませんでしたか」

 お父様が、私をまた売った。
 売り先を決めるまでもっと時間がかかると思っていたのに、それだけ我が家が切羽詰まっていたのだろう。

 今度の相手は金持ちの人でなしではなく、皇帝……。
 どう考えても、逃げられない。

「一体、何が待っているのでしょうか?」

 私を取り囲んでいる役人に睨みながら尋ねると、「それは行けば分かります」と言われて両手は後ろ手に、口は塞ぐように縛られる。

「手荒なことをして申し訳ございません。下手なことをされては困りますので」

 下手なこと、というのは私が自害でもすることだろうか。
 両親が家から出てきて、縛られている私を満足げに見ている。

「ご協力、大変感謝いたします」

 役人の人たちは両親に丁寧にお礼を言っていた。
 私を道具としか考えていない二人は、「帝国のためですから」と白々しいことを言って得意そうに笑っている。

「これは名誉なことなのよ、アイリーン」

 お母様がいつもの意地悪な顔で言った。
 この顔は、私を屋根裏部屋に閉じ込める時のものと同じ。
 私のためだと言って折檻を正当化し、自分のストレスを私にぶつける時の歪んだ笑い方だった。

 私を不幸にできることが、そんなに愉快かしら。
 心から私の絶望を望んでいるような顔。

 既に私は口に当てられた布のせいで言葉を発することができない。
 何か言えれば、嫌味のひとつでも言って差し上げたのに。
 私が睨んだのが分かったのか、お母様はくすりと笑った。

 お父様はまるで何も感じていないような無表情を浮かべ、杖で不自由な足を支えている。
 実の娘がどこかに連れていかれるというのに、飼育に困った家畜を売りに出すような感覚しかないのだろう。

 私は役人に囲まれながら家を出た。
 手荒にこそされなかったけれど、人の扱いをされている感覚はない。
 馬車に乗せられて扉が閉められると、そのままどこかに向かって走り出した。

 この先に辿り着く場所に、私の運命が待っている。
 私は、皇帝陛下に売られたのね。
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