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2章
あなたに会いたい
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思えば、男の人にぞっとしなかったことがない。
ユリシーズが、唯一だった。
唯一、触れられても嫌ではなかった。
今になって思う。私は、ユリシーズの妻として生きる運命を受け入れていたのだと。
馬車の中、目の前の男に施されたキスに、身体中がぞわっとして鳥肌が立った。
胸やけがして気持ちが悪い。全身が嫌悪感を叫んでいる。
絶望と怒りでおかしくなりそうになり、自分を探る男の唇を思い切り噛んだ。
「このッ……」
軽く突き飛ばされて馬車の壁に頭を打つ。男を睨むと、その唇が切れていた。
男は私に殴りかかろうとして震えていたけれど、暫くしてその衝動を抑えることに成功したらしい。
「私に暴力を奮うつもりなら、この場で舌を切って死んでやるわ!」
男は振り上げた拳を降ろし、唇から滴る血を拭っていた。
任務が全うできなくなったら問題だと理解したのだろう。
血の味が口の中にじわりと広がり、目の前の男の物だと気付いて吐き気がする。
「そういうところが、あの男には良かったのか」
納得したのだろうか。そう言って私から離れて座り外の景色を見ていた。
馬の蹄だけが軽快な音を立てている。
***
もう二度と来ないと思っていた公爵家のお城。着いた時には陽が暮れていた。
ユリシーズのお屋敷にいるようになって貴族階級の環境に慣れ始めていたけれど、改めて来てみると別格だ。
ここは間違いなく「ロイヤルデューク」の住む場所なのだ。
馬車から降りると、護衛の数が1人から5人に増えた。
大きな男性に囲まれて歩く。前後左右、周りが見えない。行く場所も自然と誘導されてしまう。
少し前に過ごしていた場所だというのに、まるで違う空気が流れている。
殺伐としていて、人の存在をまるで感じない。
ーークリスティーナ姫がいないからだわ。
以前使っていた部屋に案内され、外側から鍵をかけられた。
この間は、閉じ込められたりしなかったのに。
このままだと滅入りそうで、バルコニーに出て外の空気でも吸おうと歩く。
影が動いていたので目をやると、鏡に映っている自分だった。
首から流れた血と口から溢れたらしい血が白い肌にくっきりと線を描いている。
肌ばかりではない。ユリシーズから買ってもらった水色のドレスまでもが、黒っぽく汚れていた。
よりによって胸元の一番目立つ位置に大小の水玉模様ができている。早く洗濯をすれば落とせたかもしれないけれど、どうやら絶望的だ。
「もう、やだ……」
思い切り泣きたい。
このドレスを似合うと言ってくれたユリシーズを思い出す。
あの時、頬を染めて嬉しそうに私の姿を見ていた。
最初から私を受け入れてくれて、大切にしてくれていたのに。
私がつまらない意地を張ってユリシーズを遠ざけたから、隙ができて付け込まれてしまったんだわ。
悔しくて身体が震える。
公爵家の護衛に、物同然の扱いをされた。
ここには、私の身を心配してくれる人はいない。
昨日の朝は、茹で卵の殻を剥いてくれた夫がいたのに。
私が人質になったとき、屋敷のみんなはあんなに動揺して心配そうに、悲しそうな顔をしてくれたのに。
「ユリシーズ……」
名前を呟くと、目にじわりと涙が溜まった。
一方的に怒ったままで、怒った理由も伝えられていない。
危険な猪狩りは心配だから、一緒にいてと言えばよかった。
あなたに会いたい。
昼と夜のユリシーズを思い出しながら、バルコニーから外を見ていた。
景色に見えるのは整った庭木と美しい花壇。作り物みたいで、ひどく無機質だ。
ここは3階の部屋で、抜け出すのは難しそう。
下は石造りの床になっているから、飛び降りたら身体が無事では済まない。
結局この日、私の一日は部屋の中で終わった。
着替えを用意され、血を拭きたいと願い出たら濡れた布を渡されたりはしたけれど、夕食も軽食が配膳されて部屋は鍵がかけられたままだった。
公爵家に来てから、誰とも会話をしていない。
バルコニーから輝く月を見ている。
少しだけ欠けた月は満月までもう少し。
ユリシーズはディエスからノクスに変わっている頃。
勝手に出て行った私を怒っているかしら。それとも、落ち込んでいる?
昨日の夜は部屋に尋ねてきたあなたを追い返してしまったけれど、前の日は、ずっと私を甘噛みしながら大きな尻尾を振って嬉しそうにしていた。
ボール遊びに付き合った私と一緒に居られるのが幸せだと言ったノクスに、「そんなに幸せなのだと言うなら、ずっと私といればいいんだわ」と言ったら、「言われなくても、そのつもりだ」と返してくれた。
ねえ、人狼は伴侶がいなくなると食べ物が喉を通らなくなると言っていたけれど、私がいなくなって衰弱したりはしない……?
こうなってみると、私の身よりもユリシーズが心配になる。
早く家に帰らなきゃ……。
空に浮かぶ十二夜の月は、もう少しで満月になろうとしている。
獣の生き血は、明後日ノクスが飲むことになっているはず。
猪は捕まえられたのかしら。
次の日の朝、朝食を終えると公爵様からお呼びがかかった。
クリスティーナ姫のドレスを着せられ部屋に到着すると、「『クリスティーナ』か。入りなさい」と声を掛けられた。
クリスティーナ姫の扱いをするなら、ゲスト用の部屋に私を閉じ込めたりしないで欲しい。
鍵をかけて自由を奪うなんて。
「昨日の夜にはこちらに到着しておりましたが、『お父様』はわたくしに会いたくなかったのですね」
部屋に入った第一声が反抗的だったからだろうか。公爵様の脇に控えていた護衛が剣の柄に手をかけてこちらを睨む。
そんな脅し、怖くなんかないわ。
最初から殺すつもりなら、ここに来るまでにいくらでもチャンスがあった。
わざわざこんな手間のかかることはしなかったはずだから。
「そう怒るな。昨日は到着したのも遅かった上、疲れているだろうと思って遠慮したのだ」
公爵様は、珍しく父親らしい理由を述べる。
「そんな配慮をして下さるなら、連れて来る方法がもっとあったのではないですか?」
私が頭を下げずに堂々と言うと、護衛の中の誰かから「無礼な」という野次が飛んできた。
どちらが本当に無礼なのか、今一度考えていただけないものかしら。
「それで?『お父様』はわたくしをこんな風に呼びつけて一体どうされたのでしょう?」
「話が早いな。悪くない。『クリスティーナ』以外は下がれ」
公爵様は護衛を全て部屋から追い出すように人払いをした。
私相手なら護衛がいなくても危険ではないということなのか、それとも護衛にすら聞かせたくないことを聞かされるのか。
公爵様は、顎に手を当てて赤い髭を撫でている。
表情が驚くほど読み取れない。口角を上げているけれど、笑っているようにも怒っているようにも見えてしまう。
私は今、目の前の公爵様と同じ髪色をした『クリスティーナ』としてここにいるけれど、こんな父親を持ったとは到底思えない。
目の前の公爵様は、自分の感情にすら平気で嘘をつきそうな人だ。
実の父親もだけれど、急にできた父親も大概だわ。
「どうやら、込み入ったお話がおありのようですね、『お父様』」
付け焼刃だけれど、渾身のクリスティーナ姫演技を始めよう。
ユリシーズを傷つけ、未だに命を狙っているという公爵様がこの人だというのなら。
こんなところで負けてはいけない。
ユリシーズが、唯一だった。
唯一、触れられても嫌ではなかった。
今になって思う。私は、ユリシーズの妻として生きる運命を受け入れていたのだと。
馬車の中、目の前の男に施されたキスに、身体中がぞわっとして鳥肌が立った。
胸やけがして気持ちが悪い。全身が嫌悪感を叫んでいる。
絶望と怒りでおかしくなりそうになり、自分を探る男の唇を思い切り噛んだ。
「このッ……」
軽く突き飛ばされて馬車の壁に頭を打つ。男を睨むと、その唇が切れていた。
男は私に殴りかかろうとして震えていたけれど、暫くしてその衝動を抑えることに成功したらしい。
「私に暴力を奮うつもりなら、この場で舌を切って死んでやるわ!」
男は振り上げた拳を降ろし、唇から滴る血を拭っていた。
任務が全うできなくなったら問題だと理解したのだろう。
血の味が口の中にじわりと広がり、目の前の男の物だと気付いて吐き気がする。
「そういうところが、あの男には良かったのか」
納得したのだろうか。そう言って私から離れて座り外の景色を見ていた。
馬の蹄だけが軽快な音を立てている。
***
もう二度と来ないと思っていた公爵家のお城。着いた時には陽が暮れていた。
ユリシーズのお屋敷にいるようになって貴族階級の環境に慣れ始めていたけれど、改めて来てみると別格だ。
ここは間違いなく「ロイヤルデューク」の住む場所なのだ。
馬車から降りると、護衛の数が1人から5人に増えた。
大きな男性に囲まれて歩く。前後左右、周りが見えない。行く場所も自然と誘導されてしまう。
少し前に過ごしていた場所だというのに、まるで違う空気が流れている。
殺伐としていて、人の存在をまるで感じない。
ーークリスティーナ姫がいないからだわ。
以前使っていた部屋に案内され、外側から鍵をかけられた。
この間は、閉じ込められたりしなかったのに。
このままだと滅入りそうで、バルコニーに出て外の空気でも吸おうと歩く。
影が動いていたので目をやると、鏡に映っている自分だった。
首から流れた血と口から溢れたらしい血が白い肌にくっきりと線を描いている。
肌ばかりではない。ユリシーズから買ってもらった水色のドレスまでもが、黒っぽく汚れていた。
よりによって胸元の一番目立つ位置に大小の水玉模様ができている。早く洗濯をすれば落とせたかもしれないけれど、どうやら絶望的だ。
「もう、やだ……」
思い切り泣きたい。
このドレスを似合うと言ってくれたユリシーズを思い出す。
あの時、頬を染めて嬉しそうに私の姿を見ていた。
最初から私を受け入れてくれて、大切にしてくれていたのに。
私がつまらない意地を張ってユリシーズを遠ざけたから、隙ができて付け込まれてしまったんだわ。
悔しくて身体が震える。
公爵家の護衛に、物同然の扱いをされた。
ここには、私の身を心配してくれる人はいない。
昨日の朝は、茹で卵の殻を剥いてくれた夫がいたのに。
私が人質になったとき、屋敷のみんなはあんなに動揺して心配そうに、悲しそうな顔をしてくれたのに。
「ユリシーズ……」
名前を呟くと、目にじわりと涙が溜まった。
一方的に怒ったままで、怒った理由も伝えられていない。
危険な猪狩りは心配だから、一緒にいてと言えばよかった。
あなたに会いたい。
昼と夜のユリシーズを思い出しながら、バルコニーから外を見ていた。
景色に見えるのは整った庭木と美しい花壇。作り物みたいで、ひどく無機質だ。
ここは3階の部屋で、抜け出すのは難しそう。
下は石造りの床になっているから、飛び降りたら身体が無事では済まない。
結局この日、私の一日は部屋の中で終わった。
着替えを用意され、血を拭きたいと願い出たら濡れた布を渡されたりはしたけれど、夕食も軽食が配膳されて部屋は鍵がかけられたままだった。
公爵家に来てから、誰とも会話をしていない。
バルコニーから輝く月を見ている。
少しだけ欠けた月は満月までもう少し。
ユリシーズはディエスからノクスに変わっている頃。
勝手に出て行った私を怒っているかしら。それとも、落ち込んでいる?
昨日の夜は部屋に尋ねてきたあなたを追い返してしまったけれど、前の日は、ずっと私を甘噛みしながら大きな尻尾を振って嬉しそうにしていた。
ボール遊びに付き合った私と一緒に居られるのが幸せだと言ったノクスに、「そんなに幸せなのだと言うなら、ずっと私といればいいんだわ」と言ったら、「言われなくても、そのつもりだ」と返してくれた。
ねえ、人狼は伴侶がいなくなると食べ物が喉を通らなくなると言っていたけれど、私がいなくなって衰弱したりはしない……?
こうなってみると、私の身よりもユリシーズが心配になる。
早く家に帰らなきゃ……。
空に浮かぶ十二夜の月は、もう少しで満月になろうとしている。
獣の生き血は、明後日ノクスが飲むことになっているはず。
猪は捕まえられたのかしら。
次の日の朝、朝食を終えると公爵様からお呼びがかかった。
クリスティーナ姫のドレスを着せられ部屋に到着すると、「『クリスティーナ』か。入りなさい」と声を掛けられた。
クリスティーナ姫の扱いをするなら、ゲスト用の部屋に私を閉じ込めたりしないで欲しい。
鍵をかけて自由を奪うなんて。
「昨日の夜にはこちらに到着しておりましたが、『お父様』はわたくしに会いたくなかったのですね」
部屋に入った第一声が反抗的だったからだろうか。公爵様の脇に控えていた護衛が剣の柄に手をかけてこちらを睨む。
そんな脅し、怖くなんかないわ。
最初から殺すつもりなら、ここに来るまでにいくらでもチャンスがあった。
わざわざこんな手間のかかることはしなかったはずだから。
「そう怒るな。昨日は到着したのも遅かった上、疲れているだろうと思って遠慮したのだ」
公爵様は、珍しく父親らしい理由を述べる。
「そんな配慮をして下さるなら、連れて来る方法がもっとあったのではないですか?」
私が頭を下げずに堂々と言うと、護衛の中の誰かから「無礼な」という野次が飛んできた。
どちらが本当に無礼なのか、今一度考えていただけないものかしら。
「それで?『お父様』はわたくしをこんな風に呼びつけて一体どうされたのでしょう?」
「話が早いな。悪くない。『クリスティーナ』以外は下がれ」
公爵様は護衛を全て部屋から追い出すように人払いをした。
私相手なら護衛がいなくても危険ではないということなのか、それとも護衛にすら聞かせたくないことを聞かされるのか。
公爵様は、顎に手を当てて赤い髭を撫でている。
表情が驚くほど読み取れない。口角を上げているけれど、笑っているようにも怒っているようにも見えてしまう。
私は今、目の前の公爵様と同じ髪色をした『クリスティーナ』としてここにいるけれど、こんな父親を持ったとは到底思えない。
目の前の公爵様は、自分の感情にすら平気で嘘をつきそうな人だ。
実の父親もだけれど、急にできた父親も大概だわ。
「どうやら、込み入ったお話がおありのようですね、『お父様』」
付け焼刃だけれど、渾身のクリスティーナ姫演技を始めよう。
ユリシーズを傷つけ、未だに命を狙っているという公爵様がこの人だというのなら。
こんなところで負けてはいけない。
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