Boys Don't Cry

尾崎ふみ緒

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1時限目【わたしの可愛い男の子】

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「いらっしゃい」

 凪南ななみは彼の手を取ると、保健室の中へと入る。彼、北野伊織は凪南に促されるがまま、戸惑いながらも凪南の後に続く。そして、凪南は椅子に、伊織は彼女と向き合うようにベッドへ腰かける。
 遠くからは体育館やグラウンドの部活動の声が時折聞こえてくるが、ここの周囲は人影も音もない。夕暮の仄暗さの中、二人の息づかいだけが部屋に響く。
 しばらく無言のまま、二人は見つめるともなく視線を交わし合い、この次の展開をどうしたらいいのか互いの思惑を探っていたが、沈黙を破ったのは伊織の方だった。
「先生、あの……僕、正直どうしたらいいのか分かんなくて……」
 俯き、震える声で小さく呟く。そして、
「やっぱり駄目です。僕には出来ません。ごめんなさい。帰ります」
 と言って立ち上がりそうになるが、凪南は再び彼の手を取り、引き留めると、伊織を真っ直ぐ見据えてこう語りかけた。
「何も心配しなくて大丈夫だから。北野君は、思ったままのことをすればいいのよ。私が教えてあげるから」
 凪南の声は、穏やかに、しかし強く伊織を誘う。その誘惑には、伊織の不安を打ち消す冷静さと、これから起こることへの期待を隠そうともしない余裕が含んでいた。凪南のこの態度に、伊織は自分の未熟さをまざまざと感じられて恥ずかしくなった。
 先生は何度も経験してるから、怖くないんだな。僕は、初めてだから… …。どういうものか知りたい………、けど、踏み出すのが怖い……、でも、知りたい……。未知の世界への、不安と好奇心がぐるぐると頭を駆け巡る。
「本当にいいんですか? 僕みたいなのが相手で……」
 伊織は心配そうに聞いてみるが、凪南は言葉では答えなかった。伊織の顔を両手で包むと、ゆっくりと唇を重ねてきた。そっと優しく、唇の柔らかさだけを味わう甘いキス。互いの唇の感触を確かめる。
 これが一度目のキス。そして、少し離して、二度目は大人のキスをする。
「口、開いてみて」
 伊織が凪南の言うとおりにすると、彼女は伊織の口へ自分のを重ね、舌を中へ差し入れてきた。舌と舌が触れあう初めての感覚に驚くが、凪南に「私のするようにしてみて」と言われ、真似をしていると、徐々に彼女の舌の動きと絡み合い、その粘りつく感覚が癖になってくる。
 舌の先を擦り合い、口の中を舐め回し、唾液を吸い合っていると、伊織は今まで感じたことのない昂ぶりを感じた。体の奥から突き上げてくる、強烈な欲望。心も体も、求める者は目の前の凪南だけ。その思いを察したように、凪南は伊織の胸をシャツ越しに撫でさすり、刺激してくる。
 彼女の手の誘惑に、伊織はもう遠慮はしなかった。
「じゃあ、本当にいいんですね」
 こう言うと、伊織は凪南を抱き寄せた。


 ちゃぷん。
 湯の中に体を沈め、ふう~ っと息を吐く。湯気で曇った視界が夢見心地で気持ちよく、お湯の温かさで体が緩んでいく。いつもはこれで充分なはずだ。しかし、今日は違った。
 湯船に入って体にお湯をまとわり尽かせても、いつものようには緊張がほぐれない。右手で体のあちこちを撫でるように揉みほぐすが、むしろその行為が、彼の手の感触を思い出させる。思わず顔が火照るのを感じ、湯の中に頭ごと浸かり、記憶を外に追い出そうとしてみるが、意識すればするほど、記憶はむしろ鮮明になっていく。
「くはぁっ」
 顔を湯から上げると、息苦しさで頭がクラクラした。ああ、バカなことをしたと苦笑いする。そう、今日のことも。
 凪南は苦さと甘さの入り交じった思いで、今日のことを振り返る。 今日も何でもない一日のはずだった。
 いつもと同じように授業をし、生徒たちや同僚たちと他愛ない話で時間が流れ、何も特別なことはないけど安心する、そんな一日だろうと思っていた。
  それがなんの間違いで、あんなことをしでかしたのか。凪南は今日の自分が信じられなかった。自分があんなことをする大胆さを持ち合わせていたなんて、思いもしなかった。
 あれは間違いだった。そう思う一方で、今日でなくても、いつか同じことをしていたかも知れず、だったら、早いうちに彼を自分のものにしておいて良かったじゃないか、と満足げな黒い自分もいた。
 自分の欲望の底知れなさに呆れながら、伊織のことを考える。
 凪南にとって北野伊織は、取り立てて目立たず、大人しい、普通の生徒で、正直なところ「その他大勢」の平凡な少年、という印象でしかなかった。半年前のあの瞬間までは。
 初夏のある日、昼休みが終わる頃、午後の授業のために二年E組の教室に向かっていた時のことだった。生徒でごった返す廊下で一人、ぼんやりと外を眺めていた北野伊織の姿が目に入った。
 眉根はキリリと鋭く、眼鏡の奥の眼差しは澄んで思慮深く、唇は引き締まっていた。もう子どもではなくなった落ち着きの中に、自分を持て余している幼さが入り混じった横顔の物憂げな様子は、彼を周囲から浮き立たせていた。
 そんな伊織の奇妙に大人びた雰囲気に、凪南は彼が急に男として存在し始めたような気がしてどきりとした。そんな自分の感情に動揺していると、凪南の視線に気づいたらしく、伊織はこちらを見やる。
 凪南の感情に気づいたような、透明で純粋な目。そんな目に射貫かれて、凪南は自分の邪な感情を恥じるように目を逸らしたが、それからは伊織を見るたびに、彼を視線で追いかける癖がついてしまった。
 授業中の気怠そうな色気に、友人たちと戯れる時の無邪気な笑顔に、体育の授業中の真剣な顔に、内心うっとりと見蕩れていた。
 何も思春期の初恋でもあるまいに、と自分を笑いそうになるが、焦がれる気持ちが募ってくるのは抑えようがなかった。夜、伊織を思い、体の奥が疼いてくるのも一度や二度ではない。
 もちろん、理性では生徒に手を出すような教師など言語道断だと分かっているし、特に美しいわけでも聡明でもない年上の、二十四の女を、年頃の男の子が相手にするはずがないのも分かっている、でも、心の奥底では、伊織が欲しくてたまらない。
 だから、せめて夢の中だけでも彼に抱かれていたい。そう思っていただけだったのに。

 それは放課後のことだった。
 今日一日の授業が終わって、生徒たちは散らばり、がらんとした教室の中、一人頬杖をついて物思いに耽っている伊織を見たのは偶然だった。しばらく廊下からそっと見ていたが、彼には珍しくどこか寂しげで影のある雰囲気が気になり、声をかけてみる。
「どうしたの?  早く帰らないと、花子さんが出るぞ」
 軽い感じで声をかける。伊織は急に声をかけられ、びっくりした顔で凪南を見る。
「いや、ちょっと今日は疲れちゃったから、ゆっくりしてただけです。そろそろ帰るんで、大丈夫ですよ。ていうか、花子さんって。小学校じゃないんですから。」
 そう言いながらも、立ち上がる気配はない。むしろ凪南が現れたことで、落ち着かなくなってしまったようにも見える。伊織の中に、つかえて吐き出したいものがあるらしいことは、一目瞭然だった。
 凪南は教室の中に入ると、伊織の前の席の机に行儀悪く座る。
「何か話したいことがあるなら、私で良かったら聞くよ」
 凪南は生徒の問題に向き合おうと、気遣うように言ったつもりだったが、伊織は逆に態度を硬化させた。
「いえ、いいんです。何も、何でもないです。僕のことなんか気にしないでください。本当に何もないですから」
 そう頑なに否定しているが、否定すればするほど伊織の言葉にならない思いは、言葉の端々から滲み出ていた。
「そうかな、何でもないようには見えないけどな。気になることがあるなら、頭の中だけでモヤモヤ考えてないで、言葉にして向き合った方が北野君のためにもなると思うけどな」
 この言葉には、凪南の実感がこもっていた。言葉にする不安と、言葉にして向き合った時の力強さ。この両方が分かるだけに、伊織の言葉にならない思いに付き添おうと思ったのだ。
 しかし、伊織は苦笑いをしながら、頭を振る。
「でも、僕の考えてることなんて、バカみたいにくだらないですよ」
「どんなこともくだらくないわよ。どんな些細なことでも、君の大事な感情なんだから。きっと、私みたいなのでも力になれると思うんだ」
「でも……」
「大丈夫、ここで言ったことは誰にも言わないから、ね、言ってみて」
 凪南の思いが伝わったのか。伊織は一度小さく頷くと凪南に向かってこう言った。
「先生って、好きな人いますか? 」
 凪南は急には自分に話を振られて面食らう。
 好きな人、それはいる。それも、目の前に。
 しかし、そんなこと言えるわけがない。教師が生徒に懸想しているなんて、バレたら退職ものだ。
 だから、どぎまぎしつつ平静を装い話をごまかす。
「好きな人、かー。最近とんとそういうトキメキはないなー。ははーん、さては恋バナだな。北野君、恋してるんだ。いいなー、恋。私もしたーい」
 凪南のおどけた口ぶりに、少し照れたように笑った。
「好きっていうか、気になってるだけなんですけど」
「気になってるって、それ好きなんだよ。へえ、で、誰誰?  」凪南の心に雲が影刺す。
そうだよね、好きな人がいるくらい当然だよね。それはきっと……私なんかじゃなくて、他の誰かだろうな。
しかし、凪南はそんな気持ちを顔に出さないよう、努めて明るく振る舞う。そんな凪南の軽口に、伊織の顔もほころんでくる。
「それは……内緒です。さすがに言うわけないじゃないですか」
「えー、言ってよ。力になれるかもしれないじゃん」
「いいですよ。それは、自分でどうにかしますって」
「ちぇー、なーんだ。せっかく北野君の好きな人知れると思ったのにー」
「知ってどうするんですか? 」
「いや、何か、北野君が好きなのはこの子なんだなーって、こっそりニマニマしたい」
「何ですか、そりゃ」
 こうして笑い合っていると、伊織の気持ちもほぐれてきたようで、ついこんなことを言い出した。
「で、僕、その人のことを考えてると、なんていうか、変な気分になるんです」
「変って、どんな?」
「ちょっと言葉で表現しにくいんですけど……もやもやというか、ドロドロというか……」
「んーと、どういう時にそんな感じになるの? 例えば……? 」
凪南がそんな風に伊織の悩みに思いを巡らせようとした時だった。伊織はハッとすると同時に顔を真っ赤にし、ぶんぶん首を振って、「いや、いいんです。これは僕の問題ですから」と話を打ち切ろうとした。
 凪南は伊織の変わりように怪訝な顔をする。
「ここまで言って、はっきりさせないのも駄目だよ。向き合いましょう、私も付き合ってあげるから」
「これは、先生みたいな人には、ちょっと言いづらい……」
「私みたいな人って何?」
「いや、そんな、先生が駄目っていうんじゃなくて。なんていうか、こう……女の人にはちょっと分かんないんじゃないか、と……」
「じゃあ、男の先生連れてきてあげようっか? 」
「やっ、それはそれでちょっと、嫌かも……」
「でも、北野君ひとりでその問題、解決出来る? 」
「それは……出来ない……」
「だったら、思い切って喋っちゃおうよ。吐き出しちゃえばスッキリするよ」
「でも、こんなこと言うの、恥ずかしいし……先生、僕のこと呆れて笑いますよ」
 そう言って伊織は自嘲気味に笑った。
 その苦い笑顔もまた綺麗だと思うのだが、それ以上に彼が恥じらう秘密が知りたかった。
 好きな人と秘密を共有する。それはどこか暗い喜びを感じさせた。そして、凪南は伊織にこう囁いてみる。
「安心して。絶対に二人だけの秘密にするから、安心して。ね、言ってみて」
 凪南の誘いに伊織は、落ち着かない胸の内をごまかそうと口数が多くなる。
「でも、こんなこと言うの、恥ずかしいし、でも、ああ、確かに言ってしまえば楽になるんでしょうけど、ああ、どうしよう。でもこれって、僕だけじゃなくて、男なら皆そうなっちゃうと思うんですよね……その、なんていうか、ああ、女の人に分かるかなあ……。ああ、こんなことで悩んでるなんてバカみたいだ。でも、何か苦しいんです、僕。こんな感じになるの、ちょっと辛くて……ああ、どうしよう……」
 言って恥をさらしたくない気持ちと、言って解放されたい気持ちとで揺れながら、しかし、伊織は意を決して告白する。
「ああ、もういいやっ、笑われても。じゃあ、二人だけの秘密ですからね。絶対に、他人には言わないでくださいよ」
「うん、分かってる。で、何? 」
「えーと、どう言ったらいいんだろう……えっと、んーと、ですね… ああ、もうっ、はっきり言っちゃうと、その人のこと考えると、勃っちゃうんです、アレが……で、なんていうか、ムラムラしちゃって、その、したい気分になっちゃうんです……」
 凪南は伊織の告白に驚きながら、思春期男子らしい悩みに可愛くて仕方がなくなる。性の悩みは同性にも言い出しにくいだろうに、異性にこう思い切って話すほど思い詰めていたのだと思うと、哀れにもなる。伊織にとってはけっして笑い事ではなかったのだ。
「僕、最低ですよね……、こんなことばっかり考えてるなんて」
  うなだれながら呟く伊織に、凪南は強く彼の言葉を否定する、
「ううん、最低なんかじゃないわよ。あなたぐらいの歳なら、そういうものよ。皆そんなことないって、しらーっとした顔してるけど、頭の中はそういうことでいっぱいなんだから。あなたみたいに正面から悩むなんてことしないだけ。性ってね、セックスって大事なことなのに、ないみたいにされてるから、ちゃんと悩む北野君は正直なんだと思う。それっていいことよ、ごまかしてないもの。私、そういう北野君は偉いと思うわ」
 凪南の言葉は本心だった。伊織の素直さは何よりも美点だと思った。だからこそ、言葉を尽くして褒めたのだが、伊織は「僕なんか最低だ」といじけてしまっている。逆効果だったろうかと思い、「私だってあなたぐらいの時は似たようなものだったわよ」とつい口を滑らせた。
 その言葉に、伊織は目が飛び出さんばかりに驚く。
「えっ、先生も?  っていうか女子もそうなんですか?」
 まるで女子には性欲がないような口ぶりで、そんな純真さに凪南は吹き出しそうになる。
「まあね、女の子だってセックスには興味あるもの。考えることは男子と一緒よ」
 そう言った時、凪南の頭にあることが浮かんだ。
 それは危険なことだった。そして、もう一人の自分が叫ぶ。身の破滅を招くだけだぞ、と。
 しかし、湧き上がった欲望は止められなかった。いや、止める気などなかった。この機会を逃したくない。そう黒い自分が囁く。凪南は、「へー、女子もかー」などと無邪気に感心している伊織に顔を寄せると、こう言った。
「ねえ、そんなに興味があるなら、先生とセックスしてみない?」
 凪南の提案に、伊織は耳を疑った。
「今、なんて言ったんですか?」
「だから、そんなにセックスに興味があるなら、先生としてみようって。知らないからそんなに不安なのよ。一度してみたら、こんなものかって思って落ち着くんじゃないかな? 」
 凪南は自分が今、正気じゃないことを自覚していた。欲望に突き動かされて、理性なんか吹っ飛んでいると思う。こんなに平然と生徒をたぶらかすなんて、他人に知られたらお終いだ。
 でも、やめられなかった。伊織の悩みを利用する形になってもいいから、彼の初めてを奪ってしまいたかった。自分に気がなくたって構わない。心が望めないなら、せめて体だけでも欲しかった。
 凪南の秘めたる思いを知る由もない伊織は、彼女の誘惑に困惑していたが、その顔には、誘惑に惹かれる男の目があった。
「一度でいいから、してみない? 」
 駄目押しの一言で決まった。
 そして、二人は教室を後にした。
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