Boys Don't Cry

尾崎ふみ緒

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5時限目【不穏な男】

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 その男のことを、凪南は得体の知れない存在だと思っていた。職場の同僚という立場でなかったら知り合うことはなかっただろうな、という程度の認識の男。
 伸びきった前髪の陰から覗く目は決して人と合わそうとせず、いつも同じようなシャツとパンツとよれた白衣を着て、化学準備室に籠もり、他の教職員との交流も面倒くさそうに避けている、化学担当の中川かおる
 そんな同僚教師からも、生徒たちからも、遠巻きに眺められても平然としているこの男が、凪南に声をかけてきた時は、何が起こったのか瞬時には分かりかねた。
 その時、職員室には凪南だけがいて、明日の授業の準備でもしようかと思いつつ、昼休みの伊織との逢瀬を思い出し、甘い余韻に浸っていると、その声は聞こえた。
「鈴木先生、ちょっとお話があるんですけど、いいですか?」 
 名前を呼ばれ顔を上げると、凪南の机の前に中川が立っていた。
 職員室に中川がいること自体が珍しくて、つい「ひゃっ」という声を上げてしまう。
「なんてリアクションしてるんですか。まるで幽霊でも見るような顔して、妙な声出して」
 仏頂面で言う中川に、凪南は慌てて取り繕う。
「え、いや、中川先生がここにいるのって、ちょっと珍しいなって…」
「まあ、驚かれるのも無理ないですけどね。俺、滅多にここに来ないですから」
 中川は顔色一つ変えずに凪南と言葉を交わすが、視線はやはり合わそうとしない。正直、その挙動は不審と言っていいが、彼はこう言う人間だと思っているせいか、そんなに気にはならない。
 それより、普段は没交渉と言っていい中川から「話がある」とはどういうことだろうか?
「話って何ですか? 」
「ここではちょっと話づらいんで、化学準備室に来てもらってもいいですかね?」
 凪南は突然の誘いに訝しげな顔をすると、中川は、
「忙しいですか? 忙しいなら後でもいいですけど……」
 と遠慮がちに言うが、前髪越しの目は凪南を鋭く見据えて、有無を言わさない迫力があった。
 その迫力に凪南は気圧されてしまい、「いいえ、暇なんで行きます」と言ってしまった。  そして、凪南は立ち上がると、中川の後ろについて職員室を出た。
  化学準備室は中川の城だった。大量の本に薬品が所狭しと乱雑に置かれ、他者を寄せつけない雰囲気が漂っていた。生徒はもちろん、校長ですら中川の許可なく立ち入ることは出来ないと思われていて、そんな「聖域」に迎え入れられるなんてことは、もしかしたら前代未聞のことかもしれなかった。
 しかし、難しい本の山に囲まれて、コーヒーを淹れている中川は、とてもリラックスしているように見えた。調子ッぱずれな鼻歌さえ歌って。
 多分、ここが一番自分らしくいられる居場所なんだろうな、と凪南は想像しつつ、そんな中川の大人になりきれない部分を思った。
 その点、伊織の方が随分大人びて見える。無理に虚勢を張らない態度や人に対するおおらかな見方なんかは、伊織の方がしっかりしている。
「それは先生のおかげだよ。先生が僕のことを変えてくれたんだ」
 伊織はそう言ってくれるが、元々の性質は外せないだろう。
 その点、中川っは頑なに見えた。他者に対しても、自分に対しても。
 こうして「聖域」や「知識の要塞」を作って自分を守っている様子にある種の同情を抱いていると、「はい、出来ました」という声と共にコーヒーが差し出された。
「ありがとうございます。では、いただきます」
「鈴木先生はブラック派なんですね。俺、ミルクも砂糖もどばあっと入れないと飲めなくて」
「いいじゃないですか、それも美味しいですよ」
「でも、子どもっぽいって笑われるんですよ」
 そう言って少し照れたおうに笑う中川を初めて見た。
 髪の毛が乱れ、露わになった顔を見て、案外可愛い顔してるじゃないの、と思いつつコーヒーを啜る。中川の淹れたコーヒーは少し薄めではあったが、コーヒー自体が良いものなのかそれほど大味な感じはしない。
 二人しばらく無言でコーヒーを飲んでいたが、コーヒーが目当てで来たわけじゃないと思い出す。
「で、話って何でしょうか? 」
 立っている中川を上目遣いで見ながらこう切り出すと、彼はふうっと一息ついてカップを置いた。
「実は… 言おうか言うまいか迷っていたんですが……」
 中川は言い出しにくそうに口を開く。
「というのも、このことに気づいているのはおそらく俺だけだと思うんですよね。で、黙っていればそのうちことは収まるんじゃないかって見てたんですけど… 俺の思ったとおりには進まなくてですね。それであなたに相談しようと考えたんですよ」
 そのもったいぶった調子には、何か不穏な雰囲気を含んでいたが、凪南には見当がつかない。いわくありげな中川を見ていることしかできない。
「何があったんですか?」
 凪南の問いかけに、中川は彼女をちらっと見やると、ふーっとため息をつく。
「実は、とある生徒のことなんですけどね… 」
 そう言って中川は数秒間を置き、とある生徒の名前を出した。
「北野伊織」
 凪南は飲もうとしたカップの手を止める。その瞬間、しまったと思ったが、中川はその動きをめざとく捉える。
「おや、北野に何か心当たりでも? 」
 残っていたコーヒーを一気に飲み干し、動揺を隠す。
「いえ、何も分かりません… 」
 しかし、中川は椅子を持って凪南のそばにピタリとくっつくように座り、凪南に語りかける。
「北野は何の問題もない生徒に見えます。成績は優秀だし、生活態度も問題ないようだし。… ただ、一つを除けば、ね」何かを匂わせるその言葉に、凪南の背筋は凍る。
「何が問題なのでしょう?」
 何も知らないといった風を装うが、凪南のその態度を中川は苦笑で返す。
「ふん、しらばっくれたところで分かってるんでしょう、俺の言いたいこと。あなたと北野との関係を知ってるってことを」
  凪南はカップを持ったまま俯く。体が震えてくるのを感じながら、どうすることもできない。そんな凪南を中川は皮肉な笑みを浮かべながら眺める。
「おや、どうしたんです、そんなに震えて。まさか俺があなたたちのことを公にするなんて思ってるんじゃないでしょうね? はっ、そんなこと考えてませんよ」
 しかし、中川は凪南に顔を近づけて、「今は、ね」と付け足つ す。ハッとした凪南が中川に顔を向けると、彼は楽しそうな顔をしていた。その 歪 な笑顔に背筋が寒くなる。
「何も脅そうってわけじゃないんですよ。俺だって悪人になりたいわけじゃないからね……ただ、北野と別れてくれればいいんです。で、俺と、というわけ。ね、条件は悪くないでしょ。でも、それが嫌だというなら、まあ、することは一つ、ですけどね」
 中川は、「女性教師が生徒と淫行してたなんて、格好のスキャンダルですね」と言いながらくっくっくっと笑っている。凪南は袋小路に追い込まれたことを感じる。
 もう逃げ場はない。従うか、拒絶するかのどちらかしかない。
 自分ひとりだけのことなら、保身など考えずに迷うことなく拒絶するだろう。でも、伊織のことを思えば答えはひとつしかなかった。自分の過ちから始まったことで、彼の未来を傷つけるのは自分が許せない。とはいえ、この得体の知れない男に身を委ねることも嫌だった。
 迷う凪南を追い詰めるように中川は、「北野の将来もこれで終わりかあ」などと気楽に言う。その言葉に凪南の心は決まった。それしかなかった。
「じゃあ、私が、中川先生と、そういう関係になれば、北野君とのことは黙ってくれるんですね」
 振り絞るような声でそう言うと、中川は凪南の手を握りしめる。
「ま、そういうことになるね」
 中川の手は、伊織のと違って荒れていた。潤いのない肌は、まるでこの男らしいと思った。この手で自分は抱かれるのかと思うと虫唾が走るが、もう後には戻れないと感じる。
「分かりました。中川先生と、そういうことになるということで、許してくれますか?」
 そう言うと中川は、凪南の頭をいい子いい子というように撫でてきた。
「分かってくれたんですね。そうですよね、北野のことを思えばこそ、そういう選択になりますもんね」
 中川の嬉しそうな声を聞きながら、凪南の目には涙が溢れる。中川の顔が歪んで見える。
 涙が床に零れていく。
「おやおや、泣かないで。俺が拭ってあげる」
 中川は凪南の頬を伝う涙を舐め取ると、そのままの勢いで唇を奪う。荒々しくて乱暴なキス。中川の欲望のままに口の中を蹂躙されて、凪南は涙が流れるのを止められない。
 そんな凪南に中川は苛立つ。
「おい、なんだよ、それは。北野とやるキスはこんなもんじゃないだろ。諦めて、俺を受け入れろよ」
 じゅるじゅると卑猥な音を立てて吸う中川に合わせ、しかたなく応じるが、不快感で全身粟が立ちそうだった。そうやって中川とキスをしながら、伊織の優しい感触を思い出しそうになるのを、必死に止める。
 今、彼を思い出しては駄目だと思った。きっと惨めな気分で潰されそうになる。だから、今はなんとか中川に意識を集中しようとする。
 キスに飽き足らなくなった中川は凪南を立ち上がらせると、テーブルに横になるように命じる。そして、彼女の足の間に入り込むとシャツを脱がせ、舌なめずりしながら凪南の体に感嘆する。
「ほう、やっぱりな。これは男好きする体だよな。北野みたいなガキにはもったいないこった」
 そう言いながら首から腰へと撫でさすると、ブラジャーをずり下げ胸にしゃぶりつく。
「ああ、この胸。触ってみたかったんだよなあ。いい形、思った通りの弾力。これはたまらねえよ」
 嬉しそうに中川は弄ぶが、凪南は目を瞑り、ただこの時間が早く過ぎてくれればいいと願っていた。
「さて、ここはどうなってるんだろうね?」
 口の周りを唾液まみれにしながら、中川がスカートの中へと手を滑り込ませた時、テーブルに積んであった本が雪崩を打って崩れ、そのうちの数冊が中川に当たった。
「いってー」
 痛みで動きが止まった中川の隙を見て、凪南は彼を力いっぱい蹴飛ばした。
「何だよ!」
 蹲る中川をもう一度蹴り上げると、凪南は服を寄せながら部屋を出て行った。
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