Boys Don't Cry

尾崎ふみ緒

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9時限目【男の子は泣かない】

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 伊織がバイトに来るようになって二ヶ月が経つが、もはやこの予備校は伊織なしでは回らなくなるほど重宝がられていた。
 採点や授業の準備などの雑用はもちろんだが、授業内容への現役学生らしい鋭い指摘に、講師たちから「目から鱗が落ちる」と評されるほどで、その働きから、助手扱いから講師へ転換させてもいいのではないかと声が上がるほどだった。
 そんな伊織の働きぶりを、凪南は微笑ましく見ていた。伊織の誠実さは知っていたから、それをちゃんと社会の中で評価されているというのは嬉しかった。
 この間、二人の間は同僚同士の礼儀正しい、一線を画した付き合いだったから、凪南が当初警戒していたような波風は立たず、穏やかに過ごせていた。伊織が凪南の元教え子ということが知られても、平然としていられた。
 それどころか、時には高校時代の馬鹿げたエピソードで周囲を笑わせる、なんてことも出来たほど、あの頃の話はもうタブーではなかった。
 そんな風に平穏無事に過ぎていた秋の今日、伊織の二十歳の誕生日なのを知った小林が、
「おおっ、それなら成人祝いの飲み会やろうぜ! 」
と言い出して、急遽伊織の誕生祝いへと繰り出すことになった。
 予備校近くの居酒屋で始まった飲み会は、伊織の意外な酒の強さが露呈した。
「さてはお前、未成年の時から飲んでるな ? 」
「いやいやいや、飲んでませんってば!」
「じゃあ、なんでそんな慣れた手つきで酒注いでるんだよ?」
「それは子供の時から親父たちにお酌させられてたからですって」
 同僚たちと伊織との掛け合いに笑いながら、凪南の杯も進む。とはいえ、終電の時間もちらつき初めた頃にはおとなしく解散し、散り散りになって帰っていった。

 バス停で何本目かのバスを見送る。凪南の他にベンチに座っている人間はいない。ふーっと息をつき、空を眺めていると、後ろから声がした。
「最終、行っちゃいましたよ」
 声の主は知っている。彼がずっと自分の後ろをついて来ていたのも知っている。だから、空に目を向けたまま、「うん、そうだね」と呟いた。
 彼が凪南の横に座ると、少し酒の匂いがした。
 そうだ、今日は彼の誕生日で、二十歳で、酒が飲めるようになったんだったな。と、つい先ほどのことなのに遠い記憶のことのように思い出す。
 でも、私には関係ないや。
「先生、どうしちゃったんです? 何だか最近元気ないじゃないですか。体調悪いんですか? 」
 凪南は首をううんと横にふる。
 体の調子はすこぶるいい。食欲はあるし、ご飯も美味しい。仕事は順調で、言うことはない。
「じゃあ、何? 悩みごとですか?」
 凪南は俯き、無言のまま足をぷらぷらと動かす。
 まったく、言葉にできない思いのなんと苦しいことか。
「せーんせ、僕の方向いて」
 伊織は無邪気にこう言うが、凪南は「やだ」と言って取り合わない。
 今向いたら大変なことになる。
 そんな予感がした。それなのに。
 伊織は凪南を抱き寄せると、キスをしてきた。
「んっ……ふっ……う、ん……」
 長くて、熱いキス。凪南は久しぶりの甘い感覚に、自分を忘れそうになる。
 でも、溺れちゃいけない。苦い思いはもうたくさん。必死の力でもがくと、伊織はそっと唇を離す。
「北野君、どうして急に、こんなことっ……」
 凪南は混乱するが、伊織は落ち着いた声で凪南に問うてきた。
「先生は、僕のこと、もう終わった男と思ってた? 」
 凪南は答えに詰まる。
 本音を言えば……終わっていない。
 ずっとずっと、伊織への思いは秘めていた。伊織以上の男はいない。そう思っていた。伊織と別れてから、凪南を好きだ言い寄ってきた男はいた。  実は、小林もそうだった。
 でも、心の中にはいつも伊織がいた。
 忘れられるわけがなかった。苦しいほど恋い焦がれるのは、伊織だけなのだから。伊織と再会した時の胸の高鳴りは、正直今も続いている。もしかしたら、という期待も少しはある。
 けれど、伊織に近づいては駄目だと自分を抑える。
 だって、こんなふしだらで身勝手な女は、彼を再び傷つけるだろう。
 そんなことはしたくなかった。伊織が大事だからこそ、彼とは一線を画しておきたかった。それなのに、今、こうして伊織に心揺さぶられては、自分をごまかすのは難しい。
「先生が学校辞めてから、中川先生に呼び出されたんです。そしたら中川先生に、『鈴木先生が辞めたのはお前のせいだ』って言われて。『お前とのことで悩んでた』って。でも、その時はなんとも思わなかった。むしろ先生のこと恨んでたくらいで。『あっちから誘っておいて、それは勝手だ』って思ってた……。でも、でもさ。あんなに愛し合って、忘れられるわけないじゃん。あんなに体にも心にも、先生の痕をつけられたら、もう先生以外愛せないよ」
 伊織の言葉が途切れ途切れになってくる。見ると伊織の目から大粒の涙が零れ落ち、頬をぐしょぐしょに濡らしていた。
「ずっと先生のこと、忘れたことなかったです。体だけじゃないかって責めたけど、体だけの関係でもいいから先生といたかった。離れたくなかった。先生がいなくなって、気持ちにぽっかり穴が空いて、違う人を好きになろうとしたこともあった。でも、先生じゃないと嫌だ。先生じゃないと駄目なんです」
 嗚咽をこらえながら、「好きなんです。愛してるんです」と繰り返す伊織は、まだ背伸びしただけの少年だった。彼を見つめながら凪南は、愛おしさがこみ上げ、もう自分をごまかすのはやめようと思った。
 凪南は伊織を抱きしめる。もう彼を離したくなかった。そして離れていた時間を取り戻すように、伊織を抱く腕に力を込める。
「ごめんね、勝手にあんな別れ方しちゃって。でも、私も北野君のこと忘れたことなかった。ずっと北野君しか好きになれなかった。欲しいのは北野君だけ」
 凪南は伊織の頬の涙を拭うと、そっとキスをする。まるで初めての時のような、優しいキスを何度も繰り返す。
「愛してる、先生。もう僕から離れたいって思っても、絶対離さない。ずっと僕だけのものだからね」
 はにかみながらこう言う伊織に、凪南は今度は深いキスで応える。
「私も愛してる。北野君よりずっとずーっと愛してる。大丈夫、もういなくなったりしないから」
「本当に? 信じていい?」
「うん、本当。その代わり、北野君が私から離れたいって言っても離れないよ」
「ははは。でも、それは僕も同じ。他の男に取られるようなら、先生のこと閉じ込めちゃうからね」
「ふふふ、怖い」
 子どものようにじゃれ合って、二人はベンチに横たわる。互いの服の中に手を入れ弄りながら、体温を感じ合う。
「こんなとこでしたら絶対見つかるね」
「それもスリルがあって興奮するけどね」
「あれ、北野君、そんな変態チックなこと考えてるんだ。ふーん」
「二年、我慢してたんだよ。溜まってるんだもの、今すぐしたい」  
 急いで服を脱がそうとする伊織の手を押さえ、凪南は起き上がる。
「えっ? 何? 嫌だった? 」
 戸惑う伊織に、凪南はううんと首を振って伊織の手を握る。
「違うの。今日はいっぱい北野君と愛し合いたい。だから、私の家に行こう」
 凪南の誘いに伊織は、
「えっ? 先生の家? いいの? 」
 と驚く。
「うん。ここからちょっと歩くけどいい? 」
「うん! やったー、先生の家だあ!」
 ご褒美をもらえる子どものような喜びように、凪南は思わず笑みがこぼれる。
 二人は立ち上がって歩き出す。
 手を繋いで、未来を夢見ながら歩いていた。
 月が幸福な二人を照らし出していた。
 月の美しい夜だった。

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