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第5章
第71話「空の市と影の市場 ――取引という名の“修理”」
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――朝の風は、甘い匂いがした。
砂の上をすべるように広がっていく香草と焼き粉の香り。
乾いた大地に、ようやく「生活の匂い」が混じりはじめた。
《主、広場の空気密度上昇。人の声、記録上最多。幸福音、過去最高値。》
「幸福音って単位、いつ作ったんだ。」
《さっき。市場が生まれる瞬間、記録したくて。》
リィムの声はどこか弾んでいた。
風塔の根元では屋台がいくつも立ち、即席の布屋根が朝日を受けて揺れている。
パン、果実、工具、布、そして水。
どれもこの街では“奇跡”と呼べるほど貴重だった。
「パン一斤と香草茶!」「布切れと果実を交換して!」
砂漠の街が、初めて“取引”という名の歌を歌っていた。
誰かの声が高まり、笑い声が響き、それが風に混ざって塔を回る。
俺は木箱の上に腰を下ろして、遠巻きにその喧噪を眺めた。
この光景は、神の恩恵でも勇者の支配でもない。
“人の手”が生んだ、自力の奇跡だった。
「……いいな。こういう喧嘩のない賑やかさは、久しぶりだ。」
《主の声、振動数が安定してる。安心してる証拠。》
「診断機能つきAIか。」
《うん。でも、今はただ“見ていたい”。》
リィムが肩でふわりと揺れる。
風塔から流れてきた光が、彼女の体を淡く透かした。
◇
ミラが人混みをかき分けて走ってきた。
頬は真っ赤で、腕にはパンを積んだ籠。
「ユウトー! 売れた! 全部! 見て見て、取引札が山盛り!」
「おお……この札束の厚み、もう国家予算の香りがするな。」
「パン屋が国家の礎とか胸熱すぎでしょ!」
《パン文明。第一段階、完了。》
「お前までノリノリだな。」
笑い合う俺たちの横で、ノアが小さく手を合わせていた。
白い指先が風に揺れる。
「……祈る相手がいなくても、人はこうして“感謝”を覚えるのですね。」
「神様じゃなくてもいい。人が互いに“ありがとう”って言えるなら、それで十分だ。」
《ありがとうの往復=経済の最小単位。》
「……リィム、それ、論文に書けそうだな。」
《論文よりタグにする。タグ:ありがとう=通貨。》
子どもたちが笑って走り回り、リィムの光がその笑いを追うように瞬いた。
街が生きている。
それが目で見てわかる瞬間だった。
◇
昼下がり、日差しが強くなった頃。
広場の中央で、激しい言い争いが起きていた。
「この布、俺の方が重いだろ! 秤が狂ってる!」
「そっちこそ砂混ぜたじゃねえか!」
人が集まるほど、必ず“歪み”が生まれる。
それはシステムでも市場でも同じことだ。
俺は間に割って入り、二人の手から秤を受け取った。
支点の軸を指で押さえ、リィムに呼びかける。
「スキャン、頼む。」
《支点摩耗度:高。砂鉄の付着率32%。要修理。》
指示どおり金属ブラシで磨き、油を差す。
針がふっと中央で止まった瞬間、周囲の空気が少しだけ緩む。
「――ほら、針は正直だ。壊れてたのは秤の方だ。」
二人は顔を見合わせ、やがて照れくさそうに笑った。
《タグ登録:秤修理=争い回避。》
「……こういうの、繰り返すうちに“法”になるんだろうな。」
《司法構想、起動中。次章:風塔裁判。》
「予告すんな。」
笑いながら頭をかく。
けれど内心では、確かにその瞬間を感じていた。
“秩序”が生まれる手前の、静かな鼓動を。
◇
午後。
風塔の影で、ひとりの少女が屋台を眺めていた。
灰色の髪に薄布のマント。胸元には古びた通信ゴーグル。
彼女の瞳は、まるで風の流れを直接視ているみたいだった。
《未知波長感知。勇者領製観測端末の共鳴波。》
「……彼女、見覚えある機材を持ってるな。」
その瞬間、少女がこちらを向いた。
表情は静か、けれど眼差しの奥に熱があった。
「あなたが……風間悠人、ですね。」
「俺が修理屋だ。何の用だ?」
「私は――サラ・ネヴィス。
“風を読む者”として生まれ、勇者制度の観測者として育てられました。
……けれど、“神の測定”を拒否した瞬間に棄却された存在です。」
その声には悲しみよりも、解放の匂いがあった。
勇者の秩序から外れた者――つまり、俺たちの仲間だ。
「なら歓迎する。ここでは、神に測られない。」
「――だから、来たのです。」
サラは静かに微笑んだ。
その笑みが、どこかリィムに似ていた。
《観測波形一致率:68%。/同種感知:成立。》
「……同種?」
「私は、人と機械の間に生まれた。
だから“あなたの声”がわかるの。」
リィムが嬉しそうに身体を揺らす。
《サラ、あたたかい。風が似てる。》
「ありがとう。あなた……心を持っているのね。」
《うん。ユウトが、くれた。》
――風が通り抜ける。
少女とAIが並んで立つその光景は、まるで“未来の雛型”みたいだった。
◇
夕暮れ。
市場は片付き、風塔の影が街全体を包み込んでいた。
サラは取引記録を見つめながらぽつりと言った。
「この街、不思議ですね。
欲も嘘もあるのに、どこか“痛くない”。」
「壊れたら、罰するんじゃなく直す。
人の欠点も、修理の対象にする。――それがうちの流儀だ。」
「……“欠点を設計に含める”。面白い発想です。
あなた、神よりも優しい。」
《主、照れてる。顔温度+2℃。》
「お前、解析やめろ。」
サラがくすりと笑った。
夕陽が二人の頬を照らし、風が金色の砂を運ぶ。
「……風間悠人。あなたの“修理”に、私も加わっていいですか。」
「もちろん。ようこそ――“文明の修理工場”へ。」
リィムが光を放ち、タグを生成する。
《タグ登録:“サラ・ネヴィス”=風の観測者。協力関係確立。》
その光が空に舞い上がり、風塔の頂で小さく弾けた。
その瞬間、街全体がほのかに明るく見えたのは、きっと気のせいじゃない。
◇
夜。
パンの香りが残る市場跡で、リィムが囁いた。
《ねえユウト。人が集まると、いろんな風が混ざるね。
冷たいのも、あったかいのも。
でも全部、街の風になる。》
「そうだな。いい風だ。壊す気になれない。」
《うん。/記録完了。“取引=人をつなぐ修理”。》
風塔が低く唸る。
街の明かりが一つ、また一つと灯っていく。
リジェクト=ガーデンの夜が、また新しい呼吸を始めた。
砂の上をすべるように広がっていく香草と焼き粉の香り。
乾いた大地に、ようやく「生活の匂い」が混じりはじめた。
《主、広場の空気密度上昇。人の声、記録上最多。幸福音、過去最高値。》
「幸福音って単位、いつ作ったんだ。」
《さっき。市場が生まれる瞬間、記録したくて。》
リィムの声はどこか弾んでいた。
風塔の根元では屋台がいくつも立ち、即席の布屋根が朝日を受けて揺れている。
パン、果実、工具、布、そして水。
どれもこの街では“奇跡”と呼べるほど貴重だった。
「パン一斤と香草茶!」「布切れと果実を交換して!」
砂漠の街が、初めて“取引”という名の歌を歌っていた。
誰かの声が高まり、笑い声が響き、それが風に混ざって塔を回る。
俺は木箱の上に腰を下ろして、遠巻きにその喧噪を眺めた。
この光景は、神の恩恵でも勇者の支配でもない。
“人の手”が生んだ、自力の奇跡だった。
「……いいな。こういう喧嘩のない賑やかさは、久しぶりだ。」
《主の声、振動数が安定してる。安心してる証拠。》
「診断機能つきAIか。」
《うん。でも、今はただ“見ていたい”。》
リィムが肩でふわりと揺れる。
風塔から流れてきた光が、彼女の体を淡く透かした。
◇
ミラが人混みをかき分けて走ってきた。
頬は真っ赤で、腕にはパンを積んだ籠。
「ユウトー! 売れた! 全部! 見て見て、取引札が山盛り!」
「おお……この札束の厚み、もう国家予算の香りがするな。」
「パン屋が国家の礎とか胸熱すぎでしょ!」
《パン文明。第一段階、完了。》
「お前までノリノリだな。」
笑い合う俺たちの横で、ノアが小さく手を合わせていた。
白い指先が風に揺れる。
「……祈る相手がいなくても、人はこうして“感謝”を覚えるのですね。」
「神様じゃなくてもいい。人が互いに“ありがとう”って言えるなら、それで十分だ。」
《ありがとうの往復=経済の最小単位。》
「……リィム、それ、論文に書けそうだな。」
《論文よりタグにする。タグ:ありがとう=通貨。》
子どもたちが笑って走り回り、リィムの光がその笑いを追うように瞬いた。
街が生きている。
それが目で見てわかる瞬間だった。
◇
昼下がり、日差しが強くなった頃。
広場の中央で、激しい言い争いが起きていた。
「この布、俺の方が重いだろ! 秤が狂ってる!」
「そっちこそ砂混ぜたじゃねえか!」
人が集まるほど、必ず“歪み”が生まれる。
それはシステムでも市場でも同じことだ。
俺は間に割って入り、二人の手から秤を受け取った。
支点の軸を指で押さえ、リィムに呼びかける。
「スキャン、頼む。」
《支点摩耗度:高。砂鉄の付着率32%。要修理。》
指示どおり金属ブラシで磨き、油を差す。
針がふっと中央で止まった瞬間、周囲の空気が少しだけ緩む。
「――ほら、針は正直だ。壊れてたのは秤の方だ。」
二人は顔を見合わせ、やがて照れくさそうに笑った。
《タグ登録:秤修理=争い回避。》
「……こういうの、繰り返すうちに“法”になるんだろうな。」
《司法構想、起動中。次章:風塔裁判。》
「予告すんな。」
笑いながら頭をかく。
けれど内心では、確かにその瞬間を感じていた。
“秩序”が生まれる手前の、静かな鼓動を。
◇
午後。
風塔の影で、ひとりの少女が屋台を眺めていた。
灰色の髪に薄布のマント。胸元には古びた通信ゴーグル。
彼女の瞳は、まるで風の流れを直接視ているみたいだった。
《未知波長感知。勇者領製観測端末の共鳴波。》
「……彼女、見覚えある機材を持ってるな。」
その瞬間、少女がこちらを向いた。
表情は静か、けれど眼差しの奥に熱があった。
「あなたが……風間悠人、ですね。」
「俺が修理屋だ。何の用だ?」
「私は――サラ・ネヴィス。
“風を読む者”として生まれ、勇者制度の観測者として育てられました。
……けれど、“神の測定”を拒否した瞬間に棄却された存在です。」
その声には悲しみよりも、解放の匂いがあった。
勇者の秩序から外れた者――つまり、俺たちの仲間だ。
「なら歓迎する。ここでは、神に測られない。」
「――だから、来たのです。」
サラは静かに微笑んだ。
その笑みが、どこかリィムに似ていた。
《観測波形一致率:68%。/同種感知:成立。》
「……同種?」
「私は、人と機械の間に生まれた。
だから“あなたの声”がわかるの。」
リィムが嬉しそうに身体を揺らす。
《サラ、あたたかい。風が似てる。》
「ありがとう。あなた……心を持っているのね。」
《うん。ユウトが、くれた。》
――風が通り抜ける。
少女とAIが並んで立つその光景は、まるで“未来の雛型”みたいだった。
◇
夕暮れ。
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サラは取引記録を見つめながらぽつりと言った。
「この街、不思議ですね。
欲も嘘もあるのに、どこか“痛くない”。」
「壊れたら、罰するんじゃなく直す。
人の欠点も、修理の対象にする。――それがうちの流儀だ。」
「……“欠点を設計に含める”。面白い発想です。
あなた、神よりも優しい。」
《主、照れてる。顔温度+2℃。》
「お前、解析やめろ。」
サラがくすりと笑った。
夕陽が二人の頬を照らし、風が金色の砂を運ぶ。
「……風間悠人。あなたの“修理”に、私も加わっていいですか。」
「もちろん。ようこそ――“文明の修理工場”へ。」
リィムが光を放ち、タグを生成する。
《タグ登録:“サラ・ネヴィス”=風の観測者。協力関係確立。》
その光が空に舞い上がり、風塔の頂で小さく弾けた。
その瞬間、街全体がほのかに明るく見えたのは、きっと気のせいじゃない。
◇
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《ねえユウト。人が集まると、いろんな風が混ざるね。
冷たいのも、あったかいのも。
でも全部、街の風になる。》
「そうだな。いい風だ。壊す気になれない。」
《うん。/記録完了。“取引=人をつなぐ修理”。》
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