ロレンツ夫妻の夜の秘密

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8.ある日常(夫)

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 ヴァルター・ベルクは、珈琲の香りに吸い寄せられるように、ステファン・ロレンツの研究室に入った。
 机に向かってカルテの整理をしているステファンの横には、調剤用の器具を組み合わせて作った抽出機がある。
 アルコールランプの火で、今まさに、芳しい一滴一滴を落としているところだった。

「ロレンツ、昼を食い損ねただろう」

 ヴァルターは片手の紙袋を掲げてみせた。砂糖のまぶされた揚げパンは、小腹塞ぎにちょうどいい。

「珈琲一杯で半分やるよ」




 ステファンはヴァルターの同僚の医官だ。助手から昇格するのはステファンの方が大分遅かったが、学校の卒業年度は同じだ。年はステファンが二つ下なのは、ヴァルターが留年したのではなく彼が飛び級しているからだった。彼は昔から成績は抜群に良かったが、損をしやすい性分だった。
 私生活では気弱いくせに、研究や治療方針となると目上相手だろうが譲らずやっつけてしまうものだから、報復に雑用や人が避けたがる仕事を山ほど押し付けられていた。
 万年助手を脱したのは、数年前にとある貴族の夫人の治療に成功し、後ろ盾を得てからだった。
 三十も過ぎてようやく、彼はその才能を発揮しはじめたと言っていい。

 珈琲のマグを受け取り、ヴァルターは顔を綻ばせる。下手なカフェよりステファンの淹れる方が美味い。
 交換にステファンは油紙に包まれた揚げパンを受け取った。

「ミルク、入れますか」
「いいよ、お前のはストレートが一番いい。午前診は混んだなあ」
「この季節ですからね」

 寒気と乾燥が強く、気管支にくる風邪が流行っていた。

「あと、『相談』も入ってただろ」
「ええ、まあ」
「なあ、お前、もうそういうのは下に任せてもいいんじゃないか」

 午前診も終わろうとする昼過ぎに「相談室」と呼ばれる小部屋に、若い娘と、付き添いの年嵩の女が通されていた。母親らしい女は既に泣いていて、娘は蒼白い顔に表情もなく、ヴァルターは垣間見ただけで暗澹とするほどだった。

「ロレンツ先生、いつもご苦労ですね。くれぐれも法に則った範囲でお願いしますよ」

 副所長はそう声かけして、ステファンを相談室へ送り込んでいた。

「いつまで押し付けられている気だ」
「押し付けられてやっているんではありませんよ。望ましいとは思いませんが、それで救われる人がいます」
「……そうか」

 先日結婚したばかりの身で辛くはないかと問うのは、やめた。
 中央帝国の法律では、望まぬ妊娠を中途で終わらせる措置は、胎児が一定に育つまでの期間であれば認められていた。
 それでも宗教上厭う医師が大半で、王立の機関である衛生研究所、ひいてはステファンにお鉢が回ってくるのだった。

「色んな事情がありますし。僕は、せめてうちに来てくれてよかったと思っていますよ。非正規の薬物や闇医者では、危険が大きすぎます」
「そうだな」

 ヴァルターは珈琲を一口飲んだ。ステファンを冷血だの、点数稼ぎだの言うものに聞かせてやりたかった。
 ステファンが裏町の往診をするようになったのも、助手のころ、はじめて「相談室」での診療をしてからだった。前段階で知識を広め、予防することで、そういった事態を減らしたいのだと彼は言った。
 それを「女好き」と揶揄した上司に、若くて血の気が多かったヴァルターは掴みかかって謹慎になったことがある。

「ベルクさん、すみません」

 経緯を聞いて、困り果てた顔で家まで謝りにきたステファンは、どこまでも人がいいと思った。





「これ美味しいですね」

 ステファンは甘党だ。

「だろう、最近近くのパン屋が揚げたてで軒下まで売りに来るんだ。うちの助手の中で流行ってる」
「ふうん、今度見つけたら頼んでみます」
「なあお前、助手ひとり面倒見ないか」
「指導下手なので。僕のところなんか来たがる人いませんよ」

 ステファンは一人研究室だ。しかし、指導下手どころか、彼に教えを乞いにいく若手は多い。
 そのくせ、正規配属を敬遠されるのは、相談室を引き継がれるのを嫌がられているからだ。

「うちのマルグリット。入って二年目だ。女だが同年では出来が一番いい」
「女性は、どうでしょう」
「相談室の仕事なら理解してる。むしろ、自分が進むべき道だと言っている。教えてやってくれないか」
「……考えさせてください」
「うん、なんならこの後にでも来させる。話して決めてやってくれ」

 ヴァルターは多少強引にでも引き受けさせるつもりだった。

「だいたいお前、実は手一杯だろ。綺麗な奥さんと過ごす時間も確保したいだろ。こないだなんか奥さん来てたぞ」
「え、いつですか」
「言い忘れてたな。一週間くらい前の夕方だ。お前が出てってすぐの入れ違いになってたが、会えたか」
「ああ、それでですか……」

 ステファンは何やら得心したようだった。

 マルグリット・エメラは眼鏡をかけた小柄な女性だった。
「身内が、以前、先生のお世話になったんです。相談室で」
「そうですか」

 相談室のカルテは、鍵付きのキャビネットに整頓されて納められている。管理基準は他のカルテより厳しく、開けられるのは、相談室の担当医師と、所長しかいない。

「先生はどんな気持ちで処置を引き受けていらっしゃるんですか」
「……産んで、孤児院なりに預けるようにという意見も聞きますね。面談の内容によっては、そちらを勧めることもあります。そもそも法定の時期を過ぎていればできませんし、地域の産院にご紹介します」

 ステファンは、相談室で患者に向き合うときのように、静かに説明する。

「でも、産むとなれば、健康な母体でも時に命の危険があるほどの負担です。体格や病気によって明らかに耐え得ない方もいる。事情とお気持ちを聞いて、身体の状態を診て、その手段が最善であると判断すれば、所長の許可のもとで行います」

 ステファンは言葉を切り、少し迷ったあとに訊いた。

「……その方は、今、お体に問題はありませんか」

 マルグリットは眼鏡の奥の鳶色の瞳で見つめ返してきた。

「はい。あのときは、強いられた関係で、死のうとしていたくらいだったんです。でも、今は、安心できる相手と夫婦になって、子供にも恵まれました。色々言う人はいますけど、私は、必要な仕事だと思うんです」
「教えてくれてありがとう、エメラさん」
「ベルク先生は、ロレンツ先生がいいなら所属変更を認めてくださるそうです。お願いします」

 手元には、エメラの経歴書とこれまでの主だった論文があった。ざっと目を通した限りでも優秀だ。

「近いうちに返事をします」
「はい。お時間ありがとうございました」

 深く礼をして、マルグリットは出ていった。

 マルグリットとの面談の後、ステファンは帰宅した。
 玄関にも、夕餉の匂いがふわりと漂っていた。

「おかえりなさいませ」
「ただいま」
 出迎えてくれたエプロン姿のディアナと頬をくっつけ、コートを受け取ってもらった。
 妻の微笑みに、疲れも物思いも軽くなるようだった。

 彼女の作ってくれた夕餉をとりながら、話をした。

「今日は、エーファ様とギルベルト様がいらっしゃったんですよね」

 昼、結婚以来はじめて、妻の妹弟が訪ねてきたはずだった。

「ええ、ゆっくりお茶ができましたわ。貴方によろしく伝えてほしいって言っておりました」
「お二人ともお元気でしたか」
「ふふ、元気すぎるくらい。特にギルベルトがしっかりした口をきくようになりましたわ。やっぱり男の子ですわね」

 家族に会えるのは嬉しいのだろう。ディアナの表情はいつもより柔らかい。

「いつでもお呼びしていいですからね。ご家族でも、ご友人でも。昼間、ベルタさんはいらっしゃいますけど、だんだん退屈されるでしょう」
「ええ、貴方。ありがとうございます」

 食後には手土産という真白いケーキが出された。新しい製法のショコラを使っているそうで、茶のショコラよりまろやかな味わいだった。

「貴方、私、昼に時間があるとき、たまに乗馬クラブに行ってもよろしいですか」
「ええ、もちろん」

 乗馬は以前からの彼女の趣味だ。ステファンは、結婚で彼女の行動範囲が狭まっているのではないかと気にしていたから、二つ返事で認めた。

「嬉しいですわ。ありがとうございます。お休みの日、よかったらご一緒してくださいませね。シルヴィって、とても綺麗な銀毛の子がいるんです」

 ステファンは応じた。

「それでは、銀の天馬に乗る女神の勇姿を拝見しに」
「ご冗談ばっかり」
「僕はお世辞は下手です。本当に思うことしか言いませんよ」
「もう……」
 恥じらう様子が愛らしかった。

「ディアナ、僕、助手の方に一人入ってもらう話があるんです」
「あら、ご出世ですわね」
「そういうほどでもないですけど。少し手持ちの仕事も多くなってきたので。今日面談したんですが、落ち着いた方でよく勉強もされているんです」
「なによりですわ」
「ただ、女性なんです。貴女が気になさるなら断ります」
「……私のこと、ひどいやきもちやきだと思っていらっしゃいますのね?」
「そんなことは」
「この間とは全然話が違いますもの、弁えますわ」

 そう言いながら、ディアナの顔色は曇ったようだった。俯いて紅茶に口をつける様子に、ステファンは重ねて訊いた。

「嫌なら、本当に」
「いいえ、職業婦人の方ですのね。……私も、ちゃんと学んでいれば、貴方のお手伝いができたのかもしれないのにって、思ってしまっただけです」

 昼間、家にいさせて寂しさを募らせているのだろうかと気になった。環境が変わると、精神的に不安定になりやすい。

「僕は、こうして貴女がいてくれて、このうえなく幸せですよ」
「ありがとうございます。妻の機嫌のために断ったりなんか、絶対なさらないでね。……ただ、たまには、私にもお仕事の話を聞かせてくださいませ」
「……ええ」

 答えたが、ステファンは彼女に仕事の詳細を知らせる気はなかった。
 彼の仕事をこの世で一番尊いと言ってくれた彼女。
 しかし、彼は神ではない。彼の仕事は苦しみと死がつきもので、救えないことの方が多い。
 そして、彼が俗世の事情で、生を受ける前の魂を返すことまですると知っても、そう思ってくれるだろうか。

「ねえ、お湯が冷めてしまわないうちに、湯浴みをどうぞ」

 立ち上がって食器を下げはじめる彼女の手をとった。

「ディアナ、僕は忙しくするときもありますけど、貴女が一番大切です。わかってくださいね」
「ありがとうございます」

 ディアナは目を瞑り、顔を寄せてきた。
 ステファンは彼女の求めるところを知って、唇を重ねた。
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