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僕たちはカフェオレになれない
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第一章 カフェオレになれない
朝が来るたび、少しだけ失敗したと思う。
目を開けてしまった、という意味で。
カーテンの隙間から差し込む光は、相変わらず無遠慮だった。誰かに見られているわけでもないのに、僕は反射的に目を伏せる。生きていることを指摘されるのが、昔から苦手だった。
昨夜の記憶は、途中で途切れている。
机の上に置かれた空のコップと、床に落ちた薬のシートが、何が起きたかを静かに説明していた。
また、だめだったらしい。
失敗した理由を考える気にはなれなかった。量が足りなかったのか、組み合わせが悪かったのか。そんな反省は、次につながる前提があってこそ意味を持つ。僕はもう、次を想定すること自体に疲れていた。
ベッドから起き上がると、軽いめまいがした。世界が一瞬だけ傾いて、すぐに元に戻る。相変わらず、うまく死ねない身体だと思う。
六畳一間の部屋は、生活感がないわけではないが、かといって生きる意思も感じられない。必要最低限の家具と、読みかけの本、洗っていないコップ。どれも僕の代わりに存在しているだけで、僕自身を語るものではなかった。
机の上に散らばったチラシを、なんとなくかき集める。電気代の督促、近所のスーパーの特売、見知らぬ整体院の広告。その中に、一枚だけ、妙に白い紙が混じっていた。
文字が少ない。
いや、少ないからこそ、目に入ったのかもしれない。
――あなたの遺体、売りませんか?
一瞬、意味が理解できなかった。
冗談の類だろうか。悪趣味なコピー。あるいは新手の詐欺。
紙を裏返しても、派手な説明はない。病院名と、簡単な連絡先、そして小さな注釈。
〈合法/本人同意必須〉
思わず、息が止まった。
心臓が少しだけ強く打つ。生きている証拠みたいで、不快だった。でも同時に、その鼓動に、奇妙な現実味があった。
売る、という言葉が引っかかっていた。
身体は、売れるものなのか。
僕はこれまで、何一つうまく手放せなかった。仕事も、人間関係も、人生そのものも。なのに、死んだ後の身体だけは、値段がつくらしい。
紙を見つめながら、考える。
もし、これが本当なら。
もし、ここに書かれている通りなら。
――失敗しなくて、済むかもしれない。
「……」
声に出すと、部屋に吸い込まれて消えた。誰に聞かれるわけでもないのに、なぜか少しだけ恥ずかしかった。
自殺、という言葉は使われていない。
代わりに並んでいるのは、制度とか、契約とか、同意とか。生と死を、事務的な言葉で包んでいる感じがした。
それが、妙に安心できた。
感情を挟まれない死。
誰かに悲しまれたり、止められたりしない終わり。
僕に向いている。
携帯を手に取る。連絡先の番号を見て、少しだけ迷う。電話をかけたところで、何が変わるわけでもない。そう思いながら、親指が自然に動いていた。
呼び出し音は、三回で切れた。
「はい、○○医療センター、臓器提供相談窓口です」
淡々とした声だった。
そこに、特別な感情は一切なかった。
「あの……チラシを見たんですが」
自分の声が、思っていたよりも落ち着いていることに驚く。緊張も、期待も、恐怖もない。ただ、確認するだけだ。
「はい。内容についてのご説明をご希望でしょうか」
「……はい」
それだけで、話は進んでいった。
日程。条件。クーリングオフ。
安楽死、という言葉は最後まで使われなかった。代わりに、〈医療的措置〉とか、〈本人の意思を尊重〉とか、角の取れた表現が並ぶ。
電話を切ったあと、僕はしばらくその場に立ち尽くしていた。
窓の外では、通勤途中の人たちが歩いている。急ぐ人、スマホを見ながら歩く人、誰かと笑い合う人。みんな、ちゃんと生きる方向を向いている。
その中に、僕はいない。
ふと、コーヒーが飲みたくなった。
インスタントでいい。苦いやつ。
お湯を注ぎながら、なぜか思った。
コーヒーは、単体で完成している。
ミルクも、ミルクで完成している。
でも、混ざると別の名前になる。
カフェオレ。
僕は、何にもなれなかった。
何かと混ざることもできなかった。
コーヒーを一口飲む。苦い。
それだけで、少し安心した。
まだ、決めたわけじゃない。
ただ、選択肢が増えただけだ。
生きるか、死ぬか。
その二択しかなかった世界に、もう一枚、紙が増えただけ。
それなのに、なぜだろう。
胸の奥に、わずかに残っていた“失敗”という感覚が、
ほんの少しだけ、形を変えた気がした。
第二章 売れる身体
病院は、想像していたよりも普通だった。
もっと人目を避けた場所にあるのかと思っていたが、駅から徒歩十分。コンビニとドラッグストアに挟まれた、白い五階建ての建物。看板も、よくあるフォントで「医療センター」と書かれている。
特別な場所ではない、ということが、逆に不気味だった。
受付で名前を告げると、事前に電話で伝えていたせいか、すぐに案内された。廊下は静かで、消毒液の匂いがうっすらと漂っている。壁に貼られた健康啓発ポスターの笑顔が、どれも現実味を欠いて見えた。
通されたのは、小さな会議室のような部屋だった。
窓はあるが、ブラインドが半分閉じられている。
向かいに座ったのは、四十代くらいの女性だった。スーツ姿で、医師というより事務職に見える。机の上には、分厚いファイルと、契約書らしき書類。
「本日はお越しいただきありがとうございます」
声は落ち着いている。抑揚は控えめ。
感情が入り込む隙間がない。
「改めてご説明いたします。当センターでは、重篤な疾患を抱える患者様への臓器提供を前提とした医療的措置を行っております。すべて、ご本人の自由意思に基づきます」
“自由意思”。
その言葉が、机の上に置かれた。
僕は頷く。
「事前検査の結果ですが、適合の可能性が高い血液型です」
やはり、と思った。
僕の血液型は珍しい。子どもの頃、健康診断のたびに少しだけ説明を受けた記憶がある。困ったときには役に立つかもしれませんね、と。
役に立つ、という言葉を、こんな形で思い出すとは思わなかった。
「提供後の流れですが、一定期間の入院ののち、医療的措置を実施いたします」
「……痛みは」
気づけば、口にしていた。
女性は、ほんのわずかに視線を落とす。
「最大限、軽減されます。意識は速やかに――」
そこで言葉を選ぶように、数秒、間が空いた。
「――保たれません」
死ぬ、とは言わない。
終わる、とも言わない。
ただ、保たれない。
曖昧な表現なのに、はっきりと理解できた。
机の上に、契約書が滑る。
「実施予定日は一週間後です。それまでは、クーリングオフが可能です。理由は問いません。ご連絡いただければ、契約は無効となります」
一週間。
想像より短い。
もっと何ヶ月も待たされるのかと思っていた。
でも考えてみれば、長く悩ませる制度ではないのかもしれない。
「ご家族への通知は?」
「ご本人の希望がない限り、こちらからは行いません」
孤独であることが、初めて利点に感じられた。
僕の死を止める人はいない。
僕の死を悲しむ人も、おそらくいない。
ペンを渡される。
黒いボールペン。どこにでもある安物だ。
それなのに、やけに重く感じる。
書類の一番下、自分の名前を書く欄。
何度も書いてきたはずの名前なのに、今日は少しだけ他人のもののようだった。線が震えないように、ゆっくりと書く。
署名が終わる。
それだけで、何かが決まった気がした。
女性は書類を確認し、静かにファイルに綴じる。
「本日より、一週間。何かありましたら、こちらへ」
名刺を差し出される。
僕はそれを受け取り、財布にしまった。
まるで、飲食店のポイントカードのように。
部屋を出ると、廊下の向こうからストレッチャーが運ばれてきた。酸素マスクをつけた高齢の男性が横たわっている。付き添いの女性が、何かを必死に話しかけていた。
「大丈夫だからね」「もうすぐだからね」
その声が、背中をかすめる。
僕は立ち止まらない。
自分が何に署名したのか、理解しているはずだった。
外に出ると、午後の日差しが眩しかった。
人の流れは変わらない。駅へ向かう学生、笑いながら歩く会社員、ベビーカーを押す母親。
世界は、僕の決断とは無関係に動いている。
ポケットの中で、名刺の角が指に当たる。
一週間。
七日間。
そのあいだ、僕は何をするのだろう。
死ぬ予定のある人間は、どんな顔をして過ごせばいいのか。
ふと、喉が渇いた。
自販機でブラックコーヒーを買う。
冷たい缶を額に当てると、現実感が少しだけ戻る。
プルタブを開けて、一口飲む。
苦い。
けれど、さっきまでよりも、少しだけ味がはっきりしている。
不思議だった。
終わりが決まったはずなのに、
世界の輪郭は、むしろくっきりして見えた。
もしかすると。
人は、失う期限を与えられて初めて、
それを持っていることを自覚するのかもしれない。
僕は空を見上げる。
雲がゆっくり流れている。
一週間後、あの雲はもう形を変えているだろう。
そして僕は、どこにもいない。
それでも――
なぜか、ほんのわずかに。
今この瞬間だけは、
生きている感覚があった。
第三章 偶然の午後
死ぬ予定があると、時間の使い方がわからなくなる。
仕事は三日前に辞めた。引き止められることもなく、あっさりと手続きは終わった。僕がいなくなっても、業務は滞りなく回るらしい。それは少し安心で、少しだけ寂しかった。
一週間のうち、二日が過ぎた。
何か特別なことをしようとは思わなかった。
旅行に行く気にもなれないし、誰かに会う気力もない。
ただ、時間を消費する。
駅前のパチンコ店に入ったのは、特に理由があったわけじゃない。騒音の中にいれば、自分の思考も紛れる気がしたからだ。
店内は光と音で満ちていた。電子音、玉の弾ける音、誰かの歓声。
それらはすべて、僕の内側とは無関係に鳴り続けている。
千円札を何枚か機械に入れる。
画面の演出が派手に動く。
当たっても、外れても、心はほとんど動かなかった。
しばらくして、手元の玉が少し増えた。換金すれば、たぶん数千円にはなる。死ぬ人間にとっては、誤差みたいな金額だ。
それでも、なぜか席を立った。
外に出ると、夕方の空気がひんやりしていた。さっきまでの騒音が嘘のように、街は落ち着いている。
信号待ちをしていたときだった。
「……あれ?」
声がした。
反射的に振り向く。
そこに立っていたのは、見覚えのある顔だった。
「久しぶり……だよね?」
記憶を引き出すのに、数秒かかった。
高校の教室。窓際の席。体育祭の応援団。
「……佐倉?」
名前が、口からこぼれる。
彼女は少し驚いた顔をして、それから笑った。
「あ、覚えててくれたんだ」
笑い方は、昔とあまり変わっていない。
けれど、どこか輪郭が細くなった気がした。
「偶然だね。こんなところで」
そう言いながら、彼女は僕の顔をじっと見る。
観察するような目だった。
「元気?」
その質問は、今の僕には少し難しい。
「まあ、それなりに」
曖昧に答える。
彼女は「そっか」と頷いたあと、少しだけ視線を落とした。
信号が青に変わる。
人の流れに押されるように、僕たちは並んで歩き出した。
「いま、何してるの?」
「……仕事は、辞めた」
「へえ。転職?」
「そんな感じ」
嘘ではないが、本当でもない。
彼女は追及しなかった。
代わりに、こう言った。
「時間あるなら、お茶でもどう?」
驚くほど自然な誘いだった。
断る理由はいくらでもあるはずなのに、口は勝手に動いた。
「……いいよ」
自分でも、なぜ了承したのかわからない。
彼女の隣を歩きながら、僕は気づく。
この人は、生きている。
ちゃんと、今を。
横顔に、わずかな疲れが見えた。
けれど、それでも前を向いて歩いている。
カフェの前で立ち止まる。
ガラス越しに、店内の温かい光が見える。
「ここ、好きなんだ」
彼女はそう言ってドアを押した。
僕は一瞬だけ、躊躇する。
一週間後にはいない人間が、
誰かとコーヒーを飲む資格なんてあるのだろうか。
それでも、足は止まらなかった。
店内に入ると、コーヒーの匂いがした。
少しだけ、心臓が強く打つ。
それが恐怖なのか、別の感情なのかは、
まだわからなかった。
第四章 混ざらない飲み物
カフェの中は、夕方のわりに静かだった。
壁際の席に、若いカップルが並んで座っている。テーブルの上には、同じ色のカップ。中身は、おそらくカフェオレだ。
彼女が先に席を選び、僕は向かいに座った。
「何飲む?」
メニューを見ながら、彼女が言う。
「コーヒーで」
即答だった。
「ブラック?」
「うん」
彼女は少しだけ考えてから、店員に注文する。
「ミルク、お願いします」
それだけだった。
コーヒーとミルク。
最初から、混ざらない選択。
「変わらないね」
彼女が、笑いながら言う。
「昔から、ブラックだったもんね」
そうだっただろうか。
自分のことなのに、よく覚えていない。
「佐倉は?」
「昔は甘いのばっかだったけどね」
そう言って、肩をすくめる。
「今は、これくらいがちょうどいい」
ちょうどいい、という言葉が、少し引っかかった。
カップルの方を見ると、二人は同じ飲み物を口にして、同時に笑っていた。何がそんなに楽しいのかはわからない。でも、息が合っていることだけは、遠目にも伝わってくる。
僕と彼女の間には、そんな空気はない。
沈黙があっても、無理に埋めようとしない。
「元気そうじゃないね」
不意に、彼女が言った。
責めるような口調ではない。
事実を、静かに置いただけ。
「そう見える?」
「うん。無理してる感じもしないけど……なんていうか」
言葉を探している。
「遠い」
遠い。
自分では、近くにいるつもりだった。
ちゃんと椅子に座って、会話もしている。
でも、彼女から見た僕は、
どこか別の場所に立っているらしい。
「佐倉は?」
話題を返す。
「私は……まあ、生きてるよ」
少しだけ、笑い方が崩れた。
その違和感に気づいても、僕は何も聞かなかった。
聞けば、踏み込んでしまう気がした。
店員が飲み物を運んでくる。
僕の前には、真っ黒なコーヒー。
彼女の前には、白いミルク。
湯気の立ち方も、匂いも違う。
「ね」
彼女が言う。
「高校のとき、覚えてる?」
「何を」
「文化祭。クラスの出し物でさ」
ああ、と記憶が繋がる。
「カフェやったやつ?」
「そう。私、カフェオレ担当だった」
懐かしそうに笑う。
「あなた、ずっと裏でコーヒー淹れてたよね。
ミルク、絶対入れなかった」
「そうだったかも」
「混ぜるのが嫌だって言ってた」
そんなこと、言っただろうか。
でも、言いそうだ、と思った。
彼女はミルクを一口飲む。
少しだけ、眉をひそめた。
「……やっぱり薄いな」
「混ぜればいいのに」
「混ぜたくない」
即答だった。
その言い切り方が、妙に強くて、
なぜか胸の奥がざわついた。
「このままでいい」
彼女は、そう言った。
白と黒は、テーブルの上で並んでいる。
近いのに、交わらない。
それが、ひどく自然に見えた。
カップルの席では、スプーンが音を立てていた。
ミルクとコーヒーが、くるくると混ざっていく。
別の飲み物に、変わっていく。
僕は自分のコーヒーを飲む。
苦い。
でも、嫌いじゃない。
この苦さは、知っている。
変わらない味。
ふと、思う。
もし僕と彼女が混ざったら、
何か別の名前になるのだろうか。
それとも、どちらかが消えるだけなのか。
そんなことを考えている時点で、
きっと僕は、誰かと混ざる人間じゃない。
「また、会ってもいい?」
帰り際、彼女が言った。
唐突だった。
「……どうして」
「なんとなく」
理由になっていない理由。
でも、断る理由も、見つからなかった。
「いいよ」
答えた自分の声が、少しだけ低く聞こえた。
彼女は安心したように笑う。
カフェを出ると、外はもう暗くなり始めていた。
別れ際、彼女は振り返る。
「じゃあ、また」
その言葉が、
なぜか「さよなら」よりも、重く感じられた。
彼女が去ったあと、
僕はしばらく、その場に立ち尽くしていた。
胸の奥に、わずかな違和感が残っている。
それが、
生きる気配なのか、
ただの錯覚なのか。
まだ、判断はつかなかった。
第五章 触れても混ざらない
彼女と夜を過ごすことになるなんて、そのときは思っていなかった。
約束をしたのは、カフェを出てから三日後だった。
連絡先を交換していたことを、後になって思い出す。あのときの僕は、たぶん何も深く考えていなかった。
〈今夜、少し話せる?〉
画面に表示された短いメッセージ。
断る理由はいくらでもあったはずなのに、指は自然に「いいよ」と返していた。
彼女が来たのは、夜九時を過ぎてからだった。
玄関先に立つ彼女は、昼間よりも少しだけ疲れて見えた。
それでも、無理に笑っている感じはない。
「お邪魔します」
その言い方が、妙に丁寧で、胸の奥がざわついた。
部屋に通す。
相変わらず、何もない部屋だ。
「相変わらずだね」
彼女は部屋を見回して言う。
「変える理由もないから」
それは、本音だった。
ソファに並んで座る。
テレビはつけなかった。
沈黙が流れる。
昼のカフェとは違う、夜の静けさ。
「ね」
彼女が、ぽつりと言う。
「もしさ」
言いかけて、止まる。
「……やっぱいい」
「よくないだろ」
思わず、言っていた。
彼女は少し驚いた顔をしてから、視線を落とす。
「今日ね、病院行ってきた」
その言葉で、空気が変わった。
「定期検査?」
「うん」
それ以上は、続けなかった。
続けなかったというより、続けられなかった、のかもしれない。
彼女の手が、膝の上で強く握られているのが見えた。
気づけば、僕はその手に触れていた。
温かい。
生きている人の温度だ。
彼女は、逃げなかった。
でも、握り返しもしなかった。
ただ、そこにある。
境界線を引いたまま。
そのまま、自然に、距離が縮まった。
キスは、確認みたいだった。
感情を確かめるためじゃなく、存在を確かめるための。
彼女の唇は、思っていたよりも冷たかった。
服を脱ぐ流れも、言葉は少なかった。
どちらかが主導したわけでもない。
ただ、流れ。
ベッドの上で、彼女の身体に触れながら、僕は奇妙な感覚に包まれていた。
欲情しているのに、執着がない。
抱いているのに、所有していない。
彼女も、同じだったと思う。
視線は絡むのに、奥までは踏み込まない。
触れ合っているのに、混ざらない。
終わったあと、彼女は僕の胸に顔を埋めた。
鼓動が、伝わる。
速すぎるくらい。
「……早いね」
彼女が、冗談めかして言う。
「昔から」
そう答えながら、胸の奥がひっかかる。
この速さは、緊張だけじゃない。
彼女は、少しだけ目を閉じる。
「ね」
また、その言い方。
「今日は、このままいていい?」
「……いいよ」
それ以外の答えは、用意していなかった。
電気を消す。
暗闇の中で、彼女の呼吸が聞こえる。
一定じゃない。
浅くて、少し苦しそうだ。
「大丈夫?」
「うん。いつものこと」
その言い方が、やけに慣れていて、
なぜか怖くなった。
背中に腕を回すと、彼女は少しだけ身を寄せてきた。
体温が、伝わる。
近い。
でも、どこか遠い。
眠りに落ちる直前、ふと思った。
もし僕が、この人と出会っていなかったら。
もし、一週間後の予定がなかったら。
そんな仮定に、意味はないはずなのに。
胸の奥に、
これまで感じたことのない感情が、わずかに芽を出していた。
それが、恋なのかどうかは、わからない。
ただ、確かに言えるのは――
僕はその夜、
初めて「生きていたいかもしれない」と思ってしまった。
それが、
一番、してはいけないことだとも知らずに。
第六章 戻れない朝
目が覚めたとき、しばらく状況が理解できなかった。
天井。
見慣れたはずの部屋。
でも、胸の上に重みがある。
視線を落とすと、彼女が眠っていた。
呼吸は浅い。
規則正しいとは言いがたいリズム。
昨夜のことが、ゆっくりと戻ってくる。
触れたこと。
抱いたこと。
そして――生きたいと思ってしまったこと。
心臓が、やけに強く打っている。
彼女が目を開けた。
数秒、何も言わずに僕を見る。
「……おはよ」
かすれた声。
「おはよう」
沈黙。
昨日とは違う空気が、部屋を満たしている。
踏み込んでしまった分だけ、
引き返せない感じがあった。
「昨日さ」
僕が口を開く。
「病院行ったって言ってたよな」
彼女は一瞬だけ目を逸らす。
「うん」
「何の検査?」
答えは、すぐには返ってこなかった。
彼女は体を起こし、シーツを胸元まで引き上げる。
その仕草が、妙に他人行儀に見えた。
「心臓」
短い言葉。
「ずっと悪いの。知ってた?」
知らなかった。
高校の頃、そんな素振りはなかった。
「進行してる。たぶん……そんなに長くない」
言い方は、驚くほど冷静だった。
「どれくらい」
聞くべきじゃないと思いながら、聞いた。
「一年、もたないかもって」
部屋が静まり返る。
外では、朝の車の音がする。
世界は、変わらない。
「移植、待ってるんだよね」
彼女は続ける。
「でも、型が合う人、なかなかいなくて」
その瞬間、嫌な予感が走った。
「私ね、ちょっと珍しい血液型なんだ」
鼓動が、跳ねる。
「あなたは?」
なぜ、そんなことを聞く。
「……同じだよ」
言った瞬間、空気が凍った。
彼女の目が、わずかに揺れる。
「やっぱり」
小さく、呟く。
やっぱり?
「どういう意味だよ」
声が、思ったより強く出た。
彼女は唇を噛む。
「偶然だよ。偶然」
その言い方が、あまりにも弱い。
僕の頭の中で、点と点が繋がり始める。
病院。
珍しい血液型。
一週間後の予定。
まさか。
「……知ってたのか」
問いというより、確認だった。
彼女は、しばらく黙ったまま、やがて小さく頷いた。
「完全に確信してたわけじゃない。でも、あの病院に通ってるって聞いて……もしかしてって」
足元が崩れる感覚。
「じゃあ、昨日のことも」
最後まで言えなかった。
彼女は首を振る。
「違う。あれは……違う」
その声だけは、はっきりしていた。
「利用しようとか、そんなつもりじゃない」
「でも、期待はしただろ」
沈黙。
それが、答えだった。
怒りとも、絶望ともつかない感情が胸を満たす。
同時に、理解もしてしまう。
彼女は生きたいのだ。
必死に。
僕が死のうとしている、その一週間のあいだにも。
「クーリングオフ、できるんだよね」
彼女が、静かに言う。
僕は何も答えない。
「やめれば、あなたは生きる」
「でも、お前は」
言葉が詰まる。
彼女は、笑った。
あまりにも静かな笑い。
「私は、私の時間を生きるだけ」
きれいごとだと思った。
でも、嘘じゃないとも思った。
ベッドの上で、二人のあいだに距離ができている。
昨夜は、あれほど近かったのに。
「選ばなくていいよ」
彼女が言う。
「どっちでも、あなたの自由だから」
自由。
またその言葉だ。
自由に死ねる。
自由に生きられる。
でもその選択は、
もう僕ひとりの問題じゃない。
窓から差し込む光が、彼女の横顔を照らす。
白い。
ミルクみたいに。
僕は、自分の手を見る。
黒いコーヒーのように、何も混ざらない手。
混ざれば、救えるのか。
それとも、どちらかが消えるだけなのか。
初めて、はっきりと理解した。
僕はもう、
ただ死にたいだけの人間ではいられない。
一週間後の予定が、
別の意味を持ち始めている。
それは救いかもしれないし、
呪いかもしれない。
彼女はゆっくりとベッドを降りる。
服を着ながら、振り返らない。
「また、連絡するね」
その言葉が、昨日よりも重い。
玄関のドアが閉まる音。
部屋に、静寂が戻る。
机の上には、病院の名刺。
ポケットの中には、一週間の期限。
そして胸の中には、
生きたいという、最悪の感情。
僕は、頭を抱える。
――混ざらなければ、こんなに苦しくなかったのに。
でももう、
僕たちは完全な黒と白ではいられなかった。
第七章 期限のある世界
時間は、均等に流れているはずなのに、
期限を与えられた瞬間から、質が変わった。
一週間のうち、五日目。
机の上の名刺は、裏返しのまま置かれている。
見なくても、内容は頭に入っている。
〈クーリングオフ期限:前日正午まで〉
逃げ道は、用意されている。
ただし、それを使えば、誰かが確実に失う。
シャワーを浴びても、気持ちは切り替わらなかった。
湯気の中で、何度も同じ問いが浮かぶ。
――自分の命は、誰のものなのか。
生きたいと思ってしまった。
それが、すべての始まりだった。
彼女と出会う前、僕は何も持っていなかった。
だから、差し出すことに迷いもなかった。
でも今は違う。
ほんのわずかだけ、
「続き」を想像してしまった。
それが、こんなにも残酷だとは思わなかった。
外に出る。
街は、いつも通りだ。
駅前のベンチには、学生が並んで座っている。
笑い声。イヤホンから漏れる音楽。
誰も、期限の話なんてしていない。
カフェの前を通りかかる。
あの日と同じ席に、またカップルが座っていた。
同じ色の飲み物。
スプーンで、ゆっくり混ぜている。
混ざる、という行為が、
こんなにも当たり前に行われている。
胸の奥が、きしむ。
僕は店に入らなかった。
あそこに座ったら、何かを決めてしまいそうだった。
スマホが震える。
〈今日は調子どう?〉
彼女からだ。
短い文面。
問いかけというより、存在確認。
〈普通〉
そう返す。
嘘ではない。
ただ、真実でもない。
〈無理しないで〉
その言葉に、少しだけ苛立った。
無理をしているのは、
誰のせいでもない。
家に戻り、引き出しを開ける。
昔の写真。
学生時代の寄せ書き。
もう使っていない通帳。
どれも、今の僕には遠い。
家族に連絡することも考えた。
でも、何を言えばいいのかわからない。
「実は、もうすぐ死ぬ予定なんだ」
「でも、やっぱり迷ってて」
そんな報告を、誰が受け止められるだろう。
夕方になる。
空が、ゆっくりと色を変えていく。
彼女の顔が浮かぶ。
白い横顔。浅い呼吸。
生きたい、という気持ち。
それを、責めることはできない。
同時に、
自分の生を投げ出す覚悟も、
もう簡単には戻ってこない。
机に座り、契約書を開く。
署名の文字が、自分のものとは思えない。
この名前の人間は、
本当に死ぬ覚悟があったのだろうか。
それとも、
誰かに使われることで、
やっと意味を得られると思っただけなのか。
夜が来る。
部屋の電気を消しても、眠れなかった。
天井を見つめながら、
ふと思う。
もし、彼女が助からなかったとして。
そのとき、僕は生きていられるのだろうか。
逆に、
彼女が生きて、
僕がいなくなったとして。
それは、救いなのだろうか。
どちらを選んでも、
後悔は残る。
なら、選ばないという選択は――
最も卑怯で、最も人間的なのかもしれない。
時計を見る。
期限まで、残り半日。
世界は静かで、
何も決断を迫ってこない。
それが、
一番、残酷だった。
最終章 僕たちはカフェオレになれない
夕方の光は、決断に向いていない。
柔らかすぎて、すべてを曖昧にする。
影も、輪郭も、どこか優しい。
街角に立ち、僕は足を止めていた。
時間は、もう残っていない。
期限は過ぎたか、過ぎようとしている。
ポケットの中の携帯は、静かなままだ。
病院からも、彼女からも、連絡はない。
それが、救いなのかどうかはわからない。
視線の先に、カフェがある。
ガラス越しに見えるのは、同じような光景だった。
テーブルを挟んで座るカップル。
同じ色の飲み物。
スプーンで、ゆっくりとかき混ぜる仕草。
カフェオレ。
黒と白が、迷いなく混ざっている。
僕は、その様子を外から眺める。
入らない。
入れない。
混ざることは、選ばなければならない。
どちらかを捨てる覚悟が、必要だ。
携帯が震えた。
〈今、どこ?〉
彼女からだった。
少しだけ、呼吸が浅くなる。
〈街角〉
それだけ返す。
数秒後。
〈そっか〉
それ以上は、来ない。
彼女も、もうわかっているのかもしれない。
僕が、決められないことを。
決めない、ということを。
夕焼けが、街を包む。
オレンジ色の光が、すべてを同じ色に染めていく。
でも、それは一時的なものだ。
夜になれば、また黒と白に戻る。
混ざったように見えても、
実際には、何も変わっていない。
僕は、空を見上げる。
雲が流れていく。
形を変えながら、消えていく。
彼女は、生きたい。
僕は、生きたいと思ってしまった。
その二つは、
本当は同時に叶えられない。
でも、それを理由に、
どちらかを切り捨てることもできなかった。
歩き出す。
どこへ向かっているのかは、わからない。
ただ、立ち止まることだけは、
もうできなかった。
カフェの前を通り過ぎるとき、
ふと、ガラスに映る自分が見えた。
曖昧な輪郭。
はっきりしない表情。
コーヒーでも、ミルクでもない。
カフェオレになれなかった人間。
それでも、
まだ、ここに立っている。
それが、
救いなのか、
罰なのか。
答えは、出なかった。
ただ一つ、わかっているのは――
混ざれなかった僕たちは、
それでも確かに、
同じ時間を、生きていたということだけだ。
夕暮れの街に、
夜が、静かに重なっていく。
完全には混ざらないまま。
それでも、世界は続いていく。
――僕たちは、カフェオレになれない。
そう呟いて、
僕は、歩き続けた。
朝が来るたび、少しだけ失敗したと思う。
目を開けてしまった、という意味で。
カーテンの隙間から差し込む光は、相変わらず無遠慮だった。誰かに見られているわけでもないのに、僕は反射的に目を伏せる。生きていることを指摘されるのが、昔から苦手だった。
昨夜の記憶は、途中で途切れている。
机の上に置かれた空のコップと、床に落ちた薬のシートが、何が起きたかを静かに説明していた。
また、だめだったらしい。
失敗した理由を考える気にはなれなかった。量が足りなかったのか、組み合わせが悪かったのか。そんな反省は、次につながる前提があってこそ意味を持つ。僕はもう、次を想定すること自体に疲れていた。
ベッドから起き上がると、軽いめまいがした。世界が一瞬だけ傾いて、すぐに元に戻る。相変わらず、うまく死ねない身体だと思う。
六畳一間の部屋は、生活感がないわけではないが、かといって生きる意思も感じられない。必要最低限の家具と、読みかけの本、洗っていないコップ。どれも僕の代わりに存在しているだけで、僕自身を語るものではなかった。
机の上に散らばったチラシを、なんとなくかき集める。電気代の督促、近所のスーパーの特売、見知らぬ整体院の広告。その中に、一枚だけ、妙に白い紙が混じっていた。
文字が少ない。
いや、少ないからこそ、目に入ったのかもしれない。
――あなたの遺体、売りませんか?
一瞬、意味が理解できなかった。
冗談の類だろうか。悪趣味なコピー。あるいは新手の詐欺。
紙を裏返しても、派手な説明はない。病院名と、簡単な連絡先、そして小さな注釈。
〈合法/本人同意必須〉
思わず、息が止まった。
心臓が少しだけ強く打つ。生きている証拠みたいで、不快だった。でも同時に、その鼓動に、奇妙な現実味があった。
売る、という言葉が引っかかっていた。
身体は、売れるものなのか。
僕はこれまで、何一つうまく手放せなかった。仕事も、人間関係も、人生そのものも。なのに、死んだ後の身体だけは、値段がつくらしい。
紙を見つめながら、考える。
もし、これが本当なら。
もし、ここに書かれている通りなら。
――失敗しなくて、済むかもしれない。
「……」
声に出すと、部屋に吸い込まれて消えた。誰に聞かれるわけでもないのに、なぜか少しだけ恥ずかしかった。
自殺、という言葉は使われていない。
代わりに並んでいるのは、制度とか、契約とか、同意とか。生と死を、事務的な言葉で包んでいる感じがした。
それが、妙に安心できた。
感情を挟まれない死。
誰かに悲しまれたり、止められたりしない終わり。
僕に向いている。
携帯を手に取る。連絡先の番号を見て、少しだけ迷う。電話をかけたところで、何が変わるわけでもない。そう思いながら、親指が自然に動いていた。
呼び出し音は、三回で切れた。
「はい、○○医療センター、臓器提供相談窓口です」
淡々とした声だった。
そこに、特別な感情は一切なかった。
「あの……チラシを見たんですが」
自分の声が、思っていたよりも落ち着いていることに驚く。緊張も、期待も、恐怖もない。ただ、確認するだけだ。
「はい。内容についてのご説明をご希望でしょうか」
「……はい」
それだけで、話は進んでいった。
日程。条件。クーリングオフ。
安楽死、という言葉は最後まで使われなかった。代わりに、〈医療的措置〉とか、〈本人の意思を尊重〉とか、角の取れた表現が並ぶ。
電話を切ったあと、僕はしばらくその場に立ち尽くしていた。
窓の外では、通勤途中の人たちが歩いている。急ぐ人、スマホを見ながら歩く人、誰かと笑い合う人。みんな、ちゃんと生きる方向を向いている。
その中に、僕はいない。
ふと、コーヒーが飲みたくなった。
インスタントでいい。苦いやつ。
お湯を注ぎながら、なぜか思った。
コーヒーは、単体で完成している。
ミルクも、ミルクで完成している。
でも、混ざると別の名前になる。
カフェオレ。
僕は、何にもなれなかった。
何かと混ざることもできなかった。
コーヒーを一口飲む。苦い。
それだけで、少し安心した。
まだ、決めたわけじゃない。
ただ、選択肢が増えただけだ。
生きるか、死ぬか。
その二択しかなかった世界に、もう一枚、紙が増えただけ。
それなのに、なぜだろう。
胸の奥に、わずかに残っていた“失敗”という感覚が、
ほんの少しだけ、形を変えた気がした。
第二章 売れる身体
病院は、想像していたよりも普通だった。
もっと人目を避けた場所にあるのかと思っていたが、駅から徒歩十分。コンビニとドラッグストアに挟まれた、白い五階建ての建物。看板も、よくあるフォントで「医療センター」と書かれている。
特別な場所ではない、ということが、逆に不気味だった。
受付で名前を告げると、事前に電話で伝えていたせいか、すぐに案内された。廊下は静かで、消毒液の匂いがうっすらと漂っている。壁に貼られた健康啓発ポスターの笑顔が、どれも現実味を欠いて見えた。
通されたのは、小さな会議室のような部屋だった。
窓はあるが、ブラインドが半分閉じられている。
向かいに座ったのは、四十代くらいの女性だった。スーツ姿で、医師というより事務職に見える。机の上には、分厚いファイルと、契約書らしき書類。
「本日はお越しいただきありがとうございます」
声は落ち着いている。抑揚は控えめ。
感情が入り込む隙間がない。
「改めてご説明いたします。当センターでは、重篤な疾患を抱える患者様への臓器提供を前提とした医療的措置を行っております。すべて、ご本人の自由意思に基づきます」
“自由意思”。
その言葉が、机の上に置かれた。
僕は頷く。
「事前検査の結果ですが、適合の可能性が高い血液型です」
やはり、と思った。
僕の血液型は珍しい。子どもの頃、健康診断のたびに少しだけ説明を受けた記憶がある。困ったときには役に立つかもしれませんね、と。
役に立つ、という言葉を、こんな形で思い出すとは思わなかった。
「提供後の流れですが、一定期間の入院ののち、医療的措置を実施いたします」
「……痛みは」
気づけば、口にしていた。
女性は、ほんのわずかに視線を落とす。
「最大限、軽減されます。意識は速やかに――」
そこで言葉を選ぶように、数秒、間が空いた。
「――保たれません」
死ぬ、とは言わない。
終わる、とも言わない。
ただ、保たれない。
曖昧な表現なのに、はっきりと理解できた。
机の上に、契約書が滑る。
「実施予定日は一週間後です。それまでは、クーリングオフが可能です。理由は問いません。ご連絡いただければ、契約は無効となります」
一週間。
想像より短い。
もっと何ヶ月も待たされるのかと思っていた。
でも考えてみれば、長く悩ませる制度ではないのかもしれない。
「ご家族への通知は?」
「ご本人の希望がない限り、こちらからは行いません」
孤独であることが、初めて利点に感じられた。
僕の死を止める人はいない。
僕の死を悲しむ人も、おそらくいない。
ペンを渡される。
黒いボールペン。どこにでもある安物だ。
それなのに、やけに重く感じる。
書類の一番下、自分の名前を書く欄。
何度も書いてきたはずの名前なのに、今日は少しだけ他人のもののようだった。線が震えないように、ゆっくりと書く。
署名が終わる。
それだけで、何かが決まった気がした。
女性は書類を確認し、静かにファイルに綴じる。
「本日より、一週間。何かありましたら、こちらへ」
名刺を差し出される。
僕はそれを受け取り、財布にしまった。
まるで、飲食店のポイントカードのように。
部屋を出ると、廊下の向こうからストレッチャーが運ばれてきた。酸素マスクをつけた高齢の男性が横たわっている。付き添いの女性が、何かを必死に話しかけていた。
「大丈夫だからね」「もうすぐだからね」
その声が、背中をかすめる。
僕は立ち止まらない。
自分が何に署名したのか、理解しているはずだった。
外に出ると、午後の日差しが眩しかった。
人の流れは変わらない。駅へ向かう学生、笑いながら歩く会社員、ベビーカーを押す母親。
世界は、僕の決断とは無関係に動いている。
ポケットの中で、名刺の角が指に当たる。
一週間。
七日間。
そのあいだ、僕は何をするのだろう。
死ぬ予定のある人間は、どんな顔をして過ごせばいいのか。
ふと、喉が渇いた。
自販機でブラックコーヒーを買う。
冷たい缶を額に当てると、現実感が少しだけ戻る。
プルタブを開けて、一口飲む。
苦い。
けれど、さっきまでよりも、少しだけ味がはっきりしている。
不思議だった。
終わりが決まったはずなのに、
世界の輪郭は、むしろくっきりして見えた。
もしかすると。
人は、失う期限を与えられて初めて、
それを持っていることを自覚するのかもしれない。
僕は空を見上げる。
雲がゆっくり流れている。
一週間後、あの雲はもう形を変えているだろう。
そして僕は、どこにもいない。
それでも――
なぜか、ほんのわずかに。
今この瞬間だけは、
生きている感覚があった。
第三章 偶然の午後
死ぬ予定があると、時間の使い方がわからなくなる。
仕事は三日前に辞めた。引き止められることもなく、あっさりと手続きは終わった。僕がいなくなっても、業務は滞りなく回るらしい。それは少し安心で、少しだけ寂しかった。
一週間のうち、二日が過ぎた。
何か特別なことをしようとは思わなかった。
旅行に行く気にもなれないし、誰かに会う気力もない。
ただ、時間を消費する。
駅前のパチンコ店に入ったのは、特に理由があったわけじゃない。騒音の中にいれば、自分の思考も紛れる気がしたからだ。
店内は光と音で満ちていた。電子音、玉の弾ける音、誰かの歓声。
それらはすべて、僕の内側とは無関係に鳴り続けている。
千円札を何枚か機械に入れる。
画面の演出が派手に動く。
当たっても、外れても、心はほとんど動かなかった。
しばらくして、手元の玉が少し増えた。換金すれば、たぶん数千円にはなる。死ぬ人間にとっては、誤差みたいな金額だ。
それでも、なぜか席を立った。
外に出ると、夕方の空気がひんやりしていた。さっきまでの騒音が嘘のように、街は落ち着いている。
信号待ちをしていたときだった。
「……あれ?」
声がした。
反射的に振り向く。
そこに立っていたのは、見覚えのある顔だった。
「久しぶり……だよね?」
記憶を引き出すのに、数秒かかった。
高校の教室。窓際の席。体育祭の応援団。
「……佐倉?」
名前が、口からこぼれる。
彼女は少し驚いた顔をして、それから笑った。
「あ、覚えててくれたんだ」
笑い方は、昔とあまり変わっていない。
けれど、どこか輪郭が細くなった気がした。
「偶然だね。こんなところで」
そう言いながら、彼女は僕の顔をじっと見る。
観察するような目だった。
「元気?」
その質問は、今の僕には少し難しい。
「まあ、それなりに」
曖昧に答える。
彼女は「そっか」と頷いたあと、少しだけ視線を落とした。
信号が青に変わる。
人の流れに押されるように、僕たちは並んで歩き出した。
「いま、何してるの?」
「……仕事は、辞めた」
「へえ。転職?」
「そんな感じ」
嘘ではないが、本当でもない。
彼女は追及しなかった。
代わりに、こう言った。
「時間あるなら、お茶でもどう?」
驚くほど自然な誘いだった。
断る理由はいくらでもあるはずなのに、口は勝手に動いた。
「……いいよ」
自分でも、なぜ了承したのかわからない。
彼女の隣を歩きながら、僕は気づく。
この人は、生きている。
ちゃんと、今を。
横顔に、わずかな疲れが見えた。
けれど、それでも前を向いて歩いている。
カフェの前で立ち止まる。
ガラス越しに、店内の温かい光が見える。
「ここ、好きなんだ」
彼女はそう言ってドアを押した。
僕は一瞬だけ、躊躇する。
一週間後にはいない人間が、
誰かとコーヒーを飲む資格なんてあるのだろうか。
それでも、足は止まらなかった。
店内に入ると、コーヒーの匂いがした。
少しだけ、心臓が強く打つ。
それが恐怖なのか、別の感情なのかは、
まだわからなかった。
第四章 混ざらない飲み物
カフェの中は、夕方のわりに静かだった。
壁際の席に、若いカップルが並んで座っている。テーブルの上には、同じ色のカップ。中身は、おそらくカフェオレだ。
彼女が先に席を選び、僕は向かいに座った。
「何飲む?」
メニューを見ながら、彼女が言う。
「コーヒーで」
即答だった。
「ブラック?」
「うん」
彼女は少しだけ考えてから、店員に注文する。
「ミルク、お願いします」
それだけだった。
コーヒーとミルク。
最初から、混ざらない選択。
「変わらないね」
彼女が、笑いながら言う。
「昔から、ブラックだったもんね」
そうだっただろうか。
自分のことなのに、よく覚えていない。
「佐倉は?」
「昔は甘いのばっかだったけどね」
そう言って、肩をすくめる。
「今は、これくらいがちょうどいい」
ちょうどいい、という言葉が、少し引っかかった。
カップルの方を見ると、二人は同じ飲み物を口にして、同時に笑っていた。何がそんなに楽しいのかはわからない。でも、息が合っていることだけは、遠目にも伝わってくる。
僕と彼女の間には、そんな空気はない。
沈黙があっても、無理に埋めようとしない。
「元気そうじゃないね」
不意に、彼女が言った。
責めるような口調ではない。
事実を、静かに置いただけ。
「そう見える?」
「うん。無理してる感じもしないけど……なんていうか」
言葉を探している。
「遠い」
遠い。
自分では、近くにいるつもりだった。
ちゃんと椅子に座って、会話もしている。
でも、彼女から見た僕は、
どこか別の場所に立っているらしい。
「佐倉は?」
話題を返す。
「私は……まあ、生きてるよ」
少しだけ、笑い方が崩れた。
その違和感に気づいても、僕は何も聞かなかった。
聞けば、踏み込んでしまう気がした。
店員が飲み物を運んでくる。
僕の前には、真っ黒なコーヒー。
彼女の前には、白いミルク。
湯気の立ち方も、匂いも違う。
「ね」
彼女が言う。
「高校のとき、覚えてる?」
「何を」
「文化祭。クラスの出し物でさ」
ああ、と記憶が繋がる。
「カフェやったやつ?」
「そう。私、カフェオレ担当だった」
懐かしそうに笑う。
「あなた、ずっと裏でコーヒー淹れてたよね。
ミルク、絶対入れなかった」
「そうだったかも」
「混ぜるのが嫌だって言ってた」
そんなこと、言っただろうか。
でも、言いそうだ、と思った。
彼女はミルクを一口飲む。
少しだけ、眉をひそめた。
「……やっぱり薄いな」
「混ぜればいいのに」
「混ぜたくない」
即答だった。
その言い切り方が、妙に強くて、
なぜか胸の奥がざわついた。
「このままでいい」
彼女は、そう言った。
白と黒は、テーブルの上で並んでいる。
近いのに、交わらない。
それが、ひどく自然に見えた。
カップルの席では、スプーンが音を立てていた。
ミルクとコーヒーが、くるくると混ざっていく。
別の飲み物に、変わっていく。
僕は自分のコーヒーを飲む。
苦い。
でも、嫌いじゃない。
この苦さは、知っている。
変わらない味。
ふと、思う。
もし僕と彼女が混ざったら、
何か別の名前になるのだろうか。
それとも、どちらかが消えるだけなのか。
そんなことを考えている時点で、
きっと僕は、誰かと混ざる人間じゃない。
「また、会ってもいい?」
帰り際、彼女が言った。
唐突だった。
「……どうして」
「なんとなく」
理由になっていない理由。
でも、断る理由も、見つからなかった。
「いいよ」
答えた自分の声が、少しだけ低く聞こえた。
彼女は安心したように笑う。
カフェを出ると、外はもう暗くなり始めていた。
別れ際、彼女は振り返る。
「じゃあ、また」
その言葉が、
なぜか「さよなら」よりも、重く感じられた。
彼女が去ったあと、
僕はしばらく、その場に立ち尽くしていた。
胸の奥に、わずかな違和感が残っている。
それが、
生きる気配なのか、
ただの錯覚なのか。
まだ、判断はつかなかった。
第五章 触れても混ざらない
彼女と夜を過ごすことになるなんて、そのときは思っていなかった。
約束をしたのは、カフェを出てから三日後だった。
連絡先を交換していたことを、後になって思い出す。あのときの僕は、たぶん何も深く考えていなかった。
〈今夜、少し話せる?〉
画面に表示された短いメッセージ。
断る理由はいくらでもあったはずなのに、指は自然に「いいよ」と返していた。
彼女が来たのは、夜九時を過ぎてからだった。
玄関先に立つ彼女は、昼間よりも少しだけ疲れて見えた。
それでも、無理に笑っている感じはない。
「お邪魔します」
その言い方が、妙に丁寧で、胸の奥がざわついた。
部屋に通す。
相変わらず、何もない部屋だ。
「相変わらずだね」
彼女は部屋を見回して言う。
「変える理由もないから」
それは、本音だった。
ソファに並んで座る。
テレビはつけなかった。
沈黙が流れる。
昼のカフェとは違う、夜の静けさ。
「ね」
彼女が、ぽつりと言う。
「もしさ」
言いかけて、止まる。
「……やっぱいい」
「よくないだろ」
思わず、言っていた。
彼女は少し驚いた顔をしてから、視線を落とす。
「今日ね、病院行ってきた」
その言葉で、空気が変わった。
「定期検査?」
「うん」
それ以上は、続けなかった。
続けなかったというより、続けられなかった、のかもしれない。
彼女の手が、膝の上で強く握られているのが見えた。
気づけば、僕はその手に触れていた。
温かい。
生きている人の温度だ。
彼女は、逃げなかった。
でも、握り返しもしなかった。
ただ、そこにある。
境界線を引いたまま。
そのまま、自然に、距離が縮まった。
キスは、確認みたいだった。
感情を確かめるためじゃなく、存在を確かめるための。
彼女の唇は、思っていたよりも冷たかった。
服を脱ぐ流れも、言葉は少なかった。
どちらかが主導したわけでもない。
ただ、流れ。
ベッドの上で、彼女の身体に触れながら、僕は奇妙な感覚に包まれていた。
欲情しているのに、執着がない。
抱いているのに、所有していない。
彼女も、同じだったと思う。
視線は絡むのに、奥までは踏み込まない。
触れ合っているのに、混ざらない。
終わったあと、彼女は僕の胸に顔を埋めた。
鼓動が、伝わる。
速すぎるくらい。
「……早いね」
彼女が、冗談めかして言う。
「昔から」
そう答えながら、胸の奥がひっかかる。
この速さは、緊張だけじゃない。
彼女は、少しだけ目を閉じる。
「ね」
また、その言い方。
「今日は、このままいていい?」
「……いいよ」
それ以外の答えは、用意していなかった。
電気を消す。
暗闇の中で、彼女の呼吸が聞こえる。
一定じゃない。
浅くて、少し苦しそうだ。
「大丈夫?」
「うん。いつものこと」
その言い方が、やけに慣れていて、
なぜか怖くなった。
背中に腕を回すと、彼女は少しだけ身を寄せてきた。
体温が、伝わる。
近い。
でも、どこか遠い。
眠りに落ちる直前、ふと思った。
もし僕が、この人と出会っていなかったら。
もし、一週間後の予定がなかったら。
そんな仮定に、意味はないはずなのに。
胸の奥に、
これまで感じたことのない感情が、わずかに芽を出していた。
それが、恋なのかどうかは、わからない。
ただ、確かに言えるのは――
僕はその夜、
初めて「生きていたいかもしれない」と思ってしまった。
それが、
一番、してはいけないことだとも知らずに。
第六章 戻れない朝
目が覚めたとき、しばらく状況が理解できなかった。
天井。
見慣れたはずの部屋。
でも、胸の上に重みがある。
視線を落とすと、彼女が眠っていた。
呼吸は浅い。
規則正しいとは言いがたいリズム。
昨夜のことが、ゆっくりと戻ってくる。
触れたこと。
抱いたこと。
そして――生きたいと思ってしまったこと。
心臓が、やけに強く打っている。
彼女が目を開けた。
数秒、何も言わずに僕を見る。
「……おはよ」
かすれた声。
「おはよう」
沈黙。
昨日とは違う空気が、部屋を満たしている。
踏み込んでしまった分だけ、
引き返せない感じがあった。
「昨日さ」
僕が口を開く。
「病院行ったって言ってたよな」
彼女は一瞬だけ目を逸らす。
「うん」
「何の検査?」
答えは、すぐには返ってこなかった。
彼女は体を起こし、シーツを胸元まで引き上げる。
その仕草が、妙に他人行儀に見えた。
「心臓」
短い言葉。
「ずっと悪いの。知ってた?」
知らなかった。
高校の頃、そんな素振りはなかった。
「進行してる。たぶん……そんなに長くない」
言い方は、驚くほど冷静だった。
「どれくらい」
聞くべきじゃないと思いながら、聞いた。
「一年、もたないかもって」
部屋が静まり返る。
外では、朝の車の音がする。
世界は、変わらない。
「移植、待ってるんだよね」
彼女は続ける。
「でも、型が合う人、なかなかいなくて」
その瞬間、嫌な予感が走った。
「私ね、ちょっと珍しい血液型なんだ」
鼓動が、跳ねる。
「あなたは?」
なぜ、そんなことを聞く。
「……同じだよ」
言った瞬間、空気が凍った。
彼女の目が、わずかに揺れる。
「やっぱり」
小さく、呟く。
やっぱり?
「どういう意味だよ」
声が、思ったより強く出た。
彼女は唇を噛む。
「偶然だよ。偶然」
その言い方が、あまりにも弱い。
僕の頭の中で、点と点が繋がり始める。
病院。
珍しい血液型。
一週間後の予定。
まさか。
「……知ってたのか」
問いというより、確認だった。
彼女は、しばらく黙ったまま、やがて小さく頷いた。
「完全に確信してたわけじゃない。でも、あの病院に通ってるって聞いて……もしかしてって」
足元が崩れる感覚。
「じゃあ、昨日のことも」
最後まで言えなかった。
彼女は首を振る。
「違う。あれは……違う」
その声だけは、はっきりしていた。
「利用しようとか、そんなつもりじゃない」
「でも、期待はしただろ」
沈黙。
それが、答えだった。
怒りとも、絶望ともつかない感情が胸を満たす。
同時に、理解もしてしまう。
彼女は生きたいのだ。
必死に。
僕が死のうとしている、その一週間のあいだにも。
「クーリングオフ、できるんだよね」
彼女が、静かに言う。
僕は何も答えない。
「やめれば、あなたは生きる」
「でも、お前は」
言葉が詰まる。
彼女は、笑った。
あまりにも静かな笑い。
「私は、私の時間を生きるだけ」
きれいごとだと思った。
でも、嘘じゃないとも思った。
ベッドの上で、二人のあいだに距離ができている。
昨夜は、あれほど近かったのに。
「選ばなくていいよ」
彼女が言う。
「どっちでも、あなたの自由だから」
自由。
またその言葉だ。
自由に死ねる。
自由に生きられる。
でもその選択は、
もう僕ひとりの問題じゃない。
窓から差し込む光が、彼女の横顔を照らす。
白い。
ミルクみたいに。
僕は、自分の手を見る。
黒いコーヒーのように、何も混ざらない手。
混ざれば、救えるのか。
それとも、どちらかが消えるだけなのか。
初めて、はっきりと理解した。
僕はもう、
ただ死にたいだけの人間ではいられない。
一週間後の予定が、
別の意味を持ち始めている。
それは救いかもしれないし、
呪いかもしれない。
彼女はゆっくりとベッドを降りる。
服を着ながら、振り返らない。
「また、連絡するね」
その言葉が、昨日よりも重い。
玄関のドアが閉まる音。
部屋に、静寂が戻る。
机の上には、病院の名刺。
ポケットの中には、一週間の期限。
そして胸の中には、
生きたいという、最悪の感情。
僕は、頭を抱える。
――混ざらなければ、こんなに苦しくなかったのに。
でももう、
僕たちは完全な黒と白ではいられなかった。
第七章 期限のある世界
時間は、均等に流れているはずなのに、
期限を与えられた瞬間から、質が変わった。
一週間のうち、五日目。
机の上の名刺は、裏返しのまま置かれている。
見なくても、内容は頭に入っている。
〈クーリングオフ期限:前日正午まで〉
逃げ道は、用意されている。
ただし、それを使えば、誰かが確実に失う。
シャワーを浴びても、気持ちは切り替わらなかった。
湯気の中で、何度も同じ問いが浮かぶ。
――自分の命は、誰のものなのか。
生きたいと思ってしまった。
それが、すべての始まりだった。
彼女と出会う前、僕は何も持っていなかった。
だから、差し出すことに迷いもなかった。
でも今は違う。
ほんのわずかだけ、
「続き」を想像してしまった。
それが、こんなにも残酷だとは思わなかった。
外に出る。
街は、いつも通りだ。
駅前のベンチには、学生が並んで座っている。
笑い声。イヤホンから漏れる音楽。
誰も、期限の話なんてしていない。
カフェの前を通りかかる。
あの日と同じ席に、またカップルが座っていた。
同じ色の飲み物。
スプーンで、ゆっくり混ぜている。
混ざる、という行為が、
こんなにも当たり前に行われている。
胸の奥が、きしむ。
僕は店に入らなかった。
あそこに座ったら、何かを決めてしまいそうだった。
スマホが震える。
〈今日は調子どう?〉
彼女からだ。
短い文面。
問いかけというより、存在確認。
〈普通〉
そう返す。
嘘ではない。
ただ、真実でもない。
〈無理しないで〉
その言葉に、少しだけ苛立った。
無理をしているのは、
誰のせいでもない。
家に戻り、引き出しを開ける。
昔の写真。
学生時代の寄せ書き。
もう使っていない通帳。
どれも、今の僕には遠い。
家族に連絡することも考えた。
でも、何を言えばいいのかわからない。
「実は、もうすぐ死ぬ予定なんだ」
「でも、やっぱり迷ってて」
そんな報告を、誰が受け止められるだろう。
夕方になる。
空が、ゆっくりと色を変えていく。
彼女の顔が浮かぶ。
白い横顔。浅い呼吸。
生きたい、という気持ち。
それを、責めることはできない。
同時に、
自分の生を投げ出す覚悟も、
もう簡単には戻ってこない。
机に座り、契約書を開く。
署名の文字が、自分のものとは思えない。
この名前の人間は、
本当に死ぬ覚悟があったのだろうか。
それとも、
誰かに使われることで、
やっと意味を得られると思っただけなのか。
夜が来る。
部屋の電気を消しても、眠れなかった。
天井を見つめながら、
ふと思う。
もし、彼女が助からなかったとして。
そのとき、僕は生きていられるのだろうか。
逆に、
彼女が生きて、
僕がいなくなったとして。
それは、救いなのだろうか。
どちらを選んでも、
後悔は残る。
なら、選ばないという選択は――
最も卑怯で、最も人間的なのかもしれない。
時計を見る。
期限まで、残り半日。
世界は静かで、
何も決断を迫ってこない。
それが、
一番、残酷だった。
最終章 僕たちはカフェオレになれない
夕方の光は、決断に向いていない。
柔らかすぎて、すべてを曖昧にする。
影も、輪郭も、どこか優しい。
街角に立ち、僕は足を止めていた。
時間は、もう残っていない。
期限は過ぎたか、過ぎようとしている。
ポケットの中の携帯は、静かなままだ。
病院からも、彼女からも、連絡はない。
それが、救いなのかどうかはわからない。
視線の先に、カフェがある。
ガラス越しに見えるのは、同じような光景だった。
テーブルを挟んで座るカップル。
同じ色の飲み物。
スプーンで、ゆっくりとかき混ぜる仕草。
カフェオレ。
黒と白が、迷いなく混ざっている。
僕は、その様子を外から眺める。
入らない。
入れない。
混ざることは、選ばなければならない。
どちらかを捨てる覚悟が、必要だ。
携帯が震えた。
〈今、どこ?〉
彼女からだった。
少しだけ、呼吸が浅くなる。
〈街角〉
それだけ返す。
数秒後。
〈そっか〉
それ以上は、来ない。
彼女も、もうわかっているのかもしれない。
僕が、決められないことを。
決めない、ということを。
夕焼けが、街を包む。
オレンジ色の光が、すべてを同じ色に染めていく。
でも、それは一時的なものだ。
夜になれば、また黒と白に戻る。
混ざったように見えても、
実際には、何も変わっていない。
僕は、空を見上げる。
雲が流れていく。
形を変えながら、消えていく。
彼女は、生きたい。
僕は、生きたいと思ってしまった。
その二つは、
本当は同時に叶えられない。
でも、それを理由に、
どちらかを切り捨てることもできなかった。
歩き出す。
どこへ向かっているのかは、わからない。
ただ、立ち止まることだけは、
もうできなかった。
カフェの前を通り過ぎるとき、
ふと、ガラスに映る自分が見えた。
曖昧な輪郭。
はっきりしない表情。
コーヒーでも、ミルクでもない。
カフェオレになれなかった人間。
それでも、
まだ、ここに立っている。
それが、
救いなのか、
罰なのか。
答えは、出なかった。
ただ一つ、わかっているのは――
混ざれなかった僕たちは、
それでも確かに、
同じ時間を、生きていたということだけだ。
夕暮れの街に、
夜が、静かに重なっていく。
完全には混ざらないまま。
それでも、世界は続いていく。
――僕たちは、カフェオレになれない。
そう呟いて、
僕は、歩き続けた。
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