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第1章 規律の汚染
完璧なケア
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完璧なケア(基盤の奪取)
彼女をイタリア製のレザーソファに深く沈み込ませると、僕はその足元に膝をつく。跪くのではない。検体の状態を最も至近距離で確認し、その「痛み」を共有することで精神的な主導権を握るためのポジションだ。
「足、出せるかい?」
僕が穏やかな、しかし拒絶を許さない響きで問いかけると、英里は少し躊躇いながら、膝丈のタイトスカートの裾を両手で抑え、足を差し出した。
黒の80デニールのタイツ。その表面は度重なる摩擦で細かな毛玉ができ、左足の親指と、両足の踵の部分は生地が限界まで薄く透けて、肌色が覗いている。新しいものを買う数百円の余裕さえ、弟のおやつ代や母の医療費に回している証拠だ。
ゆっくりとタイツを引き抜いていく。摩擦音と共に、ナイロンの中に閉じ込められていた彼女の疲労の匂いが解放される。
<<観測: 足関節周囲の浮腫(+3レベル)。母趾球および小趾球に角質硬化。足底筋膜に重度の炎症反応を確認>>
酷い状態だ。舗装されていない戦場を行軍した兵士のような足だ。
60キロを超える弟がパニックで暴れるのを踏ん張って支え、リウマチで動けない母をベッドから車椅子へ移乗させ、仕事中はヒールを履いてフロアを走り回った結果が、この白く細い足首に刻まれた赤黒い靴擦れの痕だ。絆創膏さえ貼っていない。自分の痛みを手当てする時間すら、彼女は他人のために捧げたのだ。
「……見ないで。汚いから。ストッキングも伝線しちゃってるし……」
英里が恥じらって、足を引っ込めようとする。自分のボロボロで生活感に塗れた足を、僕の完璧に整えられた部屋や、手入れされた指に触れさせるのが申し訳ないと思っているのだ。その自罰的な、あまりにも慎ましすぎる思考回路。
僕は逃がさないように、彼女の足首を大きな手でしっかりと掴む。
「汚くないよ。むしろ尊い。……よく頑張ったね、この足は。今日一日、誰よりも働いたんだ」
嘘ではない。僕にとって、この傷だらけの足は、美術館に飾られたどんな完璧な彫刻よりも価値がある。彼女の献身、犠牲、苦痛。そのすべてが刻まれた、生きた履歴書だ。
僕は解剖学的な知識に基づき、カチカチに固まった足裏の『湧泉』というツボを、絶妙な圧で押し込む。
「んっ……あぅ……っ!」
彼女の口から、甘い苦悶の声が漏れる。
痛い。けれど、それ以上に脳が痺れるほど気持ちいいはずだ。僕は滞ったリンパとドロドロの静脈血を、下から上へと強制的に循環させる。僕の手の熱が、彼女の冷え切った末端に侵入し、凍りついた血管を溶かしていく。
「……ふぅ。英里、君が自分の世話をできないなら、これからは僕が全部やる。そう決めたんだ」
マッサージの手を止めず、僕はまるで明日の天気の話でもするように口を開く。重要なのは「ついで」のトーンだ。重々しく切り出してはいけない。
「そういえば、弟くんの来月のショートステイだけど。申請書類、僕の方で更新しておいたよ。受理通知もさっき僕の端末に来ていたから、君が役所に行く必要はない」
ビクリ、と彼女の体が跳ねる。
リラックスしかけた筋肉が再び収縮する。「予約しなきゃいけないのに忘れていた」「また手続きで役所に行かなきゃいけない」という恐怖反射だ。彼女にとって行政手続きは、睡眠時間を削り取る最大のストレス源だ。
「え……? でも、あれは本人が窓口に行かないと……」
「前回の書類の不備を僕が補正して、委任状も完璧に整えておいた。僕の職業柄、ああいう非論理的なレイアウトを見ると直さずにはいられないんだ。君の大切な時間が、役所の窓口で浪費されるのは合理的じゃないからね」
嘘だ。君のために、夜通し自治体のサイトを解析し、最も通りやすい文言を精査して作成した。だが、それを「君のため」と言ってはいけない。あくまで「僕の几帳面な性格ゆえの行動」「書類の不備が許せなかっただけ」というスタンスを貫く。
「それと、お母さんの通院タクシーも。定期便で契約しておいたよ。毎週火曜と金曜の14時。ドライバーも介助に慣れたベテランを指定してある。……君が仕事中に配車で頭を悩ませるのは、僕とのデートの予定を立てる上でマイナスだからね。これは僕の『投資』だと思ってくれればいい」
「そ、そんな……ダメだよ、たーくん。そこまでしてもらったら、私、どうお返ししたら……」
「君が健やかに、僕の隣で笑っていてくれるだけで十分だ。君の時間を整理することは、僕自身の利益になる。だから、これは僕のわがままだと思って、僕に預けてくれないかな?」
完璧なロジック。
手間が省け、時間が生まれ、さらに「自分のわがまま」と言い張ることで彼女の罪悪感を緩和する。拒否する理由は、論理的に存在しない。
彼女の瞳が潤み、唇が震え始める。喉から手が出るほど欲しかった「自由」と「安眠」が、突然空から降ってきたのだ。誰も助けてくれなかった冷たい荒野で、一人で血を流しながら戦ってきた彼女の武器を、僕が静かに取り上げた瞬間だ。
「……ありがとう。……ありがとう、たーくん……。本当に、助かる……」
涙が頬を伝う。
彼女は気づいていない。武器を捨てた兵士は、もう二度と自分の足で戦場には立てないということに。僕がいなければ、来月のスケジュールさえ組めないほど、彼女は無力化されているのだ。
<<状態: 緊張緩和(Relaxation)。依存深度(Dependence)、急激な上昇を確認。自律的判断の放棄を誘発>>
彼女をイタリア製のレザーソファに深く沈み込ませると、僕はその足元に膝をつく。跪くのではない。検体の状態を最も至近距離で確認し、その「痛み」を共有することで精神的な主導権を握るためのポジションだ。
「足、出せるかい?」
僕が穏やかな、しかし拒絶を許さない響きで問いかけると、英里は少し躊躇いながら、膝丈のタイトスカートの裾を両手で抑え、足を差し出した。
黒の80デニールのタイツ。その表面は度重なる摩擦で細かな毛玉ができ、左足の親指と、両足の踵の部分は生地が限界まで薄く透けて、肌色が覗いている。新しいものを買う数百円の余裕さえ、弟のおやつ代や母の医療費に回している証拠だ。
ゆっくりとタイツを引き抜いていく。摩擦音と共に、ナイロンの中に閉じ込められていた彼女の疲労の匂いが解放される。
<<観測: 足関節周囲の浮腫(+3レベル)。母趾球および小趾球に角質硬化。足底筋膜に重度の炎症反応を確認>>
酷い状態だ。舗装されていない戦場を行軍した兵士のような足だ。
60キロを超える弟がパニックで暴れるのを踏ん張って支え、リウマチで動けない母をベッドから車椅子へ移乗させ、仕事中はヒールを履いてフロアを走り回った結果が、この白く細い足首に刻まれた赤黒い靴擦れの痕だ。絆創膏さえ貼っていない。自分の痛みを手当てする時間すら、彼女は他人のために捧げたのだ。
「……見ないで。汚いから。ストッキングも伝線しちゃってるし……」
英里が恥じらって、足を引っ込めようとする。自分のボロボロで生活感に塗れた足を、僕の完璧に整えられた部屋や、手入れされた指に触れさせるのが申し訳ないと思っているのだ。その自罰的な、あまりにも慎ましすぎる思考回路。
僕は逃がさないように、彼女の足首を大きな手でしっかりと掴む。
「汚くないよ。むしろ尊い。……よく頑張ったね、この足は。今日一日、誰よりも働いたんだ」
嘘ではない。僕にとって、この傷だらけの足は、美術館に飾られたどんな完璧な彫刻よりも価値がある。彼女の献身、犠牲、苦痛。そのすべてが刻まれた、生きた履歴書だ。
僕は解剖学的な知識に基づき、カチカチに固まった足裏の『湧泉』というツボを、絶妙な圧で押し込む。
「んっ……あぅ……っ!」
彼女の口から、甘い苦悶の声が漏れる。
痛い。けれど、それ以上に脳が痺れるほど気持ちいいはずだ。僕は滞ったリンパとドロドロの静脈血を、下から上へと強制的に循環させる。僕の手の熱が、彼女の冷え切った末端に侵入し、凍りついた血管を溶かしていく。
「……ふぅ。英里、君が自分の世話をできないなら、これからは僕が全部やる。そう決めたんだ」
マッサージの手を止めず、僕はまるで明日の天気の話でもするように口を開く。重要なのは「ついで」のトーンだ。重々しく切り出してはいけない。
「そういえば、弟くんの来月のショートステイだけど。申請書類、僕の方で更新しておいたよ。受理通知もさっき僕の端末に来ていたから、君が役所に行く必要はない」
ビクリ、と彼女の体が跳ねる。
リラックスしかけた筋肉が再び収縮する。「予約しなきゃいけないのに忘れていた」「また手続きで役所に行かなきゃいけない」という恐怖反射だ。彼女にとって行政手続きは、睡眠時間を削り取る最大のストレス源だ。
「え……? でも、あれは本人が窓口に行かないと……」
「前回の書類の不備を僕が補正して、委任状も完璧に整えておいた。僕の職業柄、ああいう非論理的なレイアウトを見ると直さずにはいられないんだ。君の大切な時間が、役所の窓口で浪費されるのは合理的じゃないからね」
嘘だ。君のために、夜通し自治体のサイトを解析し、最も通りやすい文言を精査して作成した。だが、それを「君のため」と言ってはいけない。あくまで「僕の几帳面な性格ゆえの行動」「書類の不備が許せなかっただけ」というスタンスを貫く。
「それと、お母さんの通院タクシーも。定期便で契約しておいたよ。毎週火曜と金曜の14時。ドライバーも介助に慣れたベテランを指定してある。……君が仕事中に配車で頭を悩ませるのは、僕とのデートの予定を立てる上でマイナスだからね。これは僕の『投資』だと思ってくれればいい」
「そ、そんな……ダメだよ、たーくん。そこまでしてもらったら、私、どうお返ししたら……」
「君が健やかに、僕の隣で笑っていてくれるだけで十分だ。君の時間を整理することは、僕自身の利益になる。だから、これは僕のわがままだと思って、僕に預けてくれないかな?」
完璧なロジック。
手間が省け、時間が生まれ、さらに「自分のわがまま」と言い張ることで彼女の罪悪感を緩和する。拒否する理由は、論理的に存在しない。
彼女の瞳が潤み、唇が震え始める。喉から手が出るほど欲しかった「自由」と「安眠」が、突然空から降ってきたのだ。誰も助けてくれなかった冷たい荒野で、一人で血を流しながら戦ってきた彼女の武器を、僕が静かに取り上げた瞬間だ。
「……ありがとう。……ありがとう、たーくん……。本当に、助かる……」
涙が頬を伝う。
彼女は気づいていない。武器を捨てた兵士は、もう二度と自分の足で戦場には立てないということに。僕がいなければ、来月のスケジュールさえ組めないほど、彼女は無力化されているのだ。
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