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本編
雨粒ひとつ
瞳子が明日馬と出会ったのは半年前。
三十歳の誕生日を迎えた翌日の、春雨の降るある夜のことだった。
歩道の水たまりに、ゆらゆらと街灯が滲む。気温よりも心のほうが冷えていることを、瞳子はうっすらと自覚していた。
長引いた仕事の余韻が肩に重くのしかかり、なんとなく家に帰りたくなくて帰路を外れた。
向かった先は、馴染みのカフェ。
鈴のついた木製の扉を開けると、白い湯気と柔らかな照明が出迎えてくれた。美味しそうなコーヒーの香りが、鼻先をくすぐる。
金曜のせいだろうか。普段より賑わった店内で、瞳子は空席を探して視線を巡らせた。
……と、何かが風に舞った気配とともに、背後でかさりと音がした。
振り返れば、鞄のサイドポケットから滑り落ちた書類が、床の上に数枚散らばっていた。
「落としましたよ」
拾ってくれたのは、見知らぬ青年だった。
少し癖のある黒髪に、長い睫毛が影を落とした涼やかな瞳。捲ったスプリングセーターの袖奥から、ちらりとタトゥーが覗いていた。
若いと思った。それ以上でも以下でもなく、単純に。
「あ、す、すみませんっ。ありがとうございます」
とっさに頭を下げ、謝意を伝える。
書類を受け取る際、わずかに彼の指先が触れた。色白で、しなやかで、繊細な彫刻のようだった。
もう一度お辞儀をして、ふたたび空席を探し始める。退店する客も散見されたが、それを上回る入店客に、なかなか席が見つからない。
そんな瞳子に、彼はこんな提案をした。
「相席でよかったら、俺の向かい側空いてますけど」
「え? でも……」
「俺、勉強してるだけだから。気にしないで」
通りからは見えない、ふたり掛けのテーブル席。彼に案内されたそこには、分厚い本やルーズリーフ、レジュメといった、瞳子にとって懐かしいアイテムが所狭しと広げられていた。
瞳子がトレーを置けるように場を整理すると、彼は黙々と勉強に戻っていった。
お気に入りのコーヒーをひとくち啜る。彼の邪魔をしたくなくて、瞳子はできるかぎり音を立てないよう気をつけた。
視界の端にちらりと映った本には、〝経営学〟の文字。ルーズリーフの上を、さらさらと専門用語が走っていく。
目の前の若い彼に、勝手に勇気をもらいながら。
瞳子は、雨に煙る窓の外へと視線を移した。
三十歳の誕生日を迎えた翌日の、春雨の降るある夜のことだった。
歩道の水たまりに、ゆらゆらと街灯が滲む。気温よりも心のほうが冷えていることを、瞳子はうっすらと自覚していた。
長引いた仕事の余韻が肩に重くのしかかり、なんとなく家に帰りたくなくて帰路を外れた。
向かった先は、馴染みのカフェ。
鈴のついた木製の扉を開けると、白い湯気と柔らかな照明が出迎えてくれた。美味しそうなコーヒーの香りが、鼻先をくすぐる。
金曜のせいだろうか。普段より賑わった店内で、瞳子は空席を探して視線を巡らせた。
……と、何かが風に舞った気配とともに、背後でかさりと音がした。
振り返れば、鞄のサイドポケットから滑り落ちた書類が、床の上に数枚散らばっていた。
「落としましたよ」
拾ってくれたのは、見知らぬ青年だった。
少し癖のある黒髪に、長い睫毛が影を落とした涼やかな瞳。捲ったスプリングセーターの袖奥から、ちらりとタトゥーが覗いていた。
若いと思った。それ以上でも以下でもなく、単純に。
「あ、す、すみませんっ。ありがとうございます」
とっさに頭を下げ、謝意を伝える。
書類を受け取る際、わずかに彼の指先が触れた。色白で、しなやかで、繊細な彫刻のようだった。
もう一度お辞儀をして、ふたたび空席を探し始める。退店する客も散見されたが、それを上回る入店客に、なかなか席が見つからない。
そんな瞳子に、彼はこんな提案をした。
「相席でよかったら、俺の向かい側空いてますけど」
「え? でも……」
「俺、勉強してるだけだから。気にしないで」
通りからは見えない、ふたり掛けのテーブル席。彼に案内されたそこには、分厚い本やルーズリーフ、レジュメといった、瞳子にとって懐かしいアイテムが所狭しと広げられていた。
瞳子がトレーを置けるように場を整理すると、彼は黙々と勉強に戻っていった。
お気に入りのコーヒーをひとくち啜る。彼の邪魔をしたくなくて、瞳子はできるかぎり音を立てないよう気をつけた。
視界の端にちらりと映った本には、〝経営学〟の文字。ルーズリーフの上を、さらさらと専門用語が走っていく。
目の前の若い彼に、勝手に勇気をもらいながら。
瞳子は、雨に煙る窓の外へと視線を移した。
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