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後日談:陽だまりと水たまり
前編
あの日——明日馬の腕の中で泣きながら想いを告げたあの夜。
瞳子の中で、何かが変わった。
繊細なラメがさりげなくきらめくボルドーのアイシャドウに、控えめなローズピンクのマットルージュ。
モカブラウンのふんわりニット。ブルー系のスキニージーンズ。
これまで選ぶことのなかった色調やファッションに身を包むようになったのは、彼に愛されているという確信が、地味で堅実な自分を優しく塗り替えてくれたからだろう。
まるで、水たまりの底に淀んでいた景色が、光を浴び始めたような変化。その光の源が明日馬であることを、瞳子ははっきりと自覚していた。
あの日。あの夜。
瞳子は、彼に堕ちたのだ。
⊹₊⟡⋆˚⊹₊⟡⋆˚⊹₊⟡⋆˚⊹₊⟡⋆˚⊹₊⟡⋆˚⊹
心地よい気怠さ漂う、土曜日の朝。
カーテン越し。淡い金の陽光が、白いシーツに柔らかなグラデーションを描く。
ゆっくりと、瞳子は瞼を持ち上げた。背後には、穏やかな寝息と確かな体温。
明日馬の右腕が、微塵も躊躇することなく、腰に回されている。その逞しい腕には、黒いインクで刻まれた鷹の翼が、うっすらと朝の光を反射していた。
もう、彼が夜明け前に帰ることはない。
気づけば、瞳子の部屋には、彼の物が少しずつ増えていた。
食器や歯ブラシ、下着に服——何気ないそれらひとつひとつが、まるでぬくもりの欠片のように日常の一部と化していく。
「……ん」
彼の喉から洩れ出る吐息。
瞳子がかすかに身じろぎすると、彼は静かに目を開けた。
「瞳子さん……はよ」
かすれた低声が、鼓膜を震わす。その響きだけで、瞳子の身体の奥が、じんと熱を帯びた。
「おはよう」
彼のほうへと寝返りを打ち、額をそっと合わせる。
いつものように、軽く唇を触れ合わせるだけの挨拶——の、はずだった。けれど、このときの瞳子は、ほんのちょっぴり欲をおぼえてしまったのだ。
重ねた唇をわずかに押し広げ、熱を込めて、彼の舌先をぢゅっと吸い上げる。
一瞬目を見開くも、すぐに満足げに目を細めると、彼は瞳子の後頭部を優しく掴んだ。瞳子の熱に応えるように、激しく舌を絡ませる。
ベッドを抜け出るまでの、短い戯れ。
ともに迎えられた朝の、小さな幸せ。
堕落した時間を存分に貪り、ようやく起き上がると、瞳子はコーヒーを淹れる支度を開始した。
色違いのカップに、出会ったカフェで買ったコーヒー豆。
彼のためにコーヒーを淹れるこの時間が、今は何より愛おしい。
「いい匂い」
ソファに腰かけ、バイト先の資料を確認していた明日馬が、ふと顔を上げた。キッチンから歩いてくる瞳子に向かって、微笑を投げかける。
「店員さんがおすすめしてくれたの。どんな味がするか楽しみだね」
カップを差し出すと、彼は「ありがとう」と受け取り、湯気立つそれを口に運んだ。
「あ。美味しい」
「ほんとだ。飲みやすいね」
苦味が舌の上で転がり、ほどけるような甘みと酸味が喉の奥に広がる。
陽だまりの朝。
ふたりだけの、和やかなひととき。
不意に。
テーブルの上に置かれた瞳子のスマートフォンが、短い通知音を立てた。
液晶が光を放ち、メッセージのプレビューが一瞬、明日馬の視界に映り込む。
「……ごめん、瞳子さん。見るつもりはなかったんだけど」
申し訳なさそうに目を逸らしながら、彼は瞳子にスマホを手渡した。
画面には、「そろそろサロンおいでよ! 新作デザイン試させて!」という明るい文字列。
「絢子からだ」
「あやこ?」
「うん。……あ! 絢子っていうのは、わたしの双子の妹で……ネイルアーティストなの」
瞳子が苦笑混じりに説明すると、明日馬は意外そうに首を傾げた。
「双子? 瞳子さん、双子だったんだ」
「二卵性だから、全然似てないんだけどね。あの子は華があって、才能もあって、性格も明るくて……わたしとは真逆。子どもの頃はいつも比較されてたから、少しだけ引け目を感じてたっていうか……」
初めて語られる瞳子の過去。妹と比較され続けてきた年月の重みが、言葉の端々に影を落とす。
明日馬は、黙って瞳子の話を聞き終えると、静かにその手を取った。指と指を絡め、きゅっと握り締める。
「瞳子さんは瞳子さんでしょ。双子だからって、誰かと比べる必要ない」
その言葉に瞳子が顔を上げると、明日馬は小さく微笑み、絡めた細い指先にそっと唇を落とした。
「俺は、瞳子さんだから好きになったんだよ」
明日馬の瞳に映る自分と、視線が重なる。
触れた部分から伝わる熱が、心に沁み渡る。
「……ありがとう」
朝の光が、ふたりの影を、ひとつに溶かした。
瞳子の中で、何かが変わった。
繊細なラメがさりげなくきらめくボルドーのアイシャドウに、控えめなローズピンクのマットルージュ。
モカブラウンのふんわりニット。ブルー系のスキニージーンズ。
これまで選ぶことのなかった色調やファッションに身を包むようになったのは、彼に愛されているという確信が、地味で堅実な自分を優しく塗り替えてくれたからだろう。
まるで、水たまりの底に淀んでいた景色が、光を浴び始めたような変化。その光の源が明日馬であることを、瞳子ははっきりと自覚していた。
あの日。あの夜。
瞳子は、彼に堕ちたのだ。
⊹₊⟡⋆˚⊹₊⟡⋆˚⊹₊⟡⋆˚⊹₊⟡⋆˚⊹₊⟡⋆˚⊹
心地よい気怠さ漂う、土曜日の朝。
カーテン越し。淡い金の陽光が、白いシーツに柔らかなグラデーションを描く。
ゆっくりと、瞳子は瞼を持ち上げた。背後には、穏やかな寝息と確かな体温。
明日馬の右腕が、微塵も躊躇することなく、腰に回されている。その逞しい腕には、黒いインクで刻まれた鷹の翼が、うっすらと朝の光を反射していた。
もう、彼が夜明け前に帰ることはない。
気づけば、瞳子の部屋には、彼の物が少しずつ増えていた。
食器や歯ブラシ、下着に服——何気ないそれらひとつひとつが、まるでぬくもりの欠片のように日常の一部と化していく。
「……ん」
彼の喉から洩れ出る吐息。
瞳子がかすかに身じろぎすると、彼は静かに目を開けた。
「瞳子さん……はよ」
かすれた低声が、鼓膜を震わす。その響きだけで、瞳子の身体の奥が、じんと熱を帯びた。
「おはよう」
彼のほうへと寝返りを打ち、額をそっと合わせる。
いつものように、軽く唇を触れ合わせるだけの挨拶——の、はずだった。けれど、このときの瞳子は、ほんのちょっぴり欲をおぼえてしまったのだ。
重ねた唇をわずかに押し広げ、熱を込めて、彼の舌先をぢゅっと吸い上げる。
一瞬目を見開くも、すぐに満足げに目を細めると、彼は瞳子の後頭部を優しく掴んだ。瞳子の熱に応えるように、激しく舌を絡ませる。
ベッドを抜け出るまでの、短い戯れ。
ともに迎えられた朝の、小さな幸せ。
堕落した時間を存分に貪り、ようやく起き上がると、瞳子はコーヒーを淹れる支度を開始した。
色違いのカップに、出会ったカフェで買ったコーヒー豆。
彼のためにコーヒーを淹れるこの時間が、今は何より愛おしい。
「いい匂い」
ソファに腰かけ、バイト先の資料を確認していた明日馬が、ふと顔を上げた。キッチンから歩いてくる瞳子に向かって、微笑を投げかける。
「店員さんがおすすめしてくれたの。どんな味がするか楽しみだね」
カップを差し出すと、彼は「ありがとう」と受け取り、湯気立つそれを口に運んだ。
「あ。美味しい」
「ほんとだ。飲みやすいね」
苦味が舌の上で転がり、ほどけるような甘みと酸味が喉の奥に広がる。
陽だまりの朝。
ふたりだけの、和やかなひととき。
不意に。
テーブルの上に置かれた瞳子のスマートフォンが、短い通知音を立てた。
液晶が光を放ち、メッセージのプレビューが一瞬、明日馬の視界に映り込む。
「……ごめん、瞳子さん。見るつもりはなかったんだけど」
申し訳なさそうに目を逸らしながら、彼は瞳子にスマホを手渡した。
画面には、「そろそろサロンおいでよ! 新作デザイン試させて!」という明るい文字列。
「絢子からだ」
「あやこ?」
「うん。……あ! 絢子っていうのは、わたしの双子の妹で……ネイルアーティストなの」
瞳子が苦笑混じりに説明すると、明日馬は意外そうに首を傾げた。
「双子? 瞳子さん、双子だったんだ」
「二卵性だから、全然似てないんだけどね。あの子は華があって、才能もあって、性格も明るくて……わたしとは真逆。子どもの頃はいつも比較されてたから、少しだけ引け目を感じてたっていうか……」
初めて語られる瞳子の過去。妹と比較され続けてきた年月の重みが、言葉の端々に影を落とす。
明日馬は、黙って瞳子の話を聞き終えると、静かにその手を取った。指と指を絡め、きゅっと握り締める。
「瞳子さんは瞳子さんでしょ。双子だからって、誰かと比べる必要ない」
その言葉に瞳子が顔を上げると、明日馬は小さく微笑み、絡めた細い指先にそっと唇を落とした。
「俺は、瞳子さんだから好きになったんだよ」
明日馬の瞳に映る自分と、視線が重なる。
触れた部分から伝わる熱が、心に沁み渡る。
「……ありがとう」
朝の光が、ふたりの影を、ひとつに溶かした。
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