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32.自覚した感情
しおりを挟む考えるより先に口が勝手に動いた。
もちろんそんなことを言ってしまえば彼女がどう出るかなんてわからないし、言い切ってしまったあとで恐怖が一気に胸の中で膨らんだけど、後悔は一切しなかった。
だって、他でもないこの人に、月村さんを取られたくないと、そう思ったのだ。
「……そ、そんな理由で、なんで私が、月村さんと別れなきゃいけないの……っ?」
「あらやだ、私あんたの意見なんて聞いてないんだけど?」
「……え?」
「私があんたに別れろって言ったのよ。お願いじゃないの。わかる? 彼はあんたにもったいないから私に譲れって、そう言ってるんだけど」
「……嫌。絶対嫌。……川崎さんになんか、絶対、―――絶対渡さない。月村さんのこと傷つけるなんて、させないから……っ」
自覚しろと頭の中で声が響く。
覚悟を決めろと本能が私の思考に呼びかけている。
傷つけたくないと願うなら、守りたいと思うなら、変わりたいと望むなら、目の前にいるこの人と戦う覚悟を決めるために、それを認めるべきなんだ。
今怖がって怖気づいていつまでも見ないふりをしたままでいる自分を、月村さんに見られたくないと、そう思った。
「ねぇ、七種ぁ、あんた誰に口答えしてんの? 私が、別れろって言ってるんだけど?」
「……私はもう、昔の私じゃないよ。もう立派な社会人だし、ちゃんと前を向いてるの。川崎さんに、命令される筋合い、もうない」
「は?」
「―――月村さんはあげない。だって私は月村さんのこと、ずっとずっと好きだもん。川崎さんだけじゃなくたって、他の誰にだって、譲ることなんかできない。私はあの人の隣にずっといたいから」
頭に思い浮かぶのは、その人の優しく笑った顔。
今この場にいないその人に、私は強く頼った。
ねぇ月村さん、お願い。
今だけでいいから、私に勇気をください。
自分自身を守る為の、私が変われる為の、―――あなたを好きだと認めることをできるだけの、大きな勇気をください。
「……随分、生意気になったもんね。昔はあんなにおどおどして、何も言わなかったくせに」
「もう27だよ、お互いに。……川崎さんだって、月村さんが欲しいなら、私にこんなこと言いに来るんじゃなくて、本人に直接いえばいいじゃない。選ぶのは月村さんだけど、私は負けないから。……それとも、月村さんに直接言って、私に負けることが怖いから、こんな卑怯な事するの? 私が昔のままだと思ったの?」
「な……っ」
「……私、これから月村さんと約束があるの。これ以上遅くなったら彼に心配かけるから、もう行く。……私から彼と別れることなんて絶対ないから」
そう言い切って、彼女の横をまっすぐと背を伸ばしてとおり過ぎようと歩みを進めた。
もう少し、あと少し、せめて川崎さんが見えなくなるまで持ちこたえろ、私の足。
心の中でそう必死に言い聞かせて、必死で足を動かした。
「待ちなさいよ!」
「っいた……っ」
やっとその身体の横をすれ違ったその瞬間、腕を強く掴まれて、微かな痛みが走る。
無理やり振り向かされた先で、川崎さんの掌が振り上げられた姿が視界にはいって、思わず瞼を強く閉じた。
「随分生意気なこと言うようになったじゃないの……っ七種のくせに……っ」
まずい、叩かれる。
そう痛みを覚悟して、唇を噛み締めたその瞬間、身体を強く抱き寄せられる感覚がした。
「……ほんっと、醜いな、あんた」
「っ……つ、月村さん……っ?!」
「気持ち悪いんだよ。人の女になにしてくれてんだ、てめぇ」
私の身体はいつかのようにぎゅっと彼に強く抱きしめられていて、川崎さんは振り上げた掌を掴まれている。
一瞬、何が起こったのか、まるで把握出来なかった。わかったのは、今自分の身体は月村さんに抱きしめられていて、彼に守ってもらえているというそのことだけだ。
目の前にいた川崎さんの顔色は真っ青で、驚いた表情のまま固まっている。
「―――このことはあんたの会社にも報告させてもらうぞ。人の身内に手出してただで済むと思うな」
「あ、あの……っこ、これはその……っ」
「言い訳なんか聞いてねぇんだよ。今見たことが事実だろ。覚悟しとけよ」
彼の息遣いは少しだけ荒い。身体に伝わる心音は早くて、肌は汗ばんでいるように見えた。
「……行くぞ、萌。これ以上この女に付き合ってる必要ねぇだろ」
「え、あ……っ」
そのまま肩を抱かれて、彼に歩くことを促された。
さっき、川崎さんに、約束しているなんて言ったのは嘘だ。今日は月村さんと約束なんかしてない。
それなのになぜ彼はここにいるんだろう。
なんで、ここぞというタイミングで現れてくれたのだろう。
どこか呆然と驚いて固まったままの思考はそんなことを考えていて、彼に連れられて公園を出たその時、その入口の柱の裏で、春花が手を振っている姿を見つけた。
彼女は何も言わずにその場に立っている。
月村さんは春花に構うことなく、公園のすぐ近くに停めていた自分の車に私の身体を少しだけ強引に押し込んで、自分も運転席に回ってシートベルトを締めている。
彼の雰囲気に話しかけることはできなくて、ただどこか緊張したまま、彼の運転する車に大人しく乗っていることしか出来なかった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
車がついたのは何度か来たことのある彼のマンションで、駐車場に車を止めたその人は無言のまま降りて、和助手席のドアを開けた。
降りろと促されているんだろう。その仕草に戸惑いつつ車を降りると、彼はそのまま私の手をぎゅっと握って、マンションの中へと入っていく。
少し早い速度についていくのはちょっとだけ辛かったが、必死で足を動かした。
どこから、どこまでを聞かれていたのだろう。
少しだけ冷静になった心はそのことに気がついて、何も話さない彼に恐怖心が募る。
全部聞かれていたのだとしたら、私がはっきり好きだと口にしたあの瞬間を聞かれてしまっていたら。
聞いていた彼が、私を嫌いになったりしたら、私はどうすればいい。
認めるだけでも長い時間がかかって、その上、あんなふうに、川崎さんを言い負かすためだけにその感情を発露させた私を、この人はどう思うのだろう。
それを考えるだけで不安になって、怖くなって、今すぐこの場所から逃げ出したくなった。
だけど繋がれた手には力がこもっていて、とてもじゃないけれど自分の力では振りほどけない。
どうしようと焦っている間に、その部屋の前にたどり着いて、私の身体は開かれたドアの中へと入れられた。
「……っつ、月村さ……っ」
「……なんで、一人で戦ってんだ、馬鹿……っ」
「……え……」
「……お前な、俺が、春花から連絡もらったとき、どんだけ心配したと思ってんだ。なんですぐ俺に連絡してこねぇんだよ。おまけに、……あんなまっすぐ好きだとか言いやがって、本来ならそれ、俺が一番に聞くことだろ……っ」
ドアを閉めた彼は、どこか苦しげな表情を浮かべて、壁に手をついたまま、私の顔を見つめている。
その顔を見ただけで、ずっと堪えていた涙がこみ上げて、抑えていたはずの色んな感情が一気に決壊した。
「だ……だって……っ」
「……七種?」
「だって……っ! だって、思っちゃったんだもん……っ」
「は? 何を……」
「月村さんのことっ渡したくないって、そう思っちゃったんだもん!」
そう叫んだ私の本音に、彼の息を呑んだ気配がした。
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