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昔話2 弘の話
ποτνια θηρων 12
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不意に、ころり、ころころと、鈴を転がすような声がして、左目が、素い女であってそうでないものが笑っているのを映していた。
右目が何も拾えぬ真っ暗闇を映しているのとは正反対に、左目は僕自身の意思など介せず、祝福として掬える情報を際限なく、汲めど尽きせぬ泉のように掬っている。
素い女は空だ。何故、空か。彼女の主は標の岩の奥、玄室の内だ。素い女は主の代理人だ。否、素い女は同時に主自身でもある。ここは境だ。黄泉と現をくくりつける境だ。
そして、ギョッル川の金の橋の乙女と、霧の世に構えられた雪噴き付けらるる館の女主人と同じだ。死を統べる女と、その女と生者を繋ぐ女だ。
光を当てられたわけでもないのに、情報量の多さに左目がちかちかする。
――まがこととのそしりもうけれ
ころころと笑いながら声が言う。
妖艶な声は、左目から入る不吉の予兆がなければ、そのままそちらに不用意に寄ってしまいそうな、不吉を隠した誘いの、粘つき焼けつくような苛烈な甘さが含まれている。
――しろをうくにはうがらなれば
千引の岩の前に坐す神なる巫の言葉はあまりに古すぎる不確かな甘い響きに明確な意味を乗せて、土壁と僕の耳に染み込んでいく。
ちょっと向こうからしたら僕はこうなのかもしれないなあ、と思った。
――こちながらをち、をちながらこち、はしにてまがなるか。
言葉の端々に滲む笑みの気配に、ごくりと唾を飲み込んだ。
下手に受け答えることもできないまま、僕自身が緊張して嫌な汗すらかいているのを、どこか他人事のように感じている。
――まし、わづらひをおおみこちにこむとはおぼえずや。
魂呼びの歌のように、こっちの水は甘い、と言われているような気持ちになる一言だった。
懐かしい匂いの記憶が鼻先を過ぎったような気がした。
きっと、そうできていれば幸いだったこともあるだろう。
けれど、そうできなかったからこそ幸いだったこともあるわけで。
「……かけまくも畏き千早振る古き太母、ならびにその依坐なるくくりの媛」
後悔がないこともないけれど、それでも僕は。
できる限り向こうに寄せて伝える。それが古々しきものに対する最大限の敬意として。
「彼見継ぎ給ふはあやにかしこけれども、やつがれ、未だ、時じければ」
まだ、死ぬつもりなんかないので、下手に出つつ足掻いてみる。
まあ、こうして無理矢理に呼ばれてる時点で無駄な可能性もあるのが怖いんだけど。
――をちかたのとつくにのさかしきまれびと、あをはたのしもとゆふやまがぬしめづるまし
先に向こうの領域に踏み込んだのはこっちだというのに、表向き、向こうは存外機嫌が良いように見える。
でも、それならやっぱりこんな急な呼び立てみたいな事をする必要はないのだから、怖い。
いや、さすがに右目や内臓取られるほどには縁がないと思うんだけど、大丈夫だよな、これ。
――わぎみ、あれをしるもあらそはむとすか。うべなうべな。
とてもとても甘く面白そうに笑う声が岩の奥から、素い女を通して、僕に伝えられる。
黄色が完全な赤に切り替わる。
日に千人を殺すと宣わった死の気配の視線が、素い女の目を通して愉快そうに、蠱惑の蜜を含んだ視線としてねばつくように絡みつく。
どうにも不快を感じる反面、田んぼの泥の中を歩くような妙な気持ち良さと、背を蛭のようにひやりと這い伝う本能的な快楽が混じる。
なんとなく思い浮かぶのは、ウツボカズラの捕食だ。
あ、これ、ダメなやつでは、と思った瞬間――
――ときじかるみのいつしかとあがまつとおもひきや?
ばつん、とテレビを消したように、瞬きもなしに目の前の景色が入れ替わる。
左目は暗闇に、右目はなんの変哲も無い唐国家の離れの廊下に。
同時に、突如として足元の傾斜が平らになって、普通はあり得ない瞬間的な平衡感覚の変動で、まるで突き飛ばされたように、またよろめいて、たたらを踏んだ。
恐らく、時間としては一瞬だけ。そして、全身にびっしょりと嫌な汗をかいている。
自然と息が上がっていた事に気付いて、無理矢理に大きく深呼吸を一つして落ち着ける。
今のは向こうから接続を切られたのか、それともあのひととか左目の縁の方で、無理に接続を切られたのか。
そんな感覚を覚えるが、ひとまず、助かった事には変わりない。
部屋の中の二人に悟られぬように、小さくため息だけついて、母屋の方へ向かうために足を踏み出した。
そして、歩きながら一瞬だけ、最後の言葉の解釈如何では、と考えようとして、やめた。
今は、そんなことよりも、あの子のことに動かねば。
右目が何も拾えぬ真っ暗闇を映しているのとは正反対に、左目は僕自身の意思など介せず、祝福として掬える情報を際限なく、汲めど尽きせぬ泉のように掬っている。
素い女は空だ。何故、空か。彼女の主は標の岩の奥、玄室の内だ。素い女は主の代理人だ。否、素い女は同時に主自身でもある。ここは境だ。黄泉と現をくくりつける境だ。
そして、ギョッル川の金の橋の乙女と、霧の世に構えられた雪噴き付けらるる館の女主人と同じだ。死を統べる女と、その女と生者を繋ぐ女だ。
光を当てられたわけでもないのに、情報量の多さに左目がちかちかする。
――まがこととのそしりもうけれ
ころころと笑いながら声が言う。
妖艶な声は、左目から入る不吉の予兆がなければ、そのままそちらに不用意に寄ってしまいそうな、不吉を隠した誘いの、粘つき焼けつくような苛烈な甘さが含まれている。
――しろをうくにはうがらなれば
千引の岩の前に坐す神なる巫の言葉はあまりに古すぎる不確かな甘い響きに明確な意味を乗せて、土壁と僕の耳に染み込んでいく。
ちょっと向こうからしたら僕はこうなのかもしれないなあ、と思った。
――こちながらをち、をちながらこち、はしにてまがなるか。
言葉の端々に滲む笑みの気配に、ごくりと唾を飲み込んだ。
下手に受け答えることもできないまま、僕自身が緊張して嫌な汗すらかいているのを、どこか他人事のように感じている。
――まし、わづらひをおおみこちにこむとはおぼえずや。
魂呼びの歌のように、こっちの水は甘い、と言われているような気持ちになる一言だった。
懐かしい匂いの記憶が鼻先を過ぎったような気がした。
きっと、そうできていれば幸いだったこともあるだろう。
けれど、そうできなかったからこそ幸いだったこともあるわけで。
「……かけまくも畏き千早振る古き太母、ならびにその依坐なるくくりの媛」
後悔がないこともないけれど、それでも僕は。
できる限り向こうに寄せて伝える。それが古々しきものに対する最大限の敬意として。
「彼見継ぎ給ふはあやにかしこけれども、やつがれ、未だ、時じければ」
まだ、死ぬつもりなんかないので、下手に出つつ足掻いてみる。
まあ、こうして無理矢理に呼ばれてる時点で無駄な可能性もあるのが怖いんだけど。
――をちかたのとつくにのさかしきまれびと、あをはたのしもとゆふやまがぬしめづるまし
先に向こうの領域に踏み込んだのはこっちだというのに、表向き、向こうは存外機嫌が良いように見える。
でも、それならやっぱりこんな急な呼び立てみたいな事をする必要はないのだから、怖い。
いや、さすがに右目や内臓取られるほどには縁がないと思うんだけど、大丈夫だよな、これ。
――わぎみ、あれをしるもあらそはむとすか。うべなうべな。
とてもとても甘く面白そうに笑う声が岩の奥から、素い女を通して、僕に伝えられる。
黄色が完全な赤に切り替わる。
日に千人を殺すと宣わった死の気配の視線が、素い女の目を通して愉快そうに、蠱惑の蜜を含んだ視線としてねばつくように絡みつく。
どうにも不快を感じる反面、田んぼの泥の中を歩くような妙な気持ち良さと、背を蛭のようにひやりと這い伝う本能的な快楽が混じる。
なんとなく思い浮かぶのは、ウツボカズラの捕食だ。
あ、これ、ダメなやつでは、と思った瞬間――
――ときじかるみのいつしかとあがまつとおもひきや?
ばつん、とテレビを消したように、瞬きもなしに目の前の景色が入れ替わる。
左目は暗闇に、右目はなんの変哲も無い唐国家の離れの廊下に。
同時に、突如として足元の傾斜が平らになって、普通はあり得ない瞬間的な平衡感覚の変動で、まるで突き飛ばされたように、またよろめいて、たたらを踏んだ。
恐らく、時間としては一瞬だけ。そして、全身にびっしょりと嫌な汗をかいている。
自然と息が上がっていた事に気付いて、無理矢理に大きく深呼吸を一つして落ち着ける。
今のは向こうから接続を切られたのか、それともあのひととか左目の縁の方で、無理に接続を切られたのか。
そんな感覚を覚えるが、ひとまず、助かった事には変わりない。
部屋の中の二人に悟られぬように、小さくため息だけついて、母屋の方へ向かうために足を踏み出した。
そして、歩きながら一瞬だけ、最後の言葉の解釈如何では、と考えようとして、やめた。
今は、そんなことよりも、あの子のことに動かねば。
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