たとえこの恋が世界を滅ぼしても2

堂宮ツキ乃

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時の女神伝説

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 少女は走った。名前と同じ浅葱あさぎ色の髪を振り乱し、高価な着物が煤で汚れることにも構わず。猛火の中をくぐり抜けて。

 水が飲みたい。足が重くて痛い。適当に履いてきたわらじが実は鉄でできたものじゃないかと疑いたくなる。

 久しぶりの外の世界だが今はそれを喜んでいる暇はないのが残念だった。

 腕には産着と打掛でくるまれた、大切なひとたちの赤子。軽いが価値はずっと重い。

 振り返ると火の手は辺り一面を燃やし尽くそうとしているかのような勢いだった。これが火の海というものなのだろうか。

 走り続けて喉がカラカラになって咳き込むようになった頃には、懐かしい故郷にたどり着いた。

 ここには火の手は届いていない。吉原よしわらからかなり離れた山のふもとだ。きっと大丈夫だろう。

 少女は乱れた呼吸を整えつつ、ふもとにポツンと作られた祠の前で赤子をそっと下して膝をついた。

夜叉やしゃちゃん…」

 少女は赤子を見つめてそっと頬をなでた。この子の母親がよくするように。

 赤子は道中激しく揺られながらも泣き出すことはなかった。この齢にしてすでに肝が据わっているのだろうか。確かに父親はいつでも堂々と構えていた。

(無事なんですか…生き延びてくれますよね…舞花まいか姐さん)

 赤髪を結いあげて金色のかんざしで留めただけの質素な髪型で、物静かに煙管を吹かしては色っぽくほほえむ。彼女は他の女郎と比べて出世したり売れっ妓になることを望まない。いつも付いて回る浅葱にも優しく、文字の読み書きや美しい立ち居振る舞いを教えてくれた。派手さはなく、凛とした美しさと芯があって彼女は誰からも慕われた。

 親子三代続く女郎の舞花は、水揚げの直前で朱雀すざくに選ばれて子を授かった。

 しかし2人は。

 舞花は吉原の火事で建物の倒壊に巻き込まれた。かろうじて会話はできたが彼女はあそこから抜け出せただろうか。

 朱雀は今日は顔を見せていない。どうかいつものように現れて舞花を助け出してほしい。

 2人のために今自分にできることは、舞花に託された夜叉を守ること。

(時の女神様…)

 祠の前で寝かせた夜叉の前で少女は手を組み、顔をわずかに伏せた。

────時の女神の祠の前で清らかな祈りを捧げると一生に一度、女神が願いを叶えてくれるらしい。

 それは少女の里に代々伝わる伝説。しかし実際に祈りを捧げている者を少女は見たことがない。

 誰もがただの伝説だと笑っていたが今はそれに賭けたい。そうしなければこの小さな愛らしい命は誰が守れる?

(お願いします。今じゃなくていいから、あの親子3人が笑って暮らせますように…)

 彼らのためならここで一生に一度を使って構わない。

 少女は長いことずっとその姿勢のまま一心不乱に祈りを続けていた。

 夜叉は相変わらずおとなしくて声を上げることすらない。

「…あっ」

 うっすらと目を開けると目の前には見慣れた祠と花。少女は手を下ろして震えた。

────伝説は本当だったのだ。時の女神様が幼子を救ってくれた。

 打掛にくるまれていた夜叉は消えていなくなっていた。
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