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休み時間。薫子とアンは購買へ向かっていた。購買では昼食のパンやおにぎり以外にお菓子やジュースも買える。
「今日のセットなんだっけ?」
「鮭と梅おにぎりセット、メンチカツバーガーセットだって」
購買の一角にはホワイトボードが置かれ、その日取り扱っている商品が書かれている。
薫子はミルクティーとチョコチップクッキーと、昼食にサラダとツナマヨおにぎりを買った。
アンもおやつと昼食を両手に抱えている。休み時間は10分なので、二人は足早に教室へ向かう。薫子はアンに”何買ったの?”と顔を向け、目を見開いた。
角の向こうにコウが歩いているのを見つけた。彼もこちらに気付いたらしい。
薫子が会釈をすると、いつもの綺麗なほほえみを浮かべてくれた────と浮かれた時。
「コウちゃんせんせ~!」
甲高い黄色い声。突然聞こえたそれに肩が跳ねあがる。すると今度は、撃たれたような衝撃に視界がぐらついた。
薫子の後ろから走って追い越したのは女子生徒。甲高い声の主だろう。彼女はためらうことなくコウの腕に自分のを絡めた。幸せそうに満面の笑みを浮かべている。
(わっ……)
薫子の目はまばたきを忘れた。
後を追ってきたらしい女子生徒の友だちは、”やったじゃん!”と囃し立てスマホを向けた。近くにいた別の教師が”下校時間までスマホは禁止!”と注意している。
「マンゴージュースとポテトチップスとメンチカツバーガーセットとメロンパン……って聞いてる?」
「……おいしそうだね」
薫子はコウから視線を逸らし、足早にその場を離れた。ショック、よりも怒りに似た感情が湧き上がってきたことに自分で驚いた。
コウのことは好きだ。しかし、嫉妬が自分の中で生まれたことを認めたくなかった。
(薫子にとって)事件からしばらくたったある日。
移動教室で薫子はアンとミツヤと廊下を歩いていた。
角を曲がるとコウがいた。白衣を羽織り、ポケットに手を入れている後ろ姿はシュッとしてよく似合っている。
その時だった。いつしかの女子生徒が角から現れたのは。彼女はコウを見つけると目を輝かせた。
「せんせー!」
まただ。薫子は思わず目をそらそうとしたが、彼女の動きの方が早かった。コウに飛びついて腹部に腕を回している。彼が振り向く前に、”幸せ~!”と叫んで走り去った。
(あのコ……)
今度は心臓を握り潰されされたようだった。薫子は唇をかみ、廊下の隅に視線を落とす。心が……苦しい。
コウはめちゃくちゃモテる。そんな彼に積極的に向かう女子がいないはずがない。
彼が腕を絡められたり抱きつかれた時の反応は知らない。見たくもなかった。
(……嬉しいとか思ってるのかな。あぁいう女子が好きかな……)
ずっと目をそらしてきた現実。そろそろ真正面から受け入れなければいけない時が来たのかもしれない。
薫子はアンとミツヤに呼び止められるまで、足早にコウを追い越した。
一限目と二限目の間の休み時間。
コウの二限目の授業は三年生。しかし薫子のクラスではない。それを残念に思いながら教科書や筆記用具を持って職員室を出た。
こういう日こそ廊下で薫子とすれ違えないだろうか、と彼女の姿を探してしまう。
神崎と歩いている時に彼女の姿を見つけると必ず、ニヤケ面で脇腹をつつかれる。"今ガン見してただろ"、と。
生徒が集まっている購買の前を通り過ぎようとしたら薫子がいた。手には淡い黄緑色の長財布。その横にはアン。本当にあの二人は仲が良い。
彼女がこちらに気付いて会釈をした瞬間────
「コウちゃんせんせ~!」
嫌でも聞き慣れてしまった甲高い黄色い声。"うげっ"と口からこぼれそうになる。
どこからだ、と警戒した瞬間に右腕は女子生徒の腕が絡められていた。右下を見下ろすとつむじが丸見え。
頬が痙攣する。彼女はこちらを見上げて”にひひ”と笑った。どうやらこちらの気持ちは一ミリも伝わってないらしい。
彼女は甲高い声の主だ。二年生の女子生徒で、最近やたらスキンシップを取ってくる。よく言えばフレンドリー、悪く言えば迷惑な生徒。迷惑とかはっきり言ってしまうあたり自分は本当に大人げない。
(カオちゃん……)
誤解しないでほしい、とコウは薫子に嘆願の表情を向けた。しかし、彼女は目を見開いて視線をそらした。
そんなことをされたのは初めてで、ショックで心が折れそうになった。心の中で何かが崩れる音がする。
「ちょ……何これ」
足早に去ってしまった薫子の後ろ姿を追いかけ、腕を引き抜いた。
「大好き!」
「いや困るから」
自分でも驚くくらい低い声がもれた。つまらなさそうな表情を浮かべた彼女は渋々離れる。
彼女の友だちが”見てこれ!”と小声でスマホの画面を見せていた。
「あ~アレか。アイツはそういうヤツだ。この前中井先生が絡まれてるのを見たことがある。あの先生は頭いいから両腕上げて逃げてた」
五限目の職員室。授業中なので教師の数は少なく、ガランとしている。コウと神崎は例の女子生徒について話していた。
神崎は変わった生徒や目立つ生徒について詳しい。薫子の時もそうだったが、最近コウを困らせる女子生徒のことも知っていた。
「中井先生は既婚者だけど人気あるよね」
「逆にそこがいいのかもな。所帯持ってる男の独特な雰囲気というか……」
コウはデスクに肘をつくと頭を抱えた。
「困るんだよな、あぁいうの……」
神崎も神妙な面持ちで何度もうなずいた。キャスター付きの椅子でコウに接近すると、口元を手で覆った。顔を寄せると小声でささやく。
「コウちゃんは特にな。愛しのカオちゃんがいるから」
「そうだよ……って何あっさり言ってんの?」
「そういうコウちゃんは動揺しなさすぎ」
神崎はニヤッと笑うと、コウの肩をパシッと叩いた。
「……はぁ」
「元気出せ孔ちゃん。呑みに行くか?」
コウはため息を付いて肩を落とした。横に並んだ神崎は同情した顔で肩を揉む。
まただ。あの女子生徒にしでかされたのだ。
コウが廊下を歩いている時、甲高い声が耳を貫いた。身構えたら背中から腕を回されていた。
凄んだ顔で振り返ったら薫子の姿が目に入った。これは再び見られてしまったのだろう。彼女はコウにいつもの会釈をすることなく去ってしまった。
あの時の伏し目がちな彼女を思い出し、コウは両手で顔を覆った。
「久々に心折られた……」
「そう落ち込むなって。相手はコウちゃんとカオちゃんよりもガキだぜ?」
「カオちゃんとは一個しか変わらないでしょ……」
悲壮感あふれるコウは姿勢を崩し、デスクに突っ伏した。額を勢いよく打ちつけてしまったが、心の重みに比べたらどうってことない。
指の骨をバキバキ鳴らす音に顔を動かすと、神崎が拳を固めている。
「あのクソガキに鉄槌を下す時が来たな……。大人ナメてると痛い目に遭うことを教えてやらねェと。コウちゃんには好きな人がいるんだぞあのヤロー」
「神崎君……? 一応俺ら教員なんですが……」
シャドーを始めたチンピラにおそるおそる声をかけると、彼は歯を見せた。細めた目は半分本気、半分楽しんでいるようだ。
「おう。バイオレンスじゃないから安心しろ。今回のテスト、アイツのだけ中身を変えてやるだけだ。ドイツ語で出題してやる。赤点確実だな」
意味深な笑みを浮かべる彼。不謹慎だが少し元気が出た。
ある日の授業後。
テスト週間に入り、職員室に生徒が出入りすることができなくなった。この学校でのテスト週間も何度目になるだろう。この時期になると図書室や自分のクラスに残って自習していく生徒が多い。
薫子もアンやミツヤと一緒に勉強しているかもしれない。成績優秀な彼女のことだから、主に教える側だろう。
「失礼しま~す……。あっ」
なんというタイミング。例の女子(神崎は抱きつき魔と呼んでいる)が引き戸を開けて現れた。コウの頬が無意識に引きつる。
「どの先生に用事だった?」
今はコウしかいない。彼が対応せざるをえない。覚悟して立ち上がり、警戒しながら近づいた。腕を回されないようにさりげなく肩を回しながら。
「コウちゃん先生に話があります」
「……先生?」
自分を指さすと彼女はコクッとうなずき、急に後ろへ振り向いてガッツポーズをした。よく見ると廊下には彼女の友だちらしき女子が二人いる。彼女らは手をブンブン振ったり同じようにガッツポーズをしていた。
こちらに体の向きを変えた彼女は、職員室の中へ足を踏み入れた。
「あー……。それはダメだって」
コウは彼女の上靴を見下ろした。
テスト週間中の決まりだ。不正やテスト問題流出を防ぐため、生徒は出入口で用件を伝えることになっている。
しかし彼女はコウの制止を聞かず、いつしかのように彼に迫った。
「好きです!」
「……は?」
職員室に無断で立ち入ったことと突然の告白。コウは肩を回すのをやめた。
女子生徒はコウの目の前に立ち止まると、両手を組んだ。うるんだ瞳と紅潮した頬。彼女の同年代の男子ならイチコロだろう。
「入学した時からずっと好きだった。コウちゃんはイケメンだし優しいし……。あたしと付き合って!」
一歩一歩、歩み寄ってくる彼女。外では引き戸に張り付いた女子がこちらの様子を伺っている。
コウは気を取り直して表情を険しくした。相手のペースにのまれてる場合じゃない。
「たかが職員室に入っただけ、と思ってるかもしれないけど今はテスト週間だよ。もしもテスト問題が生徒の間で広まっていたら真っ先に君が疑われるよ。最悪、進路に影響出るけど……。それでもいいの?」
「良くない……けど! コウちゃん先生に好きって言いたかったから。こういう日しかチャンスないもん。せめて連絡先だけでも」
「ダメだよ。やっていいことと悪いことがある」
「え……」
女子生徒は硬い表情のコウを前にし、肩を落とした。それでもすがりつくような瞳でコウのことを見上げている。
コウは目をぐっと細めた。けしてにらみつけないように。
「それと。生徒と付き合う気はないから」
コウの心を占めている薫子のことが思い浮かんだ。
薫子のことは好きだ。ただの生徒の一人として、ではなく一人の女性として。だが、想いを打ち明けていい相手ではない。
「────ということだよ」
突然聞こえた声にコウたちは肩を跳ねあげた。
開け放たれた職員室の出入り口に緒方が立っていた。いつからいたのだろう。後ろでは仲間の女子二人が廊下の隅で固まっている。
緒方はゆっくりと歩き、いつものおだやかな優しい声で語り始めた。
「コウちゃん先生のことは諦めなさい。その失恋した悔しさはテスト勉強にぶつけなさい」
緒方は生徒が職員室に入っていることをとがめなかった。
彼の深い声を聞いているとまるで、教会で神父に聖書の教えを説かれている気分になる。そんな経験はないが。
「大告白をした勇気は認めよう。これだけ根性があればきっと、あなたは就職試験の面接なんてヨーグルトだね」
いい話だったのに最後の一言でコケた。後から聞いたら”余裕”という意味らしい。
「何それ……。変なの」
当の女子生徒は笑っていた。笑いながら泣き出した。
それ以来、彼女が過度なスキンシップをすることはなくなった。神崎が考えたニックネームもなくなった。
「生徒と付き合う気はない、ねぇ……。壱善さんとはどうするの?」
「はいっ!?」
職員室無断立ち入り事件の後、緒方に不意をつかれた。進路指導室に呼び出されたと思ったら、コウのこの先を気にしているようだった。おもしろがっているように見えた気もしたが、彼に限ってありえないだろうと思うことにする。
「壱善さんに随分ご執心のようだから心配になってね」
はは、と緒方はのんびり笑った。
もうバレているなら隠す必要はない。コウは頭をかいてうつむいた。熱くなってきた顔を隠すため。
「……俺、確かにあのコのことが好きです。でも、教師と生徒がそういう仲になるのってどうかと思うんです。だから────彼女を困らせるようなことはしません」
緒方は紅茶を置くと、うなずきながら拍手をした。
「100点満点。今までの先生たちにもコウちゃん先生みたいに、考えて行動して欲しかったよ」
「それは……ありがとうございます?」
褒められたようで嬉しいが、重大な悩みができてしまったかもしれない。
薫子とどうなりたいのか、どうしたいのか。
これは彼女の気持ちを慮らなければいけない。もしかしたらコウの気持ちを気持ち悪い、ありえない、と思うかもしれない。
しかし、ずっと胸に秘めていることはできそうになかった。
(俺、カオちゃんのことこんなに好きになってたんだな……)
進路指導室を出たコウは引き戸にもたれかけ、ずるずるとしゃがみこんだ。
「今日のセットなんだっけ?」
「鮭と梅おにぎりセット、メンチカツバーガーセットだって」
購買の一角にはホワイトボードが置かれ、その日取り扱っている商品が書かれている。
薫子はミルクティーとチョコチップクッキーと、昼食にサラダとツナマヨおにぎりを買った。
アンもおやつと昼食を両手に抱えている。休み時間は10分なので、二人は足早に教室へ向かう。薫子はアンに”何買ったの?”と顔を向け、目を見開いた。
角の向こうにコウが歩いているのを見つけた。彼もこちらに気付いたらしい。
薫子が会釈をすると、いつもの綺麗なほほえみを浮かべてくれた────と浮かれた時。
「コウちゃんせんせ~!」
甲高い黄色い声。突然聞こえたそれに肩が跳ねあがる。すると今度は、撃たれたような衝撃に視界がぐらついた。
薫子の後ろから走って追い越したのは女子生徒。甲高い声の主だろう。彼女はためらうことなくコウの腕に自分のを絡めた。幸せそうに満面の笑みを浮かべている。
(わっ……)
薫子の目はまばたきを忘れた。
後を追ってきたらしい女子生徒の友だちは、”やったじゃん!”と囃し立てスマホを向けた。近くにいた別の教師が”下校時間までスマホは禁止!”と注意している。
「マンゴージュースとポテトチップスとメンチカツバーガーセットとメロンパン……って聞いてる?」
「……おいしそうだね」
薫子はコウから視線を逸らし、足早にその場を離れた。ショック、よりも怒りに似た感情が湧き上がってきたことに自分で驚いた。
コウのことは好きだ。しかし、嫉妬が自分の中で生まれたことを認めたくなかった。
(薫子にとって)事件からしばらくたったある日。
移動教室で薫子はアンとミツヤと廊下を歩いていた。
角を曲がるとコウがいた。白衣を羽織り、ポケットに手を入れている後ろ姿はシュッとしてよく似合っている。
その時だった。いつしかの女子生徒が角から現れたのは。彼女はコウを見つけると目を輝かせた。
「せんせー!」
まただ。薫子は思わず目をそらそうとしたが、彼女の動きの方が早かった。コウに飛びついて腹部に腕を回している。彼が振り向く前に、”幸せ~!”と叫んで走り去った。
(あのコ……)
今度は心臓を握り潰されされたようだった。薫子は唇をかみ、廊下の隅に視線を落とす。心が……苦しい。
コウはめちゃくちゃモテる。そんな彼に積極的に向かう女子がいないはずがない。
彼が腕を絡められたり抱きつかれた時の反応は知らない。見たくもなかった。
(……嬉しいとか思ってるのかな。あぁいう女子が好きかな……)
ずっと目をそらしてきた現実。そろそろ真正面から受け入れなければいけない時が来たのかもしれない。
薫子はアンとミツヤに呼び止められるまで、足早にコウを追い越した。
一限目と二限目の間の休み時間。
コウの二限目の授業は三年生。しかし薫子のクラスではない。それを残念に思いながら教科書や筆記用具を持って職員室を出た。
こういう日こそ廊下で薫子とすれ違えないだろうか、と彼女の姿を探してしまう。
神崎と歩いている時に彼女の姿を見つけると必ず、ニヤケ面で脇腹をつつかれる。"今ガン見してただろ"、と。
生徒が集まっている購買の前を通り過ぎようとしたら薫子がいた。手には淡い黄緑色の長財布。その横にはアン。本当にあの二人は仲が良い。
彼女がこちらに気付いて会釈をした瞬間────
「コウちゃんせんせ~!」
嫌でも聞き慣れてしまった甲高い黄色い声。"うげっ"と口からこぼれそうになる。
どこからだ、と警戒した瞬間に右腕は女子生徒の腕が絡められていた。右下を見下ろすとつむじが丸見え。
頬が痙攣する。彼女はこちらを見上げて”にひひ”と笑った。どうやらこちらの気持ちは一ミリも伝わってないらしい。
彼女は甲高い声の主だ。二年生の女子生徒で、最近やたらスキンシップを取ってくる。よく言えばフレンドリー、悪く言えば迷惑な生徒。迷惑とかはっきり言ってしまうあたり自分は本当に大人げない。
(カオちゃん……)
誤解しないでほしい、とコウは薫子に嘆願の表情を向けた。しかし、彼女は目を見開いて視線をそらした。
そんなことをされたのは初めてで、ショックで心が折れそうになった。心の中で何かが崩れる音がする。
「ちょ……何これ」
足早に去ってしまった薫子の後ろ姿を追いかけ、腕を引き抜いた。
「大好き!」
「いや困るから」
自分でも驚くくらい低い声がもれた。つまらなさそうな表情を浮かべた彼女は渋々離れる。
彼女の友だちが”見てこれ!”と小声でスマホの画面を見せていた。
「あ~アレか。アイツはそういうヤツだ。この前中井先生が絡まれてるのを見たことがある。あの先生は頭いいから両腕上げて逃げてた」
五限目の職員室。授業中なので教師の数は少なく、ガランとしている。コウと神崎は例の女子生徒について話していた。
神崎は変わった生徒や目立つ生徒について詳しい。薫子の時もそうだったが、最近コウを困らせる女子生徒のことも知っていた。
「中井先生は既婚者だけど人気あるよね」
「逆にそこがいいのかもな。所帯持ってる男の独特な雰囲気というか……」
コウはデスクに肘をつくと頭を抱えた。
「困るんだよな、あぁいうの……」
神崎も神妙な面持ちで何度もうなずいた。キャスター付きの椅子でコウに接近すると、口元を手で覆った。顔を寄せると小声でささやく。
「コウちゃんは特にな。愛しのカオちゃんがいるから」
「そうだよ……って何あっさり言ってんの?」
「そういうコウちゃんは動揺しなさすぎ」
神崎はニヤッと笑うと、コウの肩をパシッと叩いた。
「……はぁ」
「元気出せ孔ちゃん。呑みに行くか?」
コウはため息を付いて肩を落とした。横に並んだ神崎は同情した顔で肩を揉む。
まただ。あの女子生徒にしでかされたのだ。
コウが廊下を歩いている時、甲高い声が耳を貫いた。身構えたら背中から腕を回されていた。
凄んだ顔で振り返ったら薫子の姿が目に入った。これは再び見られてしまったのだろう。彼女はコウにいつもの会釈をすることなく去ってしまった。
あの時の伏し目がちな彼女を思い出し、コウは両手で顔を覆った。
「久々に心折られた……」
「そう落ち込むなって。相手はコウちゃんとカオちゃんよりもガキだぜ?」
「カオちゃんとは一個しか変わらないでしょ……」
悲壮感あふれるコウは姿勢を崩し、デスクに突っ伏した。額を勢いよく打ちつけてしまったが、心の重みに比べたらどうってことない。
指の骨をバキバキ鳴らす音に顔を動かすと、神崎が拳を固めている。
「あのクソガキに鉄槌を下す時が来たな……。大人ナメてると痛い目に遭うことを教えてやらねェと。コウちゃんには好きな人がいるんだぞあのヤロー」
「神崎君……? 一応俺ら教員なんですが……」
シャドーを始めたチンピラにおそるおそる声をかけると、彼は歯を見せた。細めた目は半分本気、半分楽しんでいるようだ。
「おう。バイオレンスじゃないから安心しろ。今回のテスト、アイツのだけ中身を変えてやるだけだ。ドイツ語で出題してやる。赤点確実だな」
意味深な笑みを浮かべる彼。不謹慎だが少し元気が出た。
ある日の授業後。
テスト週間に入り、職員室に生徒が出入りすることができなくなった。この学校でのテスト週間も何度目になるだろう。この時期になると図書室や自分のクラスに残って自習していく生徒が多い。
薫子もアンやミツヤと一緒に勉強しているかもしれない。成績優秀な彼女のことだから、主に教える側だろう。
「失礼しま~す……。あっ」
なんというタイミング。例の女子(神崎は抱きつき魔と呼んでいる)が引き戸を開けて現れた。コウの頬が無意識に引きつる。
「どの先生に用事だった?」
今はコウしかいない。彼が対応せざるをえない。覚悟して立ち上がり、警戒しながら近づいた。腕を回されないようにさりげなく肩を回しながら。
「コウちゃん先生に話があります」
「……先生?」
自分を指さすと彼女はコクッとうなずき、急に後ろへ振り向いてガッツポーズをした。よく見ると廊下には彼女の友だちらしき女子が二人いる。彼女らは手をブンブン振ったり同じようにガッツポーズをしていた。
こちらに体の向きを変えた彼女は、職員室の中へ足を踏み入れた。
「あー……。それはダメだって」
コウは彼女の上靴を見下ろした。
テスト週間中の決まりだ。不正やテスト問題流出を防ぐため、生徒は出入口で用件を伝えることになっている。
しかし彼女はコウの制止を聞かず、いつしかのように彼に迫った。
「好きです!」
「……は?」
職員室に無断で立ち入ったことと突然の告白。コウは肩を回すのをやめた。
女子生徒はコウの目の前に立ち止まると、両手を組んだ。うるんだ瞳と紅潮した頬。彼女の同年代の男子ならイチコロだろう。
「入学した時からずっと好きだった。コウちゃんはイケメンだし優しいし……。あたしと付き合って!」
一歩一歩、歩み寄ってくる彼女。外では引き戸に張り付いた女子がこちらの様子を伺っている。
コウは気を取り直して表情を険しくした。相手のペースにのまれてる場合じゃない。
「たかが職員室に入っただけ、と思ってるかもしれないけど今はテスト週間だよ。もしもテスト問題が生徒の間で広まっていたら真っ先に君が疑われるよ。最悪、進路に影響出るけど……。それでもいいの?」
「良くない……けど! コウちゃん先生に好きって言いたかったから。こういう日しかチャンスないもん。せめて連絡先だけでも」
「ダメだよ。やっていいことと悪いことがある」
「え……」
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コウは目をぐっと細めた。けしてにらみつけないように。
「それと。生徒と付き合う気はないから」
コウの心を占めている薫子のことが思い浮かんだ。
薫子のことは好きだ。ただの生徒の一人として、ではなく一人の女性として。だが、想いを打ち明けていい相手ではない。
「────ということだよ」
突然聞こえた声にコウたちは肩を跳ねあげた。
開け放たれた職員室の出入り口に緒方が立っていた。いつからいたのだろう。後ろでは仲間の女子二人が廊下の隅で固まっている。
緒方はゆっくりと歩き、いつものおだやかな優しい声で語り始めた。
「コウちゃん先生のことは諦めなさい。その失恋した悔しさはテスト勉強にぶつけなさい」
緒方は生徒が職員室に入っていることをとがめなかった。
彼の深い声を聞いているとまるで、教会で神父に聖書の教えを説かれている気分になる。そんな経験はないが。
「大告白をした勇気は認めよう。これだけ根性があればきっと、あなたは就職試験の面接なんてヨーグルトだね」
いい話だったのに最後の一言でコケた。後から聞いたら”余裕”という意味らしい。
「何それ……。変なの」
当の女子生徒は笑っていた。笑いながら泣き出した。
それ以来、彼女が過度なスキンシップをすることはなくなった。神崎が考えたニックネームもなくなった。
「生徒と付き合う気はない、ねぇ……。壱善さんとはどうするの?」
「はいっ!?」
職員室無断立ち入り事件の後、緒方に不意をつかれた。進路指導室に呼び出されたと思ったら、コウのこの先を気にしているようだった。おもしろがっているように見えた気もしたが、彼に限ってありえないだろうと思うことにする。
「壱善さんに随分ご執心のようだから心配になってね」
はは、と緒方はのんびり笑った。
もうバレているなら隠す必要はない。コウは頭をかいてうつむいた。熱くなってきた顔を隠すため。
「……俺、確かにあのコのことが好きです。でも、教師と生徒がそういう仲になるのってどうかと思うんです。だから────彼女を困らせるようなことはしません」
緒方は紅茶を置くと、うなずきながら拍手をした。
「100点満点。今までの先生たちにもコウちゃん先生みたいに、考えて行動して欲しかったよ」
「それは……ありがとうございます?」
褒められたようで嬉しいが、重大な悩みができてしまったかもしれない。
薫子とどうなりたいのか、どうしたいのか。
これは彼女の気持ちを慮らなければいけない。もしかしたらコウの気持ちを気持ち悪い、ありえない、と思うかもしれない。
しかし、ずっと胸に秘めていることはできそうになかった。
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※ただひたすら時系列に沿って変態したりイチャイチャしたりする話が続きます。
※主人公の1人(夫)が気持ち悪いです。
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