15 / 25
化け狐の嫁
15
しおりを挟む
「もうやめてください、母様」
うつむき、物思いにふけっている女狐に声をかけたのは小夜だった。
青藍色の豊かな髪を揺らしながら彼女に近づく。その瞳は憐みで細められていた。
「小夜? 何を言っているのだ……?」
カランコロン、と下駄を鳴らしながら歩み寄る小夜。筋肉神主は止めようとし、目を見開いた。
「さよ……? お前は……!」
名前を復唱した女狐もまた、顔を上げた。その目は憎々しさにますます吊り上がり、口元は怒りでわなないている。
「ヨヅキ……お前が妾たちの元から去ったせいでヌシ様は……!」
小夜はふぅ、と息を吐くとたちまち白い光に包まれた。征司たちが思わず腕で顔を覆うと、次の瞬間に小夜の姿はなくなっていた。
代わりにそこにいたのは真っ白なキツネ。まるで筋肉神主の話に聞いたキツネのようだ。
「小夜さん……? 化けていたのか……」
「お前だったのか……。あの時の美しいキツネよ……」
「はい。今まで黙っていてすみませんでした」
筋肉神主は問いかけなくても確信したようだ。
白いキツネが小夜の声を発するのはなんとも不思議だった。だが、女狐をまっすぐに見つめる横顔は小夜と重なる。種が違っても。
「私は父様が人間を食べるのが嫌でした。誰かの大切な人たちをさらうあなたたちが許せませんでした。……きっと母様だって、さらわれて化け狐の嫁に───」
「だまれぇー!!!」
細腕で杖を振るった女狐は娘のことを薙ぎ払った。その咆哮は火山の噴火のようで、木々にとまっていた鳥たちが一斉に飛びたっていった。
「小夜!」
筋肉神主がとっさに地面を蹴り、小夜のことを受け止めた。
杖にぶたれた部分が赤く染まっている。骨も折れているかもしれない。彼女はうめき声すら上げられずに苦しんでいる。
「女狐! 自分の娘になんてことしやがる!」
そこへ飛び出たのは征司だった。刀を抜き、女狐に向かって突き付けている。しかし、その手は震えている。
彼の心情を見透かしたような女狐は鼻で笑う。
「小僧……。それでどうにかできると?」
「知らん!」
女狐は杖で足元を叩き、黒い雲を発生させた。また飛ぶ気だろう。
「空中戦ならボクに任せろ、征司」
菊光も刀を抜いた。誰よりも先に短刀を構えていたサスケは、”え、あの……”と小さく声を上げている。
黒い雲が女狐の足元を覆うと、分裂した雲がキツネの形になって唸り声をあげた。
「キツネたちよ! こやつらと遊んでやるがいい!」
「またかよ……! 小紅! 俺から離れるな!」
「征司……」
小紅は昨晩のように前に出た征司にそっと寄り添った。
その後ろでは菊光が刀を抜き、さっそく一匹仕留めた。刀身にまとわりついた灰色の煙を振り払うと、まっすぐに女狐を見据える。
「今度は幻覚に惑わされないぞ……」
勇ましい横顔で刀を握る手をぎゅっと握りしめる。
征司は目の前に走ってきたキツネに向かって刀を振り下ろした。
「神主さん! 小夜さんは……!」
「動けないが意識はある!」
筋肉神主はキツネになった妻を片手に抱き、とびかかってくるキツネに手刀をくらわせている。他のキツネが向かってくるが一匹も逃さず、たくましい腕を振り続ける。
「サスケ!」
やはり動物の形をした化け物に耐性がないサスケは、怯えながら短刀を振っている。それはキツネに当たっていないが、キツネたちは近づくことができないでいる。
菊光がサスケにとびかかろうとしたキツネを突き刺し、彼を立たせる。
「足がすくむだろうが座ってたらいけない」
「申し訳ないっス……うわああぁぁぁ!」
震える足で立ち上がったはいいが、飛びかかってきたキツネが一際大きくて驚いたようだ。サスケは涙目で短刀を投げつけた。
「あ、バカ! 武器を捨てるヤツがあるか!」
菊光が怒鳴ると、短刀は大きなキツネめがけて飛んで行った。まるで放たれた矢のように。キツネは消え、短刀が勢いよくサスケの元へ戻ってきた。
「うっ……っス!?」
「なんだ今のは……」
二人で顔を見合わせ、サスケは再びキツネに向かって短刀を投げつける。足元のキツネは短刀によって切り裂かれ、短刀はサスケの手元へ飛んで戻ってきた。
おもちゃを投げ、犬がそれをくわえて戻ってくるように。
「これは……随分いい神貴のようだな」
「はいっス!」
サスケは震えが取れた声で返事をすると、次々にキツネめがけて短刀を投げつけた。慣れてくると弧を描くように投げ、一投で二匹も三匹も仕留められるようになった。
菊光はサスケの心配はいらないことを悟ると、女狐に向かって疾走した。自分たちがキツネに気を取られている隙に空中へ逃げようとしている。彼女の足元が地面から離れ始めていた。
「逃がすかぁ!!」
菊光は女狐の前で垂らされた帯に切っ先を突き刺した。地面に縫い留めれば逃げることはできないだろう。
女狐は忌々し気に顔をゆがめ、赤いまなじりが炎のように燃え上がった。怒りが頂点に達したのだろう。唇が震えている。
「サスケ! 頼めるか!」
自分の武器は大事な役割を果たしている。しかし、拳では勝てる気がしない。
菊光が後ろを振り返らずにサスケに応援を頼むと、女狐の背後から何かが現れた。
「もうやめようぜ……。奥さん」
「京弥!?」
キツネを相手にしていた全員が振り返る。その瞬間にキツネも、女狐の足元の黒い雲も消えてしまった。
名前を呼ばれた彼は反応することなく、女狐のことを後ろから抱きしめた。
「なっ……何をする!」
「これ以上人を殺めるな。伊吉さんが悲しむぞ」
「何を言うておるのじゃ! 離さんか小僧!」
女狐は本気で怒った様子で、通常の大きさに戻したキセルで京弥の頭を殴りつけている。
しかし、彼は腕の力をゆるめることはしなかった。
「伊吉だと……?」
「誰ですか?」
その名前に唯一反応したのは筋肉神主だった。小夜を両手で抱え直し、目をこすっている。
「つい最近葬儀をあげた男だ。化け狐に妻をさらわれた……。あまりにも姿がかけ離れているものだから確信は持てなかったが……」
「ええいうるさい!」
勢いよく振り上げたキセルがとうとう折れた。京弥の頬は何度も打ち付けられたせいで赤黒くなっている。
女狐は髪から白いかんざしを抜き、京弥に向かって突き刺そうとした。彼はその手をはたくと、彼女と向かい合った。
その大きな声も真面目な表情も、この場にいる誰もが見たことがないものだった。
「本当は旦那さんのことを忘れられなかったんじゃないのか!? こんなに姿が変わってしまったが、これだけは外せなかったんじゃないのか!?」
京弥は嫌がる女狐の腕を引っ掴み、着物の袖をまくりあげた。白い手を覆うように着けられていたのは真っ赤な手甲。しかし、まなじりや唇を染めている毒々しい紅ではなく、あたたかみのある朱色だ。
「こんなに深く切れてしまって……。俺がいながらすまない」
「平気です。もう痛くないです」
誤って鍬でケガをしてしまった。農具置きに立てかけようとしたら手を滑らせた。そのせいで手の甲を横切るように長い傷ができてしまった。
幸い、すぐに血は止まった。縫う必然もない。
夫である伊吉は、包帯を巻き終えると自身の胸をドンと叩いた。
「しばらくは畑仕事を休んでくれ。家事も俺にまかせろ」
「そんな、あなたになんでもかんでもやらせるわけにはいきません」
「俺を見くびっているな? こう見えて母の手伝いをよくしていたんだぞ? 洗濯も飯の準備もお手の物だ」
「それは分かっておりますが……。あなたの皿洗いは甘いので心配なのです……。この前もしゃもじに米粒が……」
「わ……分かった分かった! 丁寧にやるから! なんならお前の監視の下で作業するから!」
「ふふ、ありがとうございます」
桜が満開を迎えたある夜。晩御飯を終えると伊吉に連れられて外へ出た。
彼が教えてくれたのは村に古くから伝わる月まじない。若い娘の間では恋愛成就のおまじないとして流行っているそうだ。
「お前は嫁としてこの村に来たから知らないだろ?」
「はい。どのようにやるのですか?」
「こうしてね、雲一つないまっさらな夜空の日に、月に祈るんだ。叶えたいこと……なんでもいい」
夫と一緒に夜空を見上げると、桜吹雪の向こうで三日月が輝いていた。
春にしか見られない美しい景色に息を呑むと、彼が懐に手を入れた。
『お月さんにお前の手の完治を祈るが……。俺としては別の形でも願掛けをしたい』
それは真っ赤な布。淡い月明りの下でも分かる、鮮やかな朱色だ。
「手甲だ。傷を保護できるし、お守り代わりに着けていてほしい」
「嬉しい……。心強いです」
その場で夫は手を取り、傷を優しく覆って手甲の紐を結んでくれた。
「でも……一人で着けるのはいささか難儀ですね」
「大丈夫だ。毎日俺が着け外ししてやるよ」
”もしかしたら他のものも外すかもしれないけど……”と、冗談交じりに話す彼の腕をはたいた。
傷もふさがり、痛みもなくなった。痕が残ってしまったがどうってことない。伊吉の愛情を再確認することができたのだから。
彼に無理はするなと釘を刺されたが、畑仕事や家事を本格的に再開することにした。
「……とは言え、本当はお前の握り飯を食べられるのが嬉しいよ」
「ふふ、あなたったら……。今日は特別に梅を多めに入れました。この前ご近所さんからお裾分けして頂いたものです」
「おっ! それはいいことを聞いたな。あの人の作る梅干しも絶品だからな」
そう言って伊吉は鍬を肩に担いだ。いつもより早いが昼飯にするつもりなのだろう。
食欲に正直な夫のことを笑うと、自分も作業を中断しようと鍬を置いた。
『なんと美しい……』
夫ではない声が耳の中でこだました。思わず辺りを見渡すと、すぐそばに人の姿はない。遠くの畑や田んぼで作業をしている者ばかり。
『我が嫁にしよう』
また聞こえた。耳の中で何重にもこだまする幻聴が気持ち悪くて、思わずしゃがみこんだ。
その瞬間、一陣の強い風に吹かれた。春一番よりも野分よりも激しい突風だ。思わず目をぎゅっととじる。
しかし、吹かれているのではなかった。突風の中にいるというか、自分が突風になっていた。
「なに……っ!?」
何者かに抱えられ、疾走していた。
自分を抱え上げているのは狐の面で顔半分を隠した妖しい男。顔を上げると、夫がこちらに手を伸ばしていた。彼と一緒になってから、あんな必死な形相は見たことがない。
「化け狐が出たぞー!」
「────ちゃんがさらわれた……!」
狐男は農具を向けてくる村人をものともせず、疾走し続けている。正直、彼らの足の速さはそよ風程度でしかない。
「あなた……っ」
遠くなっていく愛おしい人に向かって手を伸ばす。しかし、距離は離れていくばかりで男の腕から逃れることができないでいた。
「────ヨ……おサヨー!!!!!」
愛おしい人の最後の記憶は、悲痛な表情と大絶叫だった。
(あなた……伊吉さんっ……どうして忘れていたの……!!)
女狐は瞳にいっぱいの涙をため、口元をゆがませた。こんな表情を浮かべたのはいつ以来だろう。愛する人と祝言を挙げた時が最後だろうか。
彼女は化け狐に出会ってからの記憶を脳内に巡らせ、肩を震わせた。
(なんてことを……! 私だってさらわれたのに、同じように娘たちをさらった……。しかも彼女たちを化け狐に……)
罪を重ね過ぎた。地獄で何万回と業火に焼かれても足りないくらいに。
涙目で絶叫していた娘たちの顔がよみがえる。おそらく、伊吉との別れを察した自分も同じ顔をしていただろう。
(閻魔さまに地獄に落としてもらうのもおこがましい……)
女狐は青年の手をそっと離すと、人差し指から青い炎を生み出した。
「女狐……?」
曖昧な笑みを浮かべる彼にほほえんだ。こんな優しい表情を化け狐に向けていた自分が恐ろしい。
(伊吉さん、ごめんなさい……。私は終わりのない暗闇をさまよいます。あなたの幸せを願いながら……)
『お前といられるならどんな時だって幸せだ』
彼の笑顔の記憶さえあればどうってことない。自分を消し炭にすることも。
女狐が人差し指の炎に息を吹きかけると、炎の勢いが増した。そのまま炎に包まれ、帯や着物や髪の毛が燃え上がる。
真っ白な肌は砂のように崩れていった。
うつむき、物思いにふけっている女狐に声をかけたのは小夜だった。
青藍色の豊かな髪を揺らしながら彼女に近づく。その瞳は憐みで細められていた。
「小夜? 何を言っているのだ……?」
カランコロン、と下駄を鳴らしながら歩み寄る小夜。筋肉神主は止めようとし、目を見開いた。
「さよ……? お前は……!」
名前を復唱した女狐もまた、顔を上げた。その目は憎々しさにますます吊り上がり、口元は怒りでわなないている。
「ヨヅキ……お前が妾たちの元から去ったせいでヌシ様は……!」
小夜はふぅ、と息を吐くとたちまち白い光に包まれた。征司たちが思わず腕で顔を覆うと、次の瞬間に小夜の姿はなくなっていた。
代わりにそこにいたのは真っ白なキツネ。まるで筋肉神主の話に聞いたキツネのようだ。
「小夜さん……? 化けていたのか……」
「お前だったのか……。あの時の美しいキツネよ……」
「はい。今まで黙っていてすみませんでした」
筋肉神主は問いかけなくても確信したようだ。
白いキツネが小夜の声を発するのはなんとも不思議だった。だが、女狐をまっすぐに見つめる横顔は小夜と重なる。種が違っても。
「私は父様が人間を食べるのが嫌でした。誰かの大切な人たちをさらうあなたたちが許せませんでした。……きっと母様だって、さらわれて化け狐の嫁に───」
「だまれぇー!!!」
細腕で杖を振るった女狐は娘のことを薙ぎ払った。その咆哮は火山の噴火のようで、木々にとまっていた鳥たちが一斉に飛びたっていった。
「小夜!」
筋肉神主がとっさに地面を蹴り、小夜のことを受け止めた。
杖にぶたれた部分が赤く染まっている。骨も折れているかもしれない。彼女はうめき声すら上げられずに苦しんでいる。
「女狐! 自分の娘になんてことしやがる!」
そこへ飛び出たのは征司だった。刀を抜き、女狐に向かって突き付けている。しかし、その手は震えている。
彼の心情を見透かしたような女狐は鼻で笑う。
「小僧……。それでどうにかできると?」
「知らん!」
女狐は杖で足元を叩き、黒い雲を発生させた。また飛ぶ気だろう。
「空中戦ならボクに任せろ、征司」
菊光も刀を抜いた。誰よりも先に短刀を構えていたサスケは、”え、あの……”と小さく声を上げている。
黒い雲が女狐の足元を覆うと、分裂した雲がキツネの形になって唸り声をあげた。
「キツネたちよ! こやつらと遊んでやるがいい!」
「またかよ……! 小紅! 俺から離れるな!」
「征司……」
小紅は昨晩のように前に出た征司にそっと寄り添った。
その後ろでは菊光が刀を抜き、さっそく一匹仕留めた。刀身にまとわりついた灰色の煙を振り払うと、まっすぐに女狐を見据える。
「今度は幻覚に惑わされないぞ……」
勇ましい横顔で刀を握る手をぎゅっと握りしめる。
征司は目の前に走ってきたキツネに向かって刀を振り下ろした。
「神主さん! 小夜さんは……!」
「動けないが意識はある!」
筋肉神主はキツネになった妻を片手に抱き、とびかかってくるキツネに手刀をくらわせている。他のキツネが向かってくるが一匹も逃さず、たくましい腕を振り続ける。
「サスケ!」
やはり動物の形をした化け物に耐性がないサスケは、怯えながら短刀を振っている。それはキツネに当たっていないが、キツネたちは近づくことができないでいる。
菊光がサスケにとびかかろうとしたキツネを突き刺し、彼を立たせる。
「足がすくむだろうが座ってたらいけない」
「申し訳ないっス……うわああぁぁぁ!」
震える足で立ち上がったはいいが、飛びかかってきたキツネが一際大きくて驚いたようだ。サスケは涙目で短刀を投げつけた。
「あ、バカ! 武器を捨てるヤツがあるか!」
菊光が怒鳴ると、短刀は大きなキツネめがけて飛んで行った。まるで放たれた矢のように。キツネは消え、短刀が勢いよくサスケの元へ戻ってきた。
「うっ……っス!?」
「なんだ今のは……」
二人で顔を見合わせ、サスケは再びキツネに向かって短刀を投げつける。足元のキツネは短刀によって切り裂かれ、短刀はサスケの手元へ飛んで戻ってきた。
おもちゃを投げ、犬がそれをくわえて戻ってくるように。
「これは……随分いい神貴のようだな」
「はいっス!」
サスケは震えが取れた声で返事をすると、次々にキツネめがけて短刀を投げつけた。慣れてくると弧を描くように投げ、一投で二匹も三匹も仕留められるようになった。
菊光はサスケの心配はいらないことを悟ると、女狐に向かって疾走した。自分たちがキツネに気を取られている隙に空中へ逃げようとしている。彼女の足元が地面から離れ始めていた。
「逃がすかぁ!!」
菊光は女狐の前で垂らされた帯に切っ先を突き刺した。地面に縫い留めれば逃げることはできないだろう。
女狐は忌々し気に顔をゆがめ、赤いまなじりが炎のように燃え上がった。怒りが頂点に達したのだろう。唇が震えている。
「サスケ! 頼めるか!」
自分の武器は大事な役割を果たしている。しかし、拳では勝てる気がしない。
菊光が後ろを振り返らずにサスケに応援を頼むと、女狐の背後から何かが現れた。
「もうやめようぜ……。奥さん」
「京弥!?」
キツネを相手にしていた全員が振り返る。その瞬間にキツネも、女狐の足元の黒い雲も消えてしまった。
名前を呼ばれた彼は反応することなく、女狐のことを後ろから抱きしめた。
「なっ……何をする!」
「これ以上人を殺めるな。伊吉さんが悲しむぞ」
「何を言うておるのじゃ! 離さんか小僧!」
女狐は本気で怒った様子で、通常の大きさに戻したキセルで京弥の頭を殴りつけている。
しかし、彼は腕の力をゆるめることはしなかった。
「伊吉だと……?」
「誰ですか?」
その名前に唯一反応したのは筋肉神主だった。小夜を両手で抱え直し、目をこすっている。
「つい最近葬儀をあげた男だ。化け狐に妻をさらわれた……。あまりにも姿がかけ離れているものだから確信は持てなかったが……」
「ええいうるさい!」
勢いよく振り上げたキセルがとうとう折れた。京弥の頬は何度も打ち付けられたせいで赤黒くなっている。
女狐は髪から白いかんざしを抜き、京弥に向かって突き刺そうとした。彼はその手をはたくと、彼女と向かい合った。
その大きな声も真面目な表情も、この場にいる誰もが見たことがないものだった。
「本当は旦那さんのことを忘れられなかったんじゃないのか!? こんなに姿が変わってしまったが、これだけは外せなかったんじゃないのか!?」
京弥は嫌がる女狐の腕を引っ掴み、着物の袖をまくりあげた。白い手を覆うように着けられていたのは真っ赤な手甲。しかし、まなじりや唇を染めている毒々しい紅ではなく、あたたかみのある朱色だ。
「こんなに深く切れてしまって……。俺がいながらすまない」
「平気です。もう痛くないです」
誤って鍬でケガをしてしまった。農具置きに立てかけようとしたら手を滑らせた。そのせいで手の甲を横切るように長い傷ができてしまった。
幸い、すぐに血は止まった。縫う必然もない。
夫である伊吉は、包帯を巻き終えると自身の胸をドンと叩いた。
「しばらくは畑仕事を休んでくれ。家事も俺にまかせろ」
「そんな、あなたになんでもかんでもやらせるわけにはいきません」
「俺を見くびっているな? こう見えて母の手伝いをよくしていたんだぞ? 洗濯も飯の準備もお手の物だ」
「それは分かっておりますが……。あなたの皿洗いは甘いので心配なのです……。この前もしゃもじに米粒が……」
「わ……分かった分かった! 丁寧にやるから! なんならお前の監視の下で作業するから!」
「ふふ、ありがとうございます」
桜が満開を迎えたある夜。晩御飯を終えると伊吉に連れられて外へ出た。
彼が教えてくれたのは村に古くから伝わる月まじない。若い娘の間では恋愛成就のおまじないとして流行っているそうだ。
「お前は嫁としてこの村に来たから知らないだろ?」
「はい。どのようにやるのですか?」
「こうしてね、雲一つないまっさらな夜空の日に、月に祈るんだ。叶えたいこと……なんでもいい」
夫と一緒に夜空を見上げると、桜吹雪の向こうで三日月が輝いていた。
春にしか見られない美しい景色に息を呑むと、彼が懐に手を入れた。
『お月さんにお前の手の完治を祈るが……。俺としては別の形でも願掛けをしたい』
それは真っ赤な布。淡い月明りの下でも分かる、鮮やかな朱色だ。
「手甲だ。傷を保護できるし、お守り代わりに着けていてほしい」
「嬉しい……。心強いです」
その場で夫は手を取り、傷を優しく覆って手甲の紐を結んでくれた。
「でも……一人で着けるのはいささか難儀ですね」
「大丈夫だ。毎日俺が着け外ししてやるよ」
”もしかしたら他のものも外すかもしれないけど……”と、冗談交じりに話す彼の腕をはたいた。
傷もふさがり、痛みもなくなった。痕が残ってしまったがどうってことない。伊吉の愛情を再確認することができたのだから。
彼に無理はするなと釘を刺されたが、畑仕事や家事を本格的に再開することにした。
「……とは言え、本当はお前の握り飯を食べられるのが嬉しいよ」
「ふふ、あなたったら……。今日は特別に梅を多めに入れました。この前ご近所さんからお裾分けして頂いたものです」
「おっ! それはいいことを聞いたな。あの人の作る梅干しも絶品だからな」
そう言って伊吉は鍬を肩に担いだ。いつもより早いが昼飯にするつもりなのだろう。
食欲に正直な夫のことを笑うと、自分も作業を中断しようと鍬を置いた。
『なんと美しい……』
夫ではない声が耳の中でこだました。思わず辺りを見渡すと、すぐそばに人の姿はない。遠くの畑や田んぼで作業をしている者ばかり。
『我が嫁にしよう』
また聞こえた。耳の中で何重にもこだまする幻聴が気持ち悪くて、思わずしゃがみこんだ。
その瞬間、一陣の強い風に吹かれた。春一番よりも野分よりも激しい突風だ。思わず目をぎゅっととじる。
しかし、吹かれているのではなかった。突風の中にいるというか、自分が突風になっていた。
「なに……っ!?」
何者かに抱えられ、疾走していた。
自分を抱え上げているのは狐の面で顔半分を隠した妖しい男。顔を上げると、夫がこちらに手を伸ばしていた。彼と一緒になってから、あんな必死な形相は見たことがない。
「化け狐が出たぞー!」
「────ちゃんがさらわれた……!」
狐男は農具を向けてくる村人をものともせず、疾走し続けている。正直、彼らの足の速さはそよ風程度でしかない。
「あなた……っ」
遠くなっていく愛おしい人に向かって手を伸ばす。しかし、距離は離れていくばかりで男の腕から逃れることができないでいた。
「────ヨ……おサヨー!!!!!」
愛おしい人の最後の記憶は、悲痛な表情と大絶叫だった。
(あなた……伊吉さんっ……どうして忘れていたの……!!)
女狐は瞳にいっぱいの涙をため、口元をゆがませた。こんな表情を浮かべたのはいつ以来だろう。愛する人と祝言を挙げた時が最後だろうか。
彼女は化け狐に出会ってからの記憶を脳内に巡らせ、肩を震わせた。
(なんてことを……! 私だってさらわれたのに、同じように娘たちをさらった……。しかも彼女たちを化け狐に……)
罪を重ね過ぎた。地獄で何万回と業火に焼かれても足りないくらいに。
涙目で絶叫していた娘たちの顔がよみがえる。おそらく、伊吉との別れを察した自分も同じ顔をしていただろう。
(閻魔さまに地獄に落としてもらうのもおこがましい……)
女狐は青年の手をそっと離すと、人差し指から青い炎を生み出した。
「女狐……?」
曖昧な笑みを浮かべる彼にほほえんだ。こんな優しい表情を化け狐に向けていた自分が恐ろしい。
(伊吉さん、ごめんなさい……。私は終わりのない暗闇をさまよいます。あなたの幸せを願いながら……)
『お前といられるならどんな時だって幸せだ』
彼の笑顔の記憶さえあればどうってことない。自分を消し炭にすることも。
女狐が人差し指の炎に息を吹きかけると、炎の勢いが増した。そのまま炎に包まれ、帯や着物や髪の毛が燃え上がる。
真っ白な肌は砂のように崩れていった。
0
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
龍王の番〜双子の運命の分かれ道・人生が狂った者たちの結末〜
クラゲ散歩
ファンタジー
ある小さな村に、双子の女の子が生まれた。
生まれて間もない時に、いきなり家に誰かが入ってきた。高貴なオーラを身にまとった、龍国の王ザナが側近二人を連れ現れた。
母親の横で、お湯に入りスヤスヤと眠っている子に「この娘は、私の○○の番だ。名をアリサと名付けよ。
そして18歳になったら、私の妻として迎えよう。それまでは、不自由のないようにこちらで準備をする。」と言い残し去って行った。
それから〜18年後
約束通り。贈られてきた豪華な花嫁衣装に身を包み。
アリサと両親は、龍の背中に乗りこみ。
いざ〜龍国へ出発した。
あれれ?アリサと両親だけだと数が合わないよね??
確か双子だったよね?
もう一人の女の子は〜どうしたのよ〜!
物語に登場する人物達の視点です。
中身は80歳のおばあちゃんですが、異世界でイケオジ伯爵に溺愛されています
浅水シマ
ファンタジー
【完結しました】
ーー人生まさかの二週目。しかもお相手は年下イケオジ伯爵!?
激動の時代を生き、八十歳でその生涯を終えた早川百合子。
目を覚ますと、そこは異世界。しかも、彼女は公爵家令嬢“エマ”として新たな人生を歩むことに。
もう恋愛なんて……と思っていた矢先、彼女の前に現れたのは、渋くて穏やかなイケオジ伯爵・セイルだった。
セイルはエマに心から優しく、どこまでも真摯。
戸惑いながらも、エマは少しずつ彼に惹かれていく。
けれど、中身は人生80年分の知識と経験を持つ元おばあちゃん。
「乙女のときめき」にはとっくに卒業したはずなのに――どうしてこの人といると、胸がこんなに苦しいの?
これは、中身おばあちゃん×イケオジ伯爵の、
ちょっと不思議で切ない、恋と家族の物語。
※小説家になろうにも掲載中です。
大根令嬢の雑学無双、王弟殿下を添えて。~ 前世を思い出したので、許婚をほったらかして人助けしまくります!!
古森真朝
恋愛
気弱な伯爵令嬢のカレンは、自分勝手な婚約者レナートに振り回されていた。耐え続けていたある日、舞踏会で何者かに突き飛ばされ、階段から落ちてしまう。
その傷が元で儚く……なるかと思いきや。衝撃で前世を思い出したカレンは一転、かの『ド根性大根』みたいな超・ポジティブ人間になっていた。
『モラハラ婚約者の思惑なんぞ知るか!! 今度こそ好きなことやって、目いっぱい幸せに長生きするんだから!!!』
昔ひたすら読書に耽って身に着けた『雑学』を武器に、うっかり採れ過ぎた作物や、開墾しようとすると不幸に見舞われる土地、不治の病にかかった王族、等々の問題をどんどん解決。
領地の内外で心強い友人が出来たり、いつの間にかものすごく有名になっていたり、何かと協力してくれる王弟ヴィクトルから好意を寄せられたり(注:気付いてない)する中、温かい家族と共に仕事に励んでいく。
一方、前世から因縁のある人々もまた、こちらに転生していて――
断罪まであと10分、私は処刑台の上で「ライブ配信」を開始した〜前世インフルエンサーの悪役令嬢、支持率100%でクズ王子を逆処刑する〜
深渡 ケイ
ファンタジー
断罪まで、あと10分。
処刑台の上で跪く悪役令嬢スカーレットは、笑っていた。
なぜなら彼女は――
前世で“トップインフルエンサー”だったから。
処刑の瞬間、彼女が起動したのは禁忌の精霊石。
空に展開された巨大モニターが、全世界同時ライブ配信を開始する。
タイトルは――
『断罪なう』。
王子の不貞、聖女の偽善、王家の腐敗。
すべてを“証拠付き・リアルタイム”で暴露する配信に、
国民の「いいね(=精霊力)」が集まり始める。
そして宣言される、前代未聞のルール。
支持率が上がるほど、処刑は不可能になる。
処刑台は舞台へ。
断罪はエンタメへ。
悪役令嬢は、世界をひっくり返す配信者となった。
これは、
処刑されるはずだった悪役令嬢が、
“ライブ配信”で王子と王国を公開処刑する物語。
支持率100%の先に待つのは、復讐か、革命か、
それとも――自由か。
腹黒薬師は復讐するために生きている
怜來
ファンタジー
シャルバリー王国に一人の少女がいた。
カナリヤ・ハルデリス
カナリヤは小さい頃から頭が冴えていた。好奇心旺盛でよく森に行き変な植物などを混ぜたりするのが好きだった。
そんなある日シャルバリー王国に謎の病が発生した。誰一人その病を治すことができなかった中カナリヤがなんと病を治した。
国王に気に入れられたカナリヤであったが異世界からやってきた女の子マリヤは魔法が使えどんな病気でも一瞬で治してしまった。
それからカナリヤはある事により国外追放されることに…
しかしカナリヤは計算済み。カナリヤがしようとしていることは何なのか…
壮絶な過去から始まったカナリヤの復讐劇
平和な国にも裏があることを皆知らない
☆誤字脱字多いです
☆内容はガバガバです
☆日本語がおかしくなっているところがあるかもしれません
俺! 神獣達のママ(♂)なんです!
青山喜太
ファンタジー
時は、勇者歴2102年。
世界を巻き込む世界大戦から生き延びた、国々の一つアトランタでとある事件が起きた。
王都アトスがたったの一夜、いや正確に言えば10分で崩壊したのである。
その犯人は5体の神獣。
そして破壊の限りを尽くした神獣達はついにはアトス屈指の魔法使いレメンスラーの転移魔法によって散り散りに飛ばされたのである。
一件落着かと思えたこの事件。
だが、そんな中、叫ぶ男が1人。
「ふざけんなぁぁぁあ!!」
王都を見渡せる丘の上でそう叫んでいた彼は、そう何を隠そう──。
神獣達のママ(男)であった……。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる