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8章

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 さすがにすぐには真っ暗にはならないが、やはりまだ日の入りが早い1月。いつもは下校して自宅でのんびり過ごしている時間に、夜叉は職員室から出てきた。

(今日はツイてないなぁ…こんな時間まで先生の仕事兼世間話に付き合わされるなんて…)

 ため息が出てしまった。教室へ向かって歩きだすと、舞花が現れて花の香りに包まれた。

「ご苦労様。早く帰りなんし。お腹すいたでしょう?」

「うん…頭めっちゃ使ったから早く炭水化物ほちぃ…」

「ようがんばりんしたね」

 舞花はふれられない手で夜叉の頭をなでた。その表情は切なそうで。ありがと、とつぶやいた夜叉は気づいていない。

 夜叉がお腹をすかせて帰ってきても、舞花は我が子に食事を用意することはできない。体操服を洗濯してあげたり、弁当を作って持たせることも。

(夜叉の成長していく姿をすぐそばで見守ることができない朱雀様の分、せめてわっちが…)

 階段を上っていく夜叉の背中。幼い頃からずっと見届けて来た成長も、そのうち見ることができなくなってしまう。

 ただの人間として娘を育てていけたら。心の底でひそかに思っていた願望。誰にも打ち明けていないが。

(本気で願ってしまったら、朱雀様の血を引いていることを否定してしまう)

「さー帰ろー帰ろー」

 一方、夜叉はと言うと、腕をグリングリンと回しながら教室に入った。が。出入り口をまたいだ状態で固まった。

「どうしんしたか────?」

 夜叉が視線を向けた方向を一緒に見ると、舞花も硬直した。

「お疲れ。思ったより遅かったね。そろそろ待ちくたびれるところだったよ」

 長めのストレートの髪、シャープめの猫目、規定通り着た制服。ただ、その制服は藍栄高校のものではない。

「かげ…うち、あさき…」

「覚えててくれたんだ? お姫様」

「…何しに来んした」

「母上までどうも」

 そこにいたのは響高の元喧嘩屋総長、影内朝来。夜叉は舞花と共に後ずさり、宙の舞花の前で片腕を広げた。

 朝来はシニカルに笑った。

「君分かってる? 前にも言ったけど僕が欲しいのは君なんだよ。母上は関係ない」

「覚えてないことないけど…急に何? どうやってここに入ったの?」

「君の同級性になりすましたんだよ。そのコは途中で帰ったことにしてるけど」

「彦瀬…!?」

「確かそんな名前だったかな。ちょいと姿を借りたよ」

「じゃあ朝のL○NEはあんた?」

「そういうこと」

 彼は夜叉たちに片目を閉じて見せ、一歩踏み出した。夜叉の眉間にシワが寄る。

 この前与えられた恐怖を忘れたわけではない。今回は彦瀬という友だちが絡んだ。それが許せない。

「彦瀬に何かしてない?」

「何も。自宅でスヤスヤ眠ってるよ。ただし…」

 ホッと安堵したのも束の間、朝来はシニカルな笑みになった。

「彼女を目覚めさせるのに条件がある。君が僕と一緒に来ること」

「は?」

「3日間だけでいい。僕と来るんだ」

「そんな…主のような得体の知れぬ男に渡せるわけありんせん。さっさとここから消えなんし」

 舞花にしては強い口調。煙管を持つ手はきつく握りしめられ、震えていた。見えない力に押さえつけられているように。

「舞花…大丈夫?」

「大丈夫だと言い切ることはできんせん…魔法の煙管がまた────」

 夜叉は顔を伏せ、拳を握った。あの時と同じだ。

 彼女は歯を食いしばり、朝来のことを見て悔し気に口を開いた。

「…ついていったらどうするの? 裏切り者の子孫をなぶり殺す?」

「いや。そんな取って食うようなことはしないよ。ただ一緒に来てほしいだけ。3日過ぎたらすぐに帰すよ」

「ホントに? 私がここでYesって言ったら彦瀬のことも目覚めさせてくれる?」

「もちろん。お姫様との約束は守るよ」

「夜叉…バカなことを言うのはやめなんし。そやつは正体も知れない、わっちらだけではどうすることもできない相手にござんす。1人で勝手な行動をとるのは取るのはやめなんし…!」

 舞花が語気を強めた。魔法の煙管を使うのはあきらめたらしく、腕は下ろしている。

 夜叉も片腕を下ろし、舞花の方を振り向いてほほえんでみせた。

「…大丈夫だよ、ちゃんと帰してくれるよ」

「どこから出た根拠にござんすか」

「女の勘ってとこだよ。これでも花魁の娘だよ。江戸の娘たちが憧れた花魁の頂点のね。そりゃ冴えてるよ?」

「夜叉…」

 呼ばれた彼女は舞花のそばを離れ、朝来の手が届くすぐそばへ行った。彼は意外そうな顔になったが、すぐに何を考えているのか分からない笑みを浮かべた。

 そして夜叉の肩に手を置いた。

「さぁ行こうか」

「どこに…は愚問か────ということで舞花、ちょっと行って来るね。和馬のことよろしくね。阿修羅のことも鬼子母神さんも」

「あ、戯人族にこのこと言っても彼らに探してもらうことはできないからね」

「だめ…夜叉…」

 舞花は力なく声を上げ、手を伸ばしたが、夜叉は朝来に肩を抱かれて跡形もなく消えてしまった。

 彼女は腕を落とし、顔をうつむかせた。

 頬に涙が伝い落ち、結いあげた髪がひとふさこぼれた。

 また、守れなかったと。
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