咲かない桜

御伽 白

文字の大きさ
上 下
283 / 352
4章

Part 282『実行』

しおりを挟む
 部屋で椅子に座り、机に備え付けられたスタンドライトだけをつけ、部屋の周りを消した。

 手に力が入るのを感じ、一度、強く握ってからゆっくりと手を離し、深呼吸をする。

 呪術とは、世界との交渉術である。正確にいうならば、神様との契約である。何かを捧げる代わりに何かを得る。言ってしまえば、世の中の買い物とシステム自体は変わらないのだ。

 しかし、問題点は、神様とコンタクトをとるのにも代償がいる事。

 感覚的に言えば、テレホンショッピングの電話料金をこちらが支払っているようなものだ。随分と庶民的な認識だが、分かりやすく噛み砕けばそういうことだ。

 これ自体は、そういうものとして受け入れるしかない。

 そして、もう一つが、代償を誤り、神様の機嫌を損ねるとこちらに厄災が起こるという事だ。

 これは、細心の注意を払うべきだと本にも書いてあった。丁寧に仕事をすれば、これも問題はないはずだ。

 これから行うことは、作業としては非常にシンプルであり、簡単なものだ。俺の技量でも十分に行える初歩的な作業のはずだ。

 早鐘を打つ心臓を必死になだめて、俺は、削り針を手に取った。

 イメージトレーニングは何度も行なった。指も今まで通り動いてくれる。

 「大丈夫・・・・・・大丈夫・・・・・・」

 何度も何度も繰り返すように呟いて、目の前の作業に意識を集中させる。

 自分の持てる最大限の集中状態を。

 時間の感覚が歪むような、世界から自分に必要なもの以外が消えていくような感覚

 耳に入る雑音が消えて、思考が単純化されていく感覚。

 自分の意思ではそこに辿り着けない。おそらく、篝さんやウチガネさんは、意図的にこの領域に入り込めるのだ。

 俺では、たまにしか、そこまでたどり着くことができない。しかし、今回ばかりは、無理矢理にでもたどり着くしかないのだ。

 先に彫り出すのは、文字ではなく彫刻である。文字を刻めばそれは代償になるが、先に彫刻を刻んでしまえば、失敗しても神の供物にはならない。

 丁寧に自分の持てるだけの技術で細かな彫刻を石に彫っていく。

 描くのは、何でもいい。要するに、そこに神に差し出すだけの技術があれば、呪いの代償は成立する。

 俺が描いたのは、植物だった。桜の花を俺は彫っていた。自分の一番好きな花で、一番イメージのしやすいものだ。

 そのおかげか、驚くほどに上手く出来上がり彫刻自体は自分の中で満足できる代物が完成した。

 この頃には、自分の理想的な集中状態へと入り込んでいた。

 そして、そのまま、緊張を緩める事なく、石にゆっくりと文字を刻む。象形文字のような独自の文字は、絵を描いているようだ。ここをミスする訳にはいかないので、一文字づつ丁寧に彫りだす。

 削り針の先端に全神経が集中していた。まるで手足のように自由に動く削り針を機械のような精密さで動かしていく。

 呼吸をする事を忘れるほどに俺は作業に没頭していた。

 三十分ほどだろうか。俺は、ゆっくりと息を吐き出して、削り針を置いた。

 「・・・・・・完成した・・・・・・」

 脱力するように俺は誰もいない部屋で呟いた。俺の目の前には、呪術が刻まれた石があった。
しおりを挟む

処理中です...