斎王君は亡命中

永瀬史緒

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12.デナリ新市街-2

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12.デナリ旧市街-2


「ユディ、私は……どうしたのだろう」
 ふと灰色に淀んだ底から意識を引き上げられて、ぼんやりした意識のまま呟く。この数週間で見慣れた幌車の、乾燥させた薬草がいくつもぶら下がった天幕ではなく、見慣れない装飾の天蓋が目に入って思わず出た言葉だった。
「ルカ様!」
 紗の帳を引いて顔を出したユディの呼びかけに、ああ、そうか、と状況の断片を理解する。この場では、とりあえず神官である事を隠さない事にしたのか、と。
 それなりに栄えた街道沿いの街で、ひさしぶりにちゃんとした宿へ泊ろうと、荷を下ろしていた途中の筈だった。それが、何故自分は寝台に寝かされているのだろうか。
「お加減は、いかがですか」
 ゆったりした動作で寝台に近づいた中位神官は燃えるような赤毛の持ち主で、手の込んだ藍色の刺繍の入った上着の襟元を、片手で押さえて礼を取る。
「……何があった?」
 掛け布団を一部剝いで、ルドラと名乗った神官がルカの手首を取る。その所作を目の端に捉えつつ、ルカは枕元に控える護衛騎士へと視線を移した。
「……私が幌車を納屋へ入れて玄関へ戻った時には、既にルカ様は暴漢ども蹴られた後でした」
「何故、そんなことに」
 茫然と呟けば、ユディが小声でこの街の治安の状況を教えてくれる。寝台に横たわるルカからはほとんど見えないが、広場で歌っていた吟遊詩人が事件の証人としてこの部屋に同席しているのだという。
 そういえば、衝撃を受けて吹き飛ばされる直前に、彼の姿を見たような気もする。
 おぼろげな記憶を辿ってはみるが、蹴られたらしい右肩も、反対側の壁にぶつけた左肩とさらにはこめかみまでもが痛く(幸い、絨毯巻に当たったので大事ない、とのルドラの見立てだった)、起き上がるのも億劫だった。
「……市井とは、恐ろしいところよな。少しばかり見目の良い女人が一人でいると、たとえ白昼の目抜き通りであっても誘拐されそうになるとは」
 ぼそりと呟けば、ユディとルドラとが揃って小さく首を振る。
「いえ、それは……さすがに滅多にない事かと」
 脈を計り終えて、薄い下衣に包まれたルカの腕を布団の内側へ戻したルドラが困ったような微笑を浮かべた。
「なるほど。私は運が悪かった、という事か」
 では仕方がないな、と諦めて小さく息を吐く。なおも小さく首を振るユディを無視して、ルカは寝台に寝たままで、綺麗に金茶の髪を巻いた朱赤の襟巻姿の吟遊詩人へ報奨の相談をするべく声を掛けた。
 二言三言交わして、なにがしかの報奨を望まれたようだったが、会話を終える前にすとんと眠りに落ちてしまったらしく、ルカはその後のやりとりを覚えていない。
「御身様」
 ふと、耳元にかけられた声に、ルカは目を覚ます。眠ってしまっている間に、吟遊詩人も、治療に訪れた中位神官もが退出したらしい。
「そう呼ばれるのは、久しぶりな気がする」
 薄く目を開けば、気づかわしげな表情のユディが間近に覗き込んでいる。十六の年を迎えて、百花蟲を体内に養ってからは滅多に寝込むこともなかったというのに、この逃亡の旅に出て以来、看病する彼を寝台の上から見上げる事が多くなったような気がする。
 今年の正月を越えれば十八歳、本当ならば大神官に就任する年齢になったのに、なんと不甲斐ない主人だろう、とルカは胸中に苦く呟いた。
「ご気分は、いかがですか」
「……もう、眩暈もないので大丈夫だ」
 敷布に肘を付いて、慎重に上体を起こしたつもりなのに、起き上がった途端にくらりと世界が揺れる。慌てて差し出された腕に縋って、ルカは小さく息を吐いた。
「これでは、湯浴みは無理だろうか」
「ルドラ中位神官が、今日は控えるようにと」
「……くぅ、やっぱりか」
 起き上がる努力を放棄して、背中からぱたりと敷布へ身を投げる。昏倒して運び込まれた部屋の施設からして、おそらくかなり立派な浴室があるだろう。
久方ぶりの入浴ができるのを、すごく楽しみにしていたというのに。
「雪道で転んで、後ろ頭ぶつけて果てろ」
 ルカは、顔どころか姿すら覚えていない、自分を蹴り飛ばした男に小声で呪詛を吐く。神降ろし以外の異能は持たないとはいえ、神の代理人たる斎王の呪詛ならば、あるいは叶うのではないか、と一縷の望みをかけてみる。
 信仰心篤い信者には絶対に聞かせられない呪詛の言葉を、ぶつぶつと呟くルカに、ユディが手に持った木桶を掲げて見せた。
「では御身様、せめて清拭を」



「寒くはありませんか」
 大人しく敷布に横たわるルカが、わずかに頭を振った。眠たいのか、それともあまり具合が良くないのか、起きてはいるものの眠入る寸前のようにも見える。
 着重ねていた嵩張る服を脱がせて、薄い麻の下衣一枚だけの姿では、いかに薪を贅沢にくべた暖炉が部屋を暖めていても寒いのではないか、と心配になる。
 香油を一滴垂らした湯で海綿を濯いで、きつく絞れば室内に仄かな薔薇草の匂いが広がって、薪の燃える煙を帯びた匂いを抑えた。
「首から拭きますからね」
 まず顔をそっと拭ってから、ユディは薄い麻の楊柳の生地を留めている紐を解く。襟元をくつろげれば、生気に薄い白い胸が緩やかに上下するのが見えた。
 長い銀色の睫毛が青白く影を落とす主人の寝顔はぴくりとも動かず、ユディはそんなルカが薄く開いた唇の間からわずかな呼吸の音がしたり、解いた襟元から胸の上下するのが見えたりして、やっと少しだけ安心する事ができる。
 いつであっても、ほんの少し目を離しただけで、この人は神々のおわす彼方へ魂だけ旅立ってしまうのではないか、とそんな不安がふと頭を過る。あまりにも抜きんでた容貌を持つがゆえ、何の理由もなくこの世から摘み取られてしまうのではないか、という根拠のない恐れを抱いてしまう。
「……本当に、なんと度し難い」
 洗い晒した衣を脱がせて上体を露わにすれば、ルドラ神官の治療した湿布を止める包帯が痛々しい。薬草の苦みを帯びた匂いと、すっと冷えるような清涼な香りの交じった湿布を外すと、右上腕の蹴り痕はいっそ黒々と、そして左肩の内出血の痕は濁った青紫に染まっている。数日もすれば青紫から黄色じみた茶色の濃淡に変わるだろうが、表皮に怪我がなかったのは運が良いからではなく、ルカが竜人だったからだろう。化生してヒトと同じ姿をしているが、その本性は竜。硬い鱗に覆われた身体の特徴は、化生の姿にも引き継がれている。
 さては、ルカを蹴ったあのごろつきは、人族だな。
 ぎり、と小さく奥歯を噛み締めて、ユディは剣をいい加減に構えて立っていた男の姿を思い出す。
「あのクソ野郎、今度遭ったらぶった斬る」
 主人に勝るとも劣らない呪詛の言葉を口の中だけで呟きつつ、ユディは甲斐甲斐しく主人の身体を柔らかく湿らせた海綿で拭く。この数週間、沐浴の代わりに湯で濯いだ手拭で肌を清めるしかなかったが、移動中や就寝前に交代で行っていたので、ユディは自分の主の身体の状態をしっかりと確かめられないでいた。
 いつの間にか陽が落ちて、室内は暗いがそれでも幌車の中に比べれば灯りの数は多い。暖炉の火はちらちらと揺れて、緞帳に遮られて暗い寝台に横たわるルカの肌の上までには光は届かなかった。
 それでも、大猫族の目を持つユディには、生成りの敷布に横たわるルカの肌の色の青白さが判別できた。枕元の小机の上に置いた手桶の湯で何度も海綿を濯ぎつつ、ぐったりと横たわる主人の肌を拭う。
「……痩せられて」
 もともと痩身であるが、この逃亡劇が始まってから段々と食欲も落ちてきているように見えた。問いただせば、最低限は足りているとは答えるものの、防寒のために着ぶくれた服の上からでは、体形の変化も判別しかねていた。
「御身様、貴方は」
 もっと我儘を言っていいのだ。
 ルカはごく小さい頃から神殿で育ったせいで、長老ら高位神官から厳しい教育を受けている。衆生を助け神に平穏を祈る神官として、私人の欲を持たず神の代弁者たるよう養育されているからか、ルカは驚くほどに自身の欲求に疎かった。
 ただ、食欲だけは別で、供される三度の食事では足りないが、斎王院に勤める従僕たちの手を煩わせるのも好まない結果、自分で料理する、という解決手段を選んでいる。十五歳までルカに付いていた侍女はノルチアを含めて5名、頼もうと思えば簡単にできただろうに、それをせず自分で作るのを選んだのは、独立心からか、それとも他人に期待しない諦観か。
 ルカが十三の時から侍従見習いとして、そして十六からは筆頭侍従騎士として傍近くに仕えているユディに対しても、ルカは過剰な要求を通した事など一回もない。せいぜいが、肌寒い夜に本性の姿で添い寝してほしい、というくらいのもので、その程度の願いなど、ユディにしてみれば我儘の範疇にすら入らない。
 たった、その程度の願いでさえ、わずかに視線を外して申し訳なさそうに、あるいは冗談めかして伝えるのだから、ユディにしてみてもなんとも歯痒い。
「……貴方はもっと、一方的に申し付けていいんです」
 地上にある人と、天上におわす神との間に立つただ一人の代弁者。
 アスカンタの王であっても、イスファの首長であっても、その他どのような身分の王であれ、大神官に頭を垂れぬ者はいない。
 ましてや、星教の組織の内に身を置く者ならば、斎王の命に首を振る事などできはしないのだ。どのみち、ユディには己の主人の命令に背くという選択肢などありはしない。
「……少し、寒い」
「今、終わりますから」
 物思いに耽りつつも、主人の白い背を拭う。背骨と肩甲骨にかけて、断続的に十字を描く白銀の鱗が、彼が希少な竜人である事を証明している。青みがかった光を孕む白銀の鱗は、角度を変えると赤紫がかったようにも、金色を含むようにも見える。
 もしもこの人が本性の姿に戻れたとしたら、きっと素晴らしく美しい白銀の竜なのだろう。
 海綿を持つ自分の浅黒い肌との対比のせいか、いつも見ている筈のルカの肌がいっそうに白く、ユディは慌てて空気にさらされていた素肌を布団で覆い隠した。
「……私も少しだけ、やすみます」
 ふう、と重い溜息を吐いて化生を解く。着ていた服が寝台からずり落ちて床へ散ったが、あえて無視した。
 規則正しい寝息を立て始めた主人の、肉の薄い背に黒い毛皮の身体をぴったりと寄せてから、ユディは目を閉じた。意識的に音が大きくなるように喉を鳴らしつつ、両手両足でルカを包んで背だけで伸びをした。
 パタリ、と意外と大きな音を立てて、背後で尾が寝台の枠を打った。



 翌日、早々に黒瑪瑙館を引き払い、神殿へと移った。
 もともと二泊分を取っていたせいか、宿屋の主人は前払いした銀貨は返せないと渋い顔をしたが、ユディは気にしなかった。
 午前中の割と早い時間に顔を出してくれたカナンが、ルドラ中位神官の伝言を携えており、これ幸いとユディとルカとは荷物とともに幌車で神殿へ向かったのだった。
 道中、悶着を避けるためにユディが銀貨2枚半をあきらめたと知って、カナンがなんともいえない表情をする。カナンら旅芸人にとって、銀貨2枚半はひと月分の宿泊代――こちらは芸人宿と呼ばれる木賃宿だが――に相当する。それも、何日か置きに身体を拭う湯を大きめの手桶に一杯付けて、の値段なのだという。
「なるほど、谷の藍衣様に仕える方の感覚は違う」
 感心したのか呆れたのか、カナンがぼそりと呟いた。幌車の御者台に仲良く並んでいるのはユディとカナンで、ルカは幌の内側の寝台に布団巻状態で寝かされている。本人の申告では、眩暈などはもうすっかり治ったとの事だったが、ルドラの診察を受けるまでは、とユディが引かなかったのだ。
「神殿は、大通りに面しているけれども、納屋は周りこまないと停められないので」
 弧胴琴を抱えたカナンがにこやかに先導する。通りがかる住民の、殊にご婦人方が笑顔で手を振ってくれるせいか、カナンは昨日よりもさらに愛想が良かった。綺麗に巻いた自慢の髪には一分の隙もなく、背後に薔薇草の幻覚が見えそうな華やかな笑みを浮かべる。
「ご所望とあれば一曲いかが?」
「いや、そろそろ神殿に着く」
 毛長コルフォがゆっくりと曳く幌車は、石畳の路を辿ってようやく神殿の前へと到着する。今朝は未明から雪がちらついて殊の外寒い。高い城壁に囲まれた街だからか強い風は吹いてこないが、北側から、つまりは進行方向から絶えず冷たい風が流れていて、御者台に長く留まると骨の髄まで凍えるようだった。
「おや、さすがに車は早いな」
 カナンは毎朝通り過ぎる神殿を、改めてまじまじと見上げている。おそらく通り過ぎるばかりで立ち寄った事はほとんどなく――多分、昨日ルドラに伝言を頼まれた時もきっと、この目抜き通りを通りかかったのを呼び止められる等したのだろう。近隣の岩場から切り出してきただろう石を積んだ白亜の神殿は、谷の神殿群には劣るとはいえ雑多な街並みの中では異彩を放っている。
「ようこそ、おいでくださいました。……お部屋の用意は出来ておりますよ」
 神殿の入り口に佇んでいたルドラがにこやかに迎えてくれる。外は冷えるだろうに、わざわざ通りに出てまで待っていてくれたのか、とユディはいささか呆れた気分に陥った。
「念のため、この街を出るまではアスカンタ南部の小商会の若旦那と、シレギア出身の奥方として接します」
「……よろしく頼みます」
 神殿の入り口で慇懃な礼を交わしつつ、ルドラとユディとはごく小声で囁きあった。
「アスカンタの神殿は、温暖な気候から開口部が多いと聞いておりますが、わが国は寒いので、おそらく故郷とはかなり様式が違うでしょう」
「石積みなのは同じですが、さすがにお国柄が出ますね」
 当たり障りのない話題を選びつつ、ユディは幌車の荷台からまずルカを降ろした。ルドラに預けて神殿内に入るのを確認してから、ムナンの手綱を取って納屋へと誘導する。
「私は、そろそろ出稼ぎに出るとしよう」
 ひら、と手を振ったカナンが、さっそうと踵を返す。小雪はずっと降り続いていて、この天候で広場に出て観客がいるのだろうか、と首を傾げてしまう。
「……まあ、広場だけが稼ぎの場でもないか」
 吟遊詩人は、人出の多い場所ならば酒場や食堂などにも出向くものだし、と思い直して、ユディは神殿脇の小道から裏通りの納屋へと移動した。



 神殿の中でルカとユディとが宛がわれたのは、それなりに裕福な夫婦用の、すなわちある程度の額の寄進をした巡礼客のための居室だった。
 神殿の巡礼宿はどこもきちんと掃除が行き届いているものだが、彼らが通された部屋は長い間使っていなかったせいか今一つ埃っぽく、寝台の上に積まれた寝具だけは新しく清潔なのがありがたい、という程度だった。
「行き届かず、申し訳ございません。現在この神殿には、中位神官は私のみ、下位神官は5人しかおりません。……お二方ならば神殿での暮らしに必要な物や設備をご存じでしょうから、どうぞご自由に使ってくださいませ」
「……それは、ご不自由なことでしょう」
 部屋に通された途端にくしゃみをしたせいで、毛布巻にされて長椅子に座るルカが気の毒そうな声を出した。ユディは景気よく暖炉に薪をくべて、盛大な炎を上げさせてから再び荷運びのために納屋へと向かう。
 たしかに、この規模の神殿ならば中位神官は少なくとも2~3人、下位神官は10人以上在籍するのが普通だろう。もちろん、神官に付く侍従や護衛騎士はこれらの数には入らない。
 ルドラの説明では、現在彼の護衛騎士は旧市街への使者として向かっており、この神殿に詰めている従僕はわずかに数人のみ。日々の暮らしに手一杯で、巡礼客をもてなす余裕すらないのだという。
「我々の事はお気になさらず。……普通の巡礼客の夫婦として扱ってください」
 ユディがせっせと荷物を居室へ運びこむ傍らで、ルカは卓上の質素な茶器を繰って茶を淹れる。その淀みない手つきに目を細めたルドラが、胸元へ片手を当ててわずかに腰を折った。
「承知いたしました。ですが、奥方様はお怪我をなされた身、どうぞご自愛くださいませ」
「ありがとうございます」
 ルカはふと小首を傾げて、腰帯から下げた小さな革袋を手に取った。指先で中を探って、貴石の付いた小さな髪留めを数個手のひらに出す。
「昨日の診療の分も含めて、寄進はこれで足りましょうか」
 もちろん手元には貨幣もあるが、基本的に巡礼中の神官の金銭の支払いは髪留めや釦などの装身具で賄われる。神殿内で貨幣と同等の価値として扱われるし、神官からこれらの装身具で支払いを受けた市民は、神殿に持っていけば貨幣へ変えてもらう事もできるのだ。
「いいえ、ルカ様。巡礼する神官からは、神殿は費用を受け取りません」
「……ですが、表向きとはいえ、この部屋は巡礼客向けです」
「谷の藍衣様を迎え入れるほどの格のある部屋は、こちらの神殿ではこの居室だけですから」
 穏やかに笑うルドラは、一本に縛った明るい赤の髪を背に流してから卓上の茶杯を手に取る。湯気の立つ茶を一口啜って、ほっと息を吐いた。ルカの差し出した物と同じ仕様の髪留めを、こめかみのあたりにいくつか留めている。神官が髪を伸ばすのは、霊力を得て神託を得やすくするため、というのが主な理由だが、ごく自然に髪留めなどの装身具を身に着けられる、という副次的な理由もがあった。肩程度の長さで切りそろえている神官であっても、必ず小さな貴石の付いた髪留めを身に着けている。身一つで逃げる事を想定しているから、装身具はすなわち持ち運び可能な財産でもある。
「私は、ポーラスタ王、すなわちポーラスタの神殿における祭祀長付きの中位神官です。予算はありますが、正直なところ不慣れな街での差配に難がございまして……。この街の役人どもは、神殿の要求など頭から無視してかかりますので」
「それは、なんとも」
 無視するだけならばまだしも、実際には反目している、というのが実情だろう。いかに敬虔な信徒が足しげく神殿に通ってくれたとしても、彼らには彼らの生活もある。最低限必要な場所を保つだけの労力がない神殿では、信徒の力を借りるにしても限界がある。
 ましてや、新しく従僕を雇おうとしても、裏で手を回されて差配すらままならない。
「護衛騎士ですら不在とは、物騒ではございませんか」
 荷物運びを終えたらしいユディが、空だった菓子皿に飴がけした木の実を入れつつ会話に加わった。素朴な木肌の卓の向う側、ルドラの前へ押し出すと、途端にルドラが嬉しそうな顔をする。
「これは、とても美味しそうですね。私は飴がけに目がなくて」
 一つ二つと摘まんでから、はっとしたようにユディへと視線を向ける。微苦笑を唇の端に乗せたルドラは、四十半ばを越えているだろうに若々しく見えた。
「私は、騎士でもありますのでご心配には及びません。神官となったのは、主人のオトニエル様が神殿に入られた時にお供したためです」
「そういえば、ポーラスタの国王様は祭祀長でもあらせられた」
「ええ」
 曖昧な笑みを返したルドラが、茶杯に残った茶を飲みほした。急須に手を伸ばそうとするルカに首を振って見せてから、ゆっくりと立ち上がる。
「お茶をごちそうさまでした。そろそろ中午の神事となりますので、お時間が合うようでしたらぜひご参加くださいませ」
 神殿を訪れる巡礼客に対して何百回も繰り返して来ただろう口上を述べてから、ルドラはゆっくりと礼を取った。



神殿に移ってからの生活は驚くほどに穏やかで単調だった。
 もともと神殿の生活に慣れていたせいもあるのだろうが、雪降る森の中幌車に寝泊まりする日々と比べればまるで天国と言ってもよいほどの環境の変化なのに、穏やかで、時には退屈とさえ思える時間にルカはこっそりと溜息を落とす。
 この数日の間、ユディは目抜き通りの宿や、そろそろ街に集まり始めている巡礼客で賑わう食堂の厨房へ、黒糖を卸しに出向いている。毎年アスカンタの、殊にオリハン領から馴染みの商会が赴いて必要な量を卸してくれるのだが、今年に限っては星都で大神官の就任式があるためか、例年よりも多い巡礼客のせいで黒糖の在庫が心元なかったらしく、たいした量の商いでもないにも関わらずユディは歓迎されているらしい。
 一つの宿の厨房で喜ばれて、実はあちらの店でも黒糖が足りなかった、と芋づる式に客を紹介してもらい、あちこちの店に顔を出しているのだとか。
 誠に残念ながら、ルカは外出するのを控えているためユディについてこの街の事やら旧市街の神殿の事についてあれこれと聞き出す手助けはできなかった。一度だけ、近所の雑貨店に出かけるルドラに付いていって、厩舎で干し草を食むムナンのためにカラコロと綺麗な音のする土鈴を買ったくらいしか、取り立てて思い出すような事もない。
 今日は、商いに暇の出来たユディが風呂を沸かしてくれたので、ルカはありがたく暖かい湯に浸かって真昼の沐浴を満喫している。
 神殿の浴室は狭く、水は厨から手桶で運ばなければならない等不便も大きいが、金さえ出せば巡礼客にも使用できるのがありがたい。薪代と水代は順当な金額だったので(むしろ安い、とさえ思えるのは沐浴恋しさゆえか)、ルカは嬉々として代金を支払ってユディと供に水を運んだ。
 神殿らしく白い石を切り出した浴室内は、ほんわりと暖かい湯気に満ちて、ルカは人が一人寝そべる分の大きさしかない浴槽で手足を伸ばした。木皿に乗せて浴槽の縁に置いた石鹸は、ユディが商いの途中で新しく購入した物で、うっすらと花の匂いがする質の良い品だった。王都の神殿に詣でる前に、とこの街で身支度を整える巡礼客が多いので、一定の需要があるのだろう。
「……そろそろこの神殿の巡礼宿も満室なのではないか」
「ここから北側には木賃宿が並んでおりますから、まず巡礼客はそちらへ行くと思われますが」
「そういうものだろうか」
 浴槽に寝そべって天井近くを眺めていたルカの、濡れた髪をユディが丁寧に梳く。
 浴室の天井に近い位置にある小さな窓には玻璃が入っていて、北側からの弱い陽光が室内へ差し込む。湯気に曇る室内に光の差す様は平和そのもので、数日前にいきなり暴漢に蹴り倒されたという事実が、まるで悪い夢のようにも思える。
「御身様は、神殿でのお暮しになれていらっしゃいますけれども、市井の民にとって、夜明け前の神事と夕暮れの神事に必ず参じて、供される食事が豆のスープと薄焼きパンというのは、巡礼者であっても旅先で経験したい生活ではございませんので」
「……土地の名物料理や酒なども、嗜むのが旅の楽しみだと言うしな」
 ふむふむと、もっともらしく頷いてはみるものの、今までの旅程でそれらを少しは経験したせいか、たまには神殿で敬虔な生活に戻ってみるのも悪くないと思ってしまうのは、神殿育ち故なのかもしれない。
「そういえば、カナンが毎日通ってくれるのはありがたいのですが、御身様が説教でもされているのですか?」
 浴室の端の小机の上にきちんと畳んで置いてあった麻布で、くるりとルカの髪を巻いて頭の上で畳みながら、ユディが尋ねる。神殿の奥の客室とはいえ、基本的に神殿は不特定多数が出入りする。できる限りルカが一人になる時間を減らす努力を、という事で仕事へ出る前のカナンが午前中と、午後のひと時だけ詰めてくれる事になった。毎日律儀に顔を出してくれるカナンは、最近ではすっかり神官たちとも顔見知りになって、神事で使う曲を教えてもらったりしているらしい。
「巷では流行っている俗謡とか……あと、裏声の出し方なんかを教えてくれてる」
 くすりと笑ったルカが、浴槽に両腕をかけて身体を少しだけ引き上げる。両肩の痣は痛々しく、治りかかっているのだろうが茶色がかった青紫色に、自然と暴漢への恨みが腹の底から湧き上がってくる。
「カナンが言うには、私の女装は見た目は完璧だが、声だけが難点なのだとか。それで、彼が歌物語などで使う裏声の出し方を教えてもらっていた。……結構喋れるようになった。あまり長いと咳き込むんだが」
 最後の方は少し低めではあるが見事な女声で、ユディは反応に困って少しの間身を固くした。
「……上手くできる物なのですね。御身様は器用でいらっしゃる」
「だろう? これで道中の変装が少し楽になる」
 けふ、と小さく咳をしてから、ルカが小さく笑う。
「御身様、洗い足りないところはございますか」
「いや、もう十分。……そろそろのぼせそうだから上がろうか」
 黄色と茶色と紫色をまだらに混ぜたような両肩の痕を無意識に手のひらで摩ってから、ルカは浴槽から立ち上がった。内出血の痕は、押せば少しばかり痛むが腕を動かす分には支障もなくなっているようだった。浴槽から出て床へ立った途端、待ち構えていたユディが乾いた布でルカを包む。髪はすでにあらかた水気を拭い取ってあるので、布で巻いてまとめておけばすぐに乾くだろう。
「御身様、お足元にお気をつけて」
「ユディは心配性だな。……もう眩暈などもないと言ったろうに」
 特に浴室内を暖かく感じていた訳でもないのに、居室に戻ればやはり底冷えがして、ルカは慌てて着替えを手に取った。
 だが、横に立ったユディが素早く手元の服を奪い取って、ルカを寝台の中へと押し込む。
「ルドラ神官から新しい湿布薬をいただいております。まだ服はお召しにならずにお待ちください」
「……そろそろもう、湿布はいらないのではないか」
「あと数日は、湿布をした方が治りが早いとのルドラ神官のお見立てでしたので」
「そうか」
 ぐうの音もでないくらいにしっかりと反論されてしまって、ルカは布団の中でもそもそと寝返りを打つ。逃げる間もなく布団の中に突っ込まれたせいで、巻いていた布がほとんど剥がれてしまい、わずかに引っかかった腕が動きにくい。
「毎晩ユディが本性で添い寝してくれるのだから、きっと遠からず治るのだろうに」
 特大のゴロゴロ音を子守歌に、黒く艶のある毛皮に包まれて眠るのは、怪我をしている間だけの特権だから、できればあまりすぐには治ってほしくない、というのが本音なのだ。
「念には念を!」
 騎士服の上にかけていた前掛けをそそくさと外してから、ユディはあらかじめ調合してあった薬草入りの軟膏を手札の大きさの布に塗り付ける。小さい盆に綺麗にならべるので、その意外な几帳面さにルカは微笑ましい気持ちになった。普段は言われた通りにきっちりとこなすのに、暗殺者を追い詰める時などは細かな段取りが面倒になるらしく、腕力に物を言わせて制圧する事が珍しくないので、ユディなりの線引きがあるのだろうな、とルカは考える。
 だがしかし、七年余りを供に過ごす主人であるルカにさえ、ユディの線引きの価値観の所以は、いま一つ理解に至っていないのが現状だった。
「失礼します……ほぼ脱げてますね」
「……うん」
 身体と敷布の間でくしゃくしゃになった布が引きずり出されて、あらためて上向きに寝かせられた身体に掛けられる。
 両肩の内出血の痕を見る度にユディが眉をしかめるが判っているので、ルカはなんとなく気が引けて身体を覆っている布を喉元まで引き上げた。
「御身様、少し冷たいですよ」
「……そうだった。湿布は冷たいのが信条よな」
 同じ寒がりとしては同意したいところではあるが、信条云々でもないだろう、とユディは胸中に反論する。湿った髪を巻く布を新しくして、身体にかけていた布を取れば、午後の穏やかな陽光に照らされた室内は、薪を十分にくべて暖めているというのにやはり肌寒かった。
「……つめた」
「我慢なさいませ」
 小声で抗議を申し立ててはみるものの、こういう時のユディはにべもない。剣技に打ち込んでいたユディだから、湿布も包帯巻も手慣れていて、ルカはこういう時にユディの、故郷での十五年間に思いを馳せる。妾の子として、正妻の長子らを立てつつも、抜きんでた剣の才で地元で騎士団にと望まれるくらいの実力を持っていた。
 それを、偶然地元の神官から、谷で斎王と年の近い侍従騎士を探している、というのを耳にして、遥々オリハン領の田舎町から星都へ上ったのだという。
 幸い、本人の気質が世話焼きだったせいか、すっかり侍従騎士の役目に馴染んでいるが、あるいは地元で当たり障りなく騎士を務め、そろそろ結婚でもしていた年齢なのだろうに。
 そんなふうに考えてしまって、少しならず、否、かなり引け目に思う事もあるが、本人は自分の職業については「天職です」といつも言い切っている。
「御身様、痩せられたのでは」
「……そうかな」
 小さな内出血でもあったのか、左側の腰骨辺りに湿布を貼られてから、洗濯したばかりらしい楊柳の麻衣を着せ掛けられる。
 ゆるく腰ひもを結ぶのを待ってから、敷布の上に起き上がるとユディがわずかに眉をしかめた。
「最近、食が細くなっておられます。食料ならばこの街でかなり仕入れましたので、御身様は遠慮せず食べてください」
「いや、一応きちんと足りるように食べているつもりだが」
 反論しながらも視線を反らしてしまうのは、どこかに後ろめたさがあるからだろう。このところ、きちんと食べているつもりなのに、いつもなんとなく飢餓感が付きまとう。腹一杯に食べてさえ、どこか虚ろに焦燥感が漂うので、きっとその飢えは食べ物に対する物ではないのだろう、と当たりをつけている。
 大好物の木の実の飴がけを食べても、これではない、という思いに胸の内が焦れる。わずかに、本性の姿のユディに添い寝してもらえる間だけ、満たされた気分になるので、きっとこれは谷を離れた寂しさゆえなのだろうと、なんとなく納得していた。
 だがしかし、ここまで懸命に自分を支えて来てくれた侍従騎士に対して寂しいから、などと言い出せる筈もなく、ルカは曖昧に笑って『シレギアの奥方』らしい服に着替えた。わずかに湿りを含んだ銀髪を黒紗のベールで隠して、刺繍を散らした短い円筒状の帽子を被れば、貞淑なシレギアの婦人の出来上がりである。
「さて、午後になったらユディは出かけるのだろう? 私は刺繍の続きをするかな」
「いつの間にか、ムナンの土鈴用の細帯を作っていたのですね」
 今朝、納屋で気が付きました、とユディが小さく付け加える。ルカは神官らしい曖昧な微笑みを浮かべて、少しだけ胸を張った。
「ぐるっと首を囲むように、祝福の祝詞を刺繍した。大切な旅の友なのだから、斎王の祝詞は有効だろう」
 内心で得意なのがばれたらしく、ユディが細く溜息を落とした。
「本当に、御身様は器用でいらっしゃる」
「私の特技だからな」
 楽器の演奏はやや不得手でも、刺繍の腕は本職以上、神学、薬学と気象学は教授がたが目を細めるほどに習熟して、若い中位神官としては極めて優秀ではある。だがしかし、いずれ大神官となるべき斎王として見た時に、長老院の望む資質を備えているかは、ユディにもルカにも分からなかった。
「では、私は昼食後に……」
 ユディが沐浴で使った道具を片付けつつ口を開いた時に、扉を叩く音が被る。
「ユード様、お客様ですよ」
 室内からの返答を待たずに顔を出したのは、ユディと入れ替わりに留守番を務めてくれる事になっているカナンだった。
 最近見慣れた赤の襟巻の灰色の外套姿のまま、扉の影で小首を傾げてみせる。
「なんでも、黒瑪瑙館からのお使者だそうで。ルドラ神官がお呼びです」
「……部屋に忘れ物でもしたろうか」
「いえ、発つ前にきちんと確認しましたから」
 唐突な訪問に思い当たる物がないので、ルカがぼんやりした声を出す。一瞬顔を見合わせてから、ユディが思い切り眉間に皴を寄せた。
「……ルカ様、カナンと部屋でお待ちください。私が話を聞いてまいります」
「ああ、そうだね。シレギアの奥方は、そういう席には立ちあわない物だったか」
「はい」
 カナンと入れ違いに部屋を出る、侍従騎士の少しこわばった背を眺めてから、ルカは華やかな雰囲気を持つ吟遊詩人へと笑いかけた。
「これから昼食を作るが、カナンも食べるだろう?」
 使者の話がなんであれ、戻った頃にはきっとユディは消耗しているだろう。神殿の厨房はそろそろ昼食を作り終わる頃合いだから、カナンと一緒に作るつもりだったのだ、と野菜の籠を持って見せれば、吟遊詩人はさっと腰を折って大仰な礼を返してくれた。
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