斎王君は亡命中

永瀬史緒

文字の大きさ
上 下
16 / 18

13.またしても逃亡

しおりを挟む
13.またしても逃亡


「大変よくできました」
 腹ごなしに、と教えてもらった俗謡を唄ってみれば、吟遊詩人が手放しでほめてくれる。これには、普段は感情を表に出さない訓練を積んだルカであっても、少しばかり誇らしくなってしまって胸を反らせる。
「ユディにも褒められたのだ。……楽器はさほど得意ではないが、歌はそれなりだと自負している」
「神官様がたは皆さま、お歌が上手ですよね。ルドラ神官も、朝の神事での祝詞の堂々として、立派なものです」
「まあ、それが仕事なのだから。……カナンと似たような物だよ」
「さて、私の仕事と比べては神官様に失礼かと」
 苦笑したカナンが、ルカの持っていた竪琴を取り上げて一節奏でた。確かに同じ竪琴なのに、カナンが持った途端に饒舌に音色を奏でるのだから、奏者の腕という物は恐ろしい。
 ルカは小さく溜息を落として、室内をぐるりと見まわした。神殿の巡礼宿とはいえ、多く寄進してくれる金持ち向けの部屋だから、寝台は広いしきちんと天幕もかかっている。食事をするのにも、客をもてなすのにも十分な余裕のある円卓に、詰め物をした椅子が五脚、壁際の立派な暖炉には薪がくべられて室内は暖かい。神殿の奥まった場所にある部屋だから外側への開口は小さいが、部屋の壁が白い石で出来ているので意外と室内は明るかった。
 卓上にはさきほど食べ終えたばかりの木皿が出したままで、暖炉の端には鉄鍋が置いてあった。ユディが返ってくればすぐにでも食事が出せるようにしてあるのは、一刻程経過しても彼が一向に戻ってくる気配がないからだった。
「……黒瑪瑙館の使者は、一体何の用なのだろう」
 気づかず口に出していたらしく、対面に腰かけて竪琴を奏でていたカナンが答えを探すように視線を漂わせる。
「さて、……何か金を引くネタを見つけたか、それとも謝罪にかこつけたか」
 朗々と奏でていた曲の節回しで歌うので、不穏な弾き語りのようになっている。ルカは小さく眉を顰めて、暖炉の傍に置いてあった鉄瓶から陶器の碗に湯を注ぐ。薄く切ったリモネが熱い湯の中で、清涼な匂いを放った。
「領主の親族の経営だったか。……宿泊した当日は放置していたものを、今さら謝罪でもないだろう、と思うが」
「ここからデナリ旧市街まではおよそ一日の距離」
 ルカから碗を受け取って、爽やかなリモネの香に目を細めたカナンが口を開いた。
「ルル様たちが神殿に移ってから旧市街の領主へ使いを出しても、指示を仰いで戻ってくる時間はたっぷりあります」
「……領主の指示と言うことか」
「おそらく」
 はあ、と同時に溜息を零す。デナリ旧市街に居を構える領主は、ほぼ新市街の動向には無頓着だが、美しい女を囲う事に執心しており、それゆえ新市街での憲兵どもの横暴は目に余ると、ルドラから聞いたばかりだった。
「……ああ、面倒だな。目当ては私なのか」
「むしろ、ここでルル様以外を、といわれた方が意外ですが」
「いやな事を言う」
 ぐったりと椅子の背に上体を預けて、ルカは天井を仰ぎ見た。何の因果か、『アスカンタ宮廷の華』と呼ばれた母親に瓜二つの容姿を持って生まれたせいで、本来関わらずに済むような面倒事に巻き込まれがちな人生を送って来た。
 十五になるまで侍女5名が必ず周囲を固めていたのは、何も過保護からではない。彼女らは全員が騎士の肩書をも併せ持つ手練れの竜人で、一人付いているだけで人族の男4~5名を蹴散らす事が可能なのだ。
 それを、常に3名以上での警護を義務付けていたのは、一重にルカの容貌に惹きつけられた不埒者を遠ざけるためでもあった。もとよりルカも幼少よりノルチアら侍女騎士たちに護衛術や剣技を教えられていたが、未成熟な子供の身体では成人男性を退けるのは困難だった。成人年齢である十五歳になってようやく、侍女がお傍に侍るのは不適切だからという事で(乳母のノルチアや侍女らは全員、子育てを終えた年齢ではあったが)、侍女ではなく侍従騎士と小姓らに任せられるようになった。
 だからといって、ルカを付け狙う輩が減った訳でも、危険が去った訳でもない。明日には息絶えてしまうかもしれないと危惧されて、あるいは期待されていた虚弱な竜人の子が、どうにか成人して寝込む回数も減り、十八となれば大神官の就任してしまう。この頃から、ルカは自身を付け狙う破廉恥な輩よりも暗殺者の方を警戒するようになった。
 実際に十八の年を迎えて、谷が襲撃されて逃亡する身となってからは、傍にユディが『夫』として寄り添うおかげもあって、暗殺にも不埒漢にも(ある程度は)警戒する必要がなくなって、皮肉にも穏やかな生活を送れるようになったのだ。
「……一時の平穏だったか」
 呟いた声音があまりに情けなかったのか、カナンが悲しげに肩を竦めた。
「私も、割と容姿は秀でている方だという自覚がありますが、ルル様程になりますと、なんだか一種の災厄のようですね」
 竪琴の調べに乗るカナンの言葉に、ルカは眉尻を下げる。
「集団生活において、他から抜きんで過ぎるのは何であっても災厄の一面を持つものだ」
 はあ、と溜息を落として卓上へ突っ伏した。
 ルカの場合は、他と違う面ばかりであったので、均質な部分を探す方が難しい。
 オリハン大公家の直系の子孫であること
 父なし子であること
 神降ろしの異能を持つこと
 異能者の特徴である銀の髪と銀の瞳を持っていること
 母譲りの、飛びぬけた美貌であること
 並みの職人を越える、刺繍の腕を持っていること
 そもそも、竜人である事が一般的な集団からは外れているのだ。
竜族であっても、翼竜人は、空を飛べるという特性を大事にするので、同族同士で婚姻し結束する。だが、竜人はその本性を捨てて久しいため、見た目の優美さと膂力、寿命くらいしか他の四族との違いはない。身分の高い者に竜人が多いのは、同じ身分同士で婚姻してきた結果だった。市民階級では、他の四族との婚姻の結果、竜人の特徴を失い他の四族へ組み込まれて、竜人が少なくなったと言われている。
「……私は、そういう意味ではこう、災厄のおまとめ状態だから」
「それは、お気の毒に」
 歌うように返したカナンが、新しい曲を奏で始める。
 ルカが室内であっても黒紗のベールで顔を隠しているのは、神殿で働く従僕や衛士が前触れなく客室へやってくる可能性があるからだった。見せたつもりがなくとも、ルカの容貌を垣間見て、憑かれたように一線を越えてしまう輩は過去に掃いて捨てるほどにいた。
 ルカが谷にいる限りは、ユディとイスカの二人の侍従騎士がいれば身辺の警護は十分だった。学院に出向く時には護衛騎士が付いたし、神殿内での斎王は絶対の権力を持つ。
「それが、外に出てみれば、神官なぞたいした力もない」
「それはまあ、憲兵と比べても詮無い事かと」
 ルカは胸中の一部を口に出しているに過ぎないが、そうであってもカナンの受け答えは正しい。市井の暮らしは複雑に利権と力と慣習が絡み合い、一朝一夕には読み解けない。
 星教の経典が全ての規範となる神殿内の方が、よほど明確な指標を持っているように思われた。
「……遅くなりました」
 不意に扉が開いて、廊下の冷えた空気が室内へ流れ込んだ。顔を上げれば、少しばかり疲れた顔をしたユディと、その後ろには同じような疲れた顔のルドラが立っていた。
「……終わったのか。食事は?」
「昼食は、ルドラ様と神殿の厨房でいただきました」
 ルドラに動作で席を勧めてから、ルカの隣の椅子の背を持った侍従騎士は、少し考えて茶器の方へ視線を向けた。
「いいえ、ユード様。それは私が」
 身軽に立ち上がったカナンが、暖炉にかけてある鉄瓶を手に取る。カナンは、ルカとユディが本名を明かした後も、一貫して偽名を呼んでいる。何故かと問えば、知り合ってまだ日も浅いので本名を使うのが習慣になってしまうと、いざという時に切り替えられないから、とあっさりと答えた。
 薄切りのリモネを入れた碗に、香ばしい茶を注いでからルドラとユディとに茶碗を供するカナンは、まるで貴族付の小姓のようにそつがない。
 もしかしたら、カナンはわりと良い家柄の出身なのではないか、とルカは思う。ふとした動作に隙がなく、洗練されている。本人が意識して使う役者めいた大仰な所作は、彼のお茶目な性格もあって目立ちはするが、身に馴染んでいるというにしては何かが足りなかった。
「それで、黒瑪瑙館は何と言ってきたのだろうか」
 ユディとルドラとが茶を喫するのを待って、ルカが口を開いた。茶碗を卓上へ戻したルドラが、気づかわしげな視線をユディへと向ける。
「少々、不可解な上に困った提案を黒瑪瑙館がして来たので」
 ユディの頷きを確認してから、ルドラが切り出す。
 簡単に言えば黒瑪瑙館の申し出は、玄関前とはいえ黒瑪瑙館の敷地内で奥方が怪我を負ったのだから、その賠償として毛長コルフォを一頭提供する、という物だった。
 使者は既に毛長コルフォを携えて神殿を訪れており、主人に叱られるのでどうしても受け取ってほしいと譲らなかった。
 対してユディは、自分は既に毛長コルフォを一頭所有しており、餌等の関係から2頭は必要としない、持って帰ってほしいと主張した。有体に言えば、これ以上領主の親族と関係を持ちたくなかったのだ。だが、双方どちらも自分の主張を引かず、話し合いは平行線のまま時間だけが過ぎる。
 見かねたルドラが間に入って、一旦は神殿が受け取るものの、頃合いを見て黒瑪瑙館の主人へ返す、という内容へ落ち着かせたのだという。
 もしも返すのならば、旧市街の領主へ戻してほしい、というのが黒瑪瑙館の使者の口上だったが、これにはユディは同意しなかった。勝手に持ってきて返し先を指定するのは、いかにも卑怯なやり口だと面と向かって使者を非難したのだ。
 そして、結局のところ一旦は神殿が預かること、返す場合は黒瑪瑙館に返却すること、という内容の証書を作成し、ルドラが公証人となってようやく双方の和解を見たのだった。
「これが、その証書です。黒瑪瑙館の使者、ユード殿そして私がそれぞれ写しを持っています」
 卓上に置かれた書類を、カナンが珍しそうに眺める。一般的に街の神殿の神官であれば、刑事犯罪以外の民間のもめ事を仲裁するのに慣れている。借金の証文や証書の公証をして、役所への届け出を助けるのも神官の仕事の一部であった。
「……神殿ならば証書を発行し、神官に公証されると判っているだろうに、何故わざわざこんな事をするのだろうね」
 さすがに祭祀長付きの中位神官ともなれば、ルドラの作った証書は隙がない。ユディが黒瑪瑙館の申し出を受けない事、毛長コルフォは神殿の預かりとなったことが紛れもなく記されていて、これを持ってユディを罪に問う事はまず不可能だろう。
「とはいえ、旧市街の神殿には緋衣の神官がいる。彼が領主の肩を持てば、この証書は無効とされるだろうな」
 ふむ、と呟いてから、ルカは席を立つ。入り口の壁際に積んであった木箱を探って、自分の筆記道具を引っ張り出した。
「私の名前でも証書を作ろう。……公証はなしだが、そういえば私の作った書類を公証できる者はいるのだろうか」
「ルカ様、それは誰にも要求できません」
 ぶつぶつ呟くのを、背後に立ったユディがそっと窘める。
 それもそうか、と呟いてから、ルカは円卓へと戻った。空いた席について、手早く証書を調えて署名、花押を捺印する。
「さて、これの写しを黒瑪瑙館へも届けねば。……明日にでもお願いできましょうか、ルドラ殿」
 花押を捺印するのを眺めていたルドラが、ややぽかんとした顔のままルカを見た。
「……おそらくは、と思っていましたが。やはり……」
「秘密にしてくれると、ありがたい」
 互いに表情に含みを持たせて、ひそやかに囁きを交わす。その横で、書類仕事には興味を失ったらしいカナンが、竪琴で俗謡を奏でていた。
「さて、神官様がた、お仕事はお済みでしょうか」
 一曲奏で切って満足したのか、カナンが朗らかな声を出す。
「あちらはおそらく、毛長コルフォの譲渡の正当性の有無か、それとも引き換えに奥方を、と約束した、と言いたててくると思われます。……それゆえ、ここはさっさと逃げた方がよろしいかと」
「逃げる、と?」
「ええ、因縁をつける相手がいなければ、問題も起こりますまい」
 きょとんとして顔を見合わせた神官達に、カナンが畳みかける。
「……そうと決まれば、さっそく荷物をまとめねば」
 珍しく大きな音を立てて椅子から立ち上がったユディが、片手の拳をぐっと握った。
「予定よりも少し早くなりますが、明日の朝門が開き次第王都へ向けて発ちます」
「その方が良いだろうね」
 ルカも立ち上がって、服の裾を払う。カナンが、一人椅子に掛けたままのルドラへと微笑みかけた。
「私も同行しますので。どうぞこの街の信者のご婦人方にはよしなにお伝えくださいませ」
「成程。……神官一同で皆さまの道中の無事をお祈りいたしますね」
 要は夜逃げなのだが、もっともらしく中位神官が言えばなんとなく恰好が付くようにも思われた。
「……これで、逃げ切る事が出来ればいいのだが」
 ルカは茶器を片付けながら小さく呟く。領主側が、神殿に逃げ込んだアスカンタの商人とその妻を炙り出すために仕掛けた一手ではあるが、ルドラ神官の作成した証書を無効にするためには、緋衣の神官、すなわちルカが高位神官に任命したギータ―の命令が必要となる。果たして、一領主の横暴のために高位神官がそれを行うのかが疑われた。
 だが、どちらにせよ王都へ向かうためには旧市街の近くの峠を越えねばならず、夜明け頃に門が開いてすぐに発ったとしても、峠の手前で一晩を過ごす事になるのは間違いがない。旧市街に自ら近づく事が、吉と出るか、凶となるか。
「私はあんまり運が良くないから、危ない橋は渡りたくはないのだが」
 それでも、このまま神殿に籠っているよりは問題を打開できるのではないかと思われた。ユディが全く反対しないのだから、きっと最善策なのだろう。
 そう納得して、ルカは黒紗のベールの下でこっくりと頷いた。
「では、お二方、私はこれにて。夜半過ぎにはこちらへ伺いますので」
 華麗な身のこなしで礼を取ったカナンが、灰色の外套を翻す。明日から王都に着くまでの間の、頼もしい旅の仲間の背へとルカは小さく手を振った。



「あっけない程にあっさりと出立できましたね」
「……少しばかり通行税を多めにふんだくられた気もするが」
 まあ、いいか、とユディは口の中で小さく呟く。積み荷やら幌車を引く毛長コルフォの事やらで、門番に止められるとばかり思っていたのだが、実際には全く何の引き留めもなく門を通過することができた。
 デナリ新市街は街道の重なる要ゆえ、入る時に税を課される事はないが出る時にはそれぞれの職業身分に応じて税が課される。巡礼客の弱小商人に課すには、少しばかり額が大きいのではないかと思ったが、カナン曰く王都に近い大きな街はどこもこの程度は取るのだという事だった。
 御者台に並んで座って、機嫌よく竪琴を奏でるカナンは深夜に合流したというのに綺麗に髪を巻いて、しっかりと冬の旅装を調えていた。腰の剣は細くやや短めで、小回りが利きそうだな、と思う。
「それで、ユード殿は、このカナンに義兄弟となれと?」
 やや笑い含みの声は艶やかで、軽い振り回しにごまかされそうになるが、語尾は少しばかり懐疑的な音を含む。
「……もしも、の時のために。今回の、黒瑪瑙館……いっそ領主、とするか。領主側の申し出はまず間違いなく俺とルカ様を引き離すための仕込みだろう」
「成程、ルル様の前以外では『俺』と言うのですね」
 小さく笑ってから、カナンが華やかな笑みを浮かべる。ややわざとらしい所作ではあるが、花の綻ぶような笑みは、ユディが自分の主人を見慣れていなければ心を溶かされる物であったろう。
 だが、惜しいかな、玲瓏さが足りない。
 心の内側で、主人の艶やかでありつつも凍えた月の光を帯びた、体温を感じさせない、氷の薔薇草のような微笑を思い出して、ユディは背後の幌車へとチラと視線を動かした。
「己の主には敬意を持っている」
「……左様で」
 どうやら期待された答えになっていなかったらしく、カナンが小さく溜息を落とした。
 王都までの短い旅程とはいえ、その間にどのような罠が仕掛けられているかも分からない。万が一、ルカが名目上の夫であるユディと引き離された場合に、ある程度の自由を担保するため、カナンにルカとの義兄弟の契りを交わすことを願い出たのだ。
「シレギアのご婦人というのは、なんとも不自由ですね。嫁して夫に従い、夫が不在の間は男性の親族に従う、と」
「だが、男の親族さえいれば、ある程度の身の安全は確保される。俺が傍にいなくとも、貴方が親族として夫と同等の庇護を与え、その権利を他者に主張することも可能だ」
「――ご婦人の自立を阻む仕組みですが、ルル様を独りにしない、という意味では有効ですね」
 ふむ、と顎先に片手を当てたカナンが背後の幌車を振り返る。ルカは現在のところ、昼食後の昼寝の最中だった。早朝に新市街を出立して、昼食までは幌車の中であれこれと手仕事等をしていたようだったが、昼食後にパタリと眠ってしまって、そろそろ陽が傾くこの時間になっても静かなままだった。
「それに、あのように美しい義妹が出来るのであれば、私としては異論はございませんよ」
 時折路のへこみや小石を踏んで軋む幌車の内側はまだ静かなままで、きっとユディの主は狭い寝台の上で木箱に囲まれて眠っているのだろう。お労しい、という気持ちが湧いて、ユディは低く溜息を落とした。
 本当ならば、斎王院の広い寝台でゆっくりと身体を休めて、今頃は夏至大祭の就任儀式に向けて粛々と神事や準備をこなしていた筈だろう。
「デナリ旧市街は、そろそろ一番近づいている頃合いでしょうか」
 衣装部の用意した、純白の大神官の衣を思い出してユディは盛大に嘆息する。それに、不思議そうな顔をしたカナンがやや茜色を帯びた景色を指さした。今日は一日よく晴れて、風もなく穏やかなせいか日中の移動が捗った。この分ならば、峠にさしかかるギリギリの辺りで野営して、翌朝の夜明け直後に峠を越える事になるだろう。峠の路は急峻だが、道幅は確保されているので夜が明けさえすれば、幌車での通行は難しくはない。とはいえ、無理に夜間に越えようとして、谷底へ落ちる旅行者も少なくはないらしい。
「……そういえば、ルドラ神官の前任の藍衣様も、峠の事故で亡くなられたと」
 言いながら、カナンが首を傾げる。
 冬至の日に谷が正体不明の軍に襲撃を受けてルカ達が逃げた後、襲撃の一報は思いのほか早くポーラスタ王都のオトニエルの下へ届いた。「谷襲撃、斎王は行方不明」の報を受けて、オトニエルはただちに小規模な一隊を調え谷へと向かった。そして、その道中でデナリ新市街に立ち寄ったところ、神殿の藍衣神官が峠で事故死して、新市街の神殿の機能が麻痺してしまった事を知り、ルドラを代わりとして任命し、彼を置いて谷へと向かったのだという。
 つまりのところ、祭祀長でもあるポーラスタ国王オトニエルは、ルカ達と入れ違いに谷に入ったらしい。当然その手元に神器である聖剣を携えているので、今ルカ達が王都へ向かったとて、オトニエルも、神器である聖剣もが不在なのだ。
 (だから、シェートラ師兄はイスファへ向かえ、と言ったのか)
 種明かししてしまえば、もっともな理由だったが、あの時は詳細を伏せた物言いに疑念を抱いていたために、もっとも安全な道筋を選ぶしかなかった。不在であれば、戻ってくるのを待てばよい、とルカが言ったので、ユディもそんなものか、と切り替えて、今は王都への路を急いでいる。
「新市街の規模にしては、神官の数が少ない。藍衣神官が一人だけ、というのは旧市街の緋衣の指示らしい。……そこからして、作為を感じる」
「神殿の運営には、領主は口も金も出さないのが通例ですが、さてデナリはどうなんでしょうね」
 軽やかな旋律に乗せたカナンの声は、微量の皮肉を含んでいる。白く凍った風景はいまや、すっかり茜色に染まって、雪原の影が青に沈む毎に頬に当たる風が冷たくなる。
「普通、領主に干渉された場合、神殿は猛反発するものだ。だがルドラの話を聞いていると、どうもギータ―高位神官は領主の干渉を放置しているらしい。……いや、もしかしたら、故意に見逃しているのかもしれない」
 背後から声を掛けられて、ユディとカナンとが同時に振り返る。御者台の背後の幌を片手で巻き上げて、ルカが顔を出していた。まだ少し眠いのか、半眼になっている。片手で黒紗のベールの内側の、目じりを乱雑に拭う。
「……言ってくれれば、起きて交代したのに」
「ルカ様、昨晩は旅の支度で寝るのが遅く、今朝は早かったのですから」
「だが、それは皆同じ条件だろう」
 カナンに向かって、動作で代わる、と示したようだが、カナンがゆったりを首を振った。
「いえ、ルル様。私は好意で乗せていただいている身。病身の奥方を休ませてこそ、ここで代わってはご夫君に恨まれます」
「……病身ではないんだが」
「でも、お怪我はまだ治っていませんよね」
 朗らかに、だが有無を言わせない口調に怯んだのか、ルカがすごすごと幌の内側へ戻る。カナンの、内情を知っているのに、表の身分に対する態度は完璧で、ご夫君だの奥方だのと言われると、なんともむずむずした気分に陥ってしまう。何も知らずにルカ達を若夫婦として扱う市民には感じる事のない、独特の照れくささだった。
「もう少し行ったら、峠に入る路が見える筈だ。そこを昇れば、幌車を停めて野営できるくらいに開けた場所があるそうなので、そこで一泊しよう」
「……少し、旧市街からは離れましたね」
 のんびりと御者席に座っているようで、密かに緊張していたらしいカナンが、少しだけ緩んだ声を出す。周囲の気配を伺っても、兵を伏せている気配はない。このまま、明日に峠を越えられれば、もう王都は目の前にある。
「無事に、越えられれば良いのだが」
 思わず声に出してしまい、ユディは革の手袋に包まれた片手で口を覆った。
「本当に。……この時期は、一人旅だと野営はキツくて。ご一緒させてもらって助かりましたよ」
 朗らかに返すカナンが、ちらと肩越しに幌車を振り返った。
「さて、今晩の夕飯は何でしょう。好き嫌いはないので、何でもおいしくいただけますよ」
「まずは義兄弟の契約の証に署名してもらえれば、ご希望の具材を追加するが、いかがか」
 思いがけない提案だったのか、カナンが大きく破顔する。ひとしきり笑い声を上げてから、ユディへにっこりと微笑んだ。
「では、好物のカボチャがあれば。……ですが、それがなくとも、契約は結びますとも」



 折り畳みの木工細工の椅子は二脚しかないので、木箱を一つ荷台から降ろして椅子にする。三人で囲んだ食卓は、和やかに、そして以外な静けさに満ちて、野営だというのにふんわりと暖かさをまとって過ぎる。
 峠の麓、吹き降ろす風は冷たいが、切り立った崖を壁にして幌車との間の狭い空間で火を囲んでいるからか、平原で野営するよりも風は強くない。
「……お二人とも、姿に似合わぬ健啖家ですね。人族ではないのはわかりますが、四族を伺ってもよろしいでしょうか。……ちなみに私は狐人です。この髪色なので、わかりやすい部類かと」
 大鍋一杯のカボチャ入りスープを三人で平らげた後に、カナンが湯気の立つ茶を啜りながら切り出した。
「ああ、言ってなかったろうか。義兄弟の契りを結んだのだから、知っていて当然の事だったな。……私が竜人で、ユディが大猫族、黒豹人だ」
「狗族なのは判りましたが、狐人ですか。狼人に比べて数が少ないので、そこは判別できないものですね」
 主人の手前、かしこまった物言いをするユディへ、カナンが淡く笑いかける。
「ええ、私もユード殿が大猫族だろうとは思いましたが、細かい区別はつきかねて。……ルル様の竜人というのは、髪色と瞳の色からなんとなく察しはつきましたが」
「銀の髪は四族全てに現れるが、そもそも数が少ない。銀の瞳は、これは竜人であっても稀な色だから」
 背に流していた髪を掻き寄せて肩から胸側へと落として、ルカが呟く。腰まで届く真っ直ぐな銀髪はかすかに青みを帯びて、黒紗のベールの下にあっても焚火の炎を弾いて光る。
「そういえば、大神官様は皆、そのような特徴を備えていらっしゃると昔に伺いました。殊に銀の瞳は、異能を持つ方に特有なのだと」
「その昔は、アスカンタ王家に特有の色彩だったらしい。それゆえ、アスカンタの貴族の竜人であれば、この色の瞳を持つ可能性がある」
「なるほど」
 暗に、ルカがアスカンタの貴族の出身であると示したことになったが、それはもう言わずとも、という状態ではあったので、カナンは指摘せずに小さく頷いた。
 峠に続く路の傍ら、切り立った崖を背に止めた幌車の影で焚火を囲む。風はなく、ときおり小雪の舞う夜は深々と冷えて、あと数日で春分だというのに、北の国には春の予兆すら見られない。
「……寒いな」
 小さく零してから、カナンは襟首を飾る朱赤の布を口元まで引き上げた。それにこたえるように、傍の木に繋いだムナンが鼻を震わせる。ぶわっと白い息が立ち上って、なんとなくそれを眺めていたルカが小さく微笑んだ。
「毛長コルフォでも、野営は寒いだろうな」
「彼らは、雪の下の地衣類も食べますよ」
 鼻先で雪を探るコルフォの仕草に、カナンが注釈する。食事に使った食器や鍋を片付けていたユディが、飼料の入っていた木桶をひっくり返して見せた。
「ムナンは野営でも元気なようですよ」
「すっかり空になっているな」
「明日の峠越えは、問題なさそうですね」
 三々五々声を掛けられて、答えたつもりかムナンが低く鳴く。背に積もっていた雪を身体を震わせて払い落とせば、首元の土鈴がカラコロと綺麗な音を立てた。
「少し早いがもう寝ましょう。……ルカ様、靴と外套はそのままで。帽子も、手の届く場所へ置いてください」
 焚火を燃えさしで叩いて火を落としたユディが、食器を片付けるルカへと声を掛けた。カナンは、幌車と路との間に改めて焚火を熾して、椅子を一つ傍らへ据える。
「今晩は、さすがに見張りが必要でしょう。まず私が立ちますので、お二人は休んでください」
「いや、それなら私が。夕方眠ったから、まだ眠くない」
 ルカは張り切って見張り番を申し出るが、当然のようにユディが渋い顔をした。
「ルカ様、一番守られるべき方が先頭立って見張りをするべきでしょうか。むしろ、幌車から出てこない方が……」
「……うん?」
 おそらく自分が先に見張りをするつもりだったカナンが、ようやく明るい炎を上げたばかりの焚火の前に据えた椅子からすっと立ち上がる。幌車の出入口の幕を上げて、ルカを手招きしていたユディもが剣を抜いて路沿いへと切っ先を向けた。
「ルカ様、合図したら林の中へ、西南の方向へお逃げください」
「……何人だ?」
 じり、と足を動かして凍った雪を踏みしめてユディの傍へ立つ。身体を開いて、デナリ旧市街の方向へと対峙したユディが視線を固定したまま囁いた。
「三人……いえ、これは」
「全部で五人、ですね」
 峠の方角へ、短めの細剣を向けたカナンが断言した。幌車の背後は切り立った崖、そして路の向う側もまたなだらかに広がる森とはいえ斜面になっている。街から遠いからか、人の手もあまり入ってはおらず、夜であれば獣路すら定かではない。
 刺客らしい殺気の元は、おそらく途中までは街道沿いにルカ達を追って来て、野営のために車を停めた後に街道沿いの林の中へ散ったものと思われた。
「……っ!」
 キン、と耳障りな甲高い金属音がして、黒っぽい短剣が弾き落とされる。ルカは、ユディの背に庇われたまま小さく息を呑んだ。ユディは最小限の動きで飛んできた短剣を弾いて、毛織の袖なしの外套を大きく払う。
 その仕草に合わせたように、カナンが焚火を踏んで消した。途端に、辺りが暗闇に落ちる。
 青白い雪の向うに、不吉な影のごとく滲む黒装束が垣間見えて、ユディが大きく一歩を踏み出した。何か叩くような音が間近で聞こえて、ルカは腰帯に下げた短剣の束に手を掛けた。
「一人倒した!」
 幌車の先、峠側の路に違い場所でカナンが宣言した。直後に激しくぶつかる金属音が聞こえて、さらにもう一人と交戦中だと判った。
「こちらも一人倒した。あと三人……っ!」
 夜の闇の中であっても、ユディには刺客の位置がはっきりとわかっているようだった。パッと走り出て剣を振り下ろし、さらに別の方向へと切っ先を向ける。
「ルカ様!」
 押し殺した声音に、ルカは路の向う側のなだらかな森へと走り出した。背後から、少し軽い足音が追いすがったが、それも森へ走り込んで少しした頃に止んだ。より近くにいたカナンか、それともユディかのどちらかが足止めしてくれたようだった。
 とりあえず今のルカの仕事は、殺気の、というか人気のない場所まで逃げて身を隠し、事態を収めたユディの迎えを待つ事だった。
 途中までは藪を越え、雪を踏みしめて走り、ある程度距離が離れてからは木に登り、針葉樹の枝の間を飛んで移る。
 瞬発力ならば四族の中では上から数えられるものの、肝心の持久力に欠けるため戦闘には向かない、それが竜人だった。膂力と脚力はすばらしいが、持続性という点では狗族には遠く及ばないし、また跳躍では大猫族には適わない。
 要するに、中途半端に強い、それが竜人なのだった。
 凍るような空気が喉を刺して、吐く息が胸を絞って汗が背筋を流れ落ちても森の奥へと進んで、そうして辺りがすっかり静まりかえってしまった頃に、ようやくルカは動きを止めた。荒く激しい息をひそめて、大木の幹に縋ったまま追っての有無を確かめる。
 どれくらいの時間が経ったか、ようやく身の安全を確信して、ルカは大きく息を吐いた。背を流れ落ちる汗が冷えて、手袋を着けない指先が凍えて痛む。
「……っ」
 手袋は外套のポケットに入っていた筈、と幹から手を離した途端、均衡を失った身体が、真っ逆さまに枝から落ちる。
「………っく、うぅ」
 大量に雪の落ちる音、そして藪の枝が折れる音がして、ルカは大木の根元の藪の中に倒れ込んでいた。
 痛い、と口の中だけで呟くと、周囲の静けさが殊更に際立った。しばらくは藪に落ちた体勢のまま、ルカはじっと耳をそばだてる。
 小さな生き物の気配すらなく、ただ細かい雪の降り積もり、ときおり枝から雪の塊が落ちる音だけの森は、実際よりも深く広く感じられる。
 横向きに藪に落ちたルカは、手足に順に力を入れて自分の身体に問題がないことを確かめた。そして、森の奥からほとほとと、獣の足音が近づいている事にも気づく。
「……誰、かな……」
 もつれた髪を掻き寄せて、脱げかけた帽子を被ってから顔を上げれば、そこには爛々とした金の瞳の、大きな狼が佇んでいた。
しおりを挟む
1 / 5

この作品を読んでいる人はこんな作品も読んでいます!

悪役令息(冤罪)が婿に来た

恋愛 / 連載中 24h.ポイント:1,924pt お気に入り:33

婚約者の義妹に結婚を大反対されています

恋愛 / 連載中 24h.ポイント:61,757pt お気に入り:4,966

オネェな王弟はおっとり悪役令嬢を溺愛する

恋愛 / 連載中 24h.ポイント:31,519pt お気に入り:2,784

わたくし、前世では世界を救った♂勇者様なのですが?

ファンタジー / 連載中 24h.ポイント:454pt お気に入り:775

あなたに愛や恋は求めません

恋愛 / 連載中 24h.ポイント:101,403pt お気に入り:8,901

王妃となったアンゼリカ

恋愛 / 連載中 24h.ポイント:137,082pt お気に入り:8,176

やらかし婚約者様の引き取り先

恋愛 / 連載中 24h.ポイント:817pt お気に入り:17

処理中です...