恐怪奇譚

炯~Kay

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第肆譚

【濡れ女】

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今も、波音を聞くと、あの夏の夜が頭をよぎります。
これは、私が5歳のときに体験した、ほんとうにあった話です。
家族で海辺のキャンプ場に行ったときのことでした。

その場所には「千×岩」と呼ばれる大きな岩場があって、
夕暮れには、広い岩の上で花火をするのが恒例でした。
私たちも、夜になると家族みんなでそこへ行きました。

岩の上はほんのり湿っていて、潮の香りが強かったのを覚えています。
パチパチと花火が弾けるたび、波音がその下から押し寄せてきて……
けれど、しばらくすると、母が洗い物に戻り、
父が荷物を片付けに行き、私は一人、車で待つことになりました。

車の中は、静かでした。
エンジンは切られ、ライトもついていない。
窓の外には、大きな石碑がぽつんと立っていました。

……そのあたりからです。
外から、「ピチャ……ピチャ……」と不気味な水音が聞こえてきたのは。

最初は波の音かと思いました。
でも、それはもっと近くて、もっと……重い音でした。
何かが、濡れた足で地面を踏みしめているような音。

私は、怖いもの見たさで、そっと窓の外を覗きました。

海の方から、白い人影が歩いてくるのが見えました。
青白い顔、濡れた長い髪、だけどあたりが暗くて表情は見えないけど。
細い、白いワンピースを着た女の人だとわかりました。

……その服も髪も、びしょ濡れで、地面に水が滴っていました。
裸足の足元から、ピチャ、ピチャと、水音が増していきます。

怖くて声が出ませんでした。

けれど、もっと近くを見たとき――
その女の身体に、何か“ついている”のが分かりました。

腕に、真っ黒な海藻が絡みついていて、身体のあちこちにフジツボがいくつもこびりついていました。
まるで長いあいだ、海の底にいたような……

「……!」
「見ちゃいけない、見ちゃいけない」

そう心の中で何度も唱えながら、私は息を呑んで、座席の中に体を縮こませました。

そのときです。
車のドアが、バタン!と大きな音で開きました。

「ただいまー、寒くなってきたな!」

父の声でした。
母も後ろからやってきて、笑いながら花火の後片付けの話をしていました。
父と母が帰ってきたことで安心しましたが、私は震える指で、もう一度、後ろを振り返りました。

……女の姿は、もうどこにもありませんでした。

あの水音も、消えていました。


数日後、祖父の家を訪ねたとき、
何気なく「千畳岩で怖い女の人を見た」と話したところ、祖父の顔が少しだけ曇りました。

「……あそこには、石碑があったろう? あれは、昔の海難事故の供養碑だ」
「事故……?」
「ああ、子どもが波にさらわれる事故が何度か続いてな……。
 それで、あの石碑が建てられた。見張るようにな……」

祖父は、それきり話さなくなりました。
でも最後にこう言いました。

「その女は、きっと“濡れ女”だろう。
 海に還れなかった魂が、今は子どもを守る側になったんだよ。
 ……怖かったかもしれないが、悪さはしない。
 むしろ、お前を“連れていかないよう”に、見張ってたんだ」

私はうなずくしかありませんでした。
でも、思い出すたび、あの濡れた足音が耳に残ります。

もし、家族がもう少し遅れていたら。
もし、私があの時、車のドアを開けてしまっていたら――

私は、どうなっていたのでしょうか?

あの女の冷たい目と、じっとした静けさが、
今でも夜、夢の中で私を見つめています。

ただ、一つだけ思うのです。

あの夜、私は確かに、守られていたのだと。
闇に浮かぶ石碑の前、海に還れなかった女の霊は――
私に、あの夜を忘れるなと、教えてくれたのかもしれません。
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