恐怪奇譚

炯~Kay

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第伍譚

【手招き】

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あれは、何気ない一日になるはずだったのです。

朝、目が覚めて、制服に袖を通しながら、ふとこう思いました。

——今日は、学校に行きたくないな。

理由は思い出せません。
ただ、体のどこかが重く、心の奥でなにかが囁いていた気がします。
結局、私はスクールバックを置いたまま、こっそり家を出てしまいました。

行き先は、いつもの通学路。
でも、その日はなぜか、足が反対方向に向いていました。

川沿いの細い遊歩道。ゆるやかな風が吹いて、草の匂いが鼻に届きます。
地元の大きな公園を通り過ぎたところまでは、はっきり覚えているんです。

でも、その先の記憶が、曖昧で……
気づけば、私は古びた病院の近くまで来ていました。

廃業してもう何年も経つはずのその病院は、今でもガラスが割れたままで、どこか人の気配を拒んでいるように見えました。

そのときです。

ふと視線を川のほうに向けると、水面に、“白いもの・・・・”が浮かんでいました。

いえ、浮かんでいたのではなく、「生えて」いたのです。

“白い手”が、水面からにゅっと突き出し、ゆっくりと動いている。
その手が、私に向かって……“手招き”をしていました。

「……っ」

声も出ませんでした。怖い、と思う前に、私はふらふらとその方へ歩き出していたのです。

まるで、夢の中のようでした。
頭がぼうっとして、足が勝手に動いて、心がどこか遠くに置き去りにされているような。

川辺の泥がじくじくと足元を湿らせ始めたとき——

(ブブッ……!)

ポケットの中のスマホが震えました。

それは、母からの電話でした。

「学校から連絡があったけど、あんた今どこにいるの!?早く帰ってきなさい!」

その声で、私は“ハッ”と我に返ったのです。

気づけば、あと数歩で川に足を踏み入れるところでした。

私は慌てて引き返し、家に帰りました。
母は私を見てすぐ、「どうしたのその顔」と言いました。
そして——怒りました。泣きながら、怒りました。

でも、私はそのとき……妙に“冷静”だったのです。

「うるさいな」
「いちいちうざいんだよ」

そんな言葉が、自然に口から出ていました。

今思えば、それは“私の言葉”じゃなかった。
“私”のままじゃ、あんな口のきき方は、しないはずだったのに——。

あとから母が言いました。

「その日のあんたは、“まるで別人”みたいだった。目が虚ろで、顔の表情もなくて。あれは本当に、あんただったの・・・・・・・?」

私はただ、黙ってうなずくしかありませんでした。
その日の記憶は、今もあやふやです。

でも、ときどき、あの川を通ると……
“誰かが呼んでいるような気配”がするのです。
それは決して、耳で聞こえる音ではありません。
もっと深いところ、心の底で、小さな手が私を引こうとしている。

——あの日、もし電話がなかったら。

——あと一歩、川に入っていたら。

私は今ここに、いなかったかもしれません。

いや、それよりも怖いのは……
今の私は本当に、“あの日の私”と同じ存在なのだろうか?

ふと鏡を見ると、自分の目が、ほんの少し濁って見えるときがあります。

まるで——水底に沈んだ目のように。
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