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第四章「花のように」
(10)罪花
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俺は、本当に善いものを選ぶことができたのだろうか。
植物園のベンチに座り、手元の黒い本を眺めた。
母の葬儀はつつがなく終わった。面倒な手続きは全て祖父母がやってくれた。父も母も兄弟はおらず母の両親は既に他界している。俺に残された唯一の肉親が父方の祖父母だった。二人は母とは折り合いが悪く、生前はさほど交流もなかった。しかし非常時にそんな関係を持ち込むほど頑なでもなかった。母が倒れたときは入院の諸手続きに手を貸してくれたし、今回の葬儀も同じだった。余計な小言は何一つ言わず淡々と準備を進めてくれた。
おかげで大きな区切りをつけることができた。
実生活のことを考えれば問題は山積みで先行きは不透明なことこのうえない。けれど何もかも片付いてしまったような、そんな心境だった。それだけ母の病気は大きかった。
「貴方が望めば、母親を蘇らせることもできるのよ?」
あの悪魔は、厭らしく唇を歪めた。
その提案に心が動かされなかったと言えば嘘になる。けれど、それができればそもそも母を死なせはしなかっただろう。母のことは、もうそっとしておかなければならないのだ。
深井の婆さんも母と同じ日に死んだ。亡骸は婆さんの知人が引き取ったらしい。昔婆さんの世話になったひとだと片山の爺さんが教えてくれた。
「あの婆さんも昔はあんなひとじゃなかったんだとよ」
片山の爺さんはいつものように待合室で暇を持て余していた。
「人が変わっちまったのは一人息子を自殺で亡くしちまってからって話だ。おれも詳しいことは知らねえがよ。世の中の何もかもが信用できなくなっちまうぐらいつれえことだったんだろうなァ」
それを聞いたとき、俺は自分の選択が正しかったのだと……善い選択ができたのだと、少しだけ救われたような気持ちになった。
「坊主も今はつれえだろうがよ。世の中を恨むような人間にはなるなよ。他人を恨んだり、何かに怒ったりつーのはよ、そりゃあそいつにとっちゃ正しいことさ。悪いのはあいつだ。俺は間違っちゃいないってな。怒りってのは自分の正しさを確認するための作業なんだ。でもよ、その正しさはお前を幸せにしちゃくれねえよ。胸糞悪ィ気分が死ぬまで延々続くだけだ」
片山の爺さんは、コーヒーの缶を煽り、にやりと笑った。
「それよりも笑え。花が満開に咲くみてえにな。どうせ人生後も先もねえんだ。ぱっと散るまで笑っていられりゃ、それだけそいつの勝ちよ」
そして爺さんは隙間だらけの歯を溢した。俺は、爺さんみたく笑うことはできなかったけれど、きっと元気を貰ったのだと思う。素直に礼を言うことができた。
それから俺は、病院のひとたちに世話になった挨拶をした。冬川先生は「今までよく頑張った」と涙ぐんでくれた。看護師のひとたちは「身体には気を付けて」と肩を叩いてくれた。桑原のお姉さんは「寂しくなるね」と飴をくれた。そして、
「七尾さん」
顔を上げた。穂乃花だった。ベンチから少し離れたところで神妙に唇を結んでいた。彼女は身体の前で両手を重ね「このたびは」と頭を下げた。俺も同じように礼を返した。
「ありがとう。おかげさまで……って言うのも変だけど、良い最期を迎えることができたよ。たぶん良い最期だった」
「そうですか。七尾さんがそう仰るのなら、きっとそうなんでしょう」
穂乃花は、表情を緩めた。
「これから、どうなさるんですか」
「まずは引っ越し、それから転校の手続きかな。しばらく祖父さんの家で世話になると思う。すぐにでも働かなきゃいけない身分なんだろうけど、せめて高校ぐらいは出とけってうるさいから」
「もう会うのも難しくなりますね」
「だろうね。色々ありがとう。君と話せて楽しかったよ」
「こちらこそ」
そうして互いに握手を交わした。
そこでふと、あることに気付いた。
「君のお母さんにはまだ一度も会ったことがなかったね」
穂乃花は「そう言えば」と口許に指を添えた。
「お互いバタバタしてましたからね。私も七尾さんのお母さまには会えずじまいでした」
「出る前に一度お見舞いに行っても構わないかな。これも何かの縁だろうから」
穂乃花は「ええ、もちろん」と目を細めた。
「母も喜ぶと思います」
穂乃花の母親の病室は西棟の三階だった。目的地までの数分間、俺たちは他愛のない会話に花を咲かせた。読書家の穂乃花は、俺が持っている黒い本に興味津々だった。日記みたいなものだと適当に誤魔化しつつ、どうやってこの本を返そうかと今さらながら頭を抱えた。持ち出した際の記憶はないが、今のところ問い質されてもいない。もしかしたら承諾を得て借りていることになっているのかも知れない。
穂乃花には『月の川』も返さなくてはならない。本は自宅に置いてある。穂乃花とも、もう一度くらいは会う機会があるだろうか。
取り留めのない考えが浮かんでは消えるうちに病室に辿り着いた。
「お母さん、お客様ですよ」
穂乃花が眠る母親に呼びかけた。反応はない。当然だ。穂乃花の母親はもう目覚めないのだから。それでも彼女は、まるで起きているかのように話しかける。不思議な光景だった。もう二度と母親と話すことができないのは俺も穂乃花も同じだ。けれど俺はもう母に何かを語りかけることはない。穂乃花は自然にそうしている。
生と死の間には、それほどまでに大きな隔たりがあるのだ。
そんなことをぼんやり思った。
「紹介しますね。お友達の七尾優一さんです」
どうも初めまして、と言えば良いのだろうか?
ベッドに近寄り、顔を覗き込んだ。その瞬間だった。
全身から汗が噴き出した。
父の死や、母の病名を知らされたときのような……足元から百足が這い上がってくるような、そんな怖気に襲われた。寝台の手すりを掴み震える脚の支えにした。間もなく胸に痛みを覚え、呼吸を停めてしまっていたことに気が付いた。浅く、短く、息を継いだ。
「……七尾さん?」
穂乃花が怪訝そうに呟く。慎重に唾を呑み、その貌を凝視した。穂乃花は怯えた様子を見せたが気にかけてやれる余裕はなかった。
渇く舌を、辛うじて動かした。
「穂乃花、君は確か、両親が離婚したと言っていたな」
「……ええ、半年ほど……前に」
「前の姓は、市条って言うんじゃないか……?」
穂乃花は「どうしてそれを……?」と目を見開いた。それで充分だった。確信を得るには充分だった。再び穂乃花の母親を見下ろした。
間違いない。見間違いでも、他人の空似でもない。間違いなくこの女だ。
市条菫。
父さんの、上司だった女だ。
植物園のベンチに座り、手元の黒い本を眺めた。
母の葬儀はつつがなく終わった。面倒な手続きは全て祖父母がやってくれた。父も母も兄弟はおらず母の両親は既に他界している。俺に残された唯一の肉親が父方の祖父母だった。二人は母とは折り合いが悪く、生前はさほど交流もなかった。しかし非常時にそんな関係を持ち込むほど頑なでもなかった。母が倒れたときは入院の諸手続きに手を貸してくれたし、今回の葬儀も同じだった。余計な小言は何一つ言わず淡々と準備を進めてくれた。
おかげで大きな区切りをつけることができた。
実生活のことを考えれば問題は山積みで先行きは不透明なことこのうえない。けれど何もかも片付いてしまったような、そんな心境だった。それだけ母の病気は大きかった。
「貴方が望めば、母親を蘇らせることもできるのよ?」
あの悪魔は、厭らしく唇を歪めた。
その提案に心が動かされなかったと言えば嘘になる。けれど、それができればそもそも母を死なせはしなかっただろう。母のことは、もうそっとしておかなければならないのだ。
深井の婆さんも母と同じ日に死んだ。亡骸は婆さんの知人が引き取ったらしい。昔婆さんの世話になったひとだと片山の爺さんが教えてくれた。
「あの婆さんも昔はあんなひとじゃなかったんだとよ」
片山の爺さんはいつものように待合室で暇を持て余していた。
「人が変わっちまったのは一人息子を自殺で亡くしちまってからって話だ。おれも詳しいことは知らねえがよ。世の中の何もかもが信用できなくなっちまうぐらいつれえことだったんだろうなァ」
それを聞いたとき、俺は自分の選択が正しかったのだと……善い選択ができたのだと、少しだけ救われたような気持ちになった。
「坊主も今はつれえだろうがよ。世の中を恨むような人間にはなるなよ。他人を恨んだり、何かに怒ったりつーのはよ、そりゃあそいつにとっちゃ正しいことさ。悪いのはあいつだ。俺は間違っちゃいないってな。怒りってのは自分の正しさを確認するための作業なんだ。でもよ、その正しさはお前を幸せにしちゃくれねえよ。胸糞悪ィ気分が死ぬまで延々続くだけだ」
片山の爺さんは、コーヒーの缶を煽り、にやりと笑った。
「それよりも笑え。花が満開に咲くみてえにな。どうせ人生後も先もねえんだ。ぱっと散るまで笑っていられりゃ、それだけそいつの勝ちよ」
そして爺さんは隙間だらけの歯を溢した。俺は、爺さんみたく笑うことはできなかったけれど、きっと元気を貰ったのだと思う。素直に礼を言うことができた。
それから俺は、病院のひとたちに世話になった挨拶をした。冬川先生は「今までよく頑張った」と涙ぐんでくれた。看護師のひとたちは「身体には気を付けて」と肩を叩いてくれた。桑原のお姉さんは「寂しくなるね」と飴をくれた。そして、
「七尾さん」
顔を上げた。穂乃花だった。ベンチから少し離れたところで神妙に唇を結んでいた。彼女は身体の前で両手を重ね「このたびは」と頭を下げた。俺も同じように礼を返した。
「ありがとう。おかげさまで……って言うのも変だけど、良い最期を迎えることができたよ。たぶん良い最期だった」
「そうですか。七尾さんがそう仰るのなら、きっとそうなんでしょう」
穂乃花は、表情を緩めた。
「これから、どうなさるんですか」
「まずは引っ越し、それから転校の手続きかな。しばらく祖父さんの家で世話になると思う。すぐにでも働かなきゃいけない身分なんだろうけど、せめて高校ぐらいは出とけってうるさいから」
「もう会うのも難しくなりますね」
「だろうね。色々ありがとう。君と話せて楽しかったよ」
「こちらこそ」
そうして互いに握手を交わした。
そこでふと、あることに気付いた。
「君のお母さんにはまだ一度も会ったことがなかったね」
穂乃花は「そう言えば」と口許に指を添えた。
「お互いバタバタしてましたからね。私も七尾さんのお母さまには会えずじまいでした」
「出る前に一度お見舞いに行っても構わないかな。これも何かの縁だろうから」
穂乃花は「ええ、もちろん」と目を細めた。
「母も喜ぶと思います」
穂乃花の母親の病室は西棟の三階だった。目的地までの数分間、俺たちは他愛のない会話に花を咲かせた。読書家の穂乃花は、俺が持っている黒い本に興味津々だった。日記みたいなものだと適当に誤魔化しつつ、どうやってこの本を返そうかと今さらながら頭を抱えた。持ち出した際の記憶はないが、今のところ問い質されてもいない。もしかしたら承諾を得て借りていることになっているのかも知れない。
穂乃花には『月の川』も返さなくてはならない。本は自宅に置いてある。穂乃花とも、もう一度くらいは会う機会があるだろうか。
取り留めのない考えが浮かんでは消えるうちに病室に辿り着いた。
「お母さん、お客様ですよ」
穂乃花が眠る母親に呼びかけた。反応はない。当然だ。穂乃花の母親はもう目覚めないのだから。それでも彼女は、まるで起きているかのように話しかける。不思議な光景だった。もう二度と母親と話すことができないのは俺も穂乃花も同じだ。けれど俺はもう母に何かを語りかけることはない。穂乃花は自然にそうしている。
生と死の間には、それほどまでに大きな隔たりがあるのだ。
そんなことをぼんやり思った。
「紹介しますね。お友達の七尾優一さんです」
どうも初めまして、と言えば良いのだろうか?
ベッドに近寄り、顔を覗き込んだ。その瞬間だった。
全身から汗が噴き出した。
父の死や、母の病名を知らされたときのような……足元から百足が這い上がってくるような、そんな怖気に襲われた。寝台の手すりを掴み震える脚の支えにした。間もなく胸に痛みを覚え、呼吸を停めてしまっていたことに気が付いた。浅く、短く、息を継いだ。
「……七尾さん?」
穂乃花が怪訝そうに呟く。慎重に唾を呑み、その貌を凝視した。穂乃花は怯えた様子を見せたが気にかけてやれる余裕はなかった。
渇く舌を、辛うじて動かした。
「穂乃花、君は確か、両親が離婚したと言っていたな」
「……ええ、半年ほど……前に」
「前の姓は、市条って言うんじゃないか……?」
穂乃花は「どうしてそれを……?」と目を見開いた。それで充分だった。確信を得るには充分だった。再び穂乃花の母親を見下ろした。
間違いない。見間違いでも、他人の空似でもない。間違いなくこの女だ。
市条菫。
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