トレード・オフ

大淀たわら

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第四章「花のように」

(11)花のように

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「どうして、オレがあそこまで言われなきゃいけないんだ……」
 深夜に帰宅した父が、ビールを煽りながらそう愚痴っていたのを聞いたことがある。いや、愚痴よりももっと根深い……心に負った傷の痛みや、苦悶を吐き出すような重みがあった。母は父の不平に黙って頷いていた。そのときはまだ事態を深刻に捉えていなかった俺は、父が何に対して不平を漏らしていたのか分かっていなかった。ただ、父が自分のことを『僕』ではなく『オレ』と言ったことが何だかとても恐ろしかった。
 父は、一体どれほど苦しんだのだろう。
 縁側に座り、想像に耽った。父が猫と日向ぼっこをしていた縁側だ。可愛がってくれるひとがいなくなったからか、コンという名のその猫は、父が死んだあともしばらくは家に居ついていたが、段々と外へ出歩く時間が多くなり、やがて道端で轢き殺されているのが見つかった。ろくに弔ってやることもできなかった。
 俺は、必要なものをバッグに放り込んだ。財布。携帯。穂乃花から借りた文庫本。そして包丁。自転車に跨り駅へ向かった。西へ向かう電車に乗り込み、流れる景色を虚ろに眺めた。
 父は、会社の便所で泡を吹いて死んでいた。上司の女に一時間近く罵倒された直後のことだった。聞けば、それは日常的な光景だったらしい。大勢の同僚、そして部下の目に曝されながら、父は自らの力量不足を延々となじられた。いかに自分が無能であるか。いかに勉強不足であるか。いかに組織に貢献できていないか。いかに同僚に迷惑をかけているか。それは最早指導の域を越え、暴力と形容すべきものだった。父は恥辱に震えながら、そんな時間をひたすら耐えた。文字通り死ぬまで耐え続けたのだ。
 父は、一体どれほど苦しんだのか。
 想像を巡らせても、哀しくなるだけだった。
 父が死んだあと、会社の幹部連中、そして直属の上司だった女が母の元に謝罪に訪れた。女は市条菫を名乗った。そのときの市条は気落ちしているような、しおらしい面をしていた。まるで自分が被害者であるかのような面だった。
 同席は許されなかった。だから母と市条の間で、どのような会話が交わされたのかは知らない。だが結果的に母は会社と市条の責任を問うような訴えは起こさなかった。父の死は自然死として扱われ、市条の罪は不問となった。
 納得できなかった。あの女がいなければ父は死ななかった。父が死ななければ母が死ぬこともなかった。俺たちの家族は何も変わらず、ずっと幸せな日々を過ごせていた。独り寂しく晩飯を食べることも、思い出の詰まった家を離れることもなかった。将来の様々を諦める必要もなかった!
「絶対に、許さない」
 固い手すりを、潰さんばかりに握り締めた。
 電車を降り病院へ向かった。面会は夜の八時まで。穂乃花は直前まで病室で過ごすがバスの出発に間に合わせるため十五分前には病院を出る。見回りの看護師が来るまでに事を済ませるのは難しい話ではない。植物園のベンチに座り、その時が来るのをじっと耐えた。
 花壇には白百合が咲いていた。母が育てていた花と同じものだ。あのとき目にした花の鮮やかさは今でもよく覚えている。記憶の庭で咲く花は、時が経つに連れて一層美しさを極めていくようにすら感じる。
 あのとき俺は、母と何を話しただろう?
 意識が、懐かしさの中に溶け込んでいった。ゆっくり、ゆっくり溶け込んでいった。陽の当たる縁側。母の手の感触。夕方の特撮番組。三人で囲んだ食卓。そして……。
 気付けば景色が一変していた。室内を見回し、自分の立っている場所を確かめた。鼻を衝く薬品の匂いと大袈裟な機材。ベッドの上で眠る女。
 市条菫。
 俺は自らの目的を思い出そうと柄を握る手に力を込めた。
 俺は、この女を殺さなければならない。
 頸元に目をやった。母とは違って齢相応に張りのある肌だ。表面には血管の筋が浮かんでいる。そこに刃を添えた。市条は何の反応も示さなかった。あのときと同じようにまるで他人事のような貌をしていた。
 母は、本当に善いものを選べと言った。
 爺さんは、人を恨むなと言った。
 だがそんなことは可能だろうか? 心に喜びや愛情が存在するのなら、同時に怒りや憎しみを抱くのが人間というものではないだろうか?
 その証拠が、この女の有様だ。市条菫は一人の部下を自殺に追い込んだ。彼には妻も子供もいなかったが唯一年老いた母親がいた。愛する我が子を喪った母親は、息子の無念を晴らすために憎き仇を滅多刺しにした。それは正当な復讐の権利であり、正当な憎しみの発露だった。正しい人間の在り方だった。
 ならば、この女は何だ?
 モロクだ。この女こそがモロクなのだ。母親の涙と、子供の血で汚れた悪魔だ。
 穂乃花はそれを隠していた。公言できることではなかったし、穂乃花自身とても信じられなかったのだ。母親が人の恨みを買って殺されかけたなどと。穂乃花にとって市条菫はどこまでも優しい母親だった。
「ふざけるな……」
 刃を持つ手が戦慄いた。
 加減を間違えば、すぐにでも頸動脈を断ち切ってしまいそうだった。
「ふざけるなよ市条菫。穂乃花があんたのことを何て言ってたか知ってるのか。優しいひとだって……厳しいけど世界一優しいお母さんだって、そう言ってたんだぞ……? 穂乃花の話を聞いて、俺もあんたのことを好きになりかけてた。うちの母さんとは全然違うけど、きっと素敵なひとなんだろうって。そう思ってた。それが、何だ?」
 市条菫は答えない。
 口が歪むのを抑えられなかった。
「あんた一体何を考えてたんだ? 穂乃花の前では優しい母親を演じながら昼間は父さんを罵ってたのか? 穂乃花に猫撫で声を聞かせながら、俺の父さんを恫喝してたのかよ。死ぬまで虚仮にし続けたのかよ。何だよそれ? ふざけるな。ふざけるなよ市条菫。どうしてそんな残酷なことができたんだ。あんただって知ってたはずだろ? ひとに優しくすることが……ひとを愛するってことがどんなに大切かって知ってたはずだろ!? どうしてその気持ちを、欠片でも……欠片でも父さんに……ッ」
 返答はなかった。
 声は、空っぽな部屋のどこかへ吸い込まれた。
 静かに息を吸った。
「……それとも、あんたにとってはそれが正しいことだったのか? 責任のある立場になって、あんたは、少しでも組織に貢献するために……愛する娘を守るために悪魔を演じなきゃならなかったのか? それが正義だと思い込まなきゃやってられなかったのか? でも、その結果はどうだ? あんたは刺されてくたばりかけてる。それで穂乃花がどれだけ悲しんだか知ってるのかよ。大好きなお母さんがこんなになっちまって、どれだけ泣いたか知ってるのかよ。あんたがいなくなって、これからどんな人生を歩んでいかなきゃいけないか知っているのかよ」
 胸の内側で、熱いものが膨らんだ。
「バァ――――カ! 全部自業自得だ! 全部お前の暴力が招いた結果だ。俺の父さんを殺した罰だ! 俺の家族を滅茶苦茶にした報いだ! それが返ってきたんだ! あんたはもう何もできない! 娘と好きな本を語り合うことはできない! 一緒に出かけることはできない! 喜ぶ顔を見ることはできない! 抱き締めることはできない! 頭を撫ででやることはできない! 全部できない! あんたはそのままだ。死ぬまでずっとそのままだ! そこで糞を垂れ流しながら愛する娘が不幸になっていくサマを延々眺め続けてろ!」
 叫んだ。
「すずりッ!」
 悪魔の姿は、母が死んだ夜から見ていない。けれど、いると思った。呼べば必ずいると思った。その確信のとおり「怒鳴らなくても」と声が響いた。
「聞こえているわ、七尾優一。このすずりに何か用かしら?」
 つくづく腹の立つ女だ。
 悪魔に用など一つしかない。
 それを伝えるために声を振り絞った。
「こいつを……!」
 一言。必要なのは端的な一言だ。しかしそれは何よりも困難な一言だった。震える奥歯が情けなく音を立てた。食い縛り、瞼を潰した。その隙間から涙が溢れていた。涙と鼻水が一緒くたになって肌を濡らした。俺は、むせび泣き、頸元から刃を離した。
「……このひとを、たすけてやってくれ」
 刃が虚しく床で跳ねた。刃先の触れていた頸元から微かに赤く血が滲んでいた。
 赤い血。流れ出た魂の一部。生きていることの、その証。
 悪魔が、問いかけてくる。
「貴方は、それで構わないの?」
「……ああ、構わない」
「代償は?」
 目元に腕を押し当てた。硬い骨の感触が返ってきた。その硬さこそが七尾優一という存在を形作っていた。変えることはできなかった。
 涙を拭った。
「正しさだ。俺の正しさを捧げる」
 俺は、自分が間違っているとは思わない。
 俺は、この恨みを捨てられない。
 俺は、この女を絶対に許さない。
 それでも。
「穂乃花が待ってる。お母さんが目を覚ますのをずっと待ってるんだ。だから」
 だから、俺は、俺の正しさを捧げる。
 本当に善いものを選ぶために、俺の正しさを犠牲にする。
「いいでしょう」
 悪魔は頷いたようだ。
 その声には、いつになく優しい響きがあった。
「それが、貴方の願いならば」

 夜の植物園は静かだった。
 ベンチの背もたれに身体を沈め、ゆったりと空を見上げた。
 天窓の、その遥か彼方に月が浮かんでいた。硝子越しに見える月は、まるで水面を揺蕩うように朧げな輪郭をしていた。水に浮かぶ月。
(月の川……)
 座面を見やる。掌の下には一冊の本が敷かれている。穂乃花から借りた『月の川』
 物語の終盤、アルセルスは旅の果てに彼から両親を奪った異民族の首領と再会する。男は、アルセルスのことを、かつて自らが焼き払った村の住民だと気付かない。アルセルスは憎悪に髄まで焼かれながら刃を掴む。何も知らずに眠っている男に近付き、その命を奪わんと鞘を抜く。
 しかし、彼は直前で凶刃を止める。男は、砂漠で行き倒れていたアルセルスを救ってくれた少女の父親だったからだ。少女は、得体の知れないアルセルスを助け、温かく村に招き入れてくれた。少女の父親もまた、アルセルスを客人として歓迎してくれた。男はアルセルスの故郷を焼き払った憎き仇だったが、同時に一人の娘を愛する父親でもあった。
 アルセルスは、仇である男を殺したいほど憎んだ。
 しかし父親である男を殺したいとは思わなかった。
「人間の精神の色模様は何と複雑で奇態なのだろう。水面を移ろう月が如く幾つもの盈虧えいきを覗かせるのだ。この男がそうであるように。この私がそうであるように。……だっけ」
 笑った。
 本を手に取って確かめようとしたが、表紙を掻くことしかできなかった。
 俺は、穂乃花の母親の救済を願った。だから穂乃花の母親と同じ身体になるらしい。
 血の滴る左の指先はもうぴくりとも動かない。全身から力が失われていく。自分の中から、ごっそりと何かが抜け落ちたという喪失感だけがある。
 失った、という感覚。
 だが、それは存外に心地の良いものだった。焼けた鉄のような怒りも、その硬さも、今はもうどこにもない。庭園で微睡む花のように穏やかな心持ちだけがある。
 もっとはやくこうしておけばよかった。
 俺は、月の雫を浴びる白い花を見つめた。
 花はいつか枯れる。直にこの心地良さも失われていくのだろう。もう満足に目を開けておくこともできない。意識が徐々に闇に溶け込もうとしている。
 気のせいだろうか。傾いていく肩に何かが触れた。全身を毛布で包まれたような感覚があった。とても懐かしい感じがした。誰かの胸で安らいでいるようだった。
「よく、がんばりましたね」
 そう聞こえた。夢ではなかった。遠くとも、確かに、そう聞こえた。
 誰かが俺を抱きしめてくれている。赤ん坊を抱くみたいに。
(君は、誰だ?)
 声はもう出せなかった。答えのない問いかけを、俺はもう一度繰り返した。
 君は誰だ。
 星空のように黒い髪は、やがて瞼に遮られて見えなくなった。
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