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第五章「月の川」
(9)Drifter
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一心不乱に文字を打った。眠ること。食べること。瞬きや、呼吸すら忘れ、ただひたすらに文字を綴った。昨日までの焦りはなかった。ただひたすらに軽やかだった。
夜空を満たす、あの満月にすら届きそうなほど。
「ねえ? 取引をしましょう。対等な取引を」
部屋の片隅から声がする。取るに足らない、ちっぽけな声が。
無視をしていると、声は沈黙を埋めてきた。
「貴方は文字を捨て、私は幸福を与える。貴方はもう苦しまなくてもいいの。虚しさに耐える必要はないの。何も損はないでしょう?」
やはり無視。媚びるような調子に変わった。
「夢を捨てたくないのね? だったらこんなのはどう? 貴方に才能を与えるわ。人類史上かつてないほど卓越した、文章家としての才能を。ええ、貴方には絶対の栄光を約束する。代わりに水無瀬砂子の命を頂戴? もう、それで構わないでしょう?」
戯言だ。聞くに堪えない。
聴覚に神経を裂くことすら無駄に思えてくる。
声は、さらに縋り付いてくる。
「どうしてやめないの? 無駄よ。この先には何もないわ。きっと延々と砂漠が続くだけ。そうでなくても辿り着ける保証なんてどこにもない。待っているのは孤独と寂しさと惨めな末路よ。それなのに、どうして歩むのをやめないの? 失ったものを……犠牲にしたものを取り返さないと気が済まない? そうまでして貴方が物語を綴る理由は?」
俺は、キーを叩く手を止めた。
「貴方は何を望むの? 何が欲しいの? 齢を重ね、老い衰えて死ぬまでの分陰で、真実から手に入れたいものは一体何?」
振り返った。悪魔は壁際で後ろ手を組んでいた。声の調子とは裏腹に、その口元には余裕のある笑みが浮かんでいた。
上手く煽られたのかも知れない。
だが、それもどうでもいい。
俺は、答えを差し出した。
「月の川だ」
夜空を見上げた。世界は光で満たされていた。
彼は、何を求めて旅をするのか?
何を望んで歩み続けるのか?
悩む必要はなかった。迷う必要はなかった。答えは、初めからここに在った。
「理由なんてなかった」
彼がその輝きに心を奪われたのは、彼の心にも同じものが映し出されていたからだ。
それを美しいと感じる心が在ったからだ。
だから彼は歩み続けた。
荒野を抜け、嵐を抜け、弾丸の雨を掻い潜った。
保証はなくとも。後戻りはできなくとも。世界が闇に包まれようとも。
空に輝く月を心に、彼はどこまでも歩み続けた。
いつか月の川を渡るために。
「世界の果てに辿り着くために」
だから無駄口を叩いている暇などない。
こんなやつの相手をしている暇などないのだ。
「去れ。悪魔め。巣食う者め。お前に喰わせる餌はない。お前は何も奪えない。お前は何も与えられない。何も得られず、何も失えないまま、ただここから去るだけだ」
失った苦しみも。
いつか勝ち獲る栄光も――
見据え、宣言した。
「全てはこの俺のものだ」
「Athah gabor leolam Adonai!」
悪魔は、何事かを叫んだ。
「素晴らしいわ、アントニウス!」
その瞳が、輝いていた。
歓迎に手を広げ、口の端を釣り上げた。
「敗北者は私よ。今は退散するわ。けれど……覚えておきなさい、安倉草一郎。荒野を征く者よ。貴方は苦難から逃れることはできない。安息を得ることはできない。貴方はこれからも数多を失い、数多を支払うことになるでしょう。それでも」
ふと思った。何かが違うと。
悪魔の声が……相貌が、今までとはどこか違っている。そこに嘲りがなかった。忌々しさがなかった。邪悪さも、薄気味悪さも。只々真摯な眼差しだけが在った。
呆然と見つめ返し、気付いた。
(瞳が、黒い……?)
悪魔は、続けた。
「それでも覚えておきなさい。安倉草一郎。貴方は犠牲に報いようとしてはいけない。失ったものに報いようとしてはいけない。それに贖おうとした瞬間、過去は貴方を縛り付ける。失った過去に束縛された生き方は、必ず多くの人間を不幸にするでしょう。貴方自身も含めて」
「君は……誰だ?」
悪魔は……悪魔と同じ姿をした少女は、名乗る代わりに微笑んだ。
小馬鹿にするようなそれとはまるで違う、母親のような笑みだった。
「貴方の正しさは、貴方自身が決めなさい」
どうかそれを忘れないで。
少女が繰り返したとき、既にその姿は薄れ始めていた。硝子のように光を透過し、間もなく輪郭すら見えなくなる。あとには見飽きた部屋だけが残った。
立ち上がり、少女の消えた場所に手を伸ばした。掴めるのは冷ややかな空気だけだった。
全ては夢だったのか。
自分が見たもの。聞いたもの。何もかもが疑わしくなってくる。それほどまでに静かだった。
出窓から景色を望んだ。月は変わらず浮かんでいたが僅かに周囲が白み始めている。紺と白色のグラデーションを眺めていると、どこからか赤ん坊の泣き声が聞こえてきた。雀の鳴き声に、エンジン音。
世界が目覚めようとしていた。
窓辺を後にし、冷蔵庫を開いた。ボトルの水を口に含む。
生き返るようだった。
座机に戻り、片隅にある黒い本を見下ろした。
「多くを失い、多くを支払う、か」
正しいのだろう。俺はこれからも多くを失うことになる。何も失わない生などない。生きるとは死ぬまで失い続けることだ。だからこそ勝ち獲ることができる。自らの願いを見失わなければ。
本を手に取った。明るさに照らせば何てことのない色をしていた。
本は、違う世界へ繋がる扉だ。
だが、どこへ向かうかは自分が決める。
「今日は紙の日だったな」
着の身着のままアパートを出た。他の雑誌類も転がっていたが、まとめるのが面倒だった。とりあえずこの一冊だけでも手放しておきたい。仕事の邪魔をされるのはもう懲り懲りだ。
階段を駆け降りゴミ捨て場へ向かう。徹夜明けでも足取りは軽い。今なら月の川でもステップで渡れそうだ。
月の川。
そうだ。それがいい。タイトルにするならそれがいい。
「月の川だ」
早速、田口氏に相談してみよう。彼は納得するだろうか? なに、しなくたって構うものか。我儘ぐらい言ってやる。これからもずっと言い続けてやる。
もはや不安はなかった。昂ぶりしかなかった。芯から熱いものが込み上げてきて笑みを噛むのに精一杯だった。
俺は、いつまでも書き続けることができる。次も。その次も。その次の次も。
そうして歩み続けた先に、君がいる。
世界の果てで、君が待っている。
夜空を満たす、あの満月にすら届きそうなほど。
「ねえ? 取引をしましょう。対等な取引を」
部屋の片隅から声がする。取るに足らない、ちっぽけな声が。
無視をしていると、声は沈黙を埋めてきた。
「貴方は文字を捨て、私は幸福を与える。貴方はもう苦しまなくてもいいの。虚しさに耐える必要はないの。何も損はないでしょう?」
やはり無視。媚びるような調子に変わった。
「夢を捨てたくないのね? だったらこんなのはどう? 貴方に才能を与えるわ。人類史上かつてないほど卓越した、文章家としての才能を。ええ、貴方には絶対の栄光を約束する。代わりに水無瀬砂子の命を頂戴? もう、それで構わないでしょう?」
戯言だ。聞くに堪えない。
聴覚に神経を裂くことすら無駄に思えてくる。
声は、さらに縋り付いてくる。
「どうしてやめないの? 無駄よ。この先には何もないわ。きっと延々と砂漠が続くだけ。そうでなくても辿り着ける保証なんてどこにもない。待っているのは孤独と寂しさと惨めな末路よ。それなのに、どうして歩むのをやめないの? 失ったものを……犠牲にしたものを取り返さないと気が済まない? そうまでして貴方が物語を綴る理由は?」
俺は、キーを叩く手を止めた。
「貴方は何を望むの? 何が欲しいの? 齢を重ね、老い衰えて死ぬまでの分陰で、真実から手に入れたいものは一体何?」
振り返った。悪魔は壁際で後ろ手を組んでいた。声の調子とは裏腹に、その口元には余裕のある笑みが浮かんでいた。
上手く煽られたのかも知れない。
だが、それもどうでもいい。
俺は、答えを差し出した。
「月の川だ」
夜空を見上げた。世界は光で満たされていた。
彼は、何を求めて旅をするのか?
何を望んで歩み続けるのか?
悩む必要はなかった。迷う必要はなかった。答えは、初めからここに在った。
「理由なんてなかった」
彼がその輝きに心を奪われたのは、彼の心にも同じものが映し出されていたからだ。
それを美しいと感じる心が在ったからだ。
だから彼は歩み続けた。
荒野を抜け、嵐を抜け、弾丸の雨を掻い潜った。
保証はなくとも。後戻りはできなくとも。世界が闇に包まれようとも。
空に輝く月を心に、彼はどこまでも歩み続けた。
いつか月の川を渡るために。
「世界の果てに辿り着くために」
だから無駄口を叩いている暇などない。
こんなやつの相手をしている暇などないのだ。
「去れ。悪魔め。巣食う者め。お前に喰わせる餌はない。お前は何も奪えない。お前は何も与えられない。何も得られず、何も失えないまま、ただここから去るだけだ」
失った苦しみも。
いつか勝ち獲る栄光も――
見据え、宣言した。
「全てはこの俺のものだ」
「Athah gabor leolam Adonai!」
悪魔は、何事かを叫んだ。
「素晴らしいわ、アントニウス!」
その瞳が、輝いていた。
歓迎に手を広げ、口の端を釣り上げた。
「敗北者は私よ。今は退散するわ。けれど……覚えておきなさい、安倉草一郎。荒野を征く者よ。貴方は苦難から逃れることはできない。安息を得ることはできない。貴方はこれからも数多を失い、数多を支払うことになるでしょう。それでも」
ふと思った。何かが違うと。
悪魔の声が……相貌が、今までとはどこか違っている。そこに嘲りがなかった。忌々しさがなかった。邪悪さも、薄気味悪さも。只々真摯な眼差しだけが在った。
呆然と見つめ返し、気付いた。
(瞳が、黒い……?)
悪魔は、続けた。
「それでも覚えておきなさい。安倉草一郎。貴方は犠牲に報いようとしてはいけない。失ったものに報いようとしてはいけない。それに贖おうとした瞬間、過去は貴方を縛り付ける。失った過去に束縛された生き方は、必ず多くの人間を不幸にするでしょう。貴方自身も含めて」
「君は……誰だ?」
悪魔は……悪魔と同じ姿をした少女は、名乗る代わりに微笑んだ。
小馬鹿にするようなそれとはまるで違う、母親のような笑みだった。
「貴方の正しさは、貴方自身が決めなさい」
どうかそれを忘れないで。
少女が繰り返したとき、既にその姿は薄れ始めていた。硝子のように光を透過し、間もなく輪郭すら見えなくなる。あとには見飽きた部屋だけが残った。
立ち上がり、少女の消えた場所に手を伸ばした。掴めるのは冷ややかな空気だけだった。
全ては夢だったのか。
自分が見たもの。聞いたもの。何もかもが疑わしくなってくる。それほどまでに静かだった。
出窓から景色を望んだ。月は変わらず浮かんでいたが僅かに周囲が白み始めている。紺と白色のグラデーションを眺めていると、どこからか赤ん坊の泣き声が聞こえてきた。雀の鳴き声に、エンジン音。
世界が目覚めようとしていた。
窓辺を後にし、冷蔵庫を開いた。ボトルの水を口に含む。
生き返るようだった。
座机に戻り、片隅にある黒い本を見下ろした。
「多くを失い、多くを支払う、か」
正しいのだろう。俺はこれからも多くを失うことになる。何も失わない生などない。生きるとは死ぬまで失い続けることだ。だからこそ勝ち獲ることができる。自らの願いを見失わなければ。
本を手に取った。明るさに照らせば何てことのない色をしていた。
本は、違う世界へ繋がる扉だ。
だが、どこへ向かうかは自分が決める。
「今日は紙の日だったな」
着の身着のままアパートを出た。他の雑誌類も転がっていたが、まとめるのが面倒だった。とりあえずこの一冊だけでも手放しておきたい。仕事の邪魔をされるのはもう懲り懲りだ。
階段を駆け降りゴミ捨て場へ向かう。徹夜明けでも足取りは軽い。今なら月の川でもステップで渡れそうだ。
月の川。
そうだ。それがいい。タイトルにするならそれがいい。
「月の川だ」
早速、田口氏に相談してみよう。彼は納得するだろうか? なに、しなくたって構うものか。我儘ぐらい言ってやる。これからもずっと言い続けてやる。
もはや不安はなかった。昂ぶりしかなかった。芯から熱いものが込み上げてきて笑みを噛むのに精一杯だった。
俺は、いつまでも書き続けることができる。次も。その次も。その次の次も。
そうして歩み続けた先に、君がいる。
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