トレード・オフ

大淀たわら

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終幕「愛を両手に」

愛を両手に

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『何かを得るためには、何かを失わなければならない』
 あのひとは、その言葉を教戒のように口にする。
 何かを得るためには何かを失わなければならない。
 認めたくはないが、否定もできない事実だ。ひとが何かを得ようとするとき、必ず失われた何かがある。
 誰もが平等に喪失する時間。豊かな生活を維持するための資源。欲に狂えば信用を失い、理想を掲げれば安寧は遠ざかる。ある種のお題目を成立させるために、大量の命が消費されていくことも、人の営みの有り触れた一端に過ぎない。
 だからこそ人は得たものに価値を求める。失ったからこそ得ることができたのだと考える。得たものを愛し、時に執着さえも見せる。失ったものの代替として。
 だが、私は想う。
 
 犠牲にしたものは……何かと引き換えに捨て去ったものは、その何かを慈しむことによって回復することができるのだろうか?
 言うに及ばずだろう。
 失ったものに代わりなどない。
 得ること。失うこと。それは常に事を成す前に語られるべきものだ。獲得したものを尊び、犠牲に感謝したところで、失ったという事実が変わるわけではない。所詮は獲得と喪失を結びつけることによって精神の均衡を保っているに過ぎない。哀れな欺瞞で、心を慰めているに過ぎない。
 失ったものは永遠に失われたまま、得たものは次の喪失を待っている。
 私たちはその真実を見失ってはいけない。
 安易に代償を支払ってはいけないのだ。
 目先の一利に眩まされず、失われるものに想いを馳せ、今在るものこそに充足を求める。
 それこそが無明に囚われないための唯一の法だ。
 正覚へ至る最良の道なのだ。
 ゆえに、私は願っている。
 衆生が三毒から脱し正見を得ることを。
 心の底から願っているのだ。

『それでも人は、トレード・オフから逃れられない』
 告げると、彼女は思考を中断させた。
 告げる。告げるというのもおかしな表現だ。声帯を震わせ音として発する。そんな物理的な干渉は一切行っていない。つまりは一言も発していない。それでもやはり、告げるという表現が正しいように思う。こちらの思念が伝わりさえするのなら。
 私は、
『それは貴女も理解しているのでしょう? 鈴璃』
 彼女……鈴璃は、空を眺めていた。真っ青な色にぽっかりと綿菓子が浮かんでいて間抜けを絵に描いたようだった。でベンチに腰かけていた。海に臨んだ、広い芝生の公園だ。後方には空港があり、時折思い出したように轟音を響かせている。
 鈴璃が目で追っているのは飛び去った機体の残像だった。彼女の視力は人の域を超える。それでも地平を過ぎれば物理的に見えなくなる。観測手段はいくらでもあるが力を行使する気はないようだった。別に知己が乗っているわけでもない。彼女が彼らを見送る理由などないし、ここに座っている理由もない。けれど、ここにいない理由もない。
 私たちはどこにいても良いし、どこにいなくても構わない。そんな存在だった。もっともそれは誰もが同じなのかも知れないが。
 私は、悪魔らしく独りで嗤った。
『人間の認識と判断には限界がある。それは肉体という檻がもたらす自然な限界よ。その限界ゆえにあらゆる選択を誤るの。偏見。差別。傲慢。悪徳。善行。憎悪。そして信愛。取捨選択はバロメータよ。人の理から外れた貴女とは違う』
 鈴璃は、表情を変えなかった。
 視線を下げ、開いた掌を覗き込んだ。
 白磁器のような彼女の手から。その草花は不自然な速度で生長し、やがて一輪の花を咲かせた。
 白く、無垢な、百合の花。
 その奇跡は、彼女が人間という枠組みから逸脱していることの証だった。
 鈴璃は、その白い花を胸元に抱いた。
「あなたこそ、全てを理解しているのではないですか? 憐れな悪魔よ。いえ……」
 鈴璃は、力なく首を振る。
「あなたは悪魔ではない。使。常に悪を欲し、常に善を成すあの力の一部ではない」
 花を抱いたまま、祈るように首を垂れる。
「あなたは人間を愛している。深く。深く。愛している。けれどあなたの愛情表現は、とても熾烈で、歪なのです。私はそんなあなたこそ憐れでならない」
 握る手に力が篭る。それが伝わってくる。
「あなたは既にわかっている。人の真価を。その強さを。……そう、あなたが試練を与えずとも人は強く在れるのです」
『それは……貴女のように? 鈴璃。銘もなき聖女』
 鈴璃は答えなかった。代わりに花を持つ手を、胸に強く押し当てた。そこは彼女の命を奪った傷の在った場所だ。今はもう塞がり跡形もない。私が憑依したことで彼女の肉体は老いや摩耗からは無縁となっている。因果を曲げ、事象を書き換える万能を有している。
 それでも心の痛みだけは消せない。否、
 この少女の、最も愚かで、最も狂っていて、最も美しいのは、そんなところだ。
 自分を裏切り尽した世界のことすら、見捨てずに愛そうとしている。
 私のような悪霊さえも。
「……あら」
 鈴璃が、顔を上げた。私のもそれに従った。
 ベンチから少し離れた場所で少女がこちらを見ていた。少女といっても鈴璃よりも遥かに幼い。私はその娘を生後四年と二か月十三日と認識した。周囲を探ると十数メートル先の木陰で母親が赤ん坊の世話に四苦八苦していた。母と、生まれたばかりの妹から離れて、独りでここまで来たらしい。
 幼子の瞳は、はっきりと鈴璃の姿を捉えていた。透過の処置を施していないからだろう。誰よりも人を惹きつける美貌を持ちながら、鈴璃は他人の視線に頓着がない。尤も、当の幼子も鈴璃の容姿には興味がないようだった。月よりも丸い瞳は、白い花弁に注がれている。創造するところを目撃されていたのだ。
 鈴璃は、くすりと笑って、幼子に花を差し出した。
「差し上げましょうか?」
 幼子は、ぱっと表情を輝かせた。あどけない足取りで駆け寄ってきて鈴璃の花に飛びついてくる。幼子は手渡された花を高々と掲げたあと、白の香りを目一杯楽しんだ。餅のような頬に満面の笑みが広がった。鈴璃もまた微笑みを返す。
 幼子は踵を返し、母親の元へ駆け戻ろうとする。そこでふと何かに気付いたらしい。慌てた様子で立ち止まった。
「……?」
 小首を傾げる鈴璃の前で、幼子は自分の服を探り始める。やがて片方のポケットに手を突っ込むと握り締めた右手を鈴璃に差し出した。
「おねえちゃん、てんて!」
 鈴璃は、言われるがまま両手を差し出した。掌にかさりと何かが乗せられる。
 二つの飴玉だった。
「おはなの、おだい!」
 鈴璃は、しばらくの間、手渡されたそれを呆然と眺めていた。そして得意気に胸を張る幼子と見比べ……何とも言えない複雑な表情を作った。
 私は、堪え切れなくなって、からからと笑った。
 何も理解していない幼子は、心から嬉しそうに手を振った。
「ばいばい、おねえちゃん!」
「……ええ、さようなら」
 鈴璃は手を揺らし去っていく幼子を見送った。幼子は、手に入れた花を母親に見せびらかしていた。自分以上に何も理解していない、妹にも。
 罪のない光景だった。
 鈴璃は、しばらくはそんな無辜を眺めていた。でも私に嗤われたことが余程不服だったらしい。
「そんなに莫迦にしなくても良かったでしょう?」
 ぷくりと頬を膨らませた。
「それに」
 と、口を尖らせる。
「昨晩のことですけど……ああいうのは、やめてくれませんか?」
『ああいうの?』
「ほら、ああいう……その、殿方の前で肌を曝すというのは。これでも十七歳の乙女なのですから」
 顔を赤らめ、指先をもじもじさせる。
 絶句するしかなかった。
『何が乙女よ。生きてりゃ数百歳のババアのくせに……』
「バ……ッ!?」
 今度は鈴璃が言葉を失う番だった。
 私は私で頭を抱えた。
『えーと……私がこっちに着いたのが天文十八年? 貴女と会ったのが二百年ぐらいあとだから……二百五十歳ぐらい? 干物じゃない。よくもまあその齢で恥ずかしげもなく乙女とか言えたものね』
「だ、誰のせいで死ねないと思って……」
 鈴璃の頬がぴくぴくと動く。
 私は、せせら笑った。
『いやいや、私を救うとか啖呵を切ったのは貴女よ? この肉体から解放されないのはこっちなんですけど?』
「た、確かにそう言いましたけど……言いましたけども!」
『あー、やだやだ。変な齢の取り方をすると自分の間違いが認められなくなるのよねえ』
「あなたがそれ言います!? 大体あなたの齢なんて私の比じゃないでしょ!?」
『え~? でもでも~、私がいくつだろうと貴女が三百歳を越えたババアなのは変わりないわけだし~?』
「さり気なく五十歳足さないでくださいっ!」
 鈴璃は歯を食い縛り、ぐぐぐと拳を握り締めた。悔し涙を滲ませた瞳が、刃物のように鋭く尖る。一体何を睨んでいるのかよく分からない。私はあんたの内側にいるのに。
「……古い蛇よ、そこに直りなさい」
『どこよ』
「どこでも宜しい! 今ここで! この鈴璃が成敗してく」
「じゃあ、そろそろ身体の主導権返して貰うわね?」
『~~~~~~~~~~っっ!』
 鈴璃は、で声にならない声を上げた。
 あ、これがホントの声にならない声だ。
『おのれ……』
 ひとり合点していると、聖女は私のなかで何やら叫び続けていた。
『おのれ、あくま! サタン! 果心居士! メフィストフェレス!! いつか絶対に……絶対に、懲らしめてやるんですから~~!』
「あっははははは!」
 愉快だった。この娘と一緒にいるとちっとも退屈しない。
 私は、立ち上がり、晴れ晴れとした空を仰いだ。轟音が鳴り響き、頭上をジェット機が掠めて行った。大気を裂く音に遮られ、姦しい声は聞こえなくなる。
 飛び去って行く白い翼を見送りながら、想った。
 彼らはどこから来たのか。
 彼らは何者か。
 彼らはどこへ行くのか。
 その答えは悪魔でも分からない。
 ただひとつ言えることがある。
 私たちはどこにいても良いし、どこにいなくても構わない。
 再び扉が開かれるまで、気ままに世界を旅するだけだ。
 世界の果ては、いつだってここにある。
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