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Formation 3
シー・スキミング
しおりを挟むIDAの構内には、広大な中庭がある。昼休みや放課後など、その芝生では思い思いにくつろぐ学生たちの姿が見られた。マキナもご多聞にもれず、この中庭がお気に入りだった。
芝生に腰をおろし、資料を読んでいたマキナの手元がふいに暗くなる。えっと思う前に、聞き慣れた声が降ってきた。
「聞いたよ、マキナ。早速エリーとやり合ったんだって?」
「森岡中尉」マキナは資料を閉じると苦笑する。「いったいどこから聞いたんですか、早いですね」
「ぼくには情報源が多いのさ」
森岡中尉は、白い歯を見せてにっと笑った。そしてマキナの隣に腰をおろすと、手にしていた紙袋をがさがさ言わせて何やら取り出す。
「食べるかい? ここの学生食堂のカフェのだけど、手作りなんだ。なかなか美味いんだよ」
反射的に受け取ったマキナは、そのひんやりとした感触に目を丸くする。
「プリン、ですか?」
「なんだ、おかしいか?」
拗ねたように言いながら、早くも森岡中尉は透明なセロファンの蓋を剥がす。ぷぷっと笑いをこらえながら、マキナは首を振った。
「いいえ、何だか意外な感じがしたんで。いただきます」
「男が甘いものを食べちゃ悪いって法律はないからね。ま、絶対的にマイノリティなのかもしれないが。そもそもマジョリティが正だなんて、誰も決めてない。というわけで、食べた者勝ちってことさ」
森岡中尉は紙袋から取り出したプラスチックのスプーンを一本は咥え、もう一本をマキナに渡してくれる。礼を言って受け取ると、マキナはプリンを口に運ぶ。
ずっと目で文字を追っていたせいで、軽い疲労を感じていた頭には、そのやさしい甘さが嬉しかった。
「彼女は強かっただろう? あれでもこのIDAで五本の指に入るパイロットだからな」
「単に模擬戦をしただけですよ。そもそもブルー・フェアリーに所属するくらいだから、強くて当たり前でしょうね」
「おや」意外なマキナの反応に、スプーンを咥えたまま、今度は森岡中尉が目を丸くして、首を傾げる。「どうやら、姫君はご機嫌ななめのようだね」
「――すみません。中尉に八つ当たりをしてしまいました」
マキナは目を伏せる。中尉は小さく肩をすくめて苦笑した。
「かまわないよ。そういう気分のときもあるさ。普通の人間だものな、聖人君子じゃないんだ」
だが、マキナの表情は晴れない。
「それより、お話はなんですか、中尉」
「ん?」
「わざわざこういったものまでご用意いただくということは、単に通りすがりではないのでしょう? わたしに何かお話があったんじゃないですか?」
「ご名答」
森岡中尉はにっこりと笑うと、空になった容器を紙袋へ放り込んだ。
「単刀直入に訊こう。マキナ、君はUAFに所属していたことがあるのか?」
マキナの動きが止まる。
「――そのことですか」
わずかに肌寒さを覚えて見上げると、いつの間にか空にはうっすらと雲がかかってきていた。もう間もなくスコールのシーズンだ。
「ええ、確かにそのとおりです。わたしは少し前まで、UAFの正規軍に所属していました」
まっすぐに見据えてくるマキナの瞳に、硬質な光が宿る。
その光に森岡中尉は見覚えがあった。命を賭けた実戦へと出撃してゆく兵士たちの目だ。
「もちろん実戦にも参加経験はあります。主に中東での任務ですが」
「そうか」
森岡中尉は短くそう言っただけだった。今度はマキナが首を傾げる。
「そのことを、ヴァーノン大佐にはお聞きになっていないんですか?」
「ああ。大佐からの紹介状には、特に書かれていなかった」
「そうですか」
「君が、書かないでくれ、といったわけではないということか」
「はい」
森岡中尉は目を細める。
「ここに来ることは、マキナ、きみが志願したのかい」
マキナの目が、怪訝そうに細められる。まるで獲物の挙動をうかがうときの獣のように。
「ご質問の意図が、よくわかりません」
「そのままだよ。IDA、そしてブルー・フェアリー、今君が在るこの状況は、君が望んだものなのか、そういうことだ」
「わたしは、戦えなくなったんです。兵器として劣化したんです。だから、所属部隊からは外されました。ですが大佐はしばらく前線から退いてみるのもいいだろう、と仰いました。わたしが入隊することで、フェアリーの他のメンバーにとっても、いい刺激になるだろう、と」
「戦えなくなった?」
森岡中尉の呟きに、マキナは頷く。
「半年ほど前のことです。わたしは当時、中東でテロ組織の掃討作戦に参加していました。それほど長引く作戦にはならないだろう、それが当初の幹部の見解でした。――けれどそうではなかった」
マキナは無意識のうちに、左腕に触れていた。
「思ったよりも相手組織の抵抗は激しく、わたしたちの部隊は苦戦を強いられました。その日、わたしは僚機とともにシー・スキミングで飛んでいました。わたしの機も僚機も帰投する途中で、直前のドグファイトでかなり被弾していました。燃料も少なく、ようやく飛んでいるといった状態だった」
シー・スキミングとは相手のレーダーによる被発見率を下げるため、山などの地形に沿って、地表から数十メートルという低空を飛行するやり方だ。
低空飛行は、障害物がない高空を高速で飛行する巡航飛行に比べ、障害物が多く、かつ空気の濃い低空を飛行するため、燃費効率が悪い。その上、機体とパイロットにかかる物理的・心理的負担はかなり大きい。だから、通常は危険空域のみで行われるものなのだ。
帰投の際にもシー・スキミングを行っていたということは、彼女がそれだけ緊迫した任務についていたということに他ならない。
「わたしたちは長距離・短距離ともにミサイルを全て撃ち尽くしていて、ほとんど丸腰でした。残された武装と言えば機銃だけ。そんな状態で、最悪の事態が起きました。敵機に発見されたのです」
マキナはどこか焦点の合わない、遠い目をしていた。そのときのことを思い出しているのかもしれない。おそらくは無意識のうちに、その右手が動く。まるで今も、操縦桿を握っているかのように。
「二機とも被弾しながら、何とか敵機を落としました。しかし、そのための犠牲は大きかった。僚機は間もなく墜ちました。僚機のパイロットは助からなかった」
マキナは左袖をまくって、森岡中尉の前に差し出す。そこには、白い肌を大きく縦断する、赤い傷痕があった。縫合の痕もはっきりとわかる、大きな傷だった。
この傷を負った状態で操縦を続けることは、ひどく困難だっただろうと知れる。
「今でもこの左腕には、あのときの弾体片が残っています。指先を動かす繊細な神経を傷付けてしまうおそれがあるからと、全てを取り除くことはできませんでした」
マキナは袖を元に戻す。
「飛ぶことはできます。でも、戦えない――戦うことが、怖くなったんです」
「マキナ――」
「ヴァーノン大佐はわたしが入隊することで、フェアリーのメンバーたちにとってもいい刺激になるだろう、と仰いました。ですが、わたしはフェアリーを息抜きのようなものだとは考えていません。あのシミュレータ・ポッドで飛んだとき、それからみんなと訓練で飛んだとき、ようやくわかったんです。ああ、わたしは本当は、こんなふうに飛びたかったんだって」
そして、マキナは薄く微笑んだ。その黒い瞳に、強い意思の閃き。
「森岡中尉、わたしはもう、UAFに戻るつもりはありません。戦うために飛ぶことは、おそらく、二度とないでしょう」
ぽつりと、手の甲に冷たい感触。見遣れば、そこに銀色のしずく。その数がどんどん増える。
「きっと父も、こんなふうにわたしが飛ぶことを、望んではいなかったと思います」
「だが、大佐がそれを許すとは思えない――そうじゃないか?」
「ええ」
マキナはためらわずに頷いた。そして顔を上げる。
その黒い鏡のような瞳は意外にも強い光をたたえていた。むしろ、そこに映る自分の顔の方がよほど不安げだ、と森岡中尉は思う。
「たぶん、そうでしょうね」
「そのとき、君はどうするつもりなんだ」
「それは、そのときになってみないとわかりません」
――パパにそうしたように、逆らうのか?
――そうして、次はどこへ行くんだね、マキナ?
――いつまでもそうやって逃げてばかりで、いったい何か解決したかい?
そんなふうに、頭のどこかで、誰かが囁く。それは確かにそうだろう。逃げ続けていても何も解決はしない。
けれど、今の自分には、逃げるしか術はない。
戦うための牙は、とうに折れた。今の自分にできることは、ただ飛ぶことだけ。
でもそれは自分の意思が招いたことだ。他人のせいにするつもりはない。弱さも強さも、全て自分のものなのだ。全て持っていく。最後まで。どこまでだって。生きている限りは。
雨は次第に強さを増す。スコールシーズンを目前にひかえたこの時期は、いったん降り始めるとひどくなる。もう中庭には、彼女たち二人を除いて誰もいない。皆、屋根の下に避難済みなのだ。
しかし、マキナは動こうとしない。彼女の瞳を見据える森岡中尉もまた。白い膝に置かれた彼女の手が、握り締められる。
「中尉、前にわたし、お聞きしたことがありましたよね。中尉ご自身はもうアクロバットをやらないんですか、って」
「ああ」
「お怒りになるのを承知で、憶測で言います。もし的外れだったらごめんなさい」
マキナはそこでいったん目を伏せ、そして上げた。
思ったよりも彼女の睫毛は長い。その拍子に、睫毛の先から、銀色の雫が零れ落ちる。
「あの事故があったから、ですか?」
森岡中尉の肩が、目に見えて強張る。マキナは唇を噛み締めた。
「――あの日、九年前のあの日の事故が、中尉から翼を奪ったんですか?」
「マキナ、きみは……」
「ブルー・フェアリーが結成される前、UAFにまだアクロバット部隊があり、あなたがそこに所属していた当時、あなたのウイングマンをつとめていた男性の名前を、覚えていますか?」
森岡中尉は頷く。
「覚えているとも。マコト・タカバネ――鷹羽慎――という人だ。彼は素晴らしいパイロットだったよ」
雨は激しさを増す。耳が痛いほどだ。
マキナは目を上げる。黒曜石のようなまなざしが、目標をとらえた。
彼女はごそりと上着のポケットに手を突っ込む。そしてそこから手を抜いたとき、そこには銀色をした何かが握られていた。
「これを、覚えていますか? 中尉」
彼女が差し出した手のひらの上に乗っていたのは、空の青さを写し取ったかのようにきれいな青色をした文字盤の腕時計だった。雨に濡れて銀色に輝く金属製のベルトの太さは、それが男性用のものであることをうかがわせる。
だがそのガラスには大きな蜘蛛の巣状のクラックが入っており、ところどころ黒く煤が付着していて、せっかくの美しさを大いに損なっていた。優美な長針も短針も、その動きを止めて久しいようだ。
そのとき、文字盤に刻まれた数字を目で追っていた森岡中尉は、その刻印に気がついた。リューズの少し下辺りに刻まれたその文字は、おそらく持ち主が長い間身に付けていたためと思われる磨耗で少し判読しにくくなっていたが、それでもちゃんと読み取ることができた。
――MAKOTO・TAKABANEと。
森岡中尉は目を見開く。
「わたしが七歳のときに、父はある事故がもとで亡くなりました。そして残された母は、わたしが十二歳のときに再婚しました。そのときの男性が各務という姓だったので、今わたしはカガミを名乗っています。でも、本当の父親は別の姓でした」
無意識のうちに、彼女の腕が動く。まるで操縦桿を握っているかのように。
「わたしの父の姓は、鷹羽といいます」
マキナは言うと、それまで手のひらの中の腕時計に落としていた目線を、森岡中尉の目へと移す。森岡中尉を映して輝くのは、黒い鏡のような、一対の瞳。
「やっと、お気づきになりましたか?」
ガンサイトが目標を捕捉する。指が機銃の発射ボタンにかかる――ロックオン。
「あのときの事故で、中尉、あなたの乗る機と接触し、死んだパイロット……鷹羽慎大尉は、わたしの父です」
*
ジャケットのポケットに入れていた携帯電話のコールにソミス中尉が気付いたのは、ちょうど宿舎に帰宅して、後ろ手にドアを閉めたときだった。携帯電話の小さなディスプレイに踊るのは、見覚えのある名前。
「はい、ソミスです」
「アレッシア」
電話の向こうの相手は、彼女の声を聞いてほっとしたようだった。その声に、露骨に安堵した雰囲気。彼らしくない。いったい何を張りつめているのか、とソミス中尉は眉をひそめた。
「どうしたの、レナード。珍しいわね、あなたから掛けてくるなんて」
「こんな時間にすまない。しかし、どうしても聞いておきたくて」
「聞きたい? 私から?」
「ああ」
その短い返答の後に、息を吐くような掠れた音。ソミス中尉は煙草の箱を軽く振って一本を咥えると、灯りを点けずにソファに身を沈めた。愛用のジッポーで火を点ける。深く煙を深く吸い込んで、吐き出した。
「当ててみせましょうか、ガトリング・ホークのことでしょう」
「ああ」
森岡中尉は先程よりも幾分声の調子に力を込めた。
「彼女が飛べなくなった原因になったという、撃墜されたときのこと、もし知っていたなら、詳しく教えて欲しいんだ」
「……私も直接聞いたわけじゃないわ。彼女の機体に残っていたボイス・レコーダと制御コンピュータに残っていた当時のデータを見ただけよ。もし必要なら、データで送ってあげましょうか。私の口を介するより、きっと正確だわ」
「すまない。頼むよ」
「こっちにいたときと、アドレスは変わっていないわね」
「ああ。この埋め合わせはいつかする」
「期待してるわ。じゃあね」
ソミス中尉はそれだけを言うと、電話を切る。もう一度深く煙を吸い込んで吐き出した。カーテンの隙間から、外の明かりが漏れてくる。夜間訓練で飛び立つ戦闘機のエンジン音が、雨音にまぎれ、遠雷のように尾を引いて遠ざかっていった。
薄暗い天井の片隅にわだかまる闇に、青みを帯びた白煙はゆっくりと溶け込んでゆく。暗闇の中、ぼんやりと光る赤い火だけが、まるでこの世界の真実であるかのようだった。
切れた携帯電話を手にして、森岡中尉もまた、灯りも点けず暗い自室に佇んでいた。その黒髪の毛先からは、雨の雫がぽたぽたと伝う。ぐっしょりと濡れた衣服は、彼の足元にも小さな水溜りを作り出す。
ソミス中尉は何も聞かなかった。ましてや、そんなものを入手して、いったいどうするのか、などとは。長年の付き合いゆえか、それとも彼女の性格がなせるものなのかはわからない。けれどそれが今の森岡中尉にはありがたかった。
ソミス中尉の行動は素早かった。シャワーを浴びて、冷え切った体を温めた森岡中尉が自室に戻ってきたときには、コンピュータのディスプレイ上に、ソミス中尉からのデータの受信を示すメッセージが、ちかちかと明滅していた。
森岡中尉はUAFの専用鍵で暗号化されているそのファイルを外部メモリに移すと、復号化用の鍵を使ってファイルを復号する。
ファイルの内容は彼女が言ったとおり、レコーダの音声データと、制御コンピュータに残された当時の記録だった。その音声データを再生させながら記録と照合し、森岡中尉はあのとき、マキナに何があったのかを確かめる作業にとりかかる。
レコーダの中のデータは回収後、時系列順に複数のファイルに分けて保存されていた。その中の幾つかを再生させてみたが、戦闘中の状況が克明にはわかるものの、彼女がその翼を失うような決定的な事柄は見られないようにも思えた。
制御コンピュータに記録されているパイロットのバイタル・データも正常だ。パイロットの肉体的疲労度を示す数値は確かに高いが、それは実戦なのだから当然と言えば当然だ。
だがそういう意味では、彼女の精神的な疲労度については、一般のパイロットに比べて極度に低いと言えるものだった。命を磨り減らして飛ぶ戦闘機のパイロットが感じるストレスは、尋常ではない。パイロットとして実際に飛ぶことのできる期間が非常に短いという事実からも、それは容易にうかがえる。
そんな彼らの数値に比較すれば、マキナのそれは半分以下だ、と言ってもよい数値だった。彼女が飛んだ際の数値全てを分析したわけではないから厳密な数字ではないのかもしれないが、それにしてもこの値は以上だ、と森岡中尉は思う。
おそらく、生死をかけた戦いから無事生還しても、当時の彼女は、「ちょっと長距離を走って疲れたな」、くらいにしか疲労を感じていなかっただろうと想定できる。
そんなことは、彼らの常識から見たら信じられないことだった。ヴァーノン大佐が彼女にこだわるのは、こういうことなのかもしれない、と森岡中尉はうっすらと感じた。
この数値を実際に見れば、多少UAFで精神分析をかじったことのある人間ならば誰でもその異常さに気付くだろう。もしかしたら、ソミス中尉もこのデータを見たのかもしれなかった。
森岡中尉が最後に辿り着いたのは、墜ちる直前のマキナの機のレコーダのファイルだった。
それまでのファイルには、特に変わったところは見られない。何かが彼女の身に起こったとしたら、おそらくここしかない。
どこか緊張にも似たものを感じながら、森岡中尉はファイルを開いた。
*
「ガルダよりリトルホークへ。機体の損害の状況を報告せよ」
再生を開始してすぐ、当時の彼女のウイングマンであった都築中尉の声がした。
ガルダは彼のコードネーム。リトルホークはマキナのそれだ。
すみやかに答えるマキナの声が続く。
「こちらリトルホーク。主翼の一部に被弾したようだが、たいした問題ではない」
「了解」
だが、そう返す都築中尉の声にかぶさるようにして、強烈な警告音。おそらく、敵のレーダ照射がマキナの機を捕捉した際のものだろうと森岡中尉はその経験から想像する。
「リトルホーク! ロックオンされているぞ! 離脱しろ!」
「了解。これより回避行動に入る」
彼女が冷静に短く答えたその直後、音声に乱れが生じる。おそらく、マキナが大Gを掛けるような急旋回を行ったのだ。プールでのソミス中尉の言葉が森岡中尉の脳裏をよぎる。
機体が軋み、空中分解しそうな機動を、その細い体で平然とこなす少女。鷹の目を持つ彼女の指先が、バルカン砲の発射ボタンにかかる。ロックオン。瞬きする間に勝負はついている。きっと敗者は、自分の身に何が起こったのかすら理解しないうちに、墜ちていったことだろう。
森岡中尉の目には、彼女を乗せた機が、輝くヴェイパーの尾を引きながら飛んでゆく姿が見えるような気がした。
その後しばらく短く素早く、かつ緊迫したやり取りが続く。彼らの対応は迅速で冷静、飛行気乗りのお手本のようなものだった。これはもう遠い昔の出来事で、その戦いはとっくに終わっているというのに、自然と手のひらに汗がにじんでくる。森岡中尉は無意識のうちに、操縦桿を握るように拳を握り締めていた。
やがて戦いが終わったのだろう、それまでとはやや違ったマキナの声が響く。
「こちらリトルホーク。右エンジンに被弾。出力が落ちている。キャノピィが一部割れているが、今すぐ飛行に影響を与えるほどではない」
「基地までもちそうか?」
「わからない。出来る限りのことはやってみる」
その言葉の内容とは裏腹に、きびきびした彼女の口調は、いたって落ち着いたものだった。まるで、次に口を開いたときには、自分が墜ちようが墜ちまいが気にとめることでもない、とでも言い出してしまいかねない、そんな感じだ。
彼女の言葉とファイルの記録によると、そのとき彼女はキャノピィを割ってコックピット内に侵入した弾体片により、既にあの腕の傷を負っていたことになる。
だが、制御コンピュータが記録していた彼女のバイタル・データにはほとんど乱れが生じていない。わずかに血圧の低下が見られるが、それは健康な人間の誤差範囲と考えておかしくないレベルでしかなかった。
大した精神力だ。森岡中尉は、マキナのパイロットとしての資質に、あらためて舌を巻いた
「了解。あとはゆっくり飛ぶだけだ。無理はするな、危険だと思ったら射出し、救難ビーコンで救助を待て」
「了解」
「なあ、鷹羽少尉」
ふいに名を呼ばれ、マキナは明らかにぎくりとしたようだ。バイタル・データに記録されている心拍数が、急激に跳ね上がったのでそれとわかる。通常、戦闘行動中は互いを名前で呼び合うことはない。コードネームを使う。だから突然名前で呼ばれ、彼女は仰天したのだろう。
だがそんな彼女の心中になどまったく思い及ぶふうでもなく、都築中尉は何の前触れもなく気安げに語りだす。
「そう言えば、鷹羽少尉、あんたも日本出身だったな。あんたの歳なら、親御さんはまだご健在だろう。どうだい、たまには帰って顔を見せてやってるのかい?」
「都築中尉? 何をいきなり」
「まあ、そうかりかりせずに、聞いてくれよ。中年の戯言だと思ってさ」
都築中尉につられて、マキナもついうっかり名前で答えてしまう。おそらく本人もそのことに気付いてはいないだろう。
彼女は相変わらず戸惑っているようだ。心拍数がふらふらと落ち着かない。
彼は彼女をからかっているんだろうか、こんなときに。森岡中尉は訝しげに眉をひそめる。
「俺はもう一年以上帰ってないよ。――ああ、日本に帰りたいなあ」
都築中尉の重く、長い溜息が聞こえた。
「俺には、日本に残してきた、家族がいるんだ。妻と、中学生の娘がひとり。ちょうど鷹羽少尉と同じくらいの歳だよ」
「わたしは、とっくに中学校は出ています。そんなに子どもじゃない」
むっとしたようにマキナが返す。
都築中尉は一瞬の間の後、からからと笑った。
「あっはっは。そうかそうか。こりゃ失礼した」
「本当にそう思っていますか? とても信じられない」
「え?」
「だって、まだ笑っている」
「ああ、すまんすまん」
「……わたしはUAFに入隊してからは、一度も帰っていません。特に帰りたいとも思いませんし」
「そうかい? だって向こうには親御さんも友達もいるんだろう? 会いたくはならないのか?」
「友人とは電話でもメールでもやり取りすることができますし、だいたい外国で戦闘機乗りになったなんてこと自体、話していませんから」
「でも、親御さんは知ってるんだろう?」
今度はマキナが黙る番だった。
冷えてゆく彼女の心の中を映し出すように、心拍数がゆっくりと下がってゆく。
「知っていますが、今はどうでもいいと思っているはずですよ」
「どうでもいい? そんなはずはない。子どもが心配じゃない親なんていないぞ」
「――もういいです」
マキナは盛大に嘆息した。
「都築中尉、あなたはいったい何がしたいんですか」
「これを言ったら、あんたはきっと怒るだろうから言わなかったんだけどさ」
都築中尉はくすりと小さく笑ったようだった。
「おれはあんたと一緒に飛ぶようになってからずっと、娘と飛んでいるような気分だったよ。そりゃ、今みたいに神経すり減らして飛ぶことなんかしょっちゅうだけど、それでもあんたが元気で帰投するのを見るたびに、俺は一人で満足していたものさ」
「満足? どうして中尉が満足するんですか」
彼の言うことが、マキナには心底理解しがたいようだ。
彼女の語気からはそんな困惑した様子が感じられる。
「言っただろ? あんたと組んで長いけど、そのせいか、あんたのことが娘みたいに思えてたからだろうね。だからさ、あんたには何があっても無事に帰投してもらいたいんだよ。娘が墜ちていくのを見るなんて、親だったら誰でも嫌だろう?」
「何を勝手に。あなたはわたしの親ではない」
「勝手か――まあ、そうだな。あんたの言うとおりだよ、少尉。まあ、そんな負けん気の強いところも含めて、俺はあんたが嫌いじゃなかった、ってことさ。それに、俺みたいな物好きはきっと他にもいるだろう。あんたはいい奴だよ。自分では自分のことが、そんなに好きじゃないみたいだがな。あんた、自分のことが嫌いだろう?」
「ええ、そうですね」マキナは素直に頷く。「あまり好きではないです。どちらかというと、嫌いなのかもしれません」
「やっぱりな。でも、自分のことくらい、好きになってやんなよ。認めてやりな。嫌なところも全部含めてこその自分なんだから。この世界で自分くらいは、自分のことを認めてやらなきゃ、かわいそうだろ――」
「中尉?」
不意に、都築中尉の声が途切れる。マキナがコックピットの中で身じろぎする気配。
おそらく、あれだけ饒舌だった中尉が突然黙ってしまったことを怪訝に思って、並んで飛んでいた彼の機をキャノピィ越しに覗き込んでいたのだろう。
「――忘れるな、あんたは一人じゃないんだ。あんたが墜ちると悲しむ人間はきっといる。だから、何があっても生き延びろよ、蒔那」
「都築中尉? いったい、何を」
再びマキナの心拍数が急上昇する。それとほぼ時を同じくして、都築中尉の機体が不自然に大きくバンクした。そのまま、失速。彼の機体は、きりもみ状態で落下してゆく。
森岡中尉は愕然としていた。
都築中尉のバイタル・データが示す、彼の心拍数は、既にゼロを指していた。それまでにも、彼の心拍数に乱れがあることには森岡中尉も気付いていたが、それは戦闘時だからだと勝手に思い込んでいた。だが、そうではなかったのだ。
おそらく、都築中尉は最初のドグファイトか、もしくはその後に被弾していたのだ。ファイルの記録によると、彼の機体はキャノピィのすぐ下に被弾していたという。その苦痛の中、マキナにあのメッセージを残した彼の気力に、森岡中尉は頭の横を思い切り殴られたような強い衝撃を覚えていた。
ファイルに残ったデータは、その直後、マキナも機体を急旋回させていることを示していた。おそらく、彼女は彼の後を追ったのだ。結果などとうにわかっていただろう。だがそれでも、そうせずにはいられなかったのだ。
レコーダには、狂ったように彼の名を呼び続ける、悲鳴にも似たマキナの声が記録されている。
「都築中尉! 中尉、答えてください! 中尉!」
目のいいマキナは、その時に、もしかしたら気がついたかもしれない。ガルダ機のキャノピィの内側に飛び散った血痕に。
飛べなくなったんじゃない、戦えなくなったのだ、とマキナは言った。
叫び続ける少女の悲痛な声が、森岡中尉の耳に焼きついていつまでも離れなかった。
*
マキナはその日、目覚まし時計のアラームが鳴る前に目が覚めた。いつもとは違う倦怠感に、その理由に思い当たったマキナは額に手を当ててみる。案の定、微熱があった。おそらく昨日、長い時間スコールに打たれたせいだろう。
安静にしている分には問題なさそうだったが、IDAの講義はトレーナや練習機を使っての実習も多く、集中力を使う。ましてやブルー・フェアリーの練習はなおさらだ。大事をとって、休んでおくにこしたことはないだろう。
マキナは部屋に備え付けの電話を取る。森岡中尉の携帯電話に掛けたが、出なかった。諦めて次に掛けたのはパーシーだった。
「あれ? どうしたの、マキナ」
「うん、朝からごめん。なんだか風邪ひいちゃったみたいで、悪いんだけど、うちのクラスのチューターに、今日休むって伝えてもらえないかな」
「うん、わかった。お安いご用さ。でも、マキナは大丈夫なの? そっちは女子寮だからお見舞い行けないのが悔しいぜ」
「あっはっは。そうだね」
マキナは横になったまま、くすくすと笑う。パーシーの明るい声が、何だか嬉しかった。冷えていた胸の奥が、じわりと熱くなるのがわかる。
「でも大丈夫だよ、水分も食事もちゃんと取るから。動けないほどひどいわけじゃないんだ」
「そう? じゃあ、今日はゆっくり休んでね、マキナ」
「うん、ありがとうパーシー」
電話を切って、マキナはふうと重い溜息を漏らす。だるくて、ベッドから体を起こすのも億劫だった。自分の体が自分のものではないように重い。こんな感覚は久々だな、そう考えながら、マキナは左腕に残った傷を見遣る。熱のせいか、そこは赤く浮き上がっていた。
と、そのときだ。マキナの部屋のドアがノックされたのは。
「え?」思わずそう呟いて、マキナはルームシューズを突っ掛けると、パジャマの肩にコットンのパーカを羽織ってベッドを立つ。
「何よ、風邪っぴきだって?」
ドアの向こうから聞こえてきた声は、聞き慣れたものだった。反射的に開錠し、ドアを開ける。そこには既に制服に着替えたエルフリーデが立っていた。
「エリー?」
「こういうのを日本のことわざで、鬼の霍乱、っていうのかしら」
「ひどいなあ」マキナは苦笑する。
「そういえば、どうしてわたしが風邪ひいたことを知ってるの?」
「パーシーから連絡があったのよ。非常に残念だがおれは女子寮にはお見舞いに行けないから、お前が代わりに行ってやれって。まったく失礼な話よねえ。人を何だと思ってるのかしら」
「そうだったんだ」
そう言いながらエリーはいつもの調子でぷりぷり怒る。それすらも、今になってはマキナを日常に引き戻すものになっていたから、どこかほっとした気持ちになって、彼女は小さく吹き出した。
「何よ」
「別に。朝早くから元気だなあと思って」
「大きなお世話よ。熱は?」
「ちょっとだけ」
「たいしたことないのね?」
「うん」
「薬は?」
「ある」
「じゃあ、これ食べて薬飲んで、おとなしく寝てれば治るわ。郷に入っては郷に従えと言うしね」
そう言ってエルフリーデは何やら紙袋を差し出す。その中にはミネラルウォーターのボトルと、缶詰のチキン・ヌードル・スープが入っている。チキン・ヌードル・スープはここアメリカの代表的な病人食だ。それをドイツ人のエルフリーデが持ってきたという事実が、なんだかコミカルだ。そしてその実用一点張りのシンプルさが、とても彼女らしく思えた。
「ありがとう」
笑いながらも礼を言って、マキナはそれを受け取る。そのときマキナは他にも何かが袋の底に入っていることに気がついた。手を突っ込んで引きずりだしてみると、それはUAFが発行している情報誌だった。IDA構内でも配布している、一般的なものだ。
「これは?」
「まあ、ただ寝ているのも退屈だろうから、暇つぶしにはなるでしょ」
「ありがとう」
そう言ってマキナは笑ったが、ドアを開けたまま話し込んでいたので体が冷えたのだろう。小さく咳き込む。
「ほら、さっさと寝る。近々リモートショーがあるって言うし、明日の訓練は休んだら許さないから」
エルフリーデにぐいぐい押されて、マキナは部屋の中へ退散する。
「うん。わかった。ありがとね」
「礼には及ばないわ。じゃ」
そう言って、エルフリーデは背を向ける。だが、後ろ手にドアを半分閉めたところで彼女は立ち止まり、肩越しにこちらを振り向いた。何か忘れたことでもあったのかと、マキナは小首を傾げる。
「どうかした?」
パジャマ姿のまま佇む彼女の白い左腕からは、赤い傷痕がのぞいていた。エルフリーデのまなざしはそこへ注がれていたのだが、マキナ本人がそれに気付くことはなかった。エルフリーデは青い瞳を細める。
「なんでもないわ、じゃあね」
それだけを言い残して、金髪の少女は今度こそ本当にドアの向こうに消えた。
マキナはエルフリーデの持ってきてくれたスープを容器に移し、電子レンジで温めて食べた。
美味しかった。この国で暮らして、もうそれなりに長くなったが、チキン・ヌードル・スープを食べたのは、よく考えたら初めてだった。そう気づいたマキナに、ふと静かな笑みが浮かぶ。
まだ幼かった頃、彼女が風邪をひくたびに、母が作ってくれたのは卵入りのおかゆだった。その傍らで、父はりんごをすりおろし、ジュースを作ってくれた。どちらもあたたかな思い出の味であり、今はもう、味わうことのできないものだ。咽喉の奥がつまったように熱いものがこみ上げる。
体調が悪いから、きっと弱気になっているだけなのだ。マキナはごしごしと手の甲で目をこする。そして再びベッドにもぐりこんだ。薬を飲んで横になっていると、だいぶ楽になってきた。
おかげで、昼になる頃には、倦怠感はもうほとんど消えていた。熱いシャーを浴び、パジャマを着替え、すっきりしてベッドに戻ってきたマキナは、ふとデスクの上に置きっぱなしになっていたUAFの情報誌に何気なく目を留める。そして息を飲んだ。
そこに大きく取り上げられていたのは、UAFの新型兵器の特集だった。
銀色に輝く細長い形をした新型のミサイルであるそれは、まさに巨大な『銀の弾丸』そのものだった。
「銀の……弾丸……」
思わずマキナはそう声に出していた。咄嗟に頭に浮かんだのは、メロー元少尉の残した紙片のことだ。マキナはデスクの引き出しを開ける。そこにはあの紙片が捨てずに保管してあった。それを取り出し、慎重に広げてみる。
My mother has killed me.
My father is eating me.
My brothers and sisters sit under the table.
Picking up bury them under the cold marble stones.
そこに書かれているのは、相変わらず、あの数行の英文だった。あのときは、これがいったい何のことなのか、すぐにはわからなかった。何かの暗喩的なメッセージかとも思った。けれどもしかして、そうではないのかもしれない。
マキナは咄嗟にコンピュータを立ち上げてこの文章を打ち込み、検索する。それはイギリスの伝承童謡――いわゆる、マザー・グース――だった。
これは明らかにイギリス人であるメローが自分にあてたメッセージだ。マキナは続けて、この歌の題名と、その歌詞が指すものを調べて、息を飲んだ。
そして、紙片を手に持ったまま、急いで情報誌をめくる。そこに記載されていたのは、UAFの兵器アステロイドのバージョンアップの発表だった。
アステロイドは無人の攻撃兼偵察用兵器だ。その形状はほぼミサイルに近い。銀色をした巨大な弾丸と言ってもいいしろものだ。アステロイドは、酸化剤と燃料を混ぜて固体化させた固体燃料を使用した、強力な初期加速用ブースターを搭載し、主に航空母艦から発射される。そして、充分な速度に達した段階でブースターを切り離し、サスティナーでの巡航飛行に移るところまでの機構はミサイルとほぼ同じだ。
しかし、単なるミサイルとその大きな違いは、その性能なのだ。アステロイドはいったん発射されてしまえば、軍事衛星エルビスと搭載された制御コンピュータのダイレクト・データ・リンクにより、攻撃目標と自己の位置を自ら判断し、適切に空力制御を行いながら飛ぶのだ。
また、高速で飛行し、かつ戦闘機よりも遥かに小さいがために、迎撃による干渉を受けにくい。大火力による目標の破壊が主目的ではないから、長距離ミサイル程度の大きさなのだ。
その利点を生かして、敵地の情報をダイレクト・データ・リンクにより迅速かつ正確に味方機に提供し、最後には攻撃目標に自ら突っ込んで自爆する。いわば生きている自爆兵器と言ってもいい。
まさにそれは、宇宙からやってくるアステロイドなのだ。かつて、エースパイロットの名を欲しいままにしたマキナの能力をもってしても、いずことも知れぬ虚空から高速で襲いくる生きた弾丸、アステロイドを単独で迎え撃つのはひどく困難に違いない。
背筋をぞわりと悪寒がかけのぼる。このこととメロー元少尉の言葉とは、関連しているように見えて、実は何の関係もないのかもしれない。自分は彼に、ただからかわれているだけなのかもしれない。しかし、そうではない確率は、そうだという確率とも等しいのだ。
マキナは再び、電話を手に取っていた。
*
コールが五回ほど続いても、相手は出なかった。むしろそのことで、マキナはどこかほっとしていた。だが電話を切ろうとしたそのとき、耳に押し当てた受話器から短い応答が返ってくる。
「はい」
彼の声を聞きながら、マキナはどこかぼんやりと、メロー少尉はこんな声だっただろうか、そもそも自分はいったい何がしたくて、彼に連絡を取っているんだ、などと考えていた。そんな彼女の意識を現実に引き戻したのは、メロー元少尉の言葉だった。
「鷹羽少尉?」
いきなり名を呼ばれて、マキナは思わずびくりと肩を強ばらせる。
「鷹羽少尉だろ? きっと連絡くれると思っていたよ」
「よくわかったわね。わたしだって」
「そりゃあ、わかるさ」
電話の向こうの声が、嬉しげにはずむ。
「この番号は、あんたにしか教えてないから」
「どういうこと?」楽しそうなメロー元少尉とは対象的に、マキナは眉をひそめる。
「いったい何がしたいの? あのメモは何?」
「メモ?」
「とぼけないで。あれは何? わたしにいったい何を言いたいの?」
「それはこの電話では言えない」
「なぜ」
「盗聴されているおそれがあるからだ」
「盗聴? メロー少尉、いったいあなたはなにをしたの?」
「俺? 俺はまだなにもしちゃいないさ。さっき、盗聴されているおそれがある、と言ったのはそちらのことだ。もしかして自覚がないのか?」
「わたし?」マキナは目を見開く。「わたしが? どうして?」
「やっぱりな。あんたは昔からそうだったよ。もっと他人を疑うことを覚えたらいい。そうでないと生き残っていけないぜ」
「あなたにそんなことを言われる筋合いはないわ」
マキナはむっとして眉をひそめる。
「わざわざあんなメモをよこして、そんなくだらないことが言いたかったのなら、もう切るわ」
「悪かった。悪かったよ、切らないでくれ。まさか本当に連絡をくれるなんて思わなかったからさ。つい嬉しくて調子に乗ってしまった。すまない。それに、どうやら俺の取り越し苦労だったようだしな」
「取り越し苦労?」
「ああ。実は電話が掛かってきたときに、もう確認しておいたんだ。それで、安全だとわかったから出たのさ」
「そんな短い時間で、確認したっていうの?」
「これくらいで何を驚いているんだよ、鷹羽少尉? 俺がばりばりの理系でアビオニクスのプロだってことを忘れてるのか?。まあもっとも俺からしたら、あんな鉄の塊に乗って音速で飛ぶあんたらの方が、よっぽど信じられない生きものだけどな」
言われて改めてマキナは思い出す。
そうだった。彼は自分と共にヴァーノン大佐の肝いりで、UAFに入隊したんだった。
だが、そう考えてみればみるほど、自分はこのダミアン・メローという人間について何も知らないことに気がついた。せいぜい、同じアリゾナの基地で任務についていた、ということくらいだ。
だが、彼の方は退役してからもその手腕を生かして情報網を張り巡らせ、自分が今はIDAにいることどころか、あのショッピング・モールにいることまで把握して接触してきた。
悔しいが、情報収集能力という意味では、絶対的に不利な状況にある自分に、このときマキナは初めて気がついた。
「少し、会って話ができないかな、少尉。この間は邪魔が入ってしまったからね」
「会って? なぜ。意味がないわ」
マキナの言葉にメロー元少尉はふ、と息を吐いた。
「そうかな。意味がないことだとは思わないけれど」
「どうしてそう言い切れるの。その根拠は?」
「根拠か。実にあんたらしいね。チキン・ヌードル・スープでも飲みながら、ゆっくり話したいだけなのに」
咽喉の奥に、何か冷たいものが詰まったような感覚がこみあげる。
「少尉――」マキナの声が低いものになる。
「おや、どうした? 声の調子が変わったね。風邪のせいかな?」
「メロー少尉、あなたの目的は何? ふざけているだけ? それとも――わたしを本気で怒らせたいの?」
「やっと本気になってくれたようだね。言っておくけど、俺は盗聴なんて野暮なことはしてないぜ」
電話の向こうのメロー元少尉が、小さく笑った気配があった。
「直接会おうが会うまいが、あまり変わらないってことだけはわかってくれたかな。だったらきちんと対面の場を設けるのが紳士的だ、そうは思わないかい」
「わかったわ。場所と時間を指定して」
「いつでもいいよ。今すぐにでも。だけど君にもシャワーを浴びる時間くらいは必要だろう?」
「あまり調子に乗ると、切るわよ」
「ごめんごめん。つい、さ。今、そっちのコンピュータに地図を送るよ。十五時にそこで待ってる。ああ、もちろんわかってると思うけど、一人で来なよ。デートは一対一でするものだからね」
*
ヴァーノン大佐の朝の日課は、まず濃いエスプレッソを味わうことから始まる。
その日、いつものようにエスプレッソを楽しんでいた大佐の優雅なひとときを邪魔したのは、一本の電話だった。電話機の小さなディスプレイに表示された発信元の番号は、IDAの構内からのもの。
「朝から申し訳ありません、ヴァーノン大佐。少しお時間いただいてもよろしいでしょうか」
その電話の主は、開口一番そう謝罪した。大佐のオフィス直通の、この電話番号を知る数少ない人間である彼は、もちろん大佐の日課を知っている。
ヴァーノン大佐はデミタスカップをソーサーに戻すと、深い皺の刻まれた口元をゆるめた。
「かまわんよ。久しぶりだね、森岡中尉」
「大佐、実は――マキナ・カガミのことでお話があります」
「マキナ? ああ、鷹羽少尉のことか」
「……隠そうとは、なさらないんですね」
電話の向こうから聞こえてくる青年の声に、大佐を責めるような響きがこもる。
ヴァーノン大佐は革張りの椅子に身を沈めると、残りのエスプレッソを味わった。
「その必要はない。そろそろこうして君から電話が来る頃だと思っていたよ」
「なぜ、彼女がUAF正規軍で実戦を経験した者であることを、最初から教えていてくださらなかったんですか」
「必要ない、と判断したからだ」
「必要ない?」
森岡中尉は、怒りにも似た感情をおぼえて語気を強めた。
「どうして必要ない、などと言い切れるのですか。私はチームの責任者です。彼女たちの心身についての健康管理も重要な仕事です。そのためには、彼女たちの性格、これまで歩んできた道筋、思考パターンなどをできるだけ詳細に把握する必要がある。それをあなたはご存知のはずだ」
「では訊こう、中尉」
電話の向こうで、カチリと小さな金属音。
おそらく大佐が愛用の葉巻に火を点けたのだろうと知れる。
「彼女が実戦経験者なのを君たちが知らなかったことで、訓練に何か支障が出たかね? せいぜい、他のメンバーが不満を漏らした、その程度ではないか。不公平だとかなんとかとね」
「それは……仰るとおりです」
「その程度は支障とは言わない。それは言うなれば誤差の範囲だ。君の裁量一つでどうとでもなる。言いたい輩には思う存分言わせておけばいい。日本風に言うなら、人の口に戸は立てられんからな。だが人間は飽きやすい。放っておけば、すぐに慣れる」
大佐は煙を吐き出す。
「それよりも大事なのは性能だ。兵器としての性能だよ、中尉」
「兵器……ですか」
「そうとも。兵器だ。彼女は実に高性能の兵器だよ」
「大佐は、マキナを人間ではない、殺戮のための道具だと仰るんですか」
「そんなことは言っていない」
「ですが、そう仰っているのと、ほぼ同義です」
「森岡中尉」ヴァーノン大佐は嘆息する。「単刀直入に言いたまえ。用件は何かね。まさかたったそれだけのことを言いに、わざわざ私の朝の貴重な時間を奪おうと思ったわけではあるまいね」
「はい」森岡中尉は唇を噛み締めた。「率直に申し上げます。大佐はこの後、彼女をどうするおつもりなのですか。アカデミー卒業まで、彼女を見守るおつもりですか。それとも――」
「UAFは鷹羽少尉を手放すつもりはない」
森岡中尉が言い終わらないうちに、その語尾を遮るように大佐は鋭く言う。
「今の彼女は一時的に故障しているだけだ。いずれ本来の性能を取り戻すときが来る。だが、それまで遊ばせておくわけにもいかない。せっかくの翼が錆びついてしまうからな。そのためのブルー・フェアリーであり、IDAだよ。事実、彼女の腕は他のメンバーと比べても遜色あるまい?」
「それは、いずれ彼女にアカデミーを強制的に中退させて、UAFに復帰させるということですか?」
「そう受け取ってもらっても、かまわんよ。彼女の後見人は私だ」
「もし、本人がそれに反対したら、どうなさるおつもりですか」
「なに?」
大佐の声に、かすかな怒気が混じる。
無意識に肩がすくむのを感じたが、森岡中尉は電話を握り直し、続けた。
「マキナがもし戦闘機乗りには戻りたくない。このままアクロバット機のパイロットとして飛び続けたいと言ったら、大佐はどうなさるおつもりですか、と申し上げたのです」
「それはないな」
「は?」思いもよらない言葉に、中尉は目を瞬く。
「君はまだ若い。そして経験不足だ。人間というものが、よくわかっていない。少尉はそこまで愚かではないよ。その意味では、君よりも鷹羽少尉の方が余程この世界の仕組というものを正確に理解している」
「パイロットは軍の中ではエリートです。それに、既に尉官の地位にある彼女ならば、望めばIDA卒業と同時に、後方支援の職務あるいは地上勤務を望むことも可能なはず。彼女が、必ずしも戦闘機乗りに戻りたいと思っているとは限らないでしょう」
「そう発想すること自体が、君が人間というものをよくわかっていない証拠なのだよ」
大佐は煙を吐き出すと、マホガニー材のデスクの上の灰皿に葉巻を置いた。
「大方、彼女がこぼした愚痴か戯言を、君は鵜呑みにしているだけに過ぎない。違うかね、中尉?」
「それは……」
ヴァーノン大佐の言うことは、何から何まで、まるで実際に見てきたかのようにそのとおりだった。それは森岡中尉に苦い敗北感を味わわせる。
「人間が口にする言葉の全てが本心だとは、思わんことだな。人間は、本心とは違うことを口にすることができる生きものだ。また逆に、本心で望んでいるとおりに生きることができない厄介な生きものでもある。我々は動物のように、望んだままに生きてはゆけないのだ」
大佐は小さく息を吐いた。
「彼女に情が移ったかね、森岡中尉」
「そんなことは――」
「彼女はかつて、君が師事し、あの事故で命を落とした鷹羽大尉の一人娘だ。そう、本人から聞いたのではないかね。そんな彼女に、情が移っていないと君は言い切れるか?」
森岡中尉には、返す言葉が見つからない。
「あの事故のとき、大尉は君を救うため、咄嗟に機体をわずかに旋回させた。結果、君は助かり、大尉は空に散った。私は鷹羽少尉に無論、そのことを話してはいない。しかし、それこそ数え切れないほどに、事故当時の記録映像を見つめてきた彼女はわかっているだろう」
手のひらにじっとりと、冷たい汗がにじんでくる。その感触は、戦闘飛行中の緊張状態によく似ていた。
飛行中はフライトグローブをはめているから、操縦桿が滑って操縦を誤ることはない。けれどここは地上だ。それを防いでくれるグローブはない。ましてや、身を守るキャノピィもなければ、攻撃に用いる機銃もない。
自分はなんて無力なんだ、と森岡中尉は唇を切れるほどに噛み締めた。口の中に鉄錆の味が広がる。悪酔いしそうだ。
「認めることだ、森岡中尉。彼女はいずれ自らUAFに、戦いの空に戻ってくる人間だ。彼女が最もその力を発揮できるのは、曲技の舞台ではない。戦いの舞台なのだよ」
それだけを言って、大佐は電話を切った。
全身をどっと疲労が襲う。森岡中尉は電話を切ってクレイドルに戻すと、ソファにどさりと倒れこむように横になった。
いやな疲労だ。冷たい汗で、手のひらばかりか額もじっとりと湿っていた。
緊張して電話を握っていたせいか、指先がしびれている。横になったまま、何度か握ったり開いたりを繰り返して、森岡中尉は重く嘆息した。
久しく忘れていた、実戦の感覚――操縦桿を握る感覚を思い出す。これが実戦であったなら、ぼくは大佐に撃墜されていたのか。それとも、一矢なりとも報いることはできたのだろうか。
ふと顔を傾けた拍子に、デスクの上に置きっぱなしだった仕事用の携帯電話が目に入る。その表面の小さなランプが明滅し、着信があったことを持ち主に告げていた。
*
メロー元少尉に指定されたのは、連絡船オービター内のカフェだった。
「こっちだよ、ガトリング・ホーク」
海がよく見えるパラソルの下のテーブルで、薄い色のサングラスを掛けたメロー元少尉が手を振っていた。その人目を引く容貌とあいまって、彼は遠くからでもよく目立つ。
マキナが席につくと、ウェイターが紙カップに入った温かいカフェオレを二つ持ってきた。事前にタイミングを見計らって、彼が注文しておいたのだろう。用意のいいことだ。
「これは俺のおごり。風邪、よくなったのかい」
「熱は下がったわ」
マキナはカフェオレに口をつける。そのまま上目遣いに彼を睨みつけた。
「あなたがこんなところに呼び出しさえしなければ、今頃まだ部屋でゆっくり休んでいられたわよ」
「ごめんごめん。そんなに怒らないでくれよ」
「もし風邪がぶり返したら、責任取ってくれるって言うのならね」
「責任? そりゃ困ったね。いったい何をして償えばいいのやら」
「何も。何もしないでいてくれるのが一番よ」
「相変わらずクールだ」
そしてサングラスの隙間から、彼は面白そうにマキナの顔を覗き込む。
「なあ、こうしていると、俺たちってふつうのカップルに見えるかな」
思わずマキナはカフェオレをごくりと飲み込み、むせる。
「あ、あなた、いったい何なの」
「ごめんごめん。つい、からかってみたくなってさ」
メロー元少尉はけらけらと笑う。こちらの調子を乱されっぱなしで、マキナは眉をひそめた。
「手短に話しましょう。あなたの目的は何? メロー少尉」
「せっかちだなあ」
「生まれつきよ」
マキナは目を細める。それは照準を合わせるときの目だ。
昨日のスコールが嘘のように晴れた空から降る陽射しは強い。メロー元少尉はサングラスの位置を直すと、腕を組んで背もたれに寄りかかる。
「あなたがあのとき言った銀の弾丸――あれは、UAFのミサイルのこと?」
「正確には、単なるミサイルではないけどね」
「認めるのね」
「せっかくここまで来てくれたんだ。隠す必要はないだろう?」
「あなた、いったい何を企んでいるの? それに、わたしを監視してどうする気?」
「監視とか企むとか、ひどい言いようだなあ。俺はただ単に、あれを使っただけさ」
そう言って彼は上を指差す。
つられて見上げたマキナの目に映ったのは、青く澄んだ空だった。
「あれって――」何もないでしょう、と言いかけてマキナは口を噤む。
「まさか、衛星?」
「ご名答」
そのままの姿勢でメロー元少尉は微笑んだ。アステロイドは軍事衛星エルビスとのデータ・リンクにより自己の位置を常に確認しながら飛ぶ兵器だ。そのエルビスは、地上五百キロメートルの高度から、解像度五センチメートルという数値を実現している高性能なものだ。
「まさか、軍事衛星にハッキングしたわけじゃないでしょうね、少尉。UAFに知れたら、ただではすまないわよ」
「足跡を残すようなへまはしないさ。元はと言えば、俺が設計したものだしな」
「設計?」マキナは目を丸くした。「あなたが?」
「何を驚いてるんだい、ガトリング・ホーク。あんたも似たようなもんだろう? もっとも、あんたにとっちゃ、父親がテストパイロットとして開発に協力したダルフィム以外は、単に自分を空に連れて行ってくれるための道具だったのかもしれないがね」
ダミアン・メローは口元を歪めて笑った。
「UAFにいる間に何回か機が変わっただろう? あれはあんたの腕に合わせてどんどん機体に改良が加えられていっていたからなんだぜ。俺はそのとき既に干される寸前だったから、戦闘機の設計には参加させてもらえてなかったが、あんたの機の開発を担当していたチームはそりゃ得意気だったぜ。ガトリング・ホークが今の成績をたたき出せているのは、全部俺達の技術のおかげだってな。あんたはそんな技術屋連中のことなんて、知る由もなかっただろうし、興味もなかっただろうけどね。もっとも、今はさぞかし悔しがっているだろうよ。あんたという、絶好の実験材料を失っちまったんだからね」
「実験? そんなことはありえないわ。大佐が許可するはず――」
「それすらも大佐にとっては計算の範疇内のことだった、って言ったら、どうする?」
マキナはまだ何か言いたそうにしていたが、メロー元少尉はカフェオレを啜ると、それを遮るように続けた。
「あれこれのネタばらしはおいおいするとして、そろそろ本題に入ろうか。直接会って話がしたかった一番の理由は、あんたの意思を確かめたかったからさ」
「意思?」
「あのマザー・グースの意味、わかったんだろう? だからこそあんたはそんな風にぷりぷりしている。違うかい?」
「確かに意味は調べたわ。でも、わたしには理解できない感情よ。あなたと一緒にしないで」
「ほんとうにそうかな? あんたはある意味では俺と同じだ。ヴァーノン大佐の秘蔵っ子、という意味ではな。残念ながら俺はその期待に応えられず、脱落した身だが」
「わたしはあなたとは違う」
「そう。そうだな。確かに俺とあんたは違うよ。あんたはパイロット、そして俺はアビオニクスの技師。飛行機乗りと技術屋だ。だけど一番の違いはそこじゃない」
彼は煙草をポケットから取り出して、咥えると火を点ける。吐き出された薄雲のような白煙が、青空を遮るヴェールのようにたなびく。
「俺は今日まで、ただの一度もヴァーノン大佐を恩人だなんて思ったことはない」
「なぜ?」
マキナは反射的に口を開いていた。
「わたしがそうだったように、あなたも大佐にいろいろよくしてもらったはず」
「そうだな。その意味では確かにそうだ。だけどそれは、俺が望んだことじゃない。俺は一度も、こんなふうにしてくれと大佐に申し出たことはなかった。俺にはUAFの子飼いで終わるつもりは初めからなかった。だけど大佐が望んだのは、従順で優秀な技術者だ。自分の発言力を軍内部で強めるための器械(ツール)の一つにすぎない」
「あなたはそれがわかった上で、大佐についてきたんじゃないの?」
「あんたにはそれがわかっていたと?」
マキナは薄く微笑う。海風にあおられた黒髪が揺れて、その白い頬をなでた。その表情はどこか、人形めいて見えた。
「わたしは兵器よ。はじめから」
「そうか、そうだな。そうだったな」
メロー元少尉はくくっと声を殺して笑うと、短くなった煙草を灰皿に押し付ける。
「どうやら俺は、あんたという人間を見くびっていたようだ。情報の修正が必要だな。これでわざわざこうして出てきた甲斐があるってものだ」
そしてサングラスを外す。濃い碧色をしたその瞳には、軽い口調とは裏腹に、真剣な光が宿っていた。
「電話じゃなく、どうしても実際に確かめたかった。電話では顔が見えない。いくらでも都合のいい自分を演じることができる。けれど人間の目は嘘をつかない。だからこうして会って、直接話せばわかる」
「それで、何かわかった?」
「ああ」頷き、彼は肩をすくめる。「あんたは嘘をついていない。それがわかった」
「あなたに嘘をつく必要はないわ。つかない必要もないけどね」
「残念だな。いいように利用されていた者同士、わかりあえるチャンスかと思ったんだけど」
「利用?」
マキナは口元に笑みを浮かべる。それは嘲るような笑みだった。
「利用することもされることも、悪いことだなんて思わない。お互いさまだもの」
「そうか、あんたは単に大佐に利用されるだけのロボットかと思っていたが、そうではないんだな。むしろ、大佐を利用しているのはあんたの方だ、とも言えるわけか」
「人間は、自分ひとりの力では生きられないわ。もしそう思っている人間がいるとしたら、そいつは手の施しようのない馬鹿よ」
「それはあんたの持論か。正論だな」
ひとりごとのように呟いて、メロー元少尉は顎に手を当てる。
「ヴァーノン大佐にとって、あんたは猫みたいなものなのかもしれないな」
「猫?」
「大佐もきっと、呼べば脇目もふらずに飛んでくる、従順な子犬が欲しいなどとは考えていないだろう。そういった輩なら掃いて捨てるほどいるだろうし。だいたい、あんたがそんな素直な子には見えないしな」
「大きなお世話よ」
「そう怒るな。褒めてるんだよ。ただ愛想がいいだけの子犬なんて、親代わりの大佐は望んでいないだろう。そうでなければ、家出して行き倒れ同然だったあんたを拾い、後見人にまでなってやる理由はない。それはあんた自身もそうだろう?」
赤みがかった金髪の青年は、目を細める。
「どのみち、もうあんたには戻るところなんてないしな」
「な……」
「弟、生まれたんだろ、あんたの家」
「そんなことまで――」
マキナは息を飲む。それはマキナ本人すら、かつての友人を通して知ったばかりのことだった。もちろん、両親から直接連絡があったわけではない。
「母親にしてみりゃ、これでいよいよ一安心ってところだろうな。父親にしても、もうあんたに未練などないだろう。本当にあのマザー・グースの内容が、理解できないかい、鷹羽少尉?」
反射的にテーブルを叩きつけて、マキナは立ち上がっていた。
怒りに燃える瞳が、彼を見下ろす。テーブルに立てられた爪が、彼女が胸中で暴れる感情と必死に戦っているさまを物語っていた。しかしメローは落ち着きはらった様子でサングラスを元のようにかけると、口元に笑みを浮かべる。
「俺と来ないか、少尉」
「なにを……」
「ヴァーノン大佐は、俺がこれ以上役に立ちそうもないと判断すると、まるで壊れた器械を棄てるように放逐した。大佐に心酔していなかった俺も悪いんだろう。だから復讐だなんだって、了見のせまいことを言いたいわけじゃない。ただ、器械同然に扱われた人間の気持ちを、大佐にも理解してほしいだけさ」
そして、彼もまた立ち上がった。マキナよりもずっと背の高い彼の肩が、彼女の顔に影を落とす。
「俺はあんたに興味がある。ほかの誰でもない、あんたに興味があるんだ」
メロー元少尉は背を屈め、マキナと目の高さを合わせてくると、囁くように告げた。頬に吐息が触れるほどの距離。彼の美しい碧色の目に笑みが浮かぶ。
「俺と来い。そうすればあんたを利用しようとする、すべてのものから解放してやれる。俺があんたの居場所を作ってやる」
「そんな話に――わたしが乗ると思ってるの? だとしたらあなた、本当におめでたいわ」
嘲るように目を細めるマキナに、彼は口の端を吊り上げてみせる。
「残念だが、あんたに選択肢はない。俺の承諾を飲んで一緒に来るか、さもなければ死ぬか、そのどちらかだ」
「脅迫なら、通じないわよ」
「俺にはあのでかい銀の弾丸を発射できる技術がある。準備さえ整えば、引き金を引くのはいつでも可能だ。そしてあんたはもちろん大佐にも、その弾丸を防ぐ盾はない。そんなものはこの世界中、どこにもないがね」
「あなたがアステロイド、そしてそれをコントロールしている軍事衛星に介入できる証拠がないわ。わたしにそれらを信じさせたいのなら、それなりの証拠を用意することね」
「証拠なら、あるさ」
「じゃあ、それを示してみせて」
「いいとも」メロー元少尉は煙草に火を点けると、煙を吐き出す。
「半月後に、日本で開かれるサミットに合わせたリモート・ショーがあるだろう。あんたたちブルー・フェアリーはそこに招待されている。IDAを飛び立ったあんたら五機は一度厚樹基地に降り、そこで給油をする。そしてサミット会場である、東京湾に接岸されている豪華客船の上空でショーをする。だろ?」
「それは既に発表されている情報よ。何も驚くことはないわ」
「そうだな。だがそのショーで、あんたは新規参入メンバーとしては珍しく、急遽ソロのパートを任された。新人には普通、ソロはまわってこないもんだ。あんた、認められているんだな、教官にも。いや、それも大佐のてこ入れかもしれないが」
マキナは目を見開いた。それはマキナ自身も、つい二日前に知らされたばかりの情報なのだ。昨日、森岡中尉と話す前に読んでいた資料もそのショーに関するものだった。
ブルー・フェアリーのメンバーとなって初となるショーの参加。ましてやその中のソロ。
オルケストラ(舞台)は広い空。遮るものの何もない、海の上の舞台なのだ。家出同然に出奔して以来、一度も帰っていない故郷の青い空を、胸を張って飛べる。それはどれほど気持ちがいいだろう。だから、それをマキナ自身も密かに楽しみにしていたのだ。
ショーの日程はだいぶ前から決まっていたが、当時はブルー・フェアリーのメンバーが一人足りなかったこともあり、プログラムはまだ未確定だった。それがマキナの入隊により、フルメンバーでのプログラムが構築できることになったため、森岡中尉は急遽プログラムを書き換えたのだ。変更後のプログラムについての資料がメンバー全員に配布されたのが、二日前のこと。
マキナの表情を見たメロー元少尉は、唇が触れ合いそうな距離に顔を近づけて、その整った顔をゆがめて微笑んだ。
「アトロポスは人間の命の糸を断つ無慈悲な女神の名だ。人間は、その鋏からは逃れられない。だから悲運に見舞われて命を落とした者は、かの女神を恨むのさ。彼らにしてみれば、アトロポスは悪魔に見えているだろう。その名を持つ機体の乗り手にあんたが選ばれたのは、ただの偶然かそうでないのか……俺にはわからないがね」
紫煙が霧のように視界を覆う。思考が麻痺しそうに強い、煙草の匂い。
マキナは目を細める。メローは続けた。
「鷹羽少尉、あんたに選択肢はないんだ。もし答えがNOなら、悪魔を滅ぼす銀の弾丸が、東京湾上空でその悪魔ごとあんたを射抜くだろう」
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「俺と許嫁だってこと、絶対誰にも言うなよ」
星奈には、いつも冷たくてそっけない陽向だったが……。
「星奈ちゃんって、ほんと可愛いよね」
「僕、せーちゃんの彼氏に立候補しても良い?」
ある時から星奈は、バスケ部エースの水上虹輝や
帰国子女の秋川想良に甘く迫られるようになり、徐々に陽向にも変化が……?
「星奈は可愛いんだから、もっと自覚しろよ」
「お前のこと、誰にも渡したくない」
クールな幼なじみとの、逆ハーラブストーリー。
ノースキャンプの見張り台
こいちろう
児童書・童話
時代劇で見かけるような、古めかしい木づくりの橋。それを渡ると、向こう岸にノースキャンプがある。アーミーグリーンの北門と、その傍の監視塔。まるで映画村のセットだ。
進駐軍のキャンプ跡。周りを鉄さびた有刺鉄線に囲まれた、まるで要塞みたいな町だった。進駐軍が去ってからは住宅地になって、たくさんの子どもが暮らしていた。
赤茶色にさび付いた監視塔。その下に広がる広っぱは、子どもたちの最高の遊び場だ。見張っているのか、見守っているのか、鉄塔の、あのてっぺんから、いつも誰かに見られているんじゃないか?ユーイチはいつもそんな風に感じていた。
生贄姫の末路 【完結】
松林ナオ
児童書・童話
水の豊かな国の王様と魔物は、はるか昔にある契約を交わしました。
それは、姫を生贄に捧げる代わりに国へ繁栄をもたらすというものです。
水の豊かな国には双子のお姫様がいます。
ひとりは金色の髪をもつ、活発で愛らしい金のお姫様。
もうひとりは銀色の髪をもつ、表情が乏しく物静かな銀のお姫様。
王様が生贄に選んだのは、銀のお姫様でした。
極甘独占欲持ち王子様は、優しくて甘すぎて。
猫菜こん
児童書・童話
私は人より目立たずに、ひっそりと生きていたい。
だから大きな伊達眼鏡で、毎日を静かに過ごしていたのに――……。
「それじゃあこの子は、俺がもらうよ。」
優しく引き寄せられ、“王子様”の腕の中に閉じ込められ。
……これは一体どういう状況なんですか!?
静かな場所が好きで大人しめな地味子ちゃん
できるだけ目立たないように過ごしたい
湖宮結衣(こみやゆい)
×
文武両道な学園の王子様
実は、好きな子を誰よりも独り占めしたがり……?
氷堂秦斗(ひょうどうかなと)
最初は【仮】のはずだった。
「結衣さん……って呼んでもいい?
だから、俺のことも名前で呼んでほしいな。」
「さっきので嫉妬したから、ちょっとだけ抱きしめられてて。」
「俺は前から結衣さんのことが好きだったし、
今もどうしようもないくらい好きなんだ。」
……でもいつの間にか、どうしようもないくらい溺れていた。
不幸でしあわせな子どもたち 「しあわせのふうせん」
山口かずなり
絵本
小説 不幸でしあわせな子どもたち
スピンオフ作品
・
ウルが友だちのメロウからもらったのは、
緑色のふうせん
だけどウルにとっては、いらないもの
いらないものは、誰かにとっては、
ほしいもの。
だけど、気づいて
ふうせんの正体に‥。
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