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エピローグ
エピローグ
しおりを挟む病院の白い廊下はアルコールの匂いがする。
ガラス窓の外を、遠雷のような残響を残して飛び立ってゆくのは、きっと練習機だろう。
薄い翼が風を切る音に、ベッドにもたれて本を読んでいたマキナは顔を上げた。
その途端、視界に飛び込んできたのは小さなエアプレーンだった。
それは白い病室の天井すれすれを飛び、わずかに身体を捻るようにしながら、ゆるゆると高度を下げる。
思わずマキナは手を伸ばし、落ちてしまう寸前のそれをつかまえた。
受け止めたそれをまじまじと見て、マキナは小さく笑う。
その白いボディには、ご丁寧にスカイブルーのマーカーで、D‐3と同じ、三本のラインと星型のペイントが施されていた。翼には見覚えのある文字が並んでいる。
ドアの方から小さな拍手。
振り向くとそこに見慣れた顔があった。
「やあやあ、ナイス・ランディングだ。でもちょっとエルロンの調整が必要かもな」
「中尉」
「ぼくのお見舞いは気に入ってもらえたかな?」
「ええ。とっても」
マキナは微笑む。その小さな飛行機の翼にびっしり並んでいたのは、エリーたちブルー・フェアリーのメンバーの手書き文字だった。みんな、思い思いにマキナの体調を気遣うメッセージを綴ってくれている。
「体調はどうだい?」
森岡中尉はベッドサイドの簡易椅子を引いて腰掛ける。
「ええ、今日は調子がいいんですよ。検査の結果次第では、来週には一般病棟に移れるかもしれないって」
「そりゃよかったな。みんなも君が一般病棟に来るのを待ってるよ」
「みんなは元気ですか?」
「ああ。みんな退屈で仕方ない、早く飛ばせてくれってうるさくてさ」
「何だか、想像できる気がします」
マキナは相好を崩す。
だが、すぐにその目に暗い影が差した。
「エリーは……エリーは、どんな処分を受けるんですか?」
「今回の働きに免じて、お咎めなしとなるよう、ヴァーノン大佐が動いてくれているよ。きっと、期待どおりになるだろう」
「そうですか。よかった」
ほっとしたようにマキナは微笑む。おかげでその頬に、ほんのりと赤みが戻った。
「ここに来る前、新しい報告があったんだが、メロー元少尉の行方は、まだわからないそうだ。今、UAFとFBIが全力を挙げて捜索を続けている」
「――彼は、生きているんでしょうか」
「わからない。彼が潜伏して、軍事衛星や我々の通信回線への侵入工作を行っていたと思われる構内の建物は、爆弾でも落ちたかのように、きれいに吹き飛んでいたからね。死傷者が出なかったのは奇跡としか言いようがないよ。もっとも、まだ彼自身の遺体も見つかってはいないし、彼が実際にIDA構内からエルビスにハッキングを仕掛けていたという証拠は、何もないしね」
「彼はきっと、生きていると思います」
「そうだな、ぼくもだ。しかし、仮に生きていたとしても、彼のことだ。そう簡単には捕まらないだろうがね」
「わたしも、そう思います」
マキナは言って、目線を窓の外へと向ける。
青い空には幾つかの飛行機雲。無意識にか、マキナの目はその行方を追っていた。
「母がぼくを殺し、父がぼくを食べた。きょうだいたちはテーブルの下に隠れていて、ぼくの骨を拾って冷たい石の下に埋めた……森岡中尉、わたし、思うんです。彼はほんとうは、わたしを仲間に引き入れようとしたわけではなくって、わたしが羨ましかったんじゃないか、って」
「羨ましい?」
「はい」
マキナは頷く。そして、ベッドサイドの物入れの小引き出しを開けると、父の形見の腕時計をそっと取り出した。
「わたしと違って、本当の父と過ごしたことのない彼には、もちろん父親との温かい思い出なんてないんです。だからメロー少尉にとってのヴァーノン大佐は、本当の父親同然だったと思うんです。尊敬して、憎んで、愛して……彼は愛してほしかったんだと思うんです、きっと。本音は、ただそれだけだったんじゃないかなと思うんです」
「でも、大佐はこれ以上ないほどにリアリストな方だ」
森岡中尉のひとことに、マキナは腕時計から目を上げて、そっと頷く。
「はい。ここ数年は、大佐の興味はおそらく、華々しい成果を出しやすくて目立つわたしの方に向けられていました。わたしはたぶん、自分が彼よりも大佐に重宝がられていることで、いつの間にか思い上がっていたんだと思います。このUAFこそ自分の居場所、此処こそ自分が自分でいられる唯一の世界なんだ、それをわたしは自分の手で掴んだんだ、どうだすごいだろう、って」
そして、大きく息を吸った。
「ばかみたいですよね、わたし」
マキナの瞳には涙はなかったが、そう呟くその声には、隠しようもない震えがあった。
「なあマキナ。ちょっと、新鮮な空気を吸いに出かけてみないか」
森岡中尉はわざと明るい声を出して立ち上がる。
軽く驚いたようにマキナは目を瞠った。
「出かける? どこへです?」
「秘密。まあ、来ればわかるさ」
「でも、ドクターの許可は……」
「大丈夫。少しなら問題ないって。まあ、もし無理させてクランケの体調が悪化したら責任取ってくださいね、って念入りに釘を刺されたけどね」
そう言って、森岡中尉はベッドサイドの車椅子を引き寄せると、マキナの膝下にやさしく腕を差し入れて、抱き寄せる。どうしてよいのかわからないといった顔で見上げてくるマキナに苦笑して、森岡中尉はその耳元に囁いた。
「マキナ、ちゃんと掴まってくれないと、落ちてしまうよ?」
「掴まってって……自分で乗れます」
「いいからいいから。こういうときは素直に甘えるものだよ」
マキナは頬を染めて困った顔をしていたが、意を決したように唇を引き結ぶと、その細い腕をおずおずと伸ばしてくる。そうして、森岡中尉の首に絡ませ、自分の身をそっと引き寄せると、その広い肩に額を押し当てた。鳥のように大空を飛ぶ姿からは想像がつかないが、こんなとき、どんな顔をしていいのかわからないのだろう。
おかげで、森岡中尉が彼女の表情をうかがい知ることはできなかったが、パジャマの襟からのぞく細い首筋は、ほんのりと赤く染まっていた。
それに気付いた森岡中尉は、これ以上ないほどにやさしい笑みをこぼす。
しかし、今それどころではないマキナは、そんな中尉の笑顔を見ることはできなかった。
森岡中尉が車椅子に乗せたマキナを連れ出したのは、IDA構内のブルー・フェアリー専用練習場だった。懐かしい匂いでも嗅ぐように、マキナは胸いっぱいに大きく深呼吸する。
「なんだか、すごく久しぶりにここへ来たような気がします」
「おいおい。まだ入院から二週間だぜ」
「あーっ、いたいた。こっちこっち」
振り向くと、そこにはヘッドセットを首に掛けた、見覚えのある少年が待っていた。
マキナは目を丸くする。
「パーシーまで。いったいなに? これから何が始まるの?」
「まあまあ。それは見てのお楽しみってことで」
「じゃ、お姫さまのお守りはよろしくな、パーシー」
「了解!」パーシーは敬礼する。
「はい? あ、あの中尉?」
「おとなしく、そこで待ってな」
森岡中尉はパーシーにマキナの車椅子を預けると、踵を返してどこかへ去って行ってしまう。何が何だかわからず、マキナは不満げに頬を膨らませた。
「もう。いったい何なのよ。パーシー。中尉とグルになって、何を企んでいるわけ?」
「中尉も言ったろ、秘密だって。おれの口からそれをばらしたら、後で中尉に練習機のキャノピィに磔の刑にされちゃうぜ」
「中尉はそんなひどいことしないわ」
「ちえ、信頼されてるんだな、中尉は」
「え?」
「何でもない。まあ、黙って前見てなよ。いいもんが見えるから」
「いいものって……もう、気味が悪いなあ。ふたりしてわたしを騙そうって魂胆?」
「いいからいいから。そろそろだぜ。許可取るの、きっとものすごく大変だったんだからさ。ちゃんと見ててあげなよ」
「許可?」
理解できずに、マキナは顔をしかめる。何だかよくわからないけれど、いったい何を待てばいいんだろう。
不意に、聞き覚えのある轟音が響く。マキナはハッとして顔を上げた。
予備機である六番機セイレネスがタキシングしてこちらにやってくる。
いったい誰が乗っているというのか。訝しげに眉をひそめたマキナに、パーシーはそれまで首に掛けていたヘッドセットを手渡す。
「ほらよ、マキナ」
「え?」
「いいから、黙って聞いてみな。聞けばわかるから」
半信半疑ながら、マキナはパーシーが手渡したヘッドセットをそっと耳に押し当てる。
次の瞬間、そこから聞こえてきた声でマキナは更に目を丸くした。
「しっかり見てろよ、マキナ」
「ちゅ、中尉!?」
「ぼくがダルフィムに乗るのは、もうこれっきりだからな」
透明なキャノピィの奥で、ヘルメットとマスクを付けた森岡中尉が手を振っている。
「――どうして、森岡中尉が」
「約束したろ」
「約束?」
「無事生き延びたら、君が見たがっていたものを、一番に見せてやるって」
そのひとことに思わずマキナは小さく、あ、と声を上げた。
「中尉……」
「マキナ、君にはずっと言えずにいたけれど、ぼくのブルー・フェアリーの教官としての任期は、本当はもうすぐ終わるんだ。だけど正直なところ、任期の延長申請をしようかどうか、迷っていた。自分がこのまま教官を続けていてもいいのか、自信が持てなくなっていたから」
マキナは驚いて、思わず立ち上がりかける。
不安定な車椅子の上で、あやうくバランスを崩しそうになった彼女を、慌ててパーシーが支えた。森岡中尉が口にした言葉は、彼女にとってはあまりに突然な告白だったからだ。
だが、そんな彼女を安堵させたのもまた、森岡中尉の言葉だった。
「でも決めたよ、延長申請をすることにした」
「本当ですか?」
「ああ、もちろん。まだまだ君たちには教えることが沢山あるからね。それに、マキナ」
「はい」
「君を一人ここに残して、戦場の空へ向かうわけにはいかないだろう?」
「……中尉」
森岡中尉は軽く敬礼すると、ヘルメットバイザを下ろす。
「じゃあ、こっちはそろそろ始めるよ。マキナ、――アイ・ハブ・コントロール?」
マキナは泣き笑いの顔で、包帯に包まれた手で敬礼を返した。
「ユー・ハブ・コントロール」
「了解」
中尉は親指を立ててみせると、操縦桿を握る。
視界がじわりとにじみ、慌てて手の甲で目を擦ったマキナが次に顔を上げたときには、優美なD‐3の機体が目の前をタクシーアウトしていくところだった。
回転数が高まり、徐々にエンジン音が甲高いものになってゆく。
そして、離陸。大海原を舞うイルカのように、なめらかなローリング・テイクオフ。
澄んだ空を翼で切り裂くようにして、ほとんど垂直に急上昇してゆく白銀の機体。
翼の両端から生み出されるのは、輝くヴェイパー・トレイル。
なにものにも束縛されない翼。
なにものをも束縛しない翼。
「きれい……」
思わずマキナは呟いていた。
「今回だけは特別に手助けするけど、次はないからな。明日からはまたライバル同士だぜ、正々堂々と勝負だからな、中尉」
パーシーはぼそりとひとりごちる。マキナには聞こえないように。
そんな二人の遥か上空、遮るものの何もない青一色の舞台を、白銀の優美な機体が遠雷のようなエンジン音を引き連れて通過していった。
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