ブルースカイフェアリーズ

藤谷 灯

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Formation 5

ドレッド・ノート

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「AT‐5‐Ⅰ、爆散しました」
「よし!」
 アステロイドの挙動をモニタしていたベケット少尉の報告に、森岡中尉は思わず拳を握り締めていた。しかし、すかさずニューマン少佐がたしなめる。
「安心している暇はないぞ。第二波が来る。あと七分後だ」
「そんなことは、言われずともわかっています」
 さすがに苛立ちを抑えきれず、森岡中尉は声を荒げる。
「聞こえるか、ラケシス、アトロポス、機体の状況を報告しろ!」
 ――森岡中尉が呼んでいる。
全身に機銃掃射を受けたような衝撃が過ぎ去った後、マキナは無意識のうちにかたく瞑っていた目をそろそろと開けた。
キャノピィの右半分に、大きくクラックが入っている。機体の一部が損壊したことを示す警告音が、コックピット内に充満していた。マキナは軽く頭を振ると、計器類に素早く目を走らせて、それらの状況を確認する作業に移る。
右の主翼は三分の一ほどが吹き飛んでいた。尾翼にも穴が開いている。胴体部分にも無数に被弾していたが、幸いエンジンそのものに被害はないようだ。
マキナは無線で森岡中尉に損壊状況を伝える。
彼女にやや遅れて、エルフリーデも同様に報告してきた。
状況はラケシスの方が深刻だった。ラケシスは左エンジンをやられていた。被弾した方のエンジンは、かろうじて動いているといった状況だ。無理をすれば停止してしまうだろう。
「ラケシス。今度こそ、その空域を離脱して厚樹基地へ向かえ。D‐3ではどうにもならないということがわかっただろう。この命令に従わない場合、命令違反とみなして処分する」
「――了解しました」
答えるエルフリーデの声には覇気が感じられなかった。大きく旋回して飛びながら、マキナはラケシスに不安げな目を向ける。ラケシスはアトロポスの遥か下方、海面すれすれを旋回していた。出力が上がらないのかもしれない。
「こちらアトロポス。ラケシス、エリー、大丈夫? エリー、応答して」
「こちらラケシス。うるさいわね。連呼しないで。だいたい、こんな状況で人の心配するなんて、余裕じゃない」
 すかさず返ってくる憎まれ口が、今はマキナを安堵させる。
「エリー、旋回しながら、破片を幾つか撃ち落としていたでしょう。あれでだいぶこちらの被害が減ったと思う。ありがとう」
 マキナの言葉に、ヘッドセットの向こうでエルフリーデがわずかに息を飲む気配。
「あんた、あの一瞬で、見えてたの?」
「うん。わたしは逃げるので精一杯だったけど、エリーの弾筋は見えてた」
「まったく、やってられないわね」
 どこか呆れたような、照れたような声。それはマキナが初めて聞く、肩の力の抜けたエルフリーデの声だった。
「あんたには完敗よ、マキナ」
「――エリー」思わずマキナは目を瞠る。
 エルフリーデが自分の名前を口にするのを聞いたのは、初めてだったからだ。
「今、わたしのこと――」
「ああもう! いちいちうるさいわね!」
 エルフリーデはそう言うが、マキナにとってそれは、胸が熱くなるほど嬉しいことだった。今やっと、彼女に仲間として認めてもらえた、そんな気がしていた。
「ありがとう」
「うるさいってば!」
 エルフリーデは、それ以上マキナに言葉を続けさせまいとするかのように言い放つ。
「あんたにそんなふうに言ってもらう資格なんか、あたしにはないんだから!」
「え?」
「……マキナ、あたし、あんたに謝らないといけない」
「わたしに?」
「うん」
 エルフリーデの声はいつになく震えていた。それを怪訝に思ったマキナが問いかけるよりも先に、決意を込めた彼女の声がヘッドセットの向こうから響く。
「――あたしたちの話、聞こえているよね、ダミアン・メロー」
「ダミアン・メローだって?」
 そう声を上げたのは、それまで彼女たちのやり取りを静観して聞いていたヴァーノン大佐だった。それを嘲笑するような、メロー元少尉の声が重なる。
「誠に残念です、ヴァーノン大佐。かつての養い子の声を忘れておしまいになるとは。これまで用済みになって放逐してきた人間たちも、皆そうやって葬ってきたのですか?」
「このッ……恥晒しが! おまえか、ダミアン!」
 甲高い音が、メロー元少尉の手元のコンピュータ越しに聞こえてくる。
 おそらく激高した大佐が、拳をデスクに叩き付けた音だ。
「一人前になるまで目をかけてやった恩を忘れたか」
「恩? 恩だって?」メロー元少尉は鼻で笑う。
「恩着せがましいとはこのことだ。俺はあんたに目をかけてくれなどと頼んだ覚えはない。孤児だった俺を見出して、IDA卒業まで後見人となってくれたことは確かに感謝している。だがその後の俺の人生まで、あんたにコントロールする権利はないはずだ。違うか」
「養子が養父に従うのは当然ではないのか?」
「子は親の期待、親の夢、親の願望を裏切るように出来ている生きものだ、大佐。あんたに俺や鷹羽少尉の人生を決める権利はない。だが、それはあんたが俺や鷹羽少尉の本当の親ではないからではない。たとえ血の繋がった親子でも、子どもの人生を思うままにする権利などないんだ」
 かちりと乾いた音がする。マキナはそれが、メロー元少尉が使っていた金属性のライターの音だと気付いた。それを裏付けるように、ふうっと煙を吐く音。
「俺はもう、あんたの言いなりになるのはたくさんだった。だから、あんたが自ら俺を手放したくなるように仕向けた。あんたはそこで、ご自慢の飼い猫が、銀の弾丸に粉々に打ち砕かれるのを、黙って指を咥えて見ていればいい。それがあんたにはお似合いだ」
「――あたしが馬鹿だった。大馬鹿だったのよ。新人のマキナに負けたくなくて、何も見えてなかった。だから、メローの誘いに乗ったの。そうよね?」
 エルフリーデの声は震えている。けれどそこには、それまでの彼女にはなかった、ある種の強い意志が感じられた。
「……ああ。そうだ」
「森岡中尉、すみません。あたし、マキナの情報を……彼に渡していました。IDAでのマキナの情報を逐一彼に流す代わりに、IDAに来る前のマキナの情報を提供してくれるっていう、彼の誘いに、乗ったんです」
「エリー、お前、自分が何を言っているのか、わかっているのか」
 無線を通じ、淡々と返される森岡中尉の低い声には、静かな怒りが感じられた。
「お前がやったことは、罪に問われる可能性もあるんだぞ」 
「はい、もちろんです。それ相応の処分を受けることは覚悟しています。……マキナ、ごめんね。あたし、負けたくなかった。何でもいい、マキナに勝てる、マキナの優位に立てる情報が欲しかった。まさかそれが、こんなことにつながるなんて、思ってもみなかったから――」
 マキナはそれらのやり取りを、どこか呆然とした心地で聞いていた。
 彼らはいったい何を話しているんだ。エリーがメロー少尉と組んでいた? 
「ごめんね、マキナ」
 エルフリーデの声が震える。マキナは操縦桿を握る腕に力を込めた。
「エリーは悪くない。悪くないよ。――メロー少尉、あなたが以前に言っていた種明かしって、こういうことですか」
「そのとおり。実にアナログな手法だっただろう? しかし、アナログな手法も時として有効だ。そのわかりやすい事例さ」
「メロー、お前は……そんな個人的なことにマキナを巻き込んだのか」
「おや、声の調子が変わったね、森岡中尉」
「答えろ、メロー」
「あんたのように、教官なんていうぬるま湯に漬かって、安穏と生きている人間にはわかるまい。よって、答える必要はないね。今や軍人ではない俺には、その義務もないしな。第二波は、初めのようにはいかない。エルビスは最初の撃墜を教訓に、軌道計算を補正してくる。おそらく次はないぞ。次は確実に当たる」
 メロー元少尉は新しい煙草に火を点けると、ふうっと煙を吐いた。
「さて、最後にもう一度だけ聞こう。鷹羽少尉、聞こえているだろう?」
 その声に、マキナはびくりと肩を強張らせた。
「あんたにもう一度だけチャンスをやろう、鷹羽少尉」
「何を……」マキナは眉をひそめる。
メローは淡々と続けた。
「俺と一緒に来い。UAFを――戦いの翼を捨てて、自由を掴むんだ。あんたはずっと戦い続けることは出来ないよ。あんたは脆い。自分では鋼鉄の翼を持っているつもりだろうが、そんなものはまやかしだ。いずれ、目が醒めるときがくる。そのとき、ヴァーノン大佐はあんたを守ってはくれないぜ。あんたはこのままじゃ必ずいつか駄目になる。だが、俺ならあんたを、守ってやれる」
 メロー元少尉の声にはもう、初めて会ったときのような、挑戦的な響きはなかった。
 キャノピィに入ったクラックから吹き込む冷気で、コックピット内の気温はどんどん低下していく。操縦桿を握る腕の感覚が、徐々に麻痺していくのがわかる。
「あんたは自分の才能に絶対の自信があるのかもしれないが、それはまだ真の意味での挫折を知らないからだ。どんな天才でも、遅かれ早かれ挫折を味わうときが来る。そのときになって初めて、人間は自分の限界を知るんだ。そして初めて本当に強くなれる」
「何を、見てきたようなことを……」
「見てきたからさ」メローの答えは素早かった。「この俺自身が、そうだったからな」
「メロー……」
 マキナは自分の声が震えているのがわかっていた。わかっていても、どうすることもできなかった。
「あんたが今、こんな状況に陥っていても、大佐が助けてくれたか? UAFは? どっちも大したことは出来てないだろう。あんたはUAF、そして大佐という存在に絶対の信頼を置いているのかもしれないが、それはあんたがそれらを親の代用にしているからだ。頼るべき両親という存在をなくしたあんたがすがる相手は偶然出会った大佐と、そして父親のかつての古巣、UAFしかなかった。けどそれはあんたが悪いんじゃない。そうしなければ生きていけなかったから、ただそれだけだ。他にすがるものを知らなかったからだ。あんたの気持ちはよくわかるよ。かつてはこの俺自身が、そうだったから。だから俺はあんたをこのまま放ってはおけない。放っておくくらいなら、殺してやる――そう思った。だから、アステロイドをハッキングしたんだ」
 いつしか、メロー元少尉の声は幼子に向けるような、穏やかなものになっていた。
「俺なら、あんたのことを理解してやれる。俺と一緒に来い、鷹羽少尉」
「駄目だ! 聞くなマキナ! そんなことは間違ってる」
 突然のその声のあまりの大きさに、あやうくマキナは操縦桿から手を放してしまいそうになった。思わず目を瞬く。フライトグローブの中は、ぐっしょりと汗をかいていた。
森岡中尉がそんな風に怒鳴るのを、これまでマキナは聞いたことがなかった。
「森岡中尉?」
「マキナ、それ以上聞くんじゃない。君の居場所はここなんだ。他のどこでもない。ここにいることを選んだのは、君自身のはずだ。そうだろう?」
「偽善だな、森岡中尉。偽善では鷹羽少尉は守れないよ」
「偽善だろうと構わない。少なくとも、ぼくはそう思っている。人間は、そんなにきれいには生きられない。失敗して、後悔して、喜んで、悩んで、怒って、頼って、頼られて、そうやって葛藤しながら、汚れにまみれながら生きていくものだ。それが人間だ。君はそれを否定している。人間らしく自由に生きるということは、全てのしがらみから解放されて生きるということではない。ダミアン・メロー、君は自由と我侭を履き違えている。君は間違っているんだ」
「俺が? 間違えているって?」
 メローの声音に、またそれまでとは異なる響きが混じる。
彼は初めて戸惑っているようだ、とマキナは感じた。
「ああ、君は間違っている。ダミアン・メロー」
落ち着いた、けれど静かな怒りにも似た感情を湛えた中尉の声が重なる。
「人間は、そんなふうに理想を食べては生きていけない。だけど、理想を追うこと自体は間違っていない。自由とは、好き勝手することじゃない。与えられた制約の中で、自分の限界に挑むことだ。君はそこを履き違えた。だからそんなふうに後悔する。うまくいかないことを他人に責任転嫁する。けれど、本来の自由とは、そうじゃないはずだ。君よりもマキナの方が、自由の持つほんとうの意味を知っているとぼくは思う」
「中尉――」 
「挫折を知ることが貴いんじゃない。挫折を知ることで、道を誤ることだってある。挫折したとき、そこから何を見出すか、その悔しさを自分の中で何に昇華するかが大切なんだ。マキナはぼくにそれを教えてくれた。鷹羽大尉を自分の失敗で喪ったことを悔やんで、前にも後にも進めずにいたぼくを救ってくれたのはマキナなんだ。だからぼくは、マキナを守ってやるだなんて偉そうなことは言えない。けれど共に歩むことはできる。この空を、風を、共に感じることはできる」
 そこで森岡中尉はいったん言葉を切り、ゆっくりと一語一語、噛みしめるように続けた。
「マキナ、君は間違っていない。君は今のままでいいんだ」
 マキナには、それ以上何も言えなかった。
胸が痛い。咽喉の奥に何か熱いものがつかえたように、苦しい。
メローの言葉は確かに響くものがあった。事実、一瞬同調しかけた。
けれど、森岡中尉の言葉はそれを遥かに上回る何かを、マキナの胸の中から引きずり出してくる。中尉の言葉を聞いているうちに、マキナは気が付いた。
ああ、自分は誰かの庇護の下で甘えたかっただけなんじゃない。自分とはこういう生きものなのだ、他人と違ってもいいんだと誰かに認めてもらいたかったんだ。そしてひとこと、こんな風に言って欲しかったんだ。
――大丈夫だよマキナ、君は君のままでいいんだ、と。
 にじむ涙で、ヘルメットバイザの内側が曇ってくるのがわかる。バイザを押し上げ、フライトグローブで目尻を拭うと、マキナは顔を上げた。
「中尉。わたしは……」息を吸う。「わたしは、中尉と一緒に空を感じていたいです」
 涙がこぼれた。グローブでこすりすぎたせいで、目元がひりひりと痛む。
 無線の向こうで、メロー元少尉の溜息が聞こえたような気がした。
「負けたよ、鷹羽少尉」
「少尉……」
「完敗だ。あんたたちには、負けたよ」
「投降して、メロー少尉。今ならまだ、間に合うわ」
 マキナの要請に、かすかな吐息。メローが薄く微笑んだ気配。
 そこに不穏なものを感じたマキナが声を上げようとしたその次の瞬間、カチリと何かのスイッチを入れるような、乾いた小さな音が響く。続いて、耳をつんざくような爆発音が響き渡った。
「今のはいったい/……」
「――中尉。聞こえているか、森岡中尉」
 顔をしかめていた森岡中尉は、その声にハッとして顔を上げる。その通信は、空母アフェリオン艦上で、ベケット少尉と共に軍事衛星エルビスの動きをモニタしていた、ニューマン少佐からのものだった。
「聞こえていますよ、ニューマン少佐」
「良くない知らせだ、森岡中尉」
 森岡中尉は眉をひそめた。
「これ以上良くない知らせなんてあるんですか。まさかパンドラの箱が開いたとでも?」
「ああ。最悪だ。パンドラの箱よりも始末が悪い」ニューマン少佐は舌打ちする。「AT‐5がもう一機、先ほどエルビスからの指令で発射された。何度か試みたが、やはりこちらの自爆命令は全く受け付けない。おそらくそちらへは、あと十分程度で到達するだろう」
「何ですって!?」
森岡中尉は弾かれたようにレーダーへ視線を移す。レーダーで捕捉可能なぎりぎりのエリアに、新たな光点が不気味に輝いて見えた。

 




 

一号機メルセデスを着陸させ、用意された外部ラダーを伝ってタキシーウェイに降り立ったイレインを待っていたのは、先に到着していたノエルとオーガスタだった。
「イレイン!」
「ノエル、オーガスタ、無事?」
「ええ」
「まあね。それよりエリーとマキナはどうなったのかしら。森岡中尉から通信は?」
 オーガスタの問いに、イレインは黙って首を横に振る。
「いいえ、まだ連絡はないわ。きっと、まだ終わってないのよ」
「大丈夫かしら」
「信じるしかないわ。中尉は私たちにここで連絡を待てと言ったのよ。だから私たちは待ちましょう。みんなを信じて」

 

「聞いてのとおりだ、マキナ」
「わかっています」
 森岡中尉からのその報告を、マキナは黙って聞いた後、頷いた。
「油断はしません。第二波も無事に乗り切ってみせますよ。そうでなければガトリング・ホークの名が泣きますからね」
 マキナの声には、どこかいたずらっ子のような響きさえあった。そのとき森岡中尉は気付いた。マキナは絶望してはいないのだ。こんな状況の中に、たった一人放り出されているというのに。
「マキナ……」
「はい」
 マキナは明るく答える。だが、それ以上の言葉を、緊迫したベケット少尉の声が遮った。
「いけない! AT‐5‐Ⅱ、迎撃ミサイルの軌道を外れます!」
「何だって!?」
 反射的に、森岡中尉は制御コンピュータのディスプレイ上に目線を走らせた。
アステロイドの軌道予測を示す赤い線と、迎撃ミサイルの軌道を示す緑色のそれが、わずかにぶれる。意識がそうと感じる前に、森岡中尉はヘッドセットに向かって叫んでいた。
「緊急回避しろ!」


 大きく旋回し、距離を取っていたエルフリーデの青い目にも、アステロイドと迎撃ミサイルの明るい軌跡ははっきりと見えていた。
しかし、今度は第一波の際と少し様子が違っていた。
迎撃ミサイルは僅かに軌道を逸れる。結果的に、アステロイドの側面を抉るようにして彼方へと飛び去った。
その瞬間、エルフリーデはほとんど悲鳴にも似た声を上げていた。
「――マキナ!」


 エレベータをフルに引く。機体が軋むような急降下。
レッド・アウトを起こす寸前まで我慢する。そうしておいて距離をかせぎ、機銃を撃った。撃つと同時にその反動を利用して、離脱。
弾筋を追う余裕はもうない。スロットル・ハイ。
 第一波のときとは比べ物にならないほどに大きな弾体片が、猛然とアトロポスに襲いかかる。
 見えない壁に激突したような衝撃に、一瞬気を失いそうになった。
キャノピィが砕け、猛烈な勢いで外気が吹き込んでくる。ヘルメットもどこか割れたかもしれない。頬に強い風を感じた。
 フライトグローブに、点々と落ちる赤い染み。それが広がってゆく。
 不思議と、痛みは感じなかった。感覚が麻痺しているのかもしれない。
きっと着陸した後でどっと来るだろう。もちろん、無事に着陸できたらの話だが。
 そんなことを冷静に考えている自分がおかしくて、マキナは薄く微笑んでいた。
 それができるのも、自分は生きているからだ。
そうだ、自分は生きている。まだだ。まだ飛べる。
この翼は完全に失われてはいないのだ。
 しかし、そう余裕ではいられない。アトロポスの二機のエンジンは、先程の衝撃で両方とも停止していた。このままでは墜ちる。
第一波のときから弾体片の襲撃に晒されていた右エンジンは、今度こそ本当に機能を停止してしまったようだ。
 となると、左エンジンだけでも何とかしなければならない。
マキナは素早く燃料計を確認した。完全に停止した右エンジンは燃料漏れを起こしていたが、自動的に燃料の移送が遮断されていた。ひとまずこちらは問題なさそうだ。
左エンジンは幸運にも燃料漏れを起こしていない。だが、そうしている間にも、どんどん高度は下がってゆく。
HUD上は、衝突危険防止装置の赤い警告メッセージで騒がしい。
猛烈なGに耐えながら、マキナはエンジン・スタータ・ボタンに手を伸ばす。
始動しない。もう一度。駄目だ。もう一度。
だが、三度目で奇跡的にエンジンが掛かった。
聞き慣れたD‐3のエンジン音を、これほどまでに心強いと思ったことはなかった。
割れたキャノピィが、甲高い口笛のような音を鳴らす。
エンジンは何とか生き返ったが、ヒーターは死んだままのようで、ひどく寒い。高空を飛ぶ戦闘機には、ヒータは必須の設備だ。これが故障してしまっては、上空で凍死しろと言っているようなものだ。
けれど、今すぐにそうなることはない。少なくとも、すぐには。
マキナは大きく息を吸う。そして通信を入れた。
「こちらアトロポス、応答願います。こちらアトロポス」
 祈るような思いで、爆煙の向こうに目を凝らしていた森岡中尉は、その声に目を見開く。
 爆散したアステロイドの名残である煙を掻い潜るようにして、姿を現した白銀の機体を見たとき、森岡中尉は今度こそ心臓が止まってしまうのでは、と思った。
「マキナ! 無事だったか!」
「ええ」マキナの回答は速やかで、しかも明るかった。
「満身創痍といった感じですが、何とか飛んでいます」
 しかし、次にマキナが口にした言葉は、消耗した森岡中尉の心臓に、更なる衝撃を与えるものだった。
「森岡中尉、お願いがあります。もしまだ間に合うのなら、ショーを続けさせてください」
「なんだって!?」
さすがの中尉も、思わず声が裏返る。
「無茶を言うな! だいたいアトロポスには、もうほとんど燃料が残ってないだろう! 演技終了と共にアトロポスと一緒に海水浴でもする気か!」
 森岡中尉の言うことはもっともだった。マキナはちらりと燃料計に目を遣る。
確かに、アフターバーナーを使い、燃料漏れも起こした今の状態では、大したことはできないだろう。よくてせいぜい一、二種類の演技が精一杯だ。
 そのとき、更なる森岡中尉の小言を遮るように、通信が割って入る。
「こちらメルセデス。私からもお願いします、中尉」
「イレイン!?」
「ニューマン少佐とベケット少尉に、状況は教えていただきました。ほんの少しでもいいんです。私たちは、彼女と飛びたい。お願いします、中尉」
「こちらラケシス。いいわね、やりましょうよ、中尉」
「――お前たち」
森岡中尉は呆気に取られたように目を見開く。中尉の乗る輸送機のレーダーは、こちらに向かって近付いてくる三機から成る編隊と、一機の機影をとらえていた。
「本当に、君たちはとことんぼくの寿命を縮めるつもりらしい」
「申し訳ありません」
「いいか、演技は二種類、全機でのアップワード・エア・ブルームからのスター・クロス、それだけだ、いいな?」
 森岡中尉の言葉に、マキナの顔に笑みが浮かぶ。
「はい!」
「演技終了後、アトロポス以外は厚樹基地へ帰投。アトロポスだけは燃料がもたないから、空母ペリフェリオンへ降りろ。フックランディングだ。できるな?」
「はい、できます!」
 マキナの明るい返答に、輸送機上の森岡中尉はやれやれといった風情でシートに寄り掛かる。
「みんな、帰ったらたっぷり説教を聞いてもらうからな、覚悟はいいか?」
「了解しました!」
 五人全員の明るい返答が返ってくる。
 まったく、いつもこれくらい素直だといいんだがと眉を下げる森岡中尉に同情するように、傍らで彼らの様子をずっと見守ってきたパイロットが彼の肩を叩く。
 森岡中尉は苦笑してみせると、戦いの終わった空に結集しつつあった、空飛ぶ若いイルカたちに指示すべく、ヘッドセットへ再び声を張り上げた。





     *



全機がデルタ編隊で上空へ侵入し、垂直上昇し機体後方からスモークを出す。そして、そのまま編隊をブレイクさせ、空中に五枚の花弁を持つスモークの花を咲かせる。アップワード・エア・ブルーム。
そして編隊をブレイクさせた後、各機インメルマン・ターンによりやや高度を落とす。今度は全機が内側に集合するように飛行し、互いに相対する機の、スモークの起点へ針路を取りながら大空一杯に星を描く、スター・クロス。
「ねえ、お兄ちゃん、あれ何かなあ」
「え? うわあ、すっげえ」
「ねえねえ、お父さん、お母さん、見て見て。飛行機が飛んでるよ。いっぱい飛んでる」
 東京湾を巡る遊覧船上で、その音と光景に気付いた小さな兄妹が、両親の服の裾を引く。
 つられて見上げた両親は思わず声を上げた。
「ええ? 飛行機? あらあ」
「本当だ、すごいなあ。今日何か、お祭りでもあるのかね」
「きれいだね、すごいねえ」
 小さな兄妹は目を輝かせてその光景に見入る。
その場にいた誰もが、澄み切った大空という雄大なキャンバスに描かれたブルー・フェアリーの演技に心を奪われていた。
「あれは多分、ブルー・フェアリーだなあ。今日のショーは中止だって、さっき聞いたんだけど」
 父親の傍にいた初老の男性が独り言のように呟く。男性は首から高価そうなカメラを提げていた。
「今日、アクロバットショーがある予定だったんですか?」
「ああ、ブルー・フェアリーはファンが多いからねえ。待ってた連中はみんな、楽しみにしていただけに残念だなって言いながら、帰って行ったばかりだったんだよ。いやあ、残っていて得したよ」
五機の白銀に輝くイルカたちの姿はもう見えなくなっていたが、男性はそれを名残惜しむように、スモークによって描かれた星がかすかに残る青空に向けて、幾度かシャッターを切った。
「すごいなあ、ぼくも大きくなったらブルー・フェアリーになりたい」
「えー、あたしもなるの!」
「あらあら、妖精さんには女の子しかなれないのよ?」
「そんなことないもん! なれるもん!」
「あたしもなる!」
 幼い兄妹はいつまでも、スモークの向こうを見つめて、そのやり取りを続けていた。








 白銀の機体によって、青く澄んだ空に描き出される星の形。
 きれいだな――とわたしは思う。
 残存燃料が少ないことを示す甲高いアラーム音が、コックピット中に充満していた。
 失血のせいで、視界が暗く、狭くなっていくのを感じながら、わたしは深く息を吐く。
不思議な感覚だ。
自分が自分でなくなっていくような……自分の輪郭がぼやけて曖昧になって、このまま空に溶けていってしまうみたいだ。
 でも不思議と、恐怖はなかった。
むしろ気持ちがいいくらい。
 ずっとこの気分に浸っていたい、そんなふうに思えるくらい。
 
視界の端に映るのは、青い空にとけこむように、にじんで消えてゆくコントレイル。
 小さい頃のわたしは、飛行機雲がどうして消えてしまうのか、不思議でならなかった。
 手を伸ばせば掴めそうなのに、けっして届かない。
それが悔しくてもどかしくて、背伸びをしては掴もうと躍起になったものだ。
 そんなわたしにいつも父は微笑んで、肩車をしてくれた。
けれど、それでももちろん、届くはずがない。
悔しげに頬を膨らませて拗ねる幼いわたしに、父は言った。
「蒔那、そう簡単に諦めちゃいけないよ。夢や目標は、それが困難であればあるほど、挑戦しがいがあるものなんだ。お前が諦めさえしなければ、きっと叶うさ」
「ほんと?」
「ああ、ほんとうだとも。きっとな」
「うんわかった。あたし、あきらめないよ!」
 ――父さん。
 無意識のうちに、わたしは手を伸ばしていた。
 その指先を、アトロポスが描いたスモークの軌跡がかすめる。
 なんだか、それが夢の欠片のように思えて、わたしは手のひらをそっと握りしめた。
――そうだね、父さん。
 知らず、わたしは笑みを浮かべていた。
 わたしは、翼をなくしたつもりになっていた。あの日の飛行機雲には、もう二度と届かないのだと、そう思い込んでいただけなんだよね。
 胸が痛い。のどの奥から、何か熱い塊のようなものがこみ上げる。
 涙が自分の頬を濡らしていると知ったのは、そのときだった。
 この大空を飛びたかった。
ずっと、こんなふうに飛びたかったんだ。飛んでみたかった。
 誰の指示でもなく、誰のためにでもなく、ただ、自分のために。
 
「――アトロポス! 聞こえないのか、アトロポス、応答しろ」
 誰かの声が聞こえる。
 でも、それがなんだか、すごく遠い。
 大丈夫、ちゃんと、聞こえているよ。
 でも今は、もう少しだけ、この気分を味わっていたいだけ。
 もう少しだけで、いいから。





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 時代劇で見かけるような、古めかしい木づくりの橋。それを渡ると、向こう岸にノースキャンプがある。アーミーグリーンの北門と、その傍の監視塔。まるで映画村のセットだ。 進駐軍のキャンプ跡。周りを鉄さびた有刺鉄線に囲まれた、まるで要塞みたいな町だった。進駐軍が去ってからは住宅地になって、たくさんの子どもが暮らしていた。  赤茶色にさび付いた監視塔。その下に広がる広っぱは、子どもたちの最高の遊び場だ。見張っているのか、見守っているのか、鉄塔の、あのてっぺんから、いつも誰かに見られているんじゃないか?ユーイチはいつもそんな風に感じていた。

生贄姫の末路 【完結】

松林ナオ
児童書・童話
水の豊かな国の王様と魔物は、はるか昔にある契約を交わしました。 それは、姫を生贄に捧げる代わりに国へ繁栄をもたらすというものです。 水の豊かな国には双子のお姫様がいます。 ひとりは金色の髪をもつ、活発で愛らしい金のお姫様。 もうひとりは銀色の髪をもつ、表情が乏しく物静かな銀のお姫様。 王様が生贄に選んだのは、銀のお姫様でした。

極甘独占欲持ち王子様は、優しくて甘すぎて。

猫菜こん
児童書・童話
 私は人より目立たずに、ひっそりと生きていたい。  だから大きな伊達眼鏡で、毎日を静かに過ごしていたのに――……。 「それじゃあこの子は、俺がもらうよ。」  優しく引き寄せられ、“王子様”の腕の中に閉じ込められ。  ……これは一体どういう状況なんですか!?  静かな場所が好きで大人しめな地味子ちゃん  できるだけ目立たないように過ごしたい  湖宮結衣(こみやゆい)  ×  文武両道な学園の王子様  実は、好きな子を誰よりも独り占めしたがり……?  氷堂秦斗(ひょうどうかなと)  最初は【仮】のはずだった。 「結衣さん……って呼んでもいい?  だから、俺のことも名前で呼んでほしいな。」 「さっきので嫉妬したから、ちょっとだけ抱きしめられてて。」 「俺は前から結衣さんのことが好きだったし、  今もどうしようもないくらい好きなんだ。」  ……でもいつの間にか、どうしようもないくらい溺れていた。

不幸でしあわせな子どもたち 「しあわせのふうせん」

山口かずなり
絵本
小説 不幸でしあわせな子どもたち スピンオフ作品 ・ ウルが友だちのメロウからもらったのは、 緑色のふうせん だけどウルにとっては、いらないもの いらないものは、誰かにとっては、 ほしいもの。 だけど、気づいて ふうせんの正体に‥。

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