八重桜

灰色サレナ

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八重桜

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「また来なすったのかえ? 律儀じゃのう……今日は午後から雨が降るという、水場に傘を置いておきましょう。ごゆっくり」

 石造りの階段をゆるりと降りる法衣の老人は振り向かない。
 反り上げた頭を揺らし、ただただ定期的な足音がぱたん、ぱたん、と遠ざかる。

 季節は春、とは言え本州からすれば随分と遅くてまだ道路の脇には残雪がちらりほらりと残っていた。
 そんな北海道で桜は花見のニュースの後追いで来る春の知らせ。
 線香の香りが草木の青臭さに交じる中、八重山やえやまさくらは腰を折る。

「お気遣い、痛み入ります」

 ――かつん
 ――――かつん

 それは彼女の癖だった。
 そこを訪ねる時に履物を二度鳴らす。
 いつからかは覚えていないが、桜はそれをするためにかかとの高い下駄を買った。

 その名を関す八重桜の模様の下駄を。

「あと何日、待てばよいのでしょうね」

 何を?

 そう返してくれた声は今はない。
 とうに鬼籍に加えられ、久しく触れることもない。

 すっと折った腰に芯を入れ、桜は面を上げる。
 回廊のように歩道を囲う桜の木は幾年もの間変わらぬ景色なのに、桜の隣だけがぽっかりと穴を開けて色を奪い取ってしまった。

 すっかり馴染んだその道を彼女は意識せずとも等間隔で歩を進められる。
 なんなら目をつぶろうともだ。

 ふと、桜は鼻を鳴らす。

 すん、と薫る桜の香りに気づいたのだ。
 
「誰か、亡くなってしまわれたのかしら」

 普段は盆と正月くらいしか人が訪れない墓地に用があるとすれば、先ほどの住職か自分くらいだろうと思っていたのだが。普段焚かれる事のない花の香りに他人の影を感じ取る。

「……」

 引き返そうか、歩みを止めて桜は思案する。
 別に他人へ遠慮することは無いはずなのだが……なんとなく今日は気が向かなくなってしまった。
 一日くらい、そう。

 何年かの内のたった一日ならば良いだろう。
 
 そこまで桜は考えたのに気づけば下駄の音は再開した。
 夢想、と言うべきなのだろうか?

「まあ、引き返す理由もありませんしね」

 ――ざわぁぁぁ

 まだ少し肌を刺す風の波に着物の袖が流される。

「きゃっ……」

 ちゃりんと石畳で回る古銭。
 それは桜の着物の袖から転げたものだ。

「まったく……」

 くるくると弧を重ねるのになぜが独楽を思わせる。
 ひょいとつまむとぴたりと止まる。

「私みたいなやつね」

 ――小銭入れでも買えばいいのに
 
「小銭入れにでも入っていればいいのに」

 桜は手のひらで古銭を包み、足を動かす。
 どうにも今日は邪魔が多いのには何か理由でもあるのだろうかとこっそり溜息を吐く。

 ――幸せが逃げるんだよ。

 だからこっそり吐くのだ。

 やがて石畳は砂利に両脇を埋められて木々の回廊は終わりを告げる。
 本日は今日も晴天でこの時期にしては珍しく湿っぽい風が桜の脇を通り過ぎた。

「あ……」

 二人横並びで歩けば通せんぼしてしまう通路を正面から木桶を持った老夫婦が目を伏せ向かってくる。
 自然と彼女は脇に避けて砂利に身を寄せ道を譲った。

 二人は桜に気づいてない様にゆっくりと、すすり泣く声を残しながら遠ざかる。

 黒く、白く、未練の尾を引きながら。
 この地を訪れる者に例外はない。

「お悔やみ申し上げます」

 蚊の鳴くようなか細い声で桜は声をかける。

 きっと、彼らは大丈夫。
 だってまだ互いに支えあえるのだから。

 桜は、もう……一人で歩むしかない。
 この道を二人で歩いたことが無いのだ。
 初めて進んだこの道は無味無臭でモノクロの立割の背景で、孤独な道だった。

 だから……

「いきて」

 自然と紡がれたその言葉に、涙が込み上げてきた。
 そんなことを言う資格はないのに、そんな希望を持てもしないのに。

 桜は『だから』ここにきてしまうのに。

「最悪な日です」

 一体何回自己嫌悪に陥っただろうか。
 
「なんでこんなに嫌な事ばかり思い出すのでしょう」

 もう帰れない。
 あの日に戻れないという変えようのない事実から目を逸らさせてくれない。

 否、背ける気概がないというべきだろう。

 ぴかぴかに磨き上げられた墓石に刻まれた『八重山やえやまさくら』、現実はいつも桜に慈悲を与えなかった。
 己の死を受け入れ嘆き、そして一度も訪れる事のない伴侶の姿を夢に見る事すら許されず。
 幾度も幾度も巡る桜の季節に縛り付けられた。

「命日、だからじゃないかな?」
「初七日も四十九日も月命日も命日も……全部嫌いです」

 会話は全て桜の記憶の中でしかなかった。

 今までは。

「遅くなってごめんよ。寝起き悪くて」
「そういってまた何年も待たせ……る」

 まるで幽霊にでも声をかけられたかのように桜は凍り付き、続いてゆっくりと首を回す。
 そこには白い髪、黒い瞳、白装束に安っぽい雪駄を履く初老の男、望めど返ってくることのなかった声が……初めて帰ってきた。

 すっかり老けてしまったが、桜の恋人は彼女の記憶の中と同じ笑みでたたずんでいた。

「待った……待ったの。ずっと、嫌みのように咲くこの木の下で」
「嫌みじゃないさ。目印になった」
「全然かわいくない真っ白無垢な着物しか無い」
「そうかい? 白に桜色の下駄は映えるよ?」
「湿っぽい線香の匂いばかり、鼻がどうにかなるかと思った」
「だから桜の香りの線香を、とおふくろと親父に頼んだんだ」
「……お義父……さん、お義母さん?」

 堰を切ったかのように流れる言葉を止め、自分の墓石を見ると薄茶の線香が灰壺に刺さって備えてある。そして……ほんのりと立ち上る煙は甘く優しい桜の薫りだった。

「両親との顔合わせ位しなきゃ、って桜が言ったんじゃないか」
「…………あ」

 何気ない朝のコーヒーを飲んでる時に彼は面倒くさそうに両親と顔を合わせることを渋っていたので、桜が叱責した。

 とびっきり苦く入れてあげたコーヒーに顔をしかめながら彼は頷き、自分もまたなんでこんなにまずく作れたのだろうと可笑しくなって二人で笑った。

「ちょうど真っ白だし式でもあげないか?」
「え?」
「だって、未練があったら今度こそここから離れられないだろ桜は」

 なんてことを言うのだろう。
 死に装束で結婚式など聞いた事が無い、だが。

「ぷっ……」

 にじむ視界の遠くに彩る七色の虹をバックに桜は笑った。
 ずっと使うことのなかった河渡しの古銭を手からこぼして……一文分の寄り道をするために。




 ◇◆――――◇◆――――◇◆――――◇◆



「傘ではなく花が七本必要かの。鬼婚の後に既婚者となる夫婦とは……長生きはするものじゃな」

 からんと下駄を響かせて、翁は踵を返す。
 あの世で幸せに暮らせるようにと一文分の色を付けて、と。

 奇しくも合わせて八重の桜になるように。
 
 
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