エリーと紅い竜

きょん

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第二十八話 生命

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 深紅のドラゴンはゆっくりとその瞼を上げると、蒼い瞳で周囲を探るかのように見回した。
 そして少々ぎこちなくではあったが、逞しい後ろ足で立ち上がると、まるで彫像のような美麗な出で立ちで天を仰ぎ、雄々しい咆哮を響かせた。

「ぐ……、ぐはははははは! 王家の秘術などと勿体ぶっておきながら、その程度ものだったか! ここまで策を練り、秘術を手に入れんとした私は、これではとんだ間抜けだ!」

 言葉では自嘲しながらも、その口調は勝者の雄叫びそのものだった。自身が長年研究を重ね、編み出した禁術と、千年以上にも渡って隠匿されていた秘術の本質が同じことを見抜いたジェラルドは、もはやその術に対しての興味を急速に失っていった。
 そして今や彼の目的は、自身の肉体を究極に完全な存在へと高める事と、精神的な面においても人間とは一線を画する存在になる事となりつつあった。

「フィオレンティーナよ! お前が得たその力と私の創り出したこの力、どちらが真の支配者に相応しいか、試させてもらうぞ!」

 これ以上の会話は不要だった。その言葉を皮切りに漆黒の竜は、無様ながらもなんとも荒々しい動きで深紅の竜へと襲い掛かった。



 急転直下の展開に、ミーナは小刻みに体を震わせながらもその様子を見守っていたが、それでもなお予断を許さない状態である事も感じ取っていた。
 救国の化身である深紅のドラゴン、フィオレンティーナが変化したそれは、ジェラルドとは違い、美しさと力強さを兼ね備えたような優美な姿をしていたが、その大きさは相対する邪悪なドラゴンの二回り、もしくは三回りは小さく、果たして女王の言葉通りの力があるのかは、傍目で見ている少女には分からなかった。
 なんにせよ、今のミーナに出来る事は、何とかしてこの衰弱しきった王妹を目覚めさせる事くらいであった。

「女王様、頑張ってるよ! だからエリーも頑張ってよ!」

 だがエリーの浅い呼吸は少女の焦燥を煽る。それと同時に、ミーナは思い出したかのように、地に伏した幼馴染の方を見遣り、大声でその名を呼んだ。

「ジェフ! ジェフ!」

 すると少年は声に応えるかのように腫れあがった顔を上げ、そして右手の親指を立て、さらには無理やりにきざな笑いを作る。長い付き合いの少女は、彼の言わんとしている事を即座に感じ取ると小さく頷いた。
 自身よりも想い人の身を案じるかのようなその姿に、少女は再び身を奮い立たせ、その命を削ってでも姫を救おうと決心する。

――でもどうやって?

 それでも再び、否定的な思いがミーナの脳裏を巡った、次の瞬間だった。少女は妙案が浮かんだかのような表情を浮かべたが、直ぐに元の険しい表情に戻った。



 二匹のドラゴンの戦いは熾烈を極めていた。深紅の竜は小柄ながらも俊敏な動きで、その体躯の巨大さで勝る邪悪な黒竜に対して一歩も譲る事のない戦いを繰り広げる。歪な姿のドラゴンの鈍重な一撃をかわし、女王の化身は相手を翻弄するかのように、その傍らを駆け抜けながら、鋭利な鉤爪での一撃を加える。漆黒の竜鱗をはがし、体表を切り裂けば鮮血が石畳に雨を降らす。
 だが、ジェラルドと呼ばれていた男が変化したドラゴンも防戦一方というわけではなかった。地面を転がるかのように身をかわすフィオレンティーナを、後ろ足で踏みつけようとする。それは寸での所で空を切ったが、軽々と石畳に大穴を作り、その破壊力の凄まじさをまざまざと見せつけた。
 そして彼女に休む間を与えんとばかりに、激烈な冷気を吐き掛ける。これには堪らず、紅いドラゴンは優雅な一対の翼を広げると、宙へと舞い上がった。

「たいしたものだな、だが勝負はこれからだぞ!」
「…………」

 一進一退の攻防だったが、ジェラルドはまだ策を持っているかのような、自信に満ちた声を上げる。一方のフィオレンティーナは大きな翼をゆっくりと扇ぎながら、野望に狂った男の成れの果てを見下ろしていた。
 すると、その視界の端に、逃げ慌てふためく大勢の民衆の姿が映り込んだ。息を潜めて嵐が去るのを待っていた人々は、人間の戦争よりも遥かに恐ろしい、二匹のドラゴンの戦いに気付き、我先へと向かうあてもなく逃げ出していた。
 だが、その様子に気付いたのはフィオレンティーナだけではなく、ジェラルドも同様だった。彼は口角を上げ、おもむろに民衆の方へと上体を向ける。

「!」

 邪竜の企みに気付いた紅きドラゴンは再び翼を翻すと、間に割って入ろうと飛び出した。
 しかし時すでに遅く、ジェラルドは魂までも凍てつかせる冷気を人々へと浴びせ掛ける。悲鳴と絶叫が響き渡り、冷たく輝く吹雪が収まれば、そこにあったのは氷塊と化した哀れな民衆の姿だった。
 そして先ほどの兵士たち同様に凍り付いた人々の生命を、その魂を喰らった悪鬼は究極とも完全ともいえる禍々しい姿へと変貌させていく。
 枯葉のようだった二対の翼は大型船の帆の如く巨大になり、前足も、牛馬程度の胴ならば片足で握りつぶせそうなほどに大きく、逞しく変化していく。体表を覆う鱗は黒さを増し、その色はジェラルドの暗黒に染まりきった心を現すかのようであった。

「まだだ! もっと、もっと私は強大になるのだああああああ!」

 理性を失い始めたかのような叫び声は、人間だったころのジェラルドの声とはとても比べ物にならない、低く、身の毛のよだつ叫びだった。
 民を救うことが叶わなかったフィオレンティーナは、それでも未だ心折れることなく邪竜を睨みつけていた。

「来いフィオレンティーナ! 貴様もこの哀れな民衆同様に凍てつかせ、その魂を喰らってやろう!」

 猛然と、先程の比ではない速度で急襲する黒竜。虚を突かれた女王は、自身の数倍もある巨体での体当たりをまともに受けると、激流に飲まれた小枝のように成す術もなく吹き飛ばされ、石造りの礼拝堂を破壊しながらその身をめり込ませる。建物は半壊し、天辺に据え付けられていた大鐘が地へと落ちると、普段の美しい音とは程遠い耳障りな音を辺りに響かせた。
 さらに間髪入れずに襲い来る冷気。深紅のドラゴンは紙一重で避けると、再び宙へと舞い上がる。そして、街中のあらゆる建造物よりも高く飛び上がると、一拍おいて、その喉奥から閃光のような炎を吐きかける。太陽光をレンズで絞ったかのような熱線にも似た火炎は、漆黒のドラゴンの翼の一本を根元から溶断し、流石の邪竜もこれには苦痛の絶叫を上げた。
 これを好機とばかりに、フィオレンティーナは矢の如くジェラルド目掛けて急降下した。



「おい、どうなんだよ……」

 激闘が繰り広げられ、民衆が逃げ惑う中、ずたぼろになったジェフは、ミーナとエリーの元にまで這い寄ると、唇を噛み締めたままに動かない幼馴染に声を掛けた。
 その声に、ようやく少女は、我を取り戻したかのように少年の顔を見た。

「何とか、なるかもしれない」
「じゃあ早くやれよ! エリーさんが死んじまうだろ! それに……」

 乱暴に急かすジェフは言葉を切ると、二頭のドラゴンの壮絶な戦いに一瞬だけ目を遣った。

「あのままじゃ女王様やられちまうぞ! エリーさんなら何とかしてくれるかもしれない、だから早く何とかしてくれよ!」

 徐々にだが、劣勢に追い込まれつつある紅いドラゴンの姿に、少年は再び語気を強めた。
 すると彼の言葉に、ミーナは覚悟を決めたかのような表情を浮かべた。

「わかったよ、やってみる。けど、もしわたしに万が一の事があったら……」

 言葉を途中で止めると、少女はそれ以上何も言わずにエリーの傍らに膝をつくと、冷たくなった彼女の手を再び握りしめた。
 そして、ミーナは自身の生命を、すなわち術の根源たるその魂の力を、脈打つ心臓の動きに合わせて両の手から送り出す心象を想起する。僅かに光を帯びるミーナの体から、清流の如くその輝きがエリーへと流れ込み、彼女の全身を包み込む。

「すげえじゃん!」

 術の苦手なジェフでもはっきりと感じ取れる程の高位の術。少年は血にまみれ、腫れ上がった顔ながらも、その目を輝かせて幼馴染を見遣る。
 だがその表情は一瞬で驚愕の表情へと変わり、自身の体に走る痛みなど気にも留めずに起き上がり、ミーナの肩を乱暴に掴んだ。そして彼の瞳に映ったのは急激にその色を失う少女の顔。

「お……、おい!」

 ミーナの両肩を掴み、なんとか術の行使を止めさせようとするも、少女の手はしっかりと姫の手を握り続けていた。そのうち、ふっくらとした頬からはりつやが失われ、いよいよ彼女の顔は病人か、あるいは死人のような様相を呈し始め、思わずジェフはあまりの異様さに彼女の身体から手を離す。
 それとは対照的に、エリーの顔色は見る見るうちに鮮やかさを取り戻していく。そして、遂に傷ついた姫は再びその瞳に光を取り戻した。

「ミー……ナ」

 蒼い瞳の姫は喘ぐように声を絞り出す。意識が戻ったとしても、それが完全な回復を意味するわけではなかった。
 けれども、快方に向かっている事に間違いはなく、ミーナはおもむろに睫毛を上げるとエリーの瞳を見つめて微笑みを浮かべる。

「エリー……」

 呟きが零れると同時に少女は意識を失うかのように力無く崩れようとしたが、咄嗟にその身を抱きとめるジェフ。
 そして、ようやくその身を起こしたエリーも、ミーナの身を案じるかのように、その氷のように冷たくなった頬に手をやった。

「無茶し過ぎよ……」

 ため息を漏らしたエリーは一言そう言うと、満身創痍の少年に視線を移す。

「ジェフくん、ミーナの事は頼んだわ」
「はい……。にしても、ミーナは何を?」

 軋む体に鞭を打ち、懸命に立ち上がった姫は少年の質問に手短な返答をする。

「禁術……魂を取り出す術の逆をやったのよ。つまり自身の生命、魂そのものを他者に分け与える行為。並の癒しの術とは桁違いの負担を、ともすれば命を落としかねない程に消耗してしまうわ」
「何てことするんだ、こいつは……」

 心配そうに幼馴染の顔を見つめるジェフだったが、それ以上何が出来るわけではない少年は顔を上げると、今の状況を簡潔にエリーに説明した。
 そして、今の自分たちの窮地について聞かされた姫は、再び戦いにその身を投じようと、身体や装備の異常を確認する。その様子を見ていた少年は、エリーの腰に提げられた鞘に剣が収められていない事に気付くと、足元に置かれた自分の長剣を拾いあげ、その柄を彼女の方に向けた。

「これ、使ってください。うちの店にあった中で一番上等な剣なんで、そこそこ斬れると思いますよ」

 傷だらけの顔で、この期に及んできざな笑いを作るジェフ。その彼の好意を、エリーは素直に受け取るかのように、少年の意志のこもった剣を手に取った。

「ありがとう、必ず勝つわ」

 その顔に生気を取り戻した姫は、暗雲の下で吹きすさぶ狂風に黄金色の豊かな髪をなびかせながら、少女と同じくその生命を賭して戦う姉のもとへと走り始めた。
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