極甘マリアージュ ~桜井家三女の結婚事情~

有允ひろみ

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1巻

1-1







 四月の青空に真っ白な鳩が羽ばたく。
 今日は桜井さくらい家三姉妹の二女・早紀さきの結婚式。三女であるはなは、純白のウェディングドレスを着た姉をまぶしそうに見つめる。

「ほら、花。もっと前に行きなさいよ」

 長女のまどかが花に耳打ちをした。教会の入り口前に立つ早紀の手には、花嫁のブーケが握られている。式が終わり、今まさにブーケトスがおこなわれようとしていた。

「えっ……私はいいよ。ブーケなら、他にほしい人がいっぱいいるだろうし――」

 早紀の前には、美しく着飾った女性達がずらりと並んでいた。彼女達の背中からは、ただならぬ気迫が感じられる。

「なーに言ってんの! だからこそでしょ。このままじゃ、けが人が出るかもしれないわよ。妹であるあんたがキャッチすれば、あとあと揉める事もないんだから」

 まどかに背中を押されて、花はつんのめるようにして前に出た。それでもまだ女性達の列には届かず、花は青々とした芝生しばふの真ん中で一人立ち尽くす格好になる。

「いくわよ~!」

 早紀がうしろ向きになり、ブーケを持ったまま低く身構える。

「私の次に花嫁になるラッキーガールは、だ~れだ!」

 花嫁の澄んだ声が聞こえると同時に、しろ薔薇ばらのブーケが空高く舞い上がった。何本もの腕がブーケに向かって伸び、ハイヒールのかかと芝生しばふを蹴る。
 しかし、ブーケはゆるいカーブを描きながら彼女達の頭上を通り過ぎた。

「あ~!」

 女性達が声を上げながら、うしろを振り返る。彼女達が見守る中、ブーケは花の手の中に落ちた。その瞬間、早紀が花に向かって大きく手を振る。

「みなさ~ん、次の幸せな花嫁は私の妹の花で~す!」

 早紀の言葉を合図に、周りの人達が一斉に拍手をする。ブーケを逃した女性達も、妹なら仕方がないといった顔でそれにならう。

「花、よかったね」

 まどかが近寄ってきて、花の肩に手を置いた。すでに結婚して家を出ているまどかは、今や二児の母だ。彼女の背後には、商社マンである夫が子供達と手を繋ぎながら微笑んでいる。

「花~! お姉ちゃ~ん!」

 早紀が駆け寄ってきて花達と合流する。二人の姉に囲まれ、ふいに花の目から涙が零れ落ちた。

「あらら、どうしたのよ」

 早紀が驚いた顔で花の背中をさすった。そのてのひらの優しさに、花の視界はますます涙でゆがんでいく。

「だ……だって……」

 この上なく嬉しくて、同時にちょっとだけ寂しい。

「嬉しいけど、お姉ちゃんがそばにいなくなるのが寂しいってとこかな?」
「……は、隼人はやとお兄ちゃん……」

 優しいテノールの声が聞こえて、花は涙に濡れた顔を上げまばたきをした。姉達の間に立ったスーツ姿の彼は、桜井家の隣人である東条とうじょう家の一人息子だ。

「あーあ、こんなに大泣きして」

 隼人の顔に、困ったような微笑みが浮かぶ。
 どこから見ても完璧な彼の立ち姿に、花の視線が一瞬にして釘付けになった。

「ほら、涙拭いて。せっかくのメイクが台無しになっているぞ」

 そう言われても、一度流れ出した涙は容易には止まってくれない。花は差し出されたハンカチを受け取り、目の下をぬぐった。マスカラのせいで、生地きじが焦げ茶色に染まる。

「あ……ごめん、ハンカチが汚れちゃった」
「そんなの気にしなくていいよ。まったく、花はいつまでたっても泣き虫だなぁ」

 伸びてきた腕が花の身体をやんわりと包み込む。それと同時に、大きなてのひらが頭を撫でてくれる。
 まだ子供だった頃、隼人はよくこうして泣いている花の頭を撫でてなぐさめてくれた。だけど、それは今から十年も前――花が小学六年生までの話だ。

(は、隼人お兄ちゃんっ……)

 スーツの生地きじを通して、彼の硬い腕の筋肉を感じる。
 昔よりも確実にたくましくなっている彼の身体からは、何かとてもいい香りがする。
 まさか、こんな夢みたいなひと時が訪れるなんて――
 泣くのも忘れて花が夢心地になっていると、早紀がひょい、と顔を覗き込んできた。

「花、次に幸せになるのはあんたよ」

 まどかの顔が早紀の横に並んだ。

「そうよ、花。あんたと隼人、今日から〝許嫁いいなずけ〟になったんだからね。あとは、二人のタイミングで進めればいいわ」

 花の顔が、みるみるうちに赤く火照ほてり出す。

「い、いいな……ずけ?」
「うん。お姉ちゃん、早く花のウェディングドレス姿が見たいなぁ。ぜったい可愛いと思うんだよね。あぁ、今から楽しみ~」

 早紀が花の頬を突っつき、満面の笑みを浮かべる。

「隼人、花をよろしくね。この子、まだまだお子ちゃまなところあるから――」
〝花をよろしく〟

 そう言われた隼人が、一体どんな表情を浮かべているのか気になる。
 だけど、その時の花には顔を上げる余裕なんか欠片かけらほどもなかったのだった。


 東京郊外にある「チェリーブロッサム」は、創業五十六年の純英国スタイルのティーサロンだ。
 開店時間は日曜祝日を除く平日の午前十一時から午後七時まで。店内の一角では自家製の焼き菓子や紅茶の販売もしており、ポプラの木に囲まれたウッドデッキもついている。
 建物は明治時代に建てられた商館で、廃ビルになっていたのを花の祖父母が買い取って改築し、祖母の長年の夢だったティーサロンを開店させ、今に至る。
 現在のオーナーは、亡き祖母のあとを継いだ花の母であるめぐみだ。
 高校生の時から店の手伝いをしてきた花は、今年の春、四年制の専門学校を卒業し、四月から正社員として正式にこの店で働いている。
 花が取得した管理栄養士の免許証は、恵のものと一緒に店のバックルームの壁に飾られていた。

「さて。これでよし、と」

 結婚式の次の日、花は「チェリーブロッサム」のキッチンで焼き菓子を焼いていた。それを取り分けてショーケースに並べながら、昨日の出来事を思い出して頬を染める。

(まさか、こんな事になるなんて……)

 桜井家と東条家は祖父の代からの付き合いであり、父親同士が幼馴染おさななじみの両親の代になってからは特に親しく交流するようになった。互いの家の長子は性別こそ違うものの、同じ年の同月生まれ。
 まどかと隼人の二人は高校まで同じ学校に通い、双方ともバスケットボール部に所属してキャプテンを務めた。
 それもあって、「チェリーブロッサム」は自然と男女バスケットボール部の溜まり場になり、おのずと家族ぐるみの付き合いも深まっていった。

『仲がいいんだし、どうせなら許嫁いいなずけとしてこのまま結婚したらいいのに』

 両家の間でそんな話が出たのは、二人が中学校を卒業する頃だったらしい。
 しかし、そんな両親達の思惑をよそに、まどかは六年前に商社マンと社内結婚をして家を出た。

『せっかくだから、許嫁いいなずけは繰り下げ制にしよう』

 両親達の話し合いにより、二女の早紀が隼人の二人目の許嫁いいなずけになった。
 けれど、早紀は仕事の縁でアパレル会社社長と出会い、昨日めでたく嫁いでいった。それにより、隼人の許嫁いいなずけが三女・花に繰り下がってきたわけだが――

(これって、本当の事?)

 許嫁いいなずけの話が出た時、花はまだ幼稚園だった。五歳児の花の目には、十五歳の隼人がまるで王子さまのように映った。彼がカフェに来ると、花は子猫みたいに彼の膝に飛び乗ったものだ。
 隼人は一緒にいるチームメンバーと話しながらも、花の頭を撫でて時折下を向いて微笑んでくれた。今考えてみれば、かなり邪魔な存在だったと思う。けれど、隼人は花を迷惑がる事なく、いつも膝上を占拠するのを許してくれた。
 むろん、その時はまだ〝許嫁いいなずけ〟という言葉を理解していなかったし、ただただ優しくてかっこいい隼人のそばにいたいという欲求だけで行動していたように思う。
 事あるごとに『花は隼人お兄ちゃんと結婚する』などと吹聴ふいちょうして回り、周りはそれを微笑ましく見守ってくれていた。
 しかし、小学校に進学して〝許嫁いいなずけ〟の意味を理解した花は、隼人が将来上の姉と結婚するのだと知りショックを受ける。だけど、小学生の花に何かができるわけもなく、それを受け入れたまま卒業式を迎えた。
 その頃には、はっきりと彼に対する恋心を自覚していたけれど、彼はまどかの許嫁いいなずけだ。
 所詮、叶わない恋。そう諦めていたのに、ある日突然、まどかが隼人ではない男性と結婚する事になった。さすがに衝撃を受けるが、〝許嫁いいなずけ〟は自動的に次姉の早紀に繰り下がり、花は傍観者の立場を守り続けた。
 それなのに、早紀が選んだのも隼人ではない別の男性で――
 思ってもみない展開に、花は一人パニックにおちいる。
 まさか自分に順番が回ってくるなんて思ってもみなかった。姉達より見劣りする自分が、彼の許嫁いいなずけになるなんて妥当とは思えない。

(だって私はちんちくりんだし。せめて、お姉ちゃん達の半分でもスタイルがよくて美人だったらよかったのに……)

 姉達はすらりとして背が高く、目鼻立ちがはっきりした美人だ。それに比べて、花は身長一五四センチ、体重五十二キロ。顔にこぢんまりと収まった目鼻は、それなりに整ってはいるものの子供っぽくて化粧映えしない。
 二十二歳にして寸胴ずんどうで脚も太く、バストはAカップ以下。華やかな姉達の妹とは思えないほど地味で貧相な外見をしている。唯一勝っているものといえば、愛想のよさくらいだろう。
 隼人は花の初恋の相手であり、以来変わる事なく想いを寄せ続けている相手だ。
 あんなに優しくてかっこいい男性は、他にいない。抜群に頭がよくて努力家の上に、誰もが認める真面目人間。おまけにパイロットだ。
 だから、彼の許嫁いいなずけになれた事は、世界に向けて叫びたいほど嬉しい!
 それなのに手放しで喜べないのは、隼人に対して申し訳ない気持ちが先に立ってしまうからだ。
 花は基本、細かい事は気にしないし性格も明るい。しかし、隼人の事に関してだけは、自分でもおかしくなるくらい弱腰になってしまうのだ。

(どう考えても不釣り合いだよね……。そもそも、隼人お兄ちゃんはどう思ってるんだろう?)

 ただでさえモテる彼の事だ。花嫁候補なんて掃いて捨てるほどいるだろう。
 もしかしたら――いや、もしかしなくても、隼人にはとっくに恋人がいて、その人と結婚の約束をしているかもしれない。いや、そう考えたほうが自然だ。

(そうよ、隼人お兄ちゃんがフリーなわけないじゃない)

 花は、一人店のキッチンで落ち込む。
許嫁いいなずけ〟になったからといって、このまま棚ぼた式に隼人と結婚できるはずがない。

(やっぱり、変に期待するのはやめよう……。そうじゃないと、あとで死ぬほどがっかりして、立ち直れなくなりそうだもの……)

 花はようやくひとつの結論に辿たどり着いて、がっくりと肩を落とす。
 そして、やりかけの洗い物を片づけながら、その日一番の深いため息を吐くのだった。


     ◇ ◇ ◇


 隼人は空港にほど近いタワーマンションにある自宅で、物思いにふけっていた。地上二十五階から見るパノラマの景色は、まるで精巧にできたジオラマのようだ。

「あれは、札幌発の国内便だな」

 はるか上空を飛ぶ飛行機の灯火ともしびが目に留まり、隼人は無意識に独り言を言った。
 パイロットという職業柄、おおよそのフライトスケジュールは把握している。
 都内の大学を卒業後、親の経営する「東条エアウェイ」に入社した。自社養成パイロットとして訓練を積み、今は機長として世界中を飛び回る生活を送っている。業務スケジュールは月によって変動があるが、もらえる年間休日は、ひと月当たりおよそ十日から十四日程度。土日は出勤になる事がほとんどだが、日数で考えれば一般企業よりはいくぶん多いくらいだ。
 昨日ロサンゼルスから戻り、今日は丸一日休みだった。
 日中は下の階にあるスポーツクラブで汗を流し、そのあといきつけのレストランで友人とディナーをともにして、さっき自宅に帰り着いたところだ。
 風呂上がりの喉元を、冷えたミネラルウォーターが通り過ぎる。
 ペットボトルの中をぜんぶ飲み干すと、隼人は飛び去っていく飛行機から目をらした。
 このタワーマンションに住みはじめたのは、ちょうど二年前。売り出されて早々に購入を決め、ほぼ身ひとつの状態で引っ越してきた。
 現在三十二歳になる隼人は、独身の一人暮らし。恋人と呼べる人はいない。
 言い寄ってくる女性は多くいるし、これまで何人かの女性と付き合ってきた。しかし、なぜか常に一歩引いたような関係しか結べず、結局は短期間で別れる事になってしまう。
 おそらく、自分は恋愛に対して淡白なのだろう。きっと結婚にも向かない。
 そう思ってからは、以前にも増して恋愛や結婚というものに関心がなくなった。
 そんな自分が、四日前の土曜日、とある結婚式に出席した。
 お隣さんであり幼馴染おさななじみでもある桜井家三姉妹の二女・早紀の式だ。
 久しぶりに見る彼女達は、相変わらずの仲のよさで、見ているだけで気持ちがなごんでくる。
 桜井家とは昔から親しく、家族同然の付き合いをしていた。一人っ子である自分にとっては、桜井家の三姉妹はめったに顔を合わせない従兄妹いとこよりも親しい存在といえる。
 仲のいい自分達を見て、双方の両親は長子同士を許嫁いいなずけにしようなどと言い出した。
 もちろん、そんなのはただの戯言ざれごとであり四人とも本気で言ったわけではない。
 現に、三姉妹の上二人は自分とは別の相手と結婚した。〝許嫁いいなずけ〟なんて、口約束にもならない、ただの軽口だと、両家の全員が理解している――そう思っていた。
 だが、実際は少し違っていたみたいだ。
 式のあと、隼人は花の姉達に呼び出され、こう言われた。

『花は〝許嫁いいなずけ〟を本気にしてる』

 当然、「冗談だろ?」と言って一笑に付そうとした。
 けれど、よくよく考えてみれば、ありえない話ではない。花は、昔から人の話を無条件に信じてしまう性質たちで、エイプリルフールの嘘すらも本気にする事が多々あった。

『でも、アリでしょ? 花との結婚』

 まどかにそう言われたのをきっかけに、改めて花の事を考えるようになった。
 すると、今までまったく意識していなかった花の美点があれこれと見えてきて、少しばかり驚いてしまった。
 自分と十歳違いの花は、基本的にしっかり者だけど、どこかあぶなっかしい。明るく単純で、よく笑いよく食べる女の子。一見何も考えていないように見えるが、意外と繊細で結構な泣き虫。
 そんな花が、いつの間にか大人の女性になっていて、そこはかとない色気をかもし出していたのだ。
 早紀の結婚式の時、泣きじゃくる花を無意識のうちに抱き寄せ、頭を撫でていた。それは、ただ単に昔よくそうしていたからであり、意図した行動ではなかったはずだ。
 だけど、気がつけば胸がじんわりと熱くなり、腕の中にいる花をこのままずっと抱きしめていたいと思った。
 いて言えば、独占欲とでもいうのだろうか。
 もともと自分にとって守るべき妹的な立ち位置にいた花が、結婚式を機にそれまでとは明らかに違う存在になった。

『花は昔から今に至るまで、本気で隼人の事を想ってる』

 花が自分に対して好意を持っている事には、前々から気づいていた。それほど花の態度はわかりやすかったし、その気持ちを嬉しく思わないでもなかった。
 しかし、花の好意は、あくまで兄に近い存在に対する、憧れから生じたものだと思っていたのだが……

(花との結婚か……)

 それを自分がさほど嫌だと思っていないところをみると、まんざらでもないのでは――と考えるようになった。
 花はいい子だ。
 素直だし「好き」か「嫌い」かで答えるなら、全面的に「好き」と答える。
 普段、友人知人から聞かされる女性に関する愚痴ぐちも、きっと花には当てはまらない。それに、同僚の男性が言うところの嫁姑よめしゅうとめ問題など無縁だろう。
 浮気問題もしかりだ。もし万が一そんな事があれば、自分の腕の中に閉じ込めて一切外の世界に触れさせないようにするつもりだ――
 そこではた、と気づき、隼人は自分自身をいぶかしんだ。

「……俺は一体、何を考えているんだ?」

 ただの想像に、いつの間にか本気でむかついて眉間に縦皺たてじわを寄せていた。

「馬鹿馬鹿しい。花がそんな不実な真似をするわけがないだろう? 俺だってそうだ」

 年齢も生活スタイルもまるで違うかに思える自分達だが、馬鹿がつくほど真面目なところは似ているような気がする。
 どこかしら似ている点があるというのは、一生をともにする相手に望む条件のひとつにしていいのかもしれない。

「ふむ……」

 隼人は、あの時抱き寄せた頼りなげな花を思い返した。

『アリでしょ?』

 まどかの声が、今一度頭の中で再生される。そして、自分がいつの間にかにこやかな笑みを浮かべている事に気づいた。

「うん、『アリ』だな」

 隼人は、そう呟くと、からになったペットボトルをダストボックスに放り込んだ。


     ◇ ◇ ◇


 隼人の母親である東条礼子れいこは、毎日のように「チェリーブロッサム」にやって来る。
 彼女は店が開くと同時にやって来てランチを食べ、午後からはみずからが開くフラワーアレンジメントの教室におもむく。人生の半分を海外で過ごしてきたという彼女は、上品な物腰ながらとても気さくな性格をしていた。
 礼子がカウンター席に座ると、花の母親である恵がメニューを片手に彼女に近づいていく。

「礼子さん、おはよう。今日のサンドイッチはサーモンとアボカド。ベーグルサンドは、ベーコンと玉子よ。スープはミネストローネかヴィシソワーズです」

 恵が澄ました声音こわねでランチの案内をする。

「おはよう、恵さん。では、ベーグルとヴィシソワーズをお願いするわ。あと、お薦めの紅茶を」

 礼子もそれに合わせて、やや気取った様子で答えた。注文のやり取りを終えると、二人はクスクスと笑いながら雑談をはじめる。
 子供達もそうだが、それぞれの両親もまた兄弟姉妹のように仲がいい。ひとしきり話をすると、恵がキッチンに戻ってくる。
 その時、ドアベルが鳴り、二人組の女性客が来店した。店内にはカウンターの他にテーブル席があり、一度に三十六人のお客さまを受け入れる事ができる。
 花はメニューを持って彼女達を窓際の席に案内した。窓から見える庭は、ちょうどつる性のイングリッシュローズが見頃だ。
 しばらくしてランチの準備ができると、花はトレイを持って礼子のもとへ行く。

「お待たせしました」
「ありがとう。今日の紅茶は特別にいい香りがするわね」
「そうでしょう? 一口飲んでみて」

 花に勧められて、礼子がティーカップに口をつける。

「あら? これ、とっても美味おいしい」

 礼子が目を丸くすると、花は彼女の前に小さな皿を置いた。中に入れられているのは、ピンクと黄色の花びら入りの茶葉だ。

「実はこれ、礼子おばさんのためにブレンドした紅茶なの。礼子おばさんの好きなアールグレイに、薔薇ばらとキンセンカの花びらを入れてるんだけど、香りがいいでしょう?」
「ほんと、とっても香り高いわね。これ、花ちゃんがブレンドしてくれたの?」
「うん、気に入ってくれた?」
「もちろん、と~っても気に入ったわよ。ありがとう。花ちゃんって、本当に優しくて気配り上手ね。……その優しさにつけ込むようで悪いんだけど、今度の土曜日、隼人のマンションまでお使いをお願いできないかしら」
「は、隼人お兄ちゃんのマンションに?」

 突然のお願いに、花は少なからずたじろいで顔をこわばらせた。
 大学卒業を機に実家を出て一人暮らしをはじめた隼人だが、二年前メインパイロットに昇格したタイミングでマンションを購入したと聞いている。だが花は、これまで隼人の住まいに一度として行った事がない。

「もちろん、お店が終わってからでいいんだけど。これ、うちで昔から使ってる岩塩なの。隼人の家のものがそろそろ切れそうなのに、この間、持っていくのを忘れちゃって」

 礼子がバッグから岩塩入りの小瓶を取り出した。花の手にそれを握らせた彼女は、にっこりと微笑む。

「隼人には、土曜日の夜七時には家にいるよう言っておくから。これ、ミネラルたっぷりで身体にとってもいいのよ。隼人の健康のためにも、ね。頼まれてくれる?」

 礼子が両方の眉尻を下げながら、花の顔を見る。

「わかりました。ドンッと頼まれちゃいます」

 花は岩塩を持ったこぶしで、自分の胸をポンと叩いた。
 こんなに熱心に頼まれたら、さすがに断るなんてできない。それに、隼人が実家を出てからめったに会う機会がなくなっている今、彼のマンションを訪ねられるなんて願ってもない事だ。
 その日、店が終わった花は、ふと思い立って近所のドラッグストアに向かった。
 そして、陳列棚とにらめっこをしながら、今の自分に必要な商品を買い物かごの中に入れていく。
 ぷるぷる肌になるというフェイスパックや、上質なベルガモットの香りで可憐な女性らしさを演出するというヘアケア商品。
 せっかく隼人に会うなら、できるだけいい印象を与えたい。
 少しでも綺麗になったと思ってもらえるよう、できる限りの事をしておきたかったのだ。

「うん? どうしたの、この顔パック。それに、シャンプーなら買い置きがまだあるのに――ああ、そっか。今度の土曜日〝許嫁いいなずけ〟の隼人くんのとこにお使いに行くんだったわねぇ~」

 帰宅した花が持っていた買い物袋を覗いた恵が、訳知り顔でにんまりと笑う。

「べ、別に、そんなんじゃないし! たまには、いいかなって思って買っただけだから!」

 花が必死に言い訳をすればするほど、恵はニヤニヤと頷くばかりだ。
 花は自室に逃げ込み、てのひらで両方の頬をおおった。
 テーブルの上に置いた鏡に映っているのは、頬を赤くした丸く子供っぽい自分の顔だ。

「なんなのよ、もう……」

 早紀の結婚式以来、気のせいか、双方の母親がやたらと隼人の名前を出してくるようになった。
 花が変に期待しないようにしているというのに、意味もなく〝許嫁いいなずけ〟の件を話題にするものだから反応に困ってしまう。
 花は、岩塩入りの小瓶を目の前にかざした。そして、軽く振って中の岩塩がサラサラと動くさまを見つめる。

(今度の土曜日、か。ちょうど半月ぶりだよね、隼人お兄ちゃんに会うの……)

 いくら冷やかされようと、やっぱり会えるのは嬉しかった。
 今から当日が待ち遠しくて仕方がない。
 花は自分でも気づかないうちに、にっこりと微笑み、岩塩の小瓶を大切に胸に抱えるのだった。


     ◇ ◇ ◇


 土曜日は、朝から雨だった。
 今日明日と休みが取れた隼人は、前から行きたいと思っていた美術館に足を運んだ。そのあと古くからの友人に会い、久しぶりに馬鹿話をして大いに楽しい時を過ごした。

(雨脚がひどくなってきたな)

 車のフロントガラスに雨風が吹き付ける中、隼人はガラス越しに真っ暗な空を見上げた。
 天気予報によれば、今夜から明日にかけて雷を伴う大雨になるらしい。

(横風も強いし、視界も悪い。これだと、離着陸に相当神経を使うだろうな)

 隼人の左眉が、ぐっと上がる。
 仕事柄、常に天気の事は気にかけていた。今現在飛んでいる同僚達の事を思い、やむ気配のない雨を恨めしく思う。
 パイロットは、多くの人命を預かって空を飛ぶ。当然、かなりのプレッシャーとストレスを感じながら日々を過ごしており、労働環境は過酷だ。
 パイロットとして働き続けようと思うなら、心身ともに健康でなければならない。
 だからこそ、休みの日には可能な限りストレスフリーを心掛けているし、無理のない程度にジムへ通い身体をきたえている。

(それにしても、あれは一体なんだったんだ?)

 隼人は、一昨日おとといの夜かかってきた母からの電話の事を思い出す。
 今度の土日って、休みでしょ――からはじまり、帰宅時間は何時なのか、どんな料理が好きか、など普段聞いてこない事を根掘り葉掘り聞かれた。

『じゃ、土曜日は遅くても夜の七時には家に帰っておいてね。――え? なんでかって? もう、いいから、そうしてちょうだい。わかったわね?』

 一方的にまくし立てられ、通話が切れた。
 そして今。時計は午後七時少し前だ。どうせ早めに帰るつもりだったし、特に問題はない。わざわざ念押しをしてきたところをみると、何かしら理由があっての事なのだろう。

(荷物でも届くのかな?)

 母は地方の名産品を取り寄せるのが好きで、時折おすそ分けと言って、直接荷物を送りつけてくる事があった。
 空を見ると、さっきよりも雨が強くなっている。隼人はラジオの天気予報に耳を傾けながら、マンションの駐車場に向かって建物の前を横切った。

「ん?」

 視界の端に小さな人影を映しながら、速度を落としてマンションの敷地内に入る。人影は、おそらく若い女性。緑色の傘をさしてマンションの入り口にたたずんでいた。

(まさか、あれは……)


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