カリスマ社長の溺愛シンデレラ~平凡な私が玉の輿に乗った話~

有允ひろみ

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1巻

1-1

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 東京駅の北西に位置する「ホライゾン東京」は、日本屈指のオフィス街に建つ最高級のラグジュアリーホテルだ。今年で創業六十二年目を迎える老舗しにせで、客室数は二百十七室。
 世界的に権威のあるトラベルガイドで五つ星を獲得し、顧客には国内はもとより世界各国のVIPがいる。
 このホテルに最高級の愛着を持って働いている川口かわぐち璃々りりは「常に笑顔で明るく」がモットーの客室清掃係だ。
 時刻は午前七時三十分。
 初夏の日差しがキラキラとまぶしい金曜日。璃々は意気揚々いきようようと朝の街を闊歩かっぽする。
 スーツやオフィスカジュアルを着た人達が大勢行き来する中、璃々はストライプのカットソーと紺色のコットンパンツ姿だ。

(嬉しい、楽しい、やる気満々~!)

 璃々は現在二十三歳。
 ウキウキで出勤してきたわけは、今日からエグゼクティブフロアにある客室の清掃を任されるようになったから。そこは長期滞在のVIPが使用している各種スイートルームがあり、その担当になるのは璃々が「ホライゾン東京」で働き始めた時からの夢だったのだ。

「おはようございます!」

 従業員入口から建物の中に入り、ランドリー部の窓口でクリーニングされた制服を受け取る。
 制服は係によってデザインが違っており、今から四年前にいっせいにリニューアルされた。
 フロントなど、直接ゲストと関わるスタッフの制服は、白と黒がメインカラーになっており、そこにワインレッドやダークブルーなどの色を使った小物が加えられる。
 璃々が普段着る客室清掃係の制服は、全体が黒でステンカラーのえりそでの折り返し部分だけ白だ。ボトムスは黒一色だが、キュロットかパンツスタイルのどちらかを選ぶ事ができた。
 そこにワインレッドのポケットチーフが加わり、必要に応じて同色のエプロンとウエストバッグがつく。同業他社の制服と比べても格段におしゃれだし、身に着けるだけでやる気が二割増しになるほど着心地がいい。

「おはようございます!」

 ロッカー室のドアを開け、中にいる同僚達と挨拶あいさつを交わす。
 ホテルの現場スタッフは、シフト制で勤務している人が多い。
 璃々もその一人で、休みの日は土日祝日関係なく、だいたい週に二日だ。勤務時間は午前八時から午後五時の固定で、よほどの事がない限り残業はない。
 それというのも、璃々は「クリーニングワーク」という清掃専門会社からの派遣社員であり、勤務時間は同社と「ホライゾン東京」の契約内容に基づいているからだ。
「クリーニングワーク」からは璃々のほかにもスタッフが多数派遣されてきているし、聞くところによると派遣会社ごとに担当する時間帯が違うらしい。いずれにせよ「ホライゾン東京」は派遣先の中でもトップクラスの待遇の良さで、璃々にとってここで働ける事は喜びでしかなかった。
 ロッカーのドアについた鏡を覗き込み、肩までの髪の毛をお団子ヘアにまとめる。
 丸っこい目に常に口角が上がった口元。笑うと若干たれ目気味になる顔は、人に対してまったくといっていいほど警戒心を抱かせない。
 昔から素肌にだけは自信があり、普段あまりメイクはせず色つきのリップクリームと薄いアイラインだけで済ませている。
 鏡でえりの具合をチェックし、おくれ毛をすべてヘアピンで留めた。

(よし、これで準備オッケー。いざ、エグゼクティブフロアに出陣!)

 頭の中で気合を入れ、ベッドメイク用のリネンやアメニティなどを載せたワゴンとともにエレベーターで最上階を目指す。今日担当するのは「ホライゾンスイート」と名付けられた客室で、広さが八十平米へいべいもある。
 このサイズの部屋だと、通常清掃は二人がかりで行う。
 けれど、ペアを組むはずの人が昨夜からの腹痛でお休みとなり、急遽きゅうきょ璃々一人で作業する事になった。
 客室マネージャーのかつらからすけの提案をされたが、璃々はあえてそれを辞退した。

(だって、憧れの部屋だもの。一度くらい、一人きりの時間を味わいたいよね)

 桂は五十代のベテランホテルマンであり、璃々とは比較的気心が知れている。こんな願ってもないチャンスを得られたのも、彼が璃々のワークスキルを高く評価してくれているおかげだ。
 二十三階に到着し、ペールブラウンのカーペットが敷かれた廊下を行く。
 目指す角部屋の前に到着し、中にゲストがいない事を確認してから入口のドアを開けた。
 ストッパーでドアを固定し、はやる気持ちを抑えながらワゴンを押してリビングまで進む。
 見えてきた景色は、これまでに見たどの客室よりも広く、息を呑むほど格調高い。

「ああ、憧れのホライゾンスイート……! なんて素敵なの。さすが雰囲気も空気も違う」

 正面に見えるテラスを配した窓の外には、都心のパノラマビューが広がっている。
 室内の壁は落ち着いたクリーム色で、マホガニーのインテリアはすべてイタリア製だ。
 一言で言えばゴージャスかつ、シック。
 ラグジュアリー感あふれる部屋のたたずまいは、きっと世界中のセレブリティを満足させるに違いない。
 璃々はワゴンをリビングルームの端に置き、大きく深呼吸をした。軽くステップを踏みながら窓のカーテンを開け、部屋いっぱいに陽光を取り込む。
 窓の外は部屋の三方向を囲む広々としたテラスになっていた。

「素敵すぎる……この部屋自体がパワースポットみたい!」

 この部屋に泊まっているゲストは、長期滞在の日本人男性だと聞かされている。

『お忍びでいらっしゃるから、中で見聞きした事はくれぐれも内密に』

 桂からそう言われ、いやが上にも緊張が高まる。立場上、彼はそれがどんな人物であるか知っているはずだが、その口ぶりからしてゲストはかなりのVIPに違いない。
 清掃にかける時間は、たっぷり一時間。
 璃々は円形の鏡に映る自分を見て、こぶしを握りしめた。

「よし、客室清掃係、川口璃々。いつも以上に頑張るぞ! ピッカピカにみがき上げて、ゲストをびっくりさせちゃおう!」

 そう言うと、こぶし天井てんじょうに向かって突き上げる。
 フロントなどと違い、客室清掃係は直接ゲストと関わる機会はほとんどない。だが、客室を介して繋がっていると感じるからこそ、丁寧な仕事をしてゲストに心地よい時間を過ごしてほしいと思っている。
 ホテルという日常から少し離れた空間を楽しんでもらいたい。
 璃々は心を込めて仕事をすれば、きっとゲストにもその気持ちが伝わると信じている。
 手始めに全室のゴミ箱をからにし、リネンやタオルなどを専用のクリーニングボックスの中に入れる。ワゴンから新しくリネン類を取り出し、それぞれの位置にセットして少し離れた位置から出来栄えをチェックした。

「いつもながら、うちのリネンは肌触り抜群だなぁ」

「ホライゾン東京」はリネンや従業員の制服などのすべてを自社でクリーニングしており、担当するランドリー部門の仕事ぶりには定評がある。
 むろん、各部署のスタッフもプロ意識が高く、同業他社に比べても頭ひとつ抜きん出ている。
 それは日頃から社員教育に力を入れ、スタッフであると同時に人としても常に成長を目指す社風があってこそのものだ。
 ベッドメイクを済ませたあとはバスルームを掃除し、水切りをしている間にトイレ清掃に取り掛かった。掃除はテンポよく、時間を有効に使いながら進めるのが理想だ。
 部屋の一画には横長の執務机が置かれ、正面の壁には大型の鏡が取り付けてある。
 業務用の掃除機をスタートさせて、ベッドルームから順に床の細かなちりを徹底的に吸い上げていく。それを済ませると再度バスルームに戻り、水滴ひとつ残らないように天井てんじょうから壁までピカピカにみがき上げる。
 大理石の床も同様にしたあと、洗面台のアメニティのチェックをした。
「ホライゾン東京」で用意されているものは、すべて英国のオーガニックブランドのもので部屋のディフューザーも同じ会社のものを使用している。

「いい香り……。うちのホテルの備品って本当に最高。ここに泊まるだけで本物のお姫様になった気分を味わえるよね」

 ホテルに対するよくある苦情のひとつに「室内の匂いが気になった」というのがある。
 しかし「ホライゾン東京」に限ってはそんな声はめったに聞かないし、璃々も清掃係としてその点は特に注意して日々メンテナンスを行っていた。
 特別鼻が利くわけではないが、仕事柄、匂いに関しては人一倍気にかけるようにしている。

「床掃除よし! それにしても、ぜんぜん散らかってないし汚れてないなぁ」

 ひととおり清掃を終えると、璃々は感心したように呟く。
「ホライゾン東京」で働き始めて五年目になるが、部屋の状態を見ればゲストの性格が多少なりともわかるようになった。
 綺麗好きな人や、散らかっていてもまったく気にしない人。
 ホテルを公共のものととらえている人と、完全に私物化してしまう人。
 アトラクションと勘違いして、ベッドで飛んだり跳ねたりするのはまだ序の口で、壁や天井てんじょうを破壊して高額な弁償金を請求される人もいた。
 この部屋を使っている人は、間違いなく几帳面で気遣いのある人だ。
 ゴミの捨て方も丁寧で、テーブルの上も綺麗に片付いている。
 もしかすると凄腕のビジネスパーソン?
 もしくは、悠々自適に暮らす白髪のご隠居とか。
 いや、来る時にランドリー係から託されたゲストのスーツには、若い男性が身に着けそうなネクタイが添えられていた。

(若くてリッチな億万長者ってとこ? 御曹司かな? それとも起業して大成功を収めた実業家だったりして)

 いずれにせよ、ここまで綺麗に片付いていると、少々手持ち無沙汰だ。もちろん、だからといって手を抜いたりしないし、清掃作業にかける熱量は散らかり放題の部屋と変わらない。
 ただそうはいっても、手間がかからない分作業時間は短くて済んでしまう。時計を見ると、掃除を始めてからまだ四十分しか経っていない。

「あとはウォークインクローゼットの整理整頓をして、と」

 璃々はクリーニングから戻ってきたスーツを持ってベッドルームに向かった。入口横の壁にあるウォークインクローゼットの扉を開け、スーツをハンガーパイプに掛ける。
 ゲストの私物が置かれたそこは、今回のように依頼がある時以外は開けない決まりになっている。
 用事を済ませるついでにチラリと中の棚を見ると、ちょうど目の高さにキラキラ光るハイヒールが置かれているのを見つけた。
 よく見ると、それは透明のガラスでできており、表面にはたくさんのクリスタルで美しい模様が描かれている。
 璃々は吸い寄せられるようにガラスの靴に近づき、笑みを浮かべた。

「素敵……まるでシンデレラの靴みたい」

 この靴にはそう思わせる気品と魅力があった。

「いいなぁ。この靴に似合うのは、同じくらいキラキラのドレスだよね。髪はアップスタイルにして、綺麗にメイクもして――」

 気分はまるで舞踏会に行く前のシンデレラだ。
 璃々はガラスの靴を見つめながら、夢いっぱいの想像を広げていく。
 しいたげられ、日々掃除と洗濯に明け暮れる自分のもとに、ある日魔法使いのおばあさんがやって来る。そして、おばあさんの魔法で美しく変身させられ、白馬の豪華な馬車で王子様の待つ舞踏会に出かけるのだ。

「王子様――私の運命の人、あなたはどこにいらっしゃるの?」

 璃々はシンデレラのつもりになって、空想の中の王子様に呼びかける。

「早く迎えにいらして。私は、あなたが迎えに来てくれるのを待っているのですよ」
「ここだ。ほら、迎えに来たよ――」

 いきなり背後から声をかけられ、そのままバックハグをされた。

「きゃあっ!」

 突然の事に驚いて声を上げる。ハグを解こうと腕を振り上げた途端、どこかに手が当たり、バランスを崩して倒れそうになる。その背中を支えられると同時に何かが割れる音が聞こえた。

「大丈夫か?」

 音に反応する暇もなく、鼻先から二十センチのところに見える顔が話しかけてきた。凜々りりしい眉に、やや切れ長な目。その見る者を圧倒するほどの美男には、見覚えがあった。
 それが誰だかわかった途端、璃々は目をいて息を呑んだ。

「み、三上みかみ社長っ⁉」

 たぐいまれな容姿と存在感を放つ彼は、「ホライゾン東京」の社長にしてCEOの三上恭平きょうへいだ。
 どうして彼がここに?

(まさか、三上社長がここに長期滞在中のゲストなの?)

 璃々は混乱しつつ、周囲に視線を彷徨さまよわせた。
 すると、目の前の棚にあったはずのガラスの靴がない。
 あわてて下を向き、一瞬で血の気が引く。
 そこに粉々に割れたガラスの靴の破片が散らばっていた。

「……ガ、ガラスの靴が……!」
「ああ、粉々だな」
「も、申し訳ありません! 私、とんでもない粗相を――」

 璃々は三上の腕を離れ、深く頭を下げる。そして、すぐにしゃがみ込んで破片を拾おうとした。

「あぶない! 怪我をするぞ」

 三上に手首を握られ、ハッとして顔を上げた。深みのある黒茶色の瞳と目が合い、そのままじっと見つめられる。
 その強い目力に圧倒され、璃々はまばたきすらできないまま彼の目を見つめ返した。

「ほ、本当に……申し訳あり……ませんでした。あの、靴が……すごく綺麗で、つい見惚れてしまって……」

 話す声が上ずり、身体が震える。
 いったい、どう詫びればいいのか……
 話し始めたのはいいが、動揺してうまくしゃべる事ができない。すると、三上が指で璃々のあごをクイ、と上向かせてきた。彼の顔は、身長百五十六センチの璃々よりも三十センチくらい上にある。

「君、名前は?」

 顔をグッと近づけられ、思わずあとずさりするも、すぐに背中が棚に当たって動けなくなる。

「か、川口璃々と申します」

 璃々が名乗ると、三上の視線が一瞬だけ胸元のネームプレートに移った。

「川口璃々、か……。いい名前だ」
「あ……ありがとうございます」

 三上がわずかに目を細めながら、璃々にじっと視線をわせてくる。その目は怒っているようには見えない。けれど、いったいなぜこんなにジロジロ見られているのだろう?
 璃々はおびえながら彼の視線を受け続ける。

「ここで働き始めて、どれくらいになるんだ?」
「こっ……今年で、ご、五年目になります」
「ふむ……じゃあ、僕よりも一年先輩ってわけだ」

 あごを持つ三上の指が、璃々の首をそっと撫でた。

「ひっ……!」

 思わず声が出て、身体が少しだけ前のめりになる。そのせいで三上との距離がより近くなった。

「じゃあ当然、寄託物等の取扱いについての約款やっかんは頭に入っているね?」
「は、はい、もちろんですっ……!」

 寄託物等の取扱い・第十五条――
 ゲストが客室内に持ち込んだ貴重品について、ホテル側の故意又は過失により破損が生じた時は、ホテル側がその損害を賠償する。ただし、ゲストからあらかじめ貴重品の種類及び価額の明告のなかったものについては、ホテル側に故意又は重大な過失がある場合を除き十五万円を限度とする。
 璃々はそれを要約して唱え、唇をきつく結んだ。
 ガラスの靴を落としたのは自分だし、賠償はまぬがれない。
 仮に三上がガラスの靴の所持をホテル側に伝えていなかったとしても、璃々がしでかした事は重大な過失にあたるだろう。
 璃々の頭の中に、最悪の事態が思い浮かぶ。
 それだけはダメだ! 璃々は勢い込んで三上に訴えかけた。

「あのっ……私、どんな事をしてでも靴の弁償をします!」
「君が?」
「はい。ちなみに、ガラスの靴はおいくらくらいするものなんでしょうか?」
「あの靴はブライダルフェアのシンボルとしてホテル内に展示する予定のものだ」

 チャペルのリニューアルオープンの件なら璃々も知っているし、その記念として開催されるフェアはかなり大規模なものになると聞かされている。
 そんな大事なフェアのシンボルを壊してしまったなんて……
 璃々は三上を見つめながらいっそう青くなり、事の重大さに唇を震わせた。

「チャペルリニューアルは僕が提案して、直接関わって進めている一大プロジェクトだ。当然、そのシンボルとなるガラスの靴も僕自らが制作に関わった特注品だ。それを、君個人が弁償すると言うのか?」

 三上に問われ、璃々は彼にあごを持たれたまま頷いた。

「君はホテルの従業員だろう? だったら、まずは上司に報告してホテル側が損害の賠償をすれば済む話だ」
「私は従業員ではなくて『クリーニングワーク』からの派遣社員です」

 たとえホテル側が賠償して事なきを得ても、損害金額を計上されるし、璃々は間違いなくクビになるだろう。
「ホライゾン東京」の人事部が多額の損害をもたらした璃々をこのまま働かせてくれるとは思えないし、そうでなくても「クリーニングワーク」側が人員の交代を申し出るはずだ。

「私ここを辞めたくないんです! ようやく『ホライゾン東京』で働く夢が叶ったのに……どうか、お願いします――」

 話しているうちに、危うく涙が零れそうになる。
 璃々は顔をうつむけ、急いでまばたきをして涙を振り払った。

「夢か。じゃあ、どうしてそんな夢を持つようになったのか、教えてもらえるかな?」

 三上が興味深そうな顔でそうたずねてくる。なぜそんな事を聞かれるのか不思議に思いつつも、璃々はわらにもすがる気持ちで話し始めた。

「私が小さい頃、一度だけここに泊まった事があるんです。両親は、もう十五年前に離婚していますが、その時はまだすごく仲がよくて……」

 宿泊した当時、「ホライゾン東京」では夏休み用にさまざまなイベントが実施されており、璃々は親子三人でそれに参加しにきたのだ。

「素敵な部屋と美味おいしい食事――本当に楽しくて、何もかもが夢のようでした。スタッフの皆さんもとても優しくしてくれて、その時の記憶は今もはっきりと残っています。私にとって家族との一番幸せな思い出はここに泊まった時の事なんです」

 その時の光景が頭に思い浮かび、璃々は我知らず口元に笑みを浮かべた。

「このホテルには私の夢が詰まっているんです。お金を貯めて、おしゃれしてショッピングをしてみたいし、レストランで食事したり、素敵なラウンジでお酒だって飲んでみたい。そして、もう一度、ゲストとしてここに泊まりたい。それに、私、いつか素敵な人とここで結婚式を挙げるのが夢なんです……」

 璃々にとって「ホライゾン東京」は、憧れの場所であり幸せの象徴だった。
 三上は微笑みを浮かべながら、じっと璃々の話を聞いている。
 つい熱く語ってしまい、璃々は急に自分の発言が恥ずかしくなって下を向いた。

「わかった。君がそこまで言うなら、靴の破損については会社には言わないでおこう。そもそもこの状況は、僕が君を驚かせたせいだから弁償も必要ない」
「えっ? でも――」

 言われた事に驚き、璃々は目を大きく見開いて顔を上げた。

「実は声をかける前、隠れて君の仕事を見させてもらっていたんだ。君は、すべての過程を手際よく完璧にこなしていたね。そんな優秀な人材をクビにしたりしないよ」

 三上が呆然とする璃々の手を強く握り、目をじっと見つめてきた。
 近すぎる距離と慣れないスキンシップのせいで、心臓がバクバクする。

「え……でも、この靴って、相当高価なものですよね? 弁償しなくていいなんて、そんな事はできませんっ」
「気にするな」
「きっ……気にしますよ! 何か償う方法はありませんか? 私にできる事ならなんでもしますから」

 勢い込んでそう訴える璃々に、三上が何やら思案顔をする。

「なるほど。君は僕が思っている以上に真面目で律儀な女性なんだな」

 彼はおもむろに璃々の顔に手を伸ばし、てのひらで頬をすくい上げた。

「ひとつ聞くが、君は今、恋人がいるか?」
「いっ……いえ、恋人はいませんし、いた事もありません」

 またしても余計な事を言ってしまい、璃々はしまったとばかりに渋い顔で口をつぐんだ。

「ほう、だったらキスは未経験?」
「……はい」

 蚊の鳴くような声で返事をした途端、三上が満面の笑みを浮かべた。彼は色気たっぷりの視線を璃々にそそぎながら、鼻の先ほどの近さに顔を近づけてきた。
 璃々は彼の圧倒的な魅力に呑み込まれ、身動きができなくなる。

「では、償いに君のファーストキスをもらおうか」
「へ?」

 思わず首を傾げると同時に、唇を重ねられる。
 いったい、何が起こっているのか――
 何も考えられないまま固まっていると、三上に腕に背中と膝裏をすくわれ、あっという間にベッドまで連れていかれた。
 仰向けの状態でベッドの上に寝かせられているうちに、三上の舌が璃々の口の中に入ってくる。唇の内側をゆっくりとなぞられ、気がつけば身体全体が熱く火照ほてっていた。
 抱き寄せてくる腕に力を込められ、璃々はいつの間にか閉じていた目をゆっくりとまたたかせた。目の前にある三上の瞳がまるで宝石のように綺麗だ。
 それに魅入られた璃々は、うっとりと目を閉じて彼にされるままキスを受け続ける。

「とても柔らかくて気持ちのいい唇だな」

 唇が離れ、つぶやくようにそう言われた。
 ハッと我に返り、大きく目を開けた先に三上の微笑んだ顔がある。

「し、失礼しますっ!」

 璃々は弾けたポップコーンのようにベッドから起き上がり、転がるようにして床に下りた。
 頭の中は真っ白で、処理能力を完全に失っている。
 とりあえず、ここから逃げなければ――璃々は大急ぎで三上に背を向けると、脱兎だっとのごとくベッドルームから逃げ出したのだった。


 その日、自宅アパートに帰り着いた璃々は、靴を脱ぐなり床にうずくまってわなわなと身を震わせた。

「嘘だ嘘だ……あれは夢? ううん、確かに現実だった! だけど、なんであんな事……あああ、何がなんだかわからない~!」

 そのままズルズルと冷蔵庫の前まで移動し、中から緑茶を入れたドリンクボトルを出してがぶ飲みする。
 冷えたお茶が胃袋に落ちていくのを感じて、璃々はようやく少しだけ落ち着きを取り戻した。
 いったい、自分に何が起きたのか……
 ガラスの靴を粉々にしてしまった事以外は、何ひとつ理解できない。

「なんのつもり? いきなりキスとか、ぜったいにおかしいよね? しかも、それが靴を壊した償いだなんて……そんなのあり? あり得ないよね⁉」

 ベッドで三上にキスをされたあと、璃々は自分史上最速で道具を片付けてホライゾンスイートから逃げ出した。それだけならまだしも、焦るあまり、割れたガラスの靴を放置したままにしてきてしまったのだ。

(何やってんのよ! 貴重な品を壊した上に、それをほったらかしにしたまま逃げるなんて……。おまけにファーストキスまで奪われて、こばむどころかうっとりして受け入れちゃったりして――)

 我ながら、なんという事をしでかしてしまったのだろう!
 悔やんでも悔やみきれないし、情けなさすぎて言葉も出ない。
 今日一日、なんとか何食わぬ顔をして仕事を続け……たつもりだったが、同僚達からは様子が変だといぶかしがられてしまった。
 だいたい、どうして大人しくキスを受け入れてしまったのだろう?
 普通ならビンタしてセクハラ行為だと怒鳴りつけてもいいくらいだ。

(だけど、相手は社長だし、もともと非はこっちにあるわけだし……。だからって、ファーストキスを奪われていいわけないよね? でも、あの時はそんなの考えられないほど頭の中も身体もフワフワ飛んでるみたいになって……)


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