カリスマ社長の溺愛シンデレラ~平凡な私が玉の輿に乗った話~

有允ひろみ

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1巻

1-2

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 のろのろと立ち上がり、リビングのテーブルの前に腰を落ち着ける。
 ついさっきコンビニで買ってきた豚丼入りのエコバッグをかたわらに置き、今一度首を傾げた。
 三上の事は派遣先の社長として以前から知っていた。もちろん、彼がとびきり優秀なイケメンエリートである事も承知している。
 けれど、ただそれだけ。何度かホテル内を歩いている三上を見かけた事はあるが、当然話す機会もなければ、近くで挨拶あいさつを交わした事すらなかった。
 以前、親しい同僚と話している時、冗談で「あんなイケメン社長が恋人だったらなぁ」と言った事はあるが、本気でそう思っていたわけではない。
 それどころか、璃々は特別イケメン好きでもないし、玉の輿こしを狙うなんて考えを持った事すらなかった。
 それなのに、どうして好きでもない男性に唇を奪われて無抵抗でいたのか……

「……もしかして、三上社長にキスされて恋に落ちちゃったとか?」

 ふいにそんな考えが頭をよぎり、あわてて首を横に振って否定する。

「まさか! そんな事あるわけない! たった一度のキスで心を奪われちゃうとか……ない、よね?」

 言いながら、知らず知らずのうちに指で唇を摘まんだ。

(ううん、あれは一度じゃなかった……。何度も何度も……私、なんでこばまなかったの? 償いって言われたから? それとも、社長とのキスがすごく甘かったから……?)

 まるで小鳥がエサをついばむようなキスや、蜂蜜を口の中に流し込まれるみたいなディープなキス。どれもはじめての経験だったのに、うまくリードされて気がつけば無抵抗のままベッドの上で寝そべっていた。
 あの時の三上からは獰猛どうもうな雄の匂いがした。男性経験がない自分がそうはっきりと感じたのだから、これはもう間違いない。

(……って事は、三上社長はあの時私を一人の女性として見ていたのかな? もしあのままキスをやめずにいたらどうなっていたんだろう……)

 摘まんだ唇が、いつの間にか熱く火照ほてっている。
 璃々は急いで唇から指を離した。

「――って、やめやめ! そんなわけないでしょ。何考えてんのよ、まったくもう……お腹いてるとロクな事考えないよね」

 自分自身にそう言い聞かせ、エコバッグから豚丼を取り出す。
 店内で温めてもらったから、すぐに食べられるし電気代もかからない。割りばしを割り、いただきますを言って最初のひと口を食べた。

美味おいしい~。やっぱこれだよねぇ」

 璃々がハマっている豚丼は、甘辛ソースが絶品で豚肉もふっくらとして柔らかい。期間限定だからいつもあるわけではないが、毎年この時期になると食べたくなってしまう。
 もっとも普段の璃々はもっぱら自炊専門で、外食はもちろんコンビニすら滅多に行かない。
 けれど、今日はなんといってもエグゼクティブフロアの担当第一日目だし、いろいろあって疲労困憊ひろうこんぱいだった。そんな自分をねぎらおうと、奮発して六百円のコンビニ飯を買ったのだ。
 我ながらつくづく安上がりだと思うが、本当に美味おいしいのだから仕方がない。
 もりもりと食べ進め、唇についたソースを舌先でめとった。それをきっかけに、またもや三上の顔が思い浮かび、唇にキスの感触がよみがえってくる。

「もうっ……なんでまた思い浮かべちゃうのよ。あれは償い! 三上社長が私なんかを本気で相手するわけないでしょ!」

 三上はまだ三十代前半の独身で、誰が見ても納得の美男だ。そんな地位もお金もあるハイスペックな彼が、何を好き好んで自分のような非モテ女子を相手にするだろうか。
 あれは、あくまでガラスの靴を割った償いとしてのキスだ。

(でも、償いがファーストキスだなんて……)

 確かにファーストキスはたった一度のものだし、特別な意味のあるものには違いない。
 けれど、だからといって、あれほど高価なガラスの靴を割った代償になるだろうか?
 とびきり美人のファーストキスならわかるが、璃々はごく普通のどこにでもいる一般女性だ。

(やっぱりきちんと弁償したほうがいいよね。そのほうがすっきりするし、負い目を感じながら働くなんて、ストレスでしかないよ)

 弁償するとなると今以上に節約生活をいられる事になるし、六百円のプチ贅沢ぜいたくも今日で最後になるだろう。
 けれど、ビクビクしながら働くよりましだ。それに、その程度でへこたれるような弱い自分ではない。もし仮に「ホライゾン東京」での仕事を失う事になっても、また働かせてもらえるよう努力すればいいのだ。

「どんな結果になっても、頑張るしかない。私にはそれしかできないもの」

 璃々はそう固く決心すると、いつも以上にしっかりと味わいながら、残りの豚丼を黙々と食べ進めるのだった。


 次の日出勤すると、ロッカー室がやけににぎわっていた。
 何事かと思い仲のいい同じ客室清掃係の春日かすが詩織しおりたずねると、話題は三上に関する噂話だった。

「さっき聞いたばかりなんだけど、三上社長って田丸たまる果歩かほと付き合ってるんじゃないかって噂なのよ」

 詩織が小声でそう言うと、周りにいる同僚達が揃って首を縦に振った。

「えっ……田丸果歩って、女優の?」
「そうそう。ついこの間、うちに出入りしてる配送業者の人が一緒にいるところを見かけたんだって。周りにも気づいてる人が大勢いたっていうし、そのうち写真週刊誌に載るかもね。まあ、彼女の所属事務所って大手だから、揉み消されちゃう可能性大だけど」
「へ、へえ……」

 璃々は着替えをしながら、今自分の中で気になる人ナンバーワンの話題に耳を傾けた。

「三上社長ってさ、なんかミステリアスっていうか謎めいてるよね」

 別の同僚が話に加わり、さらにもう一人情報通と言われる古参社員の河北かわきたが口を挟んでくる。

「あれだけのイケメンだし、実はもう妻子持ちだっていう噂だってあるのよ」
「嘘っ……ほんとに?」
「ほんとよぉ。……いい? ここだけの話よ……実は奥さんは日本人じゃなくて、子供と一緒に海外の別宅に住んでるって話まであるんだから」
「マジで⁉ そういえば三上社長ってどこに住んでるの?」
「さあ……たぶん都心のタワマンとかじゃないかな? それはともかく、三上社長って優しそうじゃない? だけど、ああ見えて実は結構なドSで、別宅住まいなのはそれが原因なんじゃないかって説もあるのよ」
「え~! 本当だったらちょっとショック~。でも、以前海外にいたわけだし、あり得なくはないか」

 同僚達の会話を聞き、璃々は一人表情を強張こわばらせる。

「ちょっと、璃々。どうかしたの? なんだか固まっちゃってるけど……」
「へ? あ……ううん、なんでもないの」

 詩織に見とがめられ、咄嗟とっさに作り笑顔で誤魔化す。

「もしかして川口さんも隠れ三上社長ファンだったりして~」
「いるいる、興味なさそうにしてて実は本気で玉の輿こし狙ってる人~!」

 皆にはやし立てられ、璃々はどう返そうかと笑いながら逡巡しゅんじゅんする。その時、唯一インカムをつけていた河北がイヤーモニターを押さえた。

「はい、わかりました。今ここにいますから、伝えます――川口さん、桂マネージャーがお呼びよ。今すぐに事務局に行ってちょうだい」
「はいっ!」

 璃々は渡りに船とばかりに、そそくさとロッカー室を出て事務局に向かった。

(なんだろう……)

 璃々は歩きながら首をひねった。

(なんにせよ、ちょうどよかった。桂マネージャーに昨日の事を報告して、どうすればいいか相談しよう)

 彼は直属の上司だし、ホテル内で一番頼れる存在だ。さすがにキスの件は伏せておくつもりだが、自分が犯したミスについて報告して、対処法を教えてもらおうと決心する。
 事務局に行き、桂のデスクに向かう。すると、パーティションの向こうから桂がひょっこりと顔を出した。
 立ち上がった彼は、璃々に手招きしながらミーティングルームのほうを指した。事務局では話せない内容なのだろうか?
 璃々は桂のあとをついて部屋に入った。

「おはようございます。あの、桂マネージャー……」
「はいはい、とりあえず座ろうか」

 桂が長テーブルの角の席を示した。
 璃々は角を挟んで桂の斜め前の椅子を引き、神妙な面持おももちで腰を下ろす。どう切り出そうかと思っていると、桂が先に口を開いた。

「実は今朝一番に連絡があって、三上社長が君を部屋の専属清掃係にしたいと言ってきた」
「えっ! 三上社長が私を部屋の専属清掃係に?」

 オウム返しに訊ねたずると、桂が口の前に人差し指を立てて「しーっ」と言った。

「す、すみません」
「いや、三上社長があの部屋に住んでいる事は、ごく一部の人間にしか知らされていないからね」

 桂が言うには、知っているのは数人の役員と部長のほかは、エグゼクティブフロアのコンシェルジュとフロア専用のラウンジにいる従業員くらいらしい。

「なんでまた、そこまで秘密にしてるんでしょう」
「ご自身のプライベートを守りたいのと、おそらく一ゲストとしてホテルサービスのチェックをしようというお気持ちがあるんだと思う」

 なるほど、そういえば以前、海外の番組で大会社の社長が見習い社員のふりをして従業員の仕事ぶりをチェックする、というのを見た事がある。

「三上社長は、昨日の君の仕事に対する姿勢や手際の良さを大層気に入ったそうだ。おかげで川口さんをエグゼクティブフロアの担当に抜擢ばってきした私までめられたよ」

 桂が興奮気味にそう話し、少しずれた眼鏡を指で押し上げる。
 一方、璃々はどうして自分があの部屋の専属清掃係に指名されたのかわからずに困惑するばかりだ。

「あの部屋に近づけるのは、事情を知っている者のほかは専任の客室清掃係だけだ。それに抜擢ばってきされるなんて本当にすごい。それだけ川口さんの清掃係としてのスキルが高いという事だよ」

 桂が嬉しそうに相好そうごうを崩す。これ以上ないくらい厚い信頼を寄せられ、璃々はガラスの靴の件を言い出しにくくなってしまった。

「とにかく、三上社長は川口さんの仕事ぶりを高く評価されたんだ。いやぁ、直属の上司として私も鼻が高いよ」

 そう言って桂は、注意事項を書いた紙を渡してくる。
 清掃時間は午前十時から午後零時。ただし、清掃にあたるのは二人ペアではなく璃々一人で、三上の事はもちろん専属担当になったいきさつも一切口外してはならないとあった。

「え、私一人、ですか?」
「その代わり、清掃時間は二時間に増えたからね。くれぐれも、見落としがないようにお願いするよ」

 二人ペアならまだしも、自分だけだなんて……!
 いったいなぜ一人で作業をさせられるのだろう? もしかして、償いはあれだけではなかったのでは……。そうであれば、また昨日と同じような状況におちいらないとも限らない。
 そう考えた璃々は、青くなって今一度桂に自分の失敗の件を話そうとした。

「あの、桂マネージャー……」
「まあ、そう硬くならずに、これまでどおり真面目にやってくれたらいいんだ。川口さんなら大丈夫。私はそう信じてるよ」

 表情の強張こわばりを緊張と取り違えたのか、桂が璃々の目を見ながらにっこりする。そこまで見込まれては、もう引き受けるよりほかない。

「ま……任せてください。桂マネージャーのご期待に沿えるよう、心して取り組みます」

 璃々の言葉に、桂が大きく頷きながら立ち上がった。

「よく言った! じゃ、さっそくお願いするよ。今日は昨日と同じで午前八時からスタートで。専属の件は、あとで私から皆に言っておくから」
「はい、お願いします」

 時刻は午前八時十分前。
 璃々は退室すると、すぐに準備をしてエグゼクティブフロアに向かった。

(もしかして、三上社長はお部屋にいらっしゃるのかな……ああ、気まずすぎる!)

 いったい何を思って彼は自分を専属の清掃係にしたのだろう?
 本当に仕事を評価してくれた結果なのか、それとも昨日の出来事が関係しているのか……
 ならば、やはり弁償を申し出て、正当な埋め合わせをすべきだろう。
 エレベーターを降りて「ホライゾンスイート」に向かいながら、璃々はなるべく冷静でいようと呼吸を整える。
 エグゼクティブフロアの廊下はゆったりとしており、カートが二台並んでも余裕ですれ違う事ができた。もっともこのフロアは客室数が少なく、そんな機会はめったにない。
 歩き進め「ホライゾンスイート」のドアの前に立つ。
 昨日はドアノブに「掃除してください」と書かれたルームプレートがかけてあったが、今日は何もかけられていない。つまり三上が中にいるという事だ。
 恐る恐るドアをノックすると、中から「どうぞ」という三上の声が聞こえてきた。
 覚悟を決めてドアを開け、カートを押しながら中に入る。
 すると、三上が廊下の向こうからやってきてカートを引いてくれた。

「ドアを閉めてくれるかな? 掃除の前に少し話したいから」

 そう言われ、璃々はドアストッパーを置こうとした動きを止めた。
「はい」と返事をしてリビングに向かい、部屋の真ん中でかしこまる。

「昨日は、ちょっと油断した隙に見事に逃げられたな。僕から逃げ出した女性は君がはじめてだよ」

 三上が話しながら璃々の前まで来て立ち止まった。いきなり昨日の件を持ち出され、否応いやおうなく彼とのキスを思い出してしまう。
 璃々は頬を赤く染めつつも、なんとか頭を切り替えて表情を引き締めた。
 理由はどうあれ、挨拶あいさつもしないまま部屋から逃げ出したのは確かだ。

「申し訳ありませんでした。あの時は気が動転してしまって……」
「いや、謝るのは僕のほうだ。同意なしに君のファーストキスを奪ったんだから」

 三上の低くのびやかな声が、やけに耳の奥に響く。
 人と話す時は極力目を合わせるよう心掛けているが、さすがにこんな近くでは彼の顔をまともに見る事ができない。
 璃々は早々に視線を下に向けて、唇を硬く結んだ。

「だが、君はまた僕のところに来てくれた。それは僕の事を許してくれている、と受け取っていいのかな?」

 指先で前髪をそっと摘ままれ、思わず身体がピクリと跳ね上がった。

「ゆ、許すも何も、自分にできる事をすると言ったのは私ですから。ただ、私がこの部屋の専属清掃係になったと聞いたので、その理由が気になっていて――」
「もちろん、君の清掃係としてのスキルを高く評価したからだ。ふむ……その顔は、もしかして昨日の件でまだ償いをさせられるとでも思ったのか?」

 ズバリと指摘され、璃々はたじたじとして口ごもる。

「そ、それは……」
「やはりそうか。そんな心配は無用だ」

 専属に選ばれた理由が三上に仕事を評価されたからとわかり、璃々は素直に嬉しく思った。
 けれど、本当にキスだけで償いを終わらせてしまってもいいのだろうか?
 璃々は今ひとつ懸念を拭えないまま、三上の顔をまっすぐに見た。その顔を見た彼が、わずかに口元をほころばせる。

「昨日も言ったとおり、あの靴をオーダーしたのは僕個人であって、持ち主は僕だ。その僕が言うんだから、もう気にしなくていい。それに、君はもう十分償ってくれたはずだろう?」

 三上が意味ありげな顔をして璃々の唇をじっと見つめてくる。
 途端にキスの感触が唇によみがえり、璃々は視線を泳がせた。
 一晩中いろいろと悩み抜き、何年かかっても弁償すると決めたし、仕事をクビになる覚悟もした。
 それなのに、三上は償いを昨日で終わらせてくれたばかりか、自分をこの部屋の専属清掃係に指名してくれた。いくらファーストキスを奪われたとはいえ、これではどう考えても申し訳なさすぎる。

「だったら、私で何かお役に立てる事はありませんか? 体力なら自信がありますし、使いっぱしりでもなんでもします!」

 璃々は勢い込んで、そうたずねた。

「必要なものがあれば自分で買いに行くし、何かあればエグゼクティブフロア専属のコンシェルジュがいる」
「――で、ですよね」

 思案顔で黙り込むと、三上が腰を落として璃々の顔を覗き込んできた。

「だが、君がそこまで言うのなら、君にしかできない事をしてもらおうかな」

 その言葉に、璃々は思わずぱあっと顔を輝かせた。けれど、ニンマリと微笑んでいる彼の顔を見て、あわてててのひらで口元をおおう。

「キ、キス以外でお願いします!」

 言いながら顔が赤くなるのが、はっきりとわかった。

「なんだ、もうキスはダメなのか。それなら、明日一日、僕に付き合ってもらおうかな。君は明日と明後日あさっては休みだろう?」

 仕事は週休二日制で、基本的に連日で休める。ホテルの清掃係という仕事上、祝日や曜日など関係ないが、今回はたまたま土日が休みに当たっていた。

「はい、確かにそうですが……」

 社長ともあろう人が、なぜ一派遣社員のスケジュールなんか把握しているのだろう。璃々が怪訝けげんな顔をしていると、三上がわずかに片方の眉尻を上げた。

「何か予定でもあるのか?」
「い……いえ、何もありません」
「では決まりだ。明日、僕とデートしよう」
「デ、デート⁉」
「時間は午前九時。待ち合わせ場所はこの部屋だ。もちろんデート代はぜんぶ僕が持つし、特に何も準備はいらない」

 そう言うなり三上の手が伸びてきて顔を上向きにされた。同時に腰を強く引かれて、向き合った状態で身体がぴったりと密着する。かがみ込むようにして顔を近づけられ、互いの鼻先までほんの数センチの距離になった。

「どうだ? 僕の誘いに応じてくれるか?」

 見つめてくる三上の視線が、璃々の目から唇に移った。思わせぶりな目つきに、頬があり得ないほど熱くなってくる。

「キッ……キスはダメですよ! さっき、そう言ったはずです!」
「だが、今はもう気が変わってるかもしれないだろう?」
「そ……そんな、まだ三分も経ってませんよ」
「そうか? 君とのキスを待ち望む身としては、一分が一時間にも感じられるんだが」
「な……何をおっしゃってるのか、わかりませんっ……」

 三上はイケメンである上に仕事もできて、社長に就任して以来業績はうなぎのぼりだ。そんなカリスマ社長の彼が、一介の客室清掃係相手に何を言い出すのだろう?
 きっと、からかい半分の言動に違いない――そう思い精一杯抵抗をするけれど、三上の熱い吐息を唇に感じて、早くも気持ちがくじけそうになっている。

「わからない? じゃあ率直に言おうか。僕は君とキスがしたい。君が僕にキスを返してくれるまで何度もキスをしたいと思ってる。わかったかな?」
「わっ……わかりません! ぜんぜん、まったくもって理解不能です!」

 璃々は言い終えるなりかがみ込んで身をよじり、なんとか三上の腕の中から逃れた。体勢を整える間もなく走り出し、リネンカートの陰に身を隠す。

「ふっ、また逃げられたか。君はなかなかすばしっこいな」

 璃々はカートの陰から顔を出し、なんとも言えない表情を浮かべた。この場合、なんと返せば正解なのだろう?
 璃々が思案している間に、三上が少しだけ乱れたスーツのえりを正した。

「だが、今度捕まえたらぜったいに逃がさないから覚悟しておくように。それじゃ、あとは任せたよ」

 そう話す顔が、いつの間にかビジネスライクになっている。

「はい、かしこまりました」

 璃々は即座に姿勢を正し、仕事モードで返事をした。

「ああ、そういえば――」

 三上がカートに近づき、何かしら探すようなしぐさをする。

「何かご入用ですか?」

 アメニティの不足でもあったのかと彼のほうに一歩近づいた途端、カート越しに三上が急に璃々の腰に手を伸ばしてきた。
 逃げる暇もなく一気に距離を縮められ、腰とあごをしっかりととらえられてしまう。

「捕まえた。覚悟はいい?」
「えっ? わわっ……んっ、ん……」

 答える暇もないまま、半ば強引に唇を重ねられた。
 キスを拒絶してから五分と経っていないのに、もう足元をすくわれるような事態におちいってしまうなんて……
 馬鹿なの? いくらなんでも、隙がありすぎでしょ!
 頭の中で、自分自身にツッコミを入れる声が聞こえてきた。
 今すぐに逃げださないと!
 そう思うものの、もうすでに彼の唇にとらわれて抵抗すらできなくなっている。
 璃々は早々に白旗を揚げた。そして己の不甲斐なさを情けなく思いながらも、三上とのキスにおぼれていくのだった。


 次の日の朝、璃々は目覚まし時計が鳴る前に目を覚まし、かれこれもう一時間近くベッドの上で鬱々うつうつとしている。
 一度ならず二度までも三上に唇を奪われてしまった。

『今日のところはこれで終わりだ。残念だが、これ以上続けると約束の時間に遅れてしまう』

 そう言われて、はじめて自分が彼の背中に手を回している事に気づく始末。
 恥ずかしい事この上ないし、チョロすぎて自分で自分を蹴り飛ばしたいくらいだ。
 イケメンハイスペック男子の三上にとって、恋愛経験ゼロの璃々を手玉に取る事など赤子の手をひねるより簡単だろう。

(何やってんのよ、もう! 私の貞操観念はどこに行っちゃったの?)

 璃々はベッドの中でジタバタともがいた。
 そもそも、噂で聞いた女優の田丸果歩との関係はどうなのだろう?
 もし事実なら、いったいどういうつもりで自分にキスをしたり、デートに誘ったりするのか……
 彼の真意は測りかねるし、いろいろと疑問はある。だが、今日のデートがガラスの靴を壊してしまった償いという事だけは、はっきりしていた。

(もう二度とキスなんかしない……それだけは肝に銘じておかなきゃ!)

 そう固く決心すると、璃々は勢いよくベッドから起き上がった。顔を洗い髪の毛をかしながら、今日のデートについて考える。

(でも、いったいどこに行って何をするの?)

 恋愛経験がない璃々にとって、デート自体が未知の世界だ。
 三上ほどハイスペックな男性なら、行き先も豪華なところに違いないし、食事をするにしても高級レストランだと思われる。
 璃々が普段出かける先は、せいぜい最寄り駅近くのショッピングセンターだし、食事はもっぱらフードコートだ。
 当然、クローゼットの中には、三上とのデートに着ていけるようなきちんとした洋服など一着もない。たった一日で準備できるはずもなく、誰かに相談しようにも、どう説明していいかわからないまま朝を迎えてしまった。
 まずは何か口にしようと思ったが、緊張のせいか牛乳しか喉を通らない。
 ベッドの上に手持ちの服を並べ、その中で一番マシだと思える洋服を着て諸々もろもろの準備を済ませた。
 約束の時間まで、あと四十分。
 璃々のアパートから勤務先までは、電車で二駅。ドアツードアで三十分くらいだ。

(少し早いけど、家にいてもソワソワしてちっとも落ち着かない)

 一足しかない白色のパンプスを履いて、同色のスカートが汚れていないか確認する。シューズボックスの上に置いた鏡で空色のシャツブラウスのえり元をピンと引っ張って伸ばした。

「よし、行こう」

 徒歩五分の最寄り駅に向かい、ちょうどやってきた電車に乗り込んで一息つく。
 土曜日だからか、周りは家族連れやカップルが多く、皆それぞれにおしゃれだ。

(そういえば、もうずいぶん洋服とか買ってないなぁ)


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