魅惑の社長に誘淫されて陥落させられました

有允ひろみ

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1巻

1-1

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 頑張っても、報われるとは限らない。
 二十九歳の誕生日に、原田奈緒はらだなおは身に染みてそう感じていた。
 一人ぼっちの夜を迎えているのは、出張先の関西にあるビジネスホテルの一室。
 プレゼントもバースデーケーキもなく、あるのはコンビニの幕の内弁当と缶ビールのみ。
 あと五時間で今日が終わるというのに、一度も本気で笑わないまま一日が過ぎようとしている。

「結婚するって言ってたのに……」

 ほんのひと月前、同い年の彼氏に浮気された。
 その人とはすでに同棲して四年目、付き合って七年が経っていた。
 商社マンの彼は優しく穏やかな人で、そろそろ結婚をしようと話し合って一緒に式場を探していた最中だったのだが……

『ごめん。実は別の女性との間に子供ができてしまって……』

 土曜日の朝、一緒に朝食を食べている時にそう言われ、頭が真っ白になった。しかも、その日の午後には彼の子を身ごもったという女性と対面させられ、人生最大の心理的修羅場を迎えたのだ。

『〝長すぎた春〟ってやつですね。それにこの人、彼女さんの事、もともとタイプじゃなかったみたいですよ。あ、もう元カノさんになっちゃいましたけど』

 元カレの部下で奈緒より五つ年下の彼女とは、以前参加した彼の同僚主催のバーベキューパーティーで一度顔を合わせた事があった。
 当時は小柄で大人しそうな印象だったのに、二度目に会った彼女は、ふてぶてしい雌猫に変わっていた。

『見た目もアレだけど、性格も可愛くないんですってね』
『それに、あっちのほうもイマイチだって。それって、もう致命的ですよねぇ』

 母子手帳とエコー写真を見せられている間も、さんざんな言われようだった。
 容姿ばかりか、性格や性生活の愚痴まで浮気相手に垂れ流しにしていたなんて――
 反論しようにも、思い当たる節がありすぎて適当な言葉が見つからない。何より、あまりのショックで言い返すだけの心の余裕もなかった。

『君は仕事ばかりで、ちっとも僕を構ってくれなかった。だから、寂しかったんだ』
『最近は、ただ一緒に住んで、同じベッドで寝るだけだったよな。たまにシても、ぜんぜん気持ちよくないし、そりゃあ浮気のひとつもしたくなるよ』

 せめて申し訳なさそうにしてくれていたらまだマシだったのに、元カレは完全に開き直って彼女の言葉を全面的に支持するような態度だった。

『それに比べて、彼女はどこをとっても可愛いくて身体の相性も抜群なんだ』

 元カレと顔を見合わせると、今カノが満面の笑みを浮かべながらお腹をゆっくりと擦った。

『見てのとおり、私達ものすごく愛し合ってるんです。ここはいさぎよく身を引いてくれませんか? お互い大人なんだし、これ以上みじめになるのはやめましょうよ』

 まったく悪びれる様子のない態度を取られたばかりか、元カレ達は奈緒を見下すような視線を向けてきた。その上、まるで二人きりでいるかのように見つめ合い、ベタベタと身体を寄せ合って仲の良さをアピールしてくる。ただでさえメンタルがボロボロなのに、さらに極限まで追い詰められてしまっては、返す言葉すら見つからない。
 結局は終わりにせざるを得なくなり、茫然自失になっている間に元カレは新しい彼女と出て行ってしまった。
 帰り際に慰謝料として百万円を置いていかれたが、そんなものほしくない!
 よっぽど彼の個人口座に返金してやろうと思ったが、親友の美夏みかに相談したところ当然の権利だから受け取っておけと言われた。

「なんで浮気なんか……。結婚すると思っていたのは私だけだったの?」

 四年も一緒に住んでいると、さすがに毎日キスやハグをする事はなくなっていたし、同じベッドに寝ていてもずいぶん前からセックスレスだったのも確かだ。
 だがそれは、元カレがもともと淡白だったせいであり、てっきりそういった行為があまり好きではないのだと思っていた。
 別にそれでもいいと思っていたけれど、友達から「さすがにヤバイ」と指摘され、奈緒から誘ってみた事もあった。しかし、かなりの頻度ひんどで断られて、そのたびに気まずい雰囲気が流れていた。
 自然と誘う回数も減っていったし、たまにじゃれついても疲れたとか眠いとか言われる。もしやもう行為自体が面倒になったのかと思っていたが、実際はほかで欲情して発散していたのだ。

「確かに、仕事を優先しすぎたかもしれない……でも、だからって浮気するなんてひどすぎる!」

 奈緒は自身が立ち上げた化粧品メーカーの社長だ。けれど、まだまだ小さな会社だし、社長とはいえ、たいていの事は自らこなさなければならない。当然営業にも回らねばならず、今回の出張も新しくパートナーショップになってくれそうな店を開拓するためだ。

「おまけに種まきまで……。私の何が不満だったのよ。今カノが言ってたように、私がタイプじゃなくてイマイチだったから? そうだとしても、二人の七年間をドブに捨てるような別れ方をしなくってもいいじゃない!」

 振り返ってみれば、いろいろとおかしな点はあった。けれど、まさか結婚の話が出ている相手に浮気されているとは思ってもみなかった。

「三十歳になる前に結婚するって言ったよね? その言葉を信じてたのに……」

 元カレの今カノは、話し合いの時点ですでに妊娠五カ月だと言っていた。身体の関係ができたのはバーベキューパーティーの直後だったらしい。
 つまり、元カレは付き合って六年目の夏に浮気をして、一年近くそれを隠し続けていたという事だ。
 ともに暮らし結婚の話をしている間も、元カレは何度となく今カノとベッドをともにして、自分の事をあざ笑いしざまに言っていたのだろう。
 そんな事ができる神経がわからないし、想像するだけで吐き気がしそうだ。

「馬鹿みたい……。何も知らずに自分から誘ったりして……。身体だけじゃなくて心までほかに移ってたんだから、応じるわけないじゃないっ……!」

 奈緒は特別性欲が強いわけではない。それでも元カレは特別な存在だったし、抱き合うだけで幸せだった。
 昔はかなりラブラブのカップルだったのに、いつの間にすれ違ってしまったのだろう?
 仕事を終えてホテルに戻った今、ことさら独り身の寂しさがつのる。
 お腹は減っているはずなのに、買ってきた弁当にはしをつける気にもならない。手持ち無沙汰に缶ビールを開けようとした時、美夏が電話をかけてきた。

『やっほー、奈緒。お誕生日おめでとう~! 遅くなってごめんね。ところで、新しい彼氏できた? まさか、ハッピーバースデーの日にひとりぼっちとか言わないよね?』

 都内でエステティックサロンを開いている彼女は、奈緒とは幼馴染でもあり、なんでも話し合える仲だ。独り身で彼氏がいないのは同じ。けれど、美夏は自由な独身生活を謳歌おうかしており、間違っても男に人生を左右されたりしないタイプだ。

「ありがとう。でも、今出張先にいて、ボッチ確定。あとは飲んで寝るだけだけど、仕事は上手うまくいったし、まあまあいい一日だったかな」

 あえて明るい声を出したつもりだったが、それがかえって独り身の哀愁あいしゅうかもし出してしまったみたいだ。

『何よ、から元気なんか出しちゃって。まだ元カレの事を引きずってる感じ?』
「だってまだひと月しか経ってないんだよ?」
『そうだけど、もともとあんな優男、奈緒の好みじゃないでしょ』

 確かに、奈緒の好みのタイプは見た目がゴージャスで、手足が長く適度にガタイのいい人だ。
 それと、できたら三、四歳上が望ましい。
 けれど、なぜか今まで付き合った男性は、全員同じ年か年下の筋肉とは無縁のひょろひょろした人ばかりだった。

『よし、じゃあ私がそこに、誕生日プレゼントを送ってあげる!』
「へ? ここにって……今から何をどうやって?」
『私が普段、レンタル彼氏を利用してるの知ってるでしょ? あれよ~』
「レ、レンタル彼氏? って、確か『GJ倶楽部ジージェイくらぶ』とかいう――」

 美夏が普段からレンタル彼氏なるサービスを利用しており、それなりに楽しんでいる事も知っていた。
 けれど、奈緒は一度も利用した事がないし、興味もない。

『そう、それそれ! GJのGはゴージャスとグッドルッキングのG。JはジェントルマンのJよ。誕生日を一緒に祝うのにふさわしい大人の男性を見繕みつくろって派遣してあげる。二十代最後のハピバだし、特別に奮発しちゃう!』
「ちょっ……ま、待ってよ! 私、別に男の人なんか派遣してもらわなくていいから! 第一、私は会員じゃないし、ここは関東じゃなくて関西だよ?」
『大丈夫。「GJ倶楽部」は主要都市に支店があるのよ。それに、私VIP会員だから、いろいろと融通ゆうずうが利くの』
「でも……」
大袈裟おおげさに考えないでいいって。VIP会員じゃないと指名できない、とびきりゴージャスでグッドルッキングなジェントルマンを特別に送り込んであ・げ・る~』

 やけに思わせぶりな言い方をした美夏が、電話口でクスクスと笑う。

「いきなりそんな事を言われても……それに、今いるホテルは普通のビジネスホテルだから、来客があっても部屋には入れられない規則になってるし――」
『そっか。じゃあ、近くのシティホテルのラウンジで待ち合わせにしてあげるね』
「ホテルのラウンジ? そんなとこで待ち合わせとか、緊張するよ!」
『それなら、会ってすぐに部屋に行けるようにしようか?』
「部屋って……二人きりで?」
『当たり前でしょ。大丈夫。相手は紳士だから余計な心配はいらないって。それに、何をするにしても決めるのは奈緒よ。ただ会って話をするだけでもいいし、本当の恋人同士みたいにイチャイチャするのもいい。あとは、その場の雰囲気と個人の裁量かな』

 どんなシステムになっているのか詳細まではわからないが、以前彼女に聞かされた話では通常でも、それなりのスキンシップはあるようだ。
 それにしても、その場の雰囲気と個人の裁量とは、いったい――
 詳しく聞こうとする前に今いるホテルの所在地をたずねられ、少しの間通話を保留にされた。それからすぐに、ここから歩いて五分の距離にあるシティホテルの名前を教えられる。

「ちょっと待ってってば! 私、まだ行くとは言ってない! それに、もうお風呂に入ったあとで、すっぴんに戻っちゃってるし――」
『化粧品メーカーの社長ともあろう人が何言ってんのよ。奈緒の自慢の美肌があれば、すっぴんにササッとアイラインを引くだけでOKでしょ』

 奈緒が普段使っている自社製品は、科学的なものをいっさい使用しておらず、主成分は厳選した国内の植物のみだ。
 当然、それで手入れした素肌には人一倍自信があった。けれど、顔は典型的な和風顔で、濃いメイクは似合わないし、髪色も可もなく不可もないダークブラウンだ。
 お椀型の胸はお気に入りのパーツだが、特にスタイル抜群というわけでもない。
 そんな自分が、とびきりゴージャスでグッドルッキングなジェントルマンとデートをするなんて……
 別に自分を低く見ているわけではないが、どう考えてもミスマッチだ。

『せっかくの誕生日だもの。明日のお昼までレンタルしておくから、デート楽しんできてね! 詳しい事は向こうが知ってるし、上手うまくリードしてくれるから心配いらないわよ。それにね、男で受けた傷は、男でいやすしかないのよ』

 美夏が言うには、派遣されてくるレンタル彼氏は姫君をエスコートする騎士のような役割を果たしてくれるらしい。
 つまり、主役はあくまでも自分であり、主体性を保ちながらエスコートしてもらえるという事だ。

『言っちゃ悪いけど、元カレにはそんな度量はなかったでしょ? 日頃頑張って仕事してるんだから、今日くらいお姫様気分を味わってみたら?』

 確かに一人の女性として、そんなシチュエーションに憧れる気持ちはある。
 別に男性に依存したり寄りかかったりしたいと思っているわけではないが、時には何も考えず大きくて広い胸の中でひと休みしたいという願望がなくはない。

『とにかく、料金はもうカード払いしたし、待ち合わせのラウンジの席もホテルの部屋も奈緒の名前で予約したから。ただし、間違っても本気になっちゃダメだよ。向こうはプロとしてお客様と恋愛ごっこをしてるだけだから。あ、お得意様が来たから、もう切るわね。じゃあね~』

 通話が終わり、気がつけば画面が暗くなっている。
 奈緒はスマートフォンを持ったまま部屋の真ん中に立ち尽くした。
 指定された時間は、午後八時。
 場所は「ミラフォンスホテル」の三十四階にあるスカイラウンジの窓際。
 用意するにしても、あと一時間もないし、持ってきているのはビジネス用のパンツスーツのみだ。

「ちょっ……急にそんな事を言われても困るわよ!」

 そうは言っても、接客中の美夏に連絡がつくはずはないし、彼女はもうレンタル彼氏の料金をカード払いしてしまっている。
 美夏によると「GJ倶楽部」は会員制のかなりグレードの高い店のようで、レンタルされる彼氏達は全員とびきりのイケメンで礼儀をわきまえた人ばかりであるらしい。
 しかも、VIP会員の美夏が選んだ特別な男性だ。
 それならいっそ、彼女の厚意を受け入れるべきではないか……
 そうすれば、このフラれて間もない傷ついた心を多少なりともいやしてもらえるかもしれない。

(そういえば、元カレとまともなデートをしたのって、もうかなり前だよね)

 互いの仕事が忙しい事もあり、元カレとのデートは年々頻度ひんどが落ちていた。出かけるにしてもせいぜいショッピングか食事目的の外出のみで、泊まりがけでどこかに行ったのは三、四年前だ。思えば、いつの間にか一緒に住んでいる事へのワクワク感もなくなっていた。
 そう考えると、浮気相手に言われた〝長すぎた春〟というのは、的を射ている。
 そうこうしている間に、待ち合わせの時間まであと二十分になった。
 もうあれこれと迷っている暇はない!
 きっとこれも人生における経験のひとつだ。
 美夏が常連になっている店なら信用できるし、間違ってもおかしな事にはならないだろう。

(ただ会って、話をするだけ。いい大人なんだから、それくらいなんでもないでしょ。深く考えないで、せっかくの誕生日プレゼントを存分に楽しめばいいのよ!)

 奈緒はそう自分を鼓舞こぶする。それから大急ぎで身支度をして、昼間着ていたライトグレーのパンツスーツに着替えて部屋を出た。
 このスーツは決して安物ではない。けれど、色合いやデザイン的に、どう見てもデート用の服装ではなかった。
 目的のホテルに行く道すがらには、いくつかのブティックがある。
 二度とやってこない二十代最後の誕生日の夜だ。こうなったら目一杯おしゃれをして、最高の時間を過ごそうと心に決め、通りすがりのブティックでレース素材のワンピースを買い求めた。色は黒だが、適度に透け感があって我ながらかなりエレガントに見える。
 試着室で着替えをして、そのまま指定されたホテルに直行した。美夏はホテルのデラックスフロアに部屋まで用意してくれており、フロント経由でラウンジに向かう。
 入口の前で時刻を確認すると、午後八時ジャストだった。きっともう、レンタル彼氏は中にいるに違いない。
 店の入口に立つと、案内係の女性がにこやかに迎え入れてくれた。

「一名様ですか?」

 そう聞かれて、はじめて自分がデート相手の容姿をいっさい聞かされないまま来た事に気づく。

「いえ、窓際の席で待ち合わせをしているんですが……」

 中は薄暗く、天井てんじょうまである窓からは都会の夜景が一望できる。店内に導かれ、フロア全体を眺められる位置で立ち止まった。
 窓際を見ると、そこはすべてラウンジ型のソファ席になっており、そのうちのいくつかはすでにカップルが座っている。いているソファ席を探すうちに、フロアの一番奥に男性が一人で座っているのが見えた。
 ほかにそれらしき一人客は見当たらないし、たぶん彼がレンタル彼氏だ。
 奈緒は案内係に待ち合わせの相手がいた事を告げて、男性のいる席を目指してゆっくりと歩いた。
 思えば、こんな場所でデートするのは、かなり久しぶりだ。
 ただでさえ慣れていない場所なのに、これから初対面の男性と恋人設定でデートするとなると、いやが上にも緊張が高まってくる。
 距離が近くなり、徐々にはっきり見えてきた男性の風貌を見て、奈緒はその人がデートの相手だと確信した。
 そこに座っていたのは、いかにも仕立てのよさそうなスーツを着た手足の長い男性で、洋服の上からでも筋肉質なのがわかる。
 見た目がゴージャスで手足が長く、適度にガタイがいい人。まさに奈緒のタイプそのものだ。
 これはもう間違いない。
 念のためもう一度窓際の席を見回してみたが、一人で座っているのは彼だけだ。
 奈緒はいったん立ち止まって呼吸を整えると、思い切って男性に声をかけた。

「こんばんは」

 声をかけて男性の隣に腰を下ろすと、窓の外を見ていた顔がゆっくりと奈緒のほうを向いた。

「こんばんは」

 正面から目が合ったあと、彼の口元にほんの少しだけ微笑みが浮かんだ。
 奈緒は男性の顔を見るなり、驚きに目を見張った。
 切れ長の目に、まっすぐ伸びた鼻筋。輪郭からあごのラインまで完璧で、どこを切り取っても非の打ち所がないくらい整った顔立ちをしている。

(めっ……めちゃくちゃイケメンッ……!)

 年齢は三十代前半くらいだろうか?
 いずれにせよ、まさかこれほど理想的でドストライクな男性が派遣されてくるとは夢にも思わなかった。今目の前にいるのは、間違いなくこれまで生きてきた中で最高にエモーショナルな男性だ。
 緊張でバッグを持つ手が震え、奥歯がカチカチと音を立てる。
 しかし、いくらイケメンでも相手はレンタル彼氏であり、明日の午後零時まではデートタイムだ。
 二十歳そこそこの小娘でもあるまいし、ここで萎縮いしゅくしてどうする!
 奈緒は自分をふるい立たせてあごをグイと上げた。

「さっそくだけど、部屋に行きましょう?」

 言い終えるなり、男性の片方の眉尻が上がった。若干驚いたような顔をされて、奈緒は自分の言い方が誤解を招いているであろう事に気づく。
 いきなり部屋に誘うなんて、変に勘繰られてしまったのではないだろうか?
 もちろん、そんなつもりではないし、思っていたよりも隣席との距離が近く話しにくいと思ったからだ。

「ここじゃあ落ち着かないし、話すなら部屋でゆっくりしながらのほうがいいと思って。それに、お酒ならルームサービスを頼めるでしょう?」

 男性が、微笑んだままわずかに首を傾げた。
 しかし、すぐにソファから腰を上げると、奈緒の左側に立った。そして、てのひらで前を示すと同時に、奈緒の背中に軽く手を当てて歩くよううながしてくる。

「それもそうだな。部屋は何階に取ってあるんだ?」

 さすが年上のレンタル彼氏だ。話し方が自然だし、いかにも大人の恋人同士の待ち合わせといった感じがする。

「二十四階よ」
「そうか。だったら、俺の部屋に行こう」
「えっ?」

 予想外の返答をされて、奈緒は思わず顔を上げて男性の顔を見た。五センチのハイヒールを履いた状態で目測してみるに、彼の身長は少なくとも百八十五センチ以上ある。
 それに加えて、男性にはそこにいるだけで周りを掌握するほど圧倒的な存在感があった。

「俺の部屋は三十二階だ。君はまだ夜景を堪能していないだろう?」

 ここへ来る時に案内板で確認したが、その階はエグゼクティブフロアのはずだ。

(まさか、スイートルームを取ってるの? もしかして、これも美夏の演出?)

 サプライズ好きの彼女の事だから、可能性は無きにしもあらずだ。
 けれど、そんな事ってあるだろうか?
 奈緒は密かに首を傾げながら、チラリと男性の顔を見た。

(二十代最後の誕生日だからかな? それにしては手が込みすぎてるような気がするけど……)

 そんな思惑をよそに、彼は落ち着いた様子で奈緒をエスコートしてくれる。
 店の外に出てエレベーターホールに辿たどり着くと、男性が立ち止まって奈緒を上から見下ろしてきた。
 その視線に射抜かれたような気分になり、奈緒は思わず顔をそむけて正面を向いた。
 それからすぐにエレベーターがやってきて、二人して乗り込む。中には誰もおらず、二人きりだ。
 男性がスーツの胸ポケットからカードキーを取り出し、専用の文字盤の上にかざした。
 エレベーターがゆっくりと下降する間に、奈緒はドアから一番遠い位置に立って彼の全身を左斜めうしろから眺めた。
 まっすぐに伸びた背筋に広い肩幅。胸板は程よく厚みがあり、海外のモデル並みにスタイルがいい。つややかな黒髪はきちんと整えられているし、クラシカルなグレンチェックのスーツを見事に着こなしている。
 明るいところで見ると、彼のイケメンぶりがいっそうつまびらかになった感じだ。

(さすがVIP会員用のレンタル彼氏だなぁ。すっごく素敵……!)

 これほどのイケメンとデートできる機会など、普通では到底あり得ない。
 はじめは大いに戸惑ったし、ついひと月前にフラれたばかりの自分には誕生日を祝う心の余裕などないと思っていた。
 けれど、いつまでもくさってなんかいられないし、ここまで来たら、もう引き返すわけにはいかない。

「あの……あなたの事はなんと呼べばいい?」

 奈緒がたずねると、正面を向いていた男性がほんの少しだけ振り返り、自分の肩ごしに視線だけ投げかけてきた。まるで流し目を送られたみたいになり、一瞬息が止まる。

清道きよみちと呼んでくれ。君は?」
「奈緒です」

 うっかり本名を口にしてしまったけれど、こんな時、馬鹿正直に本当の名前を言うものなのだろうか?
 向こうだって本名とは限らないし、今さらながらどう振る舞えばいいかわからなくなってきた。

「わかった。じゃあ、奈緒。行こうか」

 エレベーターが三十二階に到着し、奈緒は清道に誘導されて廊下に出た。さりげなく腕を貸されて、彼と連れ立ってカーペットの上をゆっくり歩く。
 フロア専用の施設を通り過ぎてさらに進み、一番奥と思われる部屋の前で清道の足が止まる。

「どうぞ」

 ドアを開けてもらって部屋の中に入ると、まず目の前に円形のダイニングテーブルセットと四人掛けのソファが見えた。その向こうには広々としたバルコニーがある。左手にも部屋があるようだから、たぶんそこがベッドルームだ。
 それにしても、広い!
 おそらくスイートルームの中でもかなりグレードの高い部屋だろう。これほど豪華な客室は、写真や映像でしか見た事がなかった。
 キョロキョロと辺りを見回していると、清道に見つめられている事に気づいた。
 目を逸らして、外の景色を気にするふりをしながら彼の視線から逃れ、窓の前に立つ。

(おのぼりさんじゃあるまいし、何やってんのよ~!)

 取りつくろおうにも、適当な言葉が出てこない。それにしても、これほど豪華な部屋を取るなんて、どういうつもりだろう?

(もしかしてVIP会員用のスペシャルサービス?)

 当たり前だが、奈緒が泊まる予定だったホテルとは違いすぎる。
 そのまま窓にへばりついていると、背後から呼びかけられた。

「奈緒、何を飲む? せっかくだからシャンパンを開けようか」

 シャンパンをボトルで?
 これも誕生日プレゼントのうちに入っているのだろうか?
 だとしたら、断るという選択肢はない。
 一呼吸置いてから、いかにも景色を楽しんでいたふうをよそおい、にこやかな顔で振り向く。

「いいわね」

 奈緒が頷くと、清道が備え付けの冷蔵庫からボトルを取り出してキャップシールをがした。
 それからすぐにコルク部分に白い布を被せると、手慣れた様子でボトルを左右に動かし始める。
「ポン!」と大きな音がすると予感して、奈緒は咄嗟とっさに身をすくめて両手で耳を押さえた。
 けれど、シャンパンは微かにシュッとガスが抜ける音を立てたのみ。
 奈緒は拍子抜けして、そろそろと手を下ろした。

(気まずい……。そういえば、本来は音を立てないで開けるのがマナーだって聞いた事があったっけ)


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