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1巻
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ひんやりとした海風が吹く海岸沿いの砂浜で、桜井早紀は純白のウェディングドレスに身を包みカメラの前でポーズを取っている。
立春を二日後に控えた今日、朝六時半に都内某駅前に集合し、一路ロケ先に向かった。
空は快晴。海上には十数人のサーファーが波待ちをしているが、今週末は雪が降るというだけあって肌を刺す空気が痛いほどだ。
「早紀ちゃん、目線こっち!」
「はい!」
カメラマンに呼びかけられ、早紀はにこやかに微笑みながらカメラのほうを向いた。
中学生の時にスカウトされて以来、早紀は雑誌やアパレルブランドのイメージモデルとして活躍してきた。今日の撮影は、とあるファッション雑誌のウェディング特集。発売日は二カ月後の四月で、設定は海辺ではしゃぐ六月の花嫁。
これまでにも何度か花嫁の衣装を着てカメラの前に立った早紀だが、吹きさらしの海辺でウェディングドレスを着るのは今回がはじめてだ。
しかし、モデルたる者、たとえ季節がいつであろうと、仕事では最高のパフォーマンスを発揮しなくてはならない。
カメラマンの要求を的確に捉え、期待どおりのポーズを取って表情を作る。たまにそれを苦痛に感じる事もあるけれど、雑誌を手に取ってくれる読者や一緒に頑張ってくれているスタッフのためにも、泣き言など言っていられない。
集合時刻から、およそ八時間。早紀は最後まで幸せな花嫁を演じ切った。
すべての撮影が完了し、笑顔でスタッフとともに仕事終わりの拍手をする。
ロケバスに向かう途中、花婿役の男性モデルから熱い缶コーヒーを差し出された。礼を言ってそれを受け取ると、早紀はバスの奥でセーターとジーンズに着替えて座席に腰を下ろす。
今日もやり切った――その達成感は、何ものにも代えがたい。
早紀は、ようやく肩の力を抜いて缶コーヒーを一口飲んだ。
先週は婚活中のOLという設定でカメラの前に立ち、その前の週は退社後に保育園に向かう働くママを演じた。紙面の中の早紀は女性として至極幸せで充実した生活を送っている。
しかし、実際はどうかと問われたら、まるで違うと言わざるを得ない。
早紀は今年で二十七歳。彼氏いない歴四年で、今のところ恋人ができる予定もないのが現状だ。
だからといって、別に寂しくないし、今の自分に満足している。
それは嘘偽りのない本当の気持ちだった。
(まだ二十七歳……されど、もう二十七歳なんだよね……)
早紀の姉のまどかは、五年前に同じ商社に勤務する同期の男性と結婚した。
その時、姉は二十六歳。
ここのところ友達も立て続けに三人結婚したし、周りは彼氏持ちばかりだ。
今のままでも十分楽しいが、その一方で幸せそうなカップルを見ると、ふと、寂しくなる。
「あ~あ。なんだか結婚したくなっちゃったなぁ」
思わず漏れた言葉に驚いて、あわてふためく。
(突然何を言い出すのよ、自分! 嘘、結婚したいなんて嘘だから!)
幸い誰にも聞かれていなかったものの、急いで頭の中で否定し、冗談だと笑い飛ばそうとした。
けれど、妙に切実すぎて笑えない。
早紀は無意識に左手の薬指を指先で擦ると、シートの背もたれに寄りかかり小さくため息を吐くのだった。
早紀が所属している「長峰エージェンシー」は、モデルやタレントを二千人以上抱える大手芸能マネージメント会社だ。
下は零歳から上は八十歳までと幅広く、早紀と同年代の日本人女性モデルは七十二人いる。
三月の初旬、早紀は所属事務所で、雑用をこなしていた。
モデルといえば華やかなイメージがあるが、オファーがなければ当然給料はゼロだ。
幸い、早紀はコンスタントに仕事をもらっているが、いつ無収入になるかわからない。それを考えて、モデルの仕事がない時は、こうして事務のアルバイトとして働かせてもらっているのだ。
(いざという時のために、蓄えは必要だからね)
モデルという職業柄、どうしても公私ともに派手に見られがちだが、早紀は結構現実的で、堅実なタイプだったりする。
モデルなんてある意味人気商売だし、いつまで続けられるかわからない。
それでなくても、今年の十一月号をもって二十歳の時から専属モデルを務めた雑誌「CLAP!」からの卒業が決まった。
今まで割と順調にキャリアを積んできたと思うが、おそらく今が早紀の仕事における正念場だろう。現状に甘んじる事なく努力し、成長し続けなければ、仕事が先細りになりフェードアウトせざるを得なくなってしまう。
(せっかくここまで頑張ってきたんだもの。それだけはイヤだ)
最初こそ、ただ言われるままに仕事をこなしてきたが、今は違う。モデルという職業に誇りを持っているし、プロとしてきちんと自己管理も心掛けていた。
もちろん、努力だけでやっていける仕事ではないので、今後もモデル業を続けていくために何かしら次のステップに繋がる足掛かりがほしいところなのだが……
傍から見れば、早紀は万事順調でなんの問題もないように見えるかもしれない。けれど、堅実な性格ゆえか常に悩みを抱えていた。
それは将来に対する漠然とした不安だったり、もっと頑張らなければという焦燥感だったり……
困った事に、じわじわと結婚願望も出てきた。
(お姉ちゃんは商社でバリバリ働きながら二児の母として頑張ってるし、妹の花は管理栄養士を目指して学校に通ってる。なのに私は――)
恋も仕事も、もっと充実させたいという気持ちはあるが、なかなか思うようにはいかない。
一体、いつになれば今の中途半端な状態から抜け出せるのだろう?
気持ちが焦るばかりで、一歩も前に進めていない気がする。
「早紀ちゃん、手が空いたらSNS経由の応募書類をプリントアウトしておいてくれる?」
そう声をかけてきたのは、早紀のマネージャーを務めてくれている江口真子だ。かつて小劇団で女優をしていたという彼女は、モデル事業部の課長としてオーディションの審査員も務めている。
「わかりました」
早紀が手を挙げて返事をすると、真子が通りすがりにハイタッチしてきた。
年度末でもある今の時期、社内はいつも以上にあわただしい。
毎年この時期になると、モデルを夢見る人達からの応募件数が格段に増える。
昔は郵送だけだったようだが、今では事務所のホームページやSNSを通じて気軽に応募できるようになった。
応募書類の中には驚くほど容姿端麗な子や、一見、地味だけれど人を惹きつける魅力を持った子の写真があったりする。
華やかで厳しいモデル業界には、常時新しい人材が求められている。
時代とともに流行は変化するし、既存のモデル達もうかうかしていられない。常に時代のニーズに応えられるよう準備万端整えておかなければならないのだ。
応募してきた多数の顔写真を見ながら、早紀は自分も負けていられないと気持ちを引き締める。
(それにしても……)
こうして事務所のオーディションを希望する人達に比べると、自分はずいぶんラッキーだったと思う。早紀がモデルになったのは、スカウトがきっかけだった。
当時、早紀はまだ中学二年生。
たまたま母親が経営する純英国スタイルのティーサロン「チェリーブロッサム」の片隅で宿題をしている時、隣家に住む東条礼子が来店した。
彼女は「チェリーブロッサム」の常連客であり、その日は自身が開いているフラワーアレンジメント教室の生徒を同伴していた。
『あなた、モデルにならない?』
その中の一人が、早紀を見るなりそう言って腕を掴んできた。それが、現在早紀のマネージャーをしている江口真子だったのだ。
その時の早紀は、すでに身長が百七十センチを超えており学校でも目立つ存在ではあった。
けれど、とびきりの美人でもなければ抜群にスタイルがいい訳でもない。目鼻立ちははっきりしているほうだが、特にこれといった特徴のない和風顔だった。
そんな自分がモデルなんて――
尻込みをする早紀に、江口は「特徴がない分メイクをすればどんなふうにでも印象を変えられるし、どんな洋服でも着こなす事ができる」と教えてくれた。
もともとおしゃれには興味を持っていた早紀だ。さんざん迷ったあげく、最終的には周りに背中を押される形でティーン向けファッション誌の読者モデルになる決心をする。
活動をはじめると、驚いた事にすぐに同年代からの支持を得て、人気モデルの一人として紙面を飾るようになった。読者アンケートによれば、早紀の変化自在な雰囲気と等身大の親しみやすさが人気の要因であるらしい。
「おはようございます!」
早紀がプリントアウトした応募用紙をまとめていると、後輩のモデル達がどやどやと事務所内に入ってきた。
各自挨拶をしながらペコリと頭を下げ、キラキラとした顔を上げる。
「おはよう。撮影、どうだった?」
早紀が訊ねると、先頭にいるショートヘアの女性モデルがにっこりする。
「バッチリです! 現場の雰囲気も最高でした」
「長峰エージェンシー」は、礼儀と礼節を大切にしており、所属した時から挨拶はきちんとするようにと教えられる。そのためか、事務所のモデル達は、おおむねどの現場でも評判がいい。
「よかったね。あ、社長がスムージーを差し入れてくれたの。冷蔵庫に入ってるから」
「はーい!」
一列になって部屋の奥に進んでいくモデル達が、早紀が向けた掌に軽くタッチしていく。
その列の最後にいた若い男性モデルが、早紀の前でピタリと足を止める。
「おはようございます、早紀さん」
「おはよう、斗真くん。……髪の色、変えたんだね。すごく似合ってるよ」
「そうですか。でもこれ、俺的にはイマイチって感じです」
一歩前に出た斗真が、早紀の掌にタッチをした。そのまま手が離れると思いきや、彼は早紀の手を痛いほどギュッと握りしめてくる。
「いっ……」
思わず声が出そうになったけれど、そこは我慢して微笑みを浮かべる。
「さすが握力が強いね。部活、アームレスリング部だっけ?」
「テニス部です!」
「あ、そう。失礼」
ぺろりと小さく舌を出すと、早紀は握られた手をぶらぶらと振った。
そうして、すでに恒例になりつつある斗真のちょっとへそ曲がりな行動をやり過ごす。
現在中学三年生の彼は、事務所内のみならず国内の若手モデルの中では群を抜いて容姿端麗で、人気もトップクラスだ。身長はすでに百七十センチを超え、現在も成長中という。
顔にはまだ幼さが残るものの、性格は同年代に比べるとだいぶ大人びており、常に冷静で落ち着いた印象があった。
他のモデル達が歩み去っていく中、なぜか斗真だけが仏頂面をしたまま留まっている。彼は早紀の顔をジロジロと眺めたかと思うと、涼やかな眉間に深い皺を刻んだ。
「早紀さん、唇が荒れてますね」
斗真に指摘され、早紀は自分の唇を触ってみた。
「ほんとだ。最近、空気が乾燥してるからかな」
「保湿は美肌の基本中の基本ですよ。自己管理ができていませんね。それでもモデルですか?」
斗真に渋い顔をされ、早紀はおどけたふうに「すみません」と言った。
「同じ事務所に所属するモデルとして恥ずかしいんですけど。――ああ、そうだ……これ、この間のロケでメイクさんからもらったリップスクラブとリップクリームです。たくさんあるし、他の人にもあげているんで、早紀さんもどうぞ」
押しつけられた小さな小瓶は、無添加製品を扱うブランドのものだ。
「え……いいの? ありがとう」
「どうせもらいものなんで。じゃ、ちゃんとケアしてくださいよ」
早紀をじろりと睨むと、斗真はツンと顔を背けて去っていった。
残された早紀は手の中の小瓶を目の前に掲げながら、苦笑する。
毒舌でやや斜に構えたところがある斗真だが、本来は気配りのできるいい子なのだ。
ただ、早紀に対してだけ、あたりが強く、何を言うにも嫌味や憎まれ口がセットになっている。できればもう少し、いい関係になりたいと思うのだが、今のところその希望は叶えられそうもない。
早紀が気持ちを切り替えて事務仕事を再開すると、ふたたびドアが開いて顔見知りの郵便局員がバッグいっぱいの郵便物を持ってきた。
「こんにちは~!」
「こんにちは! ご苦労さまです」
愛想よく受け答えをして、早紀は郵便物を受け取る。さまざまな大きさの封筒を専用のボックスに入れ、さっそく仕分けをはじめた。
その郵便物の中に、他よりも一回り大きくて重厚な封筒が交じっている。
白地にクラシックな横文字が並ぶそれを見て、早紀はあっと声を上げそうになった。
(これ……「アクアリオ」の封筒だ)
それは、かつて早紀がカタログモデルをしていたアパレル会社だ。
創業者にして現社長の加瀬杏一郎は、現在三十四歳。もとはパリコレクション――通称パリコレの常連だったスーパーモデルであり、引退するとともに類まれなデザイナーとしての才能を開花させアパレル会社「アクアリオ」を立ち上げた。
「アクアリオ」は現在十のブランドを展開しており、いずれもメインカラーを黒で統一した、斬新かつ時代の先をいく魅力的な洋服が揃っている。なおかつ、非常にデザイン性に優れており、それを身に着けたら、誰もが特別な自分になれると評判だ。
むろん、誰でも簡単に着こなせるものではないし、価格も若者が気軽に買えるようなものではない。それでも国内外のファッショニスタの心を捉えて離さないのは、同社の洋服がそれだけ特別で価値があるものだからだ。
そして、そんな洋服をデザインする杏一郎もまたスペシャルであり、今も現役時代と変わらない圧倒的なオーラを放っている。
容姿端麗なのは言うまでもなく、身長は百九十センチ近い。
漆黒の瞳と髪を持ち、純粋な日本人でありながら、どこか異国を感じさせる彫りの深い顔立ち。彼に見つめられると、誰もがたじろいでしまうほどの目力があった。
早紀は当然彼の事は知っていたし、雲の上の人としてずっと憧れの気持ちを抱いていた。
それほど遠い存在だった人が、自分を「アクアリオ」のカタログモデルに起用したいと言ってくれたのだ。当時、まだ大学生だった早紀は、その話を聞いて、腰を抜かさんばかりに驚くとともに、なんとしてでも期待に応えたいと強く願った。
しかし「アクアリオ」のモデルを務めるという重責は凄まじく、求められたのはそれまでの自分では対応できないほどハイクオリティなポージングや表現力だ。
苦悩する早紀に救いの手を伸ばしてくれたのは、他でもない杏一郎その人だった。
『君を選んだ俺の目に、間違いなどあり得ない』
彼はそう言い切り、早紀にモデルとしての基礎を一から叩き込み、必要とされるスキルをすべて取得させてくれた。その結果、早紀は「アクアリオ」での仕事を果たし終え、その後四年間にわたり同社のカタログモデルを務める事になったのだ。
彼はモデルとしての早紀をステップアップさせ、一人前にしてくれた恩人でもある。
杏一郎との出会いは、早紀にとってその後の人生を変えるほどの大きな出来事だった。
そして、そんな彼こそ、早紀が生まれてはじめて恋をした相手だったのだ。
今でも思い出すたびに胸が痛くなる。
早紀にとって杏一郎は、心から愛し尊敬できる唯一無二の存在だった。
到底手の届かない孤高の師である彼にどれほど恋焦がれ、想い続けた事だろう。その気持ちは抑えきれないほど強くなり、いつしか杏一郎もその想いに応えてくれるようになったのだ。
早紀は彼との恋に自分の持てるすべてを捧げ、全身全霊をかけて杏一郎を愛した。彼もまたそんな早紀を包み込むように慈しみ、愛情を注ぎ返してくれたのだが……
今から四年前、二人はどうする事もできない事情から別れる事になってしまった。それと同時期に早紀の「アクアリオ」とのモデル契約も終了し、二人は一切の連絡を絶った。
それが別れた時の約束だったし、いまだにそれは続いている。
もっとも、同じファッション業界にいれば、彼の仕事ぶりは自然と耳に入ってきた。新作が出れば必ずチェックするし、杏一郎に関する記事はどんな小さなものも読んでしまう。
そんな自分を未練がましいと思ったりもするが、こればかりは仕方がない。
「早紀ちゃん、応募用紙プリントアウトできた?」
背後からやって来た真子に声をかけられ、早紀はハッとしてうしろを振り返った。
「はい、できてます、それと、これ……ついさっき届いたばかりの郵便物です」
早紀は応募書類を真子に渡すと、デスクの上に置いていた郵便物を彼女の目前に示した。
「あら、『アクアリオ』からじゃないの。もしかしてオーディションか何かあるのかもね」
真子が封筒を受け取って、開封する。そして、中に入っていた書類に目を通した。
「やっぱり、そうだ。ほら――」
真子から渡された書類には「アクアリオ」が新しく立ち上げるブランドコンセプトと、同ブランドのイメージモデルオーディションの開催に関する募集要項が書かれていた。
それによると、新しいブランドの名前は「Bianca」であり、イタリア語で「白」を意味する女性名詞であるらしい。
「黒がメインカラーの『アクアリオ』が、真逆の〝白〟をメインにした新ブランドを打ち出してくる訳ね。さすが加瀬杏一郎、常にこちらを驚かせてくれるわ」
真子が感心したように唸り声を漏らす。
「アクアリオ」は毎年二回開催されるパリコレに出展しており、そのたびに見る者を魅了し称賛を浴びている。今回の新ブランドも、きっと「アクアリオ」らしい斬新なものだろう。
「しかもこれ、『アクアリオ』初のレディースブランドでしょ。ぜったいに注目を浴びる事間違いなしね」
以前、早紀がカタログモデルをした際に着ていたのは、既存のメンズブランドの中で作られたユニセックスの洋服だった。
興奮気味に話す真子の前で、早紀は真剣な表情を浮かべる。
(私、この仕事を獲りたい!)
オーディションの書類を見るなり、早紀の心に、モデルとしての熱い思いが湧き上がってきた。
この仕事が、今の鬱々とした状況から脱却するきっかけになるかもしれない。
それに、「ビアンカ」のイメージモデルとなれば、世間の注目を浴びるだけでなく、キャリアアップにも繋がる。
そう思うなり、早紀は勢いよく立ち上がった。
そして、驚く真子の目をまっすぐに見つめ、神妙な面持ちで口を開く。
「真子さん、お願いします! 私にこのオーディションを受けさせてください!」
募集要項によれば、事務所に所属している者は、応募するにあたり所属先の許可が必要と記されている。
早紀は真子に向かって深く頭を下げ、再度願いを口にした。
「私、ぜったいにこの仕事を獲りたい! いえ――私がこの先もモデルを続けていくために、是が非でも獲らなきゃならないんです!」
「ちょっ……早紀ちゃんったら……」
突然頭を下げられて目を白黒させていた真子は、早紀の並々ならぬ意気込みを見て、深く頷く。
「わかった。雑誌の専属契約も終わるし、いいんじゃない。社長は今、執務室にいると思うから直接話しておいで。大至急アポを取ってあげるから」
そう言うが早いか、真子が受話器を手に取って社長に内線を入れた。こういう時の彼女は、早紀がびっくりするほど行動が早いのだ。
「了解です!」
早紀はオーディションの書類一式を手に、別の階にある社長室に向かった。エレベーターを待ちながら、書類を大事そうに胸に押し当てる。
(今日、事務所で仕事しててよかった!)
エレベーターが来るなり中に入り、逸る気持ちを抑えながら上階を目指す。
ガラス張りの社長室のドアをノックすると、気づいた社長に手招きされる。
「社長、お忙しいところすみません!」
ドアを開けて中に入り、深々と頭を下げた。
「おいおい、一体どうしたんだ? まさか事務所を辞めるとか言わないよな?」
デスクの前に立つ長峰真也が、早紀の勢いに戸惑いの表情を浮かべる。
「違います! 社長、私に『アクアリオ』のオーディションを受けさせてください!」
早紀から書類を受け取ると、長峰は椅子に座ってじっくりとそれに目を通しはじめる。
彼は「長峰エージェンシー」の二代目社長であり、一時期マネージャーとして早紀を担当してくれていた事もあった。
「なるほど。ようやくここまで漕ぎつけたんだな」
長峰が小さく呟いた。その内容から、おそらく新ブランドについて事前に情報を得ていたに違いない。
「お願いします! 私、どうしても、この仕事をやりたいんです! 許可をいただければ、万全の準備を整えてオーディションに臨みますから――」
「だけど、大丈夫か? オーディションに応募すれば、杏一郎と顔を合わせる事になるぞ?」
長峰が心配そうな顔で早紀をじっと見つめてくる。長峰と杏一郎は、高校で知り合って以来の親友だ。そんな関係もあり、彼だけは早紀と杏一郎の間にあった事をすべて承知していた。
「もちろん大丈夫です! だってもう四年も前の事ですよ?」
早紀は即座に頷いて、にこやかに笑った。
「本当に?」
念を押され、再度頷いてにっこりする。
本音を言えば、杏一郎の事が気にならない訳がなかった。しかし、あえて気にしないようにしていたし、これからだってそうするつもりだ。
「はい。『アクアリオ』のオーディションを受けたいのは、モデルとして興味を持ったからです。過去の事は、一切関係ありません」
早紀は、きっぱりとそう言い切って長峰の目をまっすぐに見つめ返す。
「そうか、わかった。そこまで言われたら、許可しない訳にはいかないよ」
長峰が小さく肩をすくめ、早紀はホッとして表情を緩めた。
「ありがとうございます! 私、全力でオーディションに臨みます。そして、是が非でも合格して今後のモデルとしての活動に繋げてみせますから」
早紀の一方ならぬ決意を感じ取り、長峰が深く頷いて微笑みを浮かべる。
「期待してるよ。……実は、最初に杏一郎から新ブランドの話を聞いた時、すぐに早紀ちゃんの顔が思い浮かんだんだ」
「そう、なんですか?」
思いがけない事を言われ、早紀はやや驚いた表情で瞬きをした。
「新ブランドのコンセプトが、早紀ちゃんのイメージにぴったりだと思ってね。これも縁だろうし、精一杯頑張ってくれ」
長峰が席を立ち、早紀に書類一式を返してきた。
「まずは、一次審査用の動画を撮って先方に送らないと、だな」
「はいっ」
応募には、プロフィールと必要書類の他に、全身と顔のはっきりわかる動画を提出する必要があった。最近は、書類審査とともに動画を確認するパターンが増えてきている。今回のオーディションも書類と動画による一次審査を行うようだ。
早紀は逸る心を抑えて、背筋をシャンと伸ばした。
「さっそくオーディション用の動画を作ります。出来上がったらすぐにお見せしますね」
早紀は社長室を辞して、気持ちを落ち着かせるために非常階段に向かった。
階段を下りながら動画の内容について考えを巡らせる。
(どこで撮る? やっぱり、自然光の下で撮ったほうがいいかな?)
一次審査で弾かれれば、それで終わりだ。
それだけはぜったいに避けたい――
階段を下りながら、早紀はふと立ち止まった。
(何も、書類を見てすぐに動かなくてもよかったのに……)
そう思うものの、なぜか抑えがたい衝動に駆られて、行動せずにはいられなかった。
事務所には自分の他にも、若い女性モデルは大勢いる。普段の早紀なら、オーディションの情報を他のモデル達と共有し、応募に関しては事務所の決定に任せていたと思う。
しかし、今回ばかりはどうしても行動せずにはいられなくなってしまったのだ。
それは、もちろんモデルとしてこの仕事に興味を持ったからだが、果たしてそれだけだろうか?
いや、どう考えてもそれだけが理由ではない。
今の中途半端な状況から抜け出すべく、オーディションを受けようと思ったのは事実だ。
けれど、社長に言った、過去は一切関係ないというのは嘘であり、本当は杏一郎の事をものすごく意識している。
早紀は階段の手すりにもたれかかり、ため息を吐く。
(私、やっぱりまだ、杏一郎さんの事を吹っ切れてないのかな……)
四年前、お互いに話し合って別れる事を決めた。それ以来、何度となく忘れようと努力して、そのたびに失敗に終わった。
それでも足掻き続け、疲れ果てた末に、どうにか心の奥底に沈めるのに成功した――そう思っていたのだが、どうやら違ったらしい……
立春を二日後に控えた今日、朝六時半に都内某駅前に集合し、一路ロケ先に向かった。
空は快晴。海上には十数人のサーファーが波待ちをしているが、今週末は雪が降るというだけあって肌を刺す空気が痛いほどだ。
「早紀ちゃん、目線こっち!」
「はい!」
カメラマンに呼びかけられ、早紀はにこやかに微笑みながらカメラのほうを向いた。
中学生の時にスカウトされて以来、早紀は雑誌やアパレルブランドのイメージモデルとして活躍してきた。今日の撮影は、とあるファッション雑誌のウェディング特集。発売日は二カ月後の四月で、設定は海辺ではしゃぐ六月の花嫁。
これまでにも何度か花嫁の衣装を着てカメラの前に立った早紀だが、吹きさらしの海辺でウェディングドレスを着るのは今回がはじめてだ。
しかし、モデルたる者、たとえ季節がいつであろうと、仕事では最高のパフォーマンスを発揮しなくてはならない。
カメラマンの要求を的確に捉え、期待どおりのポーズを取って表情を作る。たまにそれを苦痛に感じる事もあるけれど、雑誌を手に取ってくれる読者や一緒に頑張ってくれているスタッフのためにも、泣き言など言っていられない。
集合時刻から、およそ八時間。早紀は最後まで幸せな花嫁を演じ切った。
すべての撮影が完了し、笑顔でスタッフとともに仕事終わりの拍手をする。
ロケバスに向かう途中、花婿役の男性モデルから熱い缶コーヒーを差し出された。礼を言ってそれを受け取ると、早紀はバスの奥でセーターとジーンズに着替えて座席に腰を下ろす。
今日もやり切った――その達成感は、何ものにも代えがたい。
早紀は、ようやく肩の力を抜いて缶コーヒーを一口飲んだ。
先週は婚活中のOLという設定でカメラの前に立ち、その前の週は退社後に保育園に向かう働くママを演じた。紙面の中の早紀は女性として至極幸せで充実した生活を送っている。
しかし、実際はどうかと問われたら、まるで違うと言わざるを得ない。
早紀は今年で二十七歳。彼氏いない歴四年で、今のところ恋人ができる予定もないのが現状だ。
だからといって、別に寂しくないし、今の自分に満足している。
それは嘘偽りのない本当の気持ちだった。
(まだ二十七歳……されど、もう二十七歳なんだよね……)
早紀の姉のまどかは、五年前に同じ商社に勤務する同期の男性と結婚した。
その時、姉は二十六歳。
ここのところ友達も立て続けに三人結婚したし、周りは彼氏持ちばかりだ。
今のままでも十分楽しいが、その一方で幸せそうなカップルを見ると、ふと、寂しくなる。
「あ~あ。なんだか結婚したくなっちゃったなぁ」
思わず漏れた言葉に驚いて、あわてふためく。
(突然何を言い出すのよ、自分! 嘘、結婚したいなんて嘘だから!)
幸い誰にも聞かれていなかったものの、急いで頭の中で否定し、冗談だと笑い飛ばそうとした。
けれど、妙に切実すぎて笑えない。
早紀は無意識に左手の薬指を指先で擦ると、シートの背もたれに寄りかかり小さくため息を吐くのだった。
早紀が所属している「長峰エージェンシー」は、モデルやタレントを二千人以上抱える大手芸能マネージメント会社だ。
下は零歳から上は八十歳までと幅広く、早紀と同年代の日本人女性モデルは七十二人いる。
三月の初旬、早紀は所属事務所で、雑用をこなしていた。
モデルといえば華やかなイメージがあるが、オファーがなければ当然給料はゼロだ。
幸い、早紀はコンスタントに仕事をもらっているが、いつ無収入になるかわからない。それを考えて、モデルの仕事がない時は、こうして事務のアルバイトとして働かせてもらっているのだ。
(いざという時のために、蓄えは必要だからね)
モデルという職業柄、どうしても公私ともに派手に見られがちだが、早紀は結構現実的で、堅実なタイプだったりする。
モデルなんてある意味人気商売だし、いつまで続けられるかわからない。
それでなくても、今年の十一月号をもって二十歳の時から専属モデルを務めた雑誌「CLAP!」からの卒業が決まった。
今まで割と順調にキャリアを積んできたと思うが、おそらく今が早紀の仕事における正念場だろう。現状に甘んじる事なく努力し、成長し続けなければ、仕事が先細りになりフェードアウトせざるを得なくなってしまう。
(せっかくここまで頑張ってきたんだもの。それだけはイヤだ)
最初こそ、ただ言われるままに仕事をこなしてきたが、今は違う。モデルという職業に誇りを持っているし、プロとしてきちんと自己管理も心掛けていた。
もちろん、努力だけでやっていける仕事ではないので、今後もモデル業を続けていくために何かしら次のステップに繋がる足掛かりがほしいところなのだが……
傍から見れば、早紀は万事順調でなんの問題もないように見えるかもしれない。けれど、堅実な性格ゆえか常に悩みを抱えていた。
それは将来に対する漠然とした不安だったり、もっと頑張らなければという焦燥感だったり……
困った事に、じわじわと結婚願望も出てきた。
(お姉ちゃんは商社でバリバリ働きながら二児の母として頑張ってるし、妹の花は管理栄養士を目指して学校に通ってる。なのに私は――)
恋も仕事も、もっと充実させたいという気持ちはあるが、なかなか思うようにはいかない。
一体、いつになれば今の中途半端な状態から抜け出せるのだろう?
気持ちが焦るばかりで、一歩も前に進めていない気がする。
「早紀ちゃん、手が空いたらSNS経由の応募書類をプリントアウトしておいてくれる?」
そう声をかけてきたのは、早紀のマネージャーを務めてくれている江口真子だ。かつて小劇団で女優をしていたという彼女は、モデル事業部の課長としてオーディションの審査員も務めている。
「わかりました」
早紀が手を挙げて返事をすると、真子が通りすがりにハイタッチしてきた。
年度末でもある今の時期、社内はいつも以上にあわただしい。
毎年この時期になると、モデルを夢見る人達からの応募件数が格段に増える。
昔は郵送だけだったようだが、今では事務所のホームページやSNSを通じて気軽に応募できるようになった。
応募書類の中には驚くほど容姿端麗な子や、一見、地味だけれど人を惹きつける魅力を持った子の写真があったりする。
華やかで厳しいモデル業界には、常時新しい人材が求められている。
時代とともに流行は変化するし、既存のモデル達もうかうかしていられない。常に時代のニーズに応えられるよう準備万端整えておかなければならないのだ。
応募してきた多数の顔写真を見ながら、早紀は自分も負けていられないと気持ちを引き締める。
(それにしても……)
こうして事務所のオーディションを希望する人達に比べると、自分はずいぶんラッキーだったと思う。早紀がモデルになったのは、スカウトがきっかけだった。
当時、早紀はまだ中学二年生。
たまたま母親が経営する純英国スタイルのティーサロン「チェリーブロッサム」の片隅で宿題をしている時、隣家に住む東条礼子が来店した。
彼女は「チェリーブロッサム」の常連客であり、その日は自身が開いているフラワーアレンジメント教室の生徒を同伴していた。
『あなた、モデルにならない?』
その中の一人が、早紀を見るなりそう言って腕を掴んできた。それが、現在早紀のマネージャーをしている江口真子だったのだ。
その時の早紀は、すでに身長が百七十センチを超えており学校でも目立つ存在ではあった。
けれど、とびきりの美人でもなければ抜群にスタイルがいい訳でもない。目鼻立ちははっきりしているほうだが、特にこれといった特徴のない和風顔だった。
そんな自分がモデルなんて――
尻込みをする早紀に、江口は「特徴がない分メイクをすればどんなふうにでも印象を変えられるし、どんな洋服でも着こなす事ができる」と教えてくれた。
もともとおしゃれには興味を持っていた早紀だ。さんざん迷ったあげく、最終的には周りに背中を押される形でティーン向けファッション誌の読者モデルになる決心をする。
活動をはじめると、驚いた事にすぐに同年代からの支持を得て、人気モデルの一人として紙面を飾るようになった。読者アンケートによれば、早紀の変化自在な雰囲気と等身大の親しみやすさが人気の要因であるらしい。
「おはようございます!」
早紀がプリントアウトした応募用紙をまとめていると、後輩のモデル達がどやどやと事務所内に入ってきた。
各自挨拶をしながらペコリと頭を下げ、キラキラとした顔を上げる。
「おはよう。撮影、どうだった?」
早紀が訊ねると、先頭にいるショートヘアの女性モデルがにっこりする。
「バッチリです! 現場の雰囲気も最高でした」
「長峰エージェンシー」は、礼儀と礼節を大切にしており、所属した時から挨拶はきちんとするようにと教えられる。そのためか、事務所のモデル達は、おおむねどの現場でも評判がいい。
「よかったね。あ、社長がスムージーを差し入れてくれたの。冷蔵庫に入ってるから」
「はーい!」
一列になって部屋の奥に進んでいくモデル達が、早紀が向けた掌に軽くタッチしていく。
その列の最後にいた若い男性モデルが、早紀の前でピタリと足を止める。
「おはようございます、早紀さん」
「おはよう、斗真くん。……髪の色、変えたんだね。すごく似合ってるよ」
「そうですか。でもこれ、俺的にはイマイチって感じです」
一歩前に出た斗真が、早紀の掌にタッチをした。そのまま手が離れると思いきや、彼は早紀の手を痛いほどギュッと握りしめてくる。
「いっ……」
思わず声が出そうになったけれど、そこは我慢して微笑みを浮かべる。
「さすが握力が強いね。部活、アームレスリング部だっけ?」
「テニス部です!」
「あ、そう。失礼」
ぺろりと小さく舌を出すと、早紀は握られた手をぶらぶらと振った。
そうして、すでに恒例になりつつある斗真のちょっとへそ曲がりな行動をやり過ごす。
現在中学三年生の彼は、事務所内のみならず国内の若手モデルの中では群を抜いて容姿端麗で、人気もトップクラスだ。身長はすでに百七十センチを超え、現在も成長中という。
顔にはまだ幼さが残るものの、性格は同年代に比べるとだいぶ大人びており、常に冷静で落ち着いた印象があった。
他のモデル達が歩み去っていく中、なぜか斗真だけが仏頂面をしたまま留まっている。彼は早紀の顔をジロジロと眺めたかと思うと、涼やかな眉間に深い皺を刻んだ。
「早紀さん、唇が荒れてますね」
斗真に指摘され、早紀は自分の唇を触ってみた。
「ほんとだ。最近、空気が乾燥してるからかな」
「保湿は美肌の基本中の基本ですよ。自己管理ができていませんね。それでもモデルですか?」
斗真に渋い顔をされ、早紀はおどけたふうに「すみません」と言った。
「同じ事務所に所属するモデルとして恥ずかしいんですけど。――ああ、そうだ……これ、この間のロケでメイクさんからもらったリップスクラブとリップクリームです。たくさんあるし、他の人にもあげているんで、早紀さんもどうぞ」
押しつけられた小さな小瓶は、無添加製品を扱うブランドのものだ。
「え……いいの? ありがとう」
「どうせもらいものなんで。じゃ、ちゃんとケアしてくださいよ」
早紀をじろりと睨むと、斗真はツンと顔を背けて去っていった。
残された早紀は手の中の小瓶を目の前に掲げながら、苦笑する。
毒舌でやや斜に構えたところがある斗真だが、本来は気配りのできるいい子なのだ。
ただ、早紀に対してだけ、あたりが強く、何を言うにも嫌味や憎まれ口がセットになっている。できればもう少し、いい関係になりたいと思うのだが、今のところその希望は叶えられそうもない。
早紀が気持ちを切り替えて事務仕事を再開すると、ふたたびドアが開いて顔見知りの郵便局員がバッグいっぱいの郵便物を持ってきた。
「こんにちは~!」
「こんにちは! ご苦労さまです」
愛想よく受け答えをして、早紀は郵便物を受け取る。さまざまな大きさの封筒を専用のボックスに入れ、さっそく仕分けをはじめた。
その郵便物の中に、他よりも一回り大きくて重厚な封筒が交じっている。
白地にクラシックな横文字が並ぶそれを見て、早紀はあっと声を上げそうになった。
(これ……「アクアリオ」の封筒だ)
それは、かつて早紀がカタログモデルをしていたアパレル会社だ。
創業者にして現社長の加瀬杏一郎は、現在三十四歳。もとはパリコレクション――通称パリコレの常連だったスーパーモデルであり、引退するとともに類まれなデザイナーとしての才能を開花させアパレル会社「アクアリオ」を立ち上げた。
「アクアリオ」は現在十のブランドを展開しており、いずれもメインカラーを黒で統一した、斬新かつ時代の先をいく魅力的な洋服が揃っている。なおかつ、非常にデザイン性に優れており、それを身に着けたら、誰もが特別な自分になれると評判だ。
むろん、誰でも簡単に着こなせるものではないし、価格も若者が気軽に買えるようなものではない。それでも国内外のファッショニスタの心を捉えて離さないのは、同社の洋服がそれだけ特別で価値があるものだからだ。
そして、そんな洋服をデザインする杏一郎もまたスペシャルであり、今も現役時代と変わらない圧倒的なオーラを放っている。
容姿端麗なのは言うまでもなく、身長は百九十センチ近い。
漆黒の瞳と髪を持ち、純粋な日本人でありながら、どこか異国を感じさせる彫りの深い顔立ち。彼に見つめられると、誰もがたじろいでしまうほどの目力があった。
早紀は当然彼の事は知っていたし、雲の上の人としてずっと憧れの気持ちを抱いていた。
それほど遠い存在だった人が、自分を「アクアリオ」のカタログモデルに起用したいと言ってくれたのだ。当時、まだ大学生だった早紀は、その話を聞いて、腰を抜かさんばかりに驚くとともに、なんとしてでも期待に応えたいと強く願った。
しかし「アクアリオ」のモデルを務めるという重責は凄まじく、求められたのはそれまでの自分では対応できないほどハイクオリティなポージングや表現力だ。
苦悩する早紀に救いの手を伸ばしてくれたのは、他でもない杏一郎その人だった。
『君を選んだ俺の目に、間違いなどあり得ない』
彼はそう言い切り、早紀にモデルとしての基礎を一から叩き込み、必要とされるスキルをすべて取得させてくれた。その結果、早紀は「アクアリオ」での仕事を果たし終え、その後四年間にわたり同社のカタログモデルを務める事になったのだ。
彼はモデルとしての早紀をステップアップさせ、一人前にしてくれた恩人でもある。
杏一郎との出会いは、早紀にとってその後の人生を変えるほどの大きな出来事だった。
そして、そんな彼こそ、早紀が生まれてはじめて恋をした相手だったのだ。
今でも思い出すたびに胸が痛くなる。
早紀にとって杏一郎は、心から愛し尊敬できる唯一無二の存在だった。
到底手の届かない孤高の師である彼にどれほど恋焦がれ、想い続けた事だろう。その気持ちは抑えきれないほど強くなり、いつしか杏一郎もその想いに応えてくれるようになったのだ。
早紀は彼との恋に自分の持てるすべてを捧げ、全身全霊をかけて杏一郎を愛した。彼もまたそんな早紀を包み込むように慈しみ、愛情を注ぎ返してくれたのだが……
今から四年前、二人はどうする事もできない事情から別れる事になってしまった。それと同時期に早紀の「アクアリオ」とのモデル契約も終了し、二人は一切の連絡を絶った。
それが別れた時の約束だったし、いまだにそれは続いている。
もっとも、同じファッション業界にいれば、彼の仕事ぶりは自然と耳に入ってきた。新作が出れば必ずチェックするし、杏一郎に関する記事はどんな小さなものも読んでしまう。
そんな自分を未練がましいと思ったりもするが、こればかりは仕方がない。
「早紀ちゃん、応募用紙プリントアウトできた?」
背後からやって来た真子に声をかけられ、早紀はハッとしてうしろを振り返った。
「はい、できてます、それと、これ……ついさっき届いたばかりの郵便物です」
早紀は応募書類を真子に渡すと、デスクの上に置いていた郵便物を彼女の目前に示した。
「あら、『アクアリオ』からじゃないの。もしかしてオーディションか何かあるのかもね」
真子が封筒を受け取って、開封する。そして、中に入っていた書類に目を通した。
「やっぱり、そうだ。ほら――」
真子から渡された書類には「アクアリオ」が新しく立ち上げるブランドコンセプトと、同ブランドのイメージモデルオーディションの開催に関する募集要項が書かれていた。
それによると、新しいブランドの名前は「Bianca」であり、イタリア語で「白」を意味する女性名詞であるらしい。
「黒がメインカラーの『アクアリオ』が、真逆の〝白〟をメインにした新ブランドを打ち出してくる訳ね。さすが加瀬杏一郎、常にこちらを驚かせてくれるわ」
真子が感心したように唸り声を漏らす。
「アクアリオ」は毎年二回開催されるパリコレに出展しており、そのたびに見る者を魅了し称賛を浴びている。今回の新ブランドも、きっと「アクアリオ」らしい斬新なものだろう。
「しかもこれ、『アクアリオ』初のレディースブランドでしょ。ぜったいに注目を浴びる事間違いなしね」
以前、早紀がカタログモデルをした際に着ていたのは、既存のメンズブランドの中で作られたユニセックスの洋服だった。
興奮気味に話す真子の前で、早紀は真剣な表情を浮かべる。
(私、この仕事を獲りたい!)
オーディションの書類を見るなり、早紀の心に、モデルとしての熱い思いが湧き上がってきた。
この仕事が、今の鬱々とした状況から脱却するきっかけになるかもしれない。
それに、「ビアンカ」のイメージモデルとなれば、世間の注目を浴びるだけでなく、キャリアアップにも繋がる。
そう思うなり、早紀は勢いよく立ち上がった。
そして、驚く真子の目をまっすぐに見つめ、神妙な面持ちで口を開く。
「真子さん、お願いします! 私にこのオーディションを受けさせてください!」
募集要項によれば、事務所に所属している者は、応募するにあたり所属先の許可が必要と記されている。
早紀は真子に向かって深く頭を下げ、再度願いを口にした。
「私、ぜったいにこの仕事を獲りたい! いえ――私がこの先もモデルを続けていくために、是が非でも獲らなきゃならないんです!」
「ちょっ……早紀ちゃんったら……」
突然頭を下げられて目を白黒させていた真子は、早紀の並々ならぬ意気込みを見て、深く頷く。
「わかった。雑誌の専属契約も終わるし、いいんじゃない。社長は今、執務室にいると思うから直接話しておいで。大至急アポを取ってあげるから」
そう言うが早いか、真子が受話器を手に取って社長に内線を入れた。こういう時の彼女は、早紀がびっくりするほど行動が早いのだ。
「了解です!」
早紀はオーディションの書類一式を手に、別の階にある社長室に向かった。エレベーターを待ちながら、書類を大事そうに胸に押し当てる。
(今日、事務所で仕事しててよかった!)
エレベーターが来るなり中に入り、逸る気持ちを抑えながら上階を目指す。
ガラス張りの社長室のドアをノックすると、気づいた社長に手招きされる。
「社長、お忙しいところすみません!」
ドアを開けて中に入り、深々と頭を下げた。
「おいおい、一体どうしたんだ? まさか事務所を辞めるとか言わないよな?」
デスクの前に立つ長峰真也が、早紀の勢いに戸惑いの表情を浮かべる。
「違います! 社長、私に『アクアリオ』のオーディションを受けさせてください!」
早紀から書類を受け取ると、長峰は椅子に座ってじっくりとそれに目を通しはじめる。
彼は「長峰エージェンシー」の二代目社長であり、一時期マネージャーとして早紀を担当してくれていた事もあった。
「なるほど。ようやくここまで漕ぎつけたんだな」
長峰が小さく呟いた。その内容から、おそらく新ブランドについて事前に情報を得ていたに違いない。
「お願いします! 私、どうしても、この仕事をやりたいんです! 許可をいただければ、万全の準備を整えてオーディションに臨みますから――」
「だけど、大丈夫か? オーディションに応募すれば、杏一郎と顔を合わせる事になるぞ?」
長峰が心配そうな顔で早紀をじっと見つめてくる。長峰と杏一郎は、高校で知り合って以来の親友だ。そんな関係もあり、彼だけは早紀と杏一郎の間にあった事をすべて承知していた。
「もちろん大丈夫です! だってもう四年も前の事ですよ?」
早紀は即座に頷いて、にこやかに笑った。
「本当に?」
念を押され、再度頷いてにっこりする。
本音を言えば、杏一郎の事が気にならない訳がなかった。しかし、あえて気にしないようにしていたし、これからだってそうするつもりだ。
「はい。『アクアリオ』のオーディションを受けたいのは、モデルとして興味を持ったからです。過去の事は、一切関係ありません」
早紀は、きっぱりとそう言い切って長峰の目をまっすぐに見つめ返す。
「そうか、わかった。そこまで言われたら、許可しない訳にはいかないよ」
長峰が小さく肩をすくめ、早紀はホッとして表情を緩めた。
「ありがとうございます! 私、全力でオーディションに臨みます。そして、是が非でも合格して今後のモデルとしての活動に繋げてみせますから」
早紀の一方ならぬ決意を感じ取り、長峰が深く頷いて微笑みを浮かべる。
「期待してるよ。……実は、最初に杏一郎から新ブランドの話を聞いた時、すぐに早紀ちゃんの顔が思い浮かんだんだ」
「そう、なんですか?」
思いがけない事を言われ、早紀はやや驚いた表情で瞬きをした。
「新ブランドのコンセプトが、早紀ちゃんのイメージにぴったりだと思ってね。これも縁だろうし、精一杯頑張ってくれ」
長峰が席を立ち、早紀に書類一式を返してきた。
「まずは、一次審査用の動画を撮って先方に送らないと、だな」
「はいっ」
応募には、プロフィールと必要書類の他に、全身と顔のはっきりわかる動画を提出する必要があった。最近は、書類審査とともに動画を確認するパターンが増えてきている。今回のオーディションも書類と動画による一次審査を行うようだ。
早紀は逸る心を抑えて、背筋をシャンと伸ばした。
「さっそくオーディション用の動画を作ります。出来上がったらすぐにお見せしますね」
早紀は社長室を辞して、気持ちを落ち着かせるために非常階段に向かった。
階段を下りながら動画の内容について考えを巡らせる。
(どこで撮る? やっぱり、自然光の下で撮ったほうがいいかな?)
一次審査で弾かれれば、それで終わりだ。
それだけはぜったいに避けたい――
階段を下りながら、早紀はふと立ち止まった。
(何も、書類を見てすぐに動かなくてもよかったのに……)
そう思うものの、なぜか抑えがたい衝動に駆られて、行動せずにはいられなかった。
事務所には自分の他にも、若い女性モデルは大勢いる。普段の早紀なら、オーディションの情報を他のモデル達と共有し、応募に関しては事務所の決定に任せていたと思う。
しかし、今回ばかりはどうしても行動せずにはいられなくなってしまったのだ。
それは、もちろんモデルとしてこの仕事に興味を持ったからだが、果たしてそれだけだろうか?
いや、どう考えてもそれだけが理由ではない。
今の中途半端な状況から抜け出すべく、オーディションを受けようと思ったのは事実だ。
けれど、社長に言った、過去は一切関係ないというのは嘘であり、本当は杏一郎の事をものすごく意識している。
早紀は階段の手すりにもたれかかり、ため息を吐く。
(私、やっぱりまだ、杏一郎さんの事を吹っ切れてないのかな……)
四年前、お互いに話し合って別れる事を決めた。それ以来、何度となく忘れようと努力して、そのたびに失敗に終わった。
それでも足掻き続け、疲れ果てた末に、どうにか心の奥底に沈めるのに成功した――そう思っていたのだが、どうやら違ったらしい……
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